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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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レベル社のプラモデルを生産か、

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すでに読まれた方もいらっしゃるとは思うが、岸川靖さんの著書で「日本懐かしプラモデル大全」という本があ

る、僕も大分前に読ませてもらっているが、その中で次のようなくだりがある、

「昭和28年、東大阪の町工場でレベル社のキット生産を開始していた、・ ・ ・ ・ ・ そのため米国より射出

成型機、金型等が持ち込まれ輸出用の生産が行われていた」云々、

これを読んだその時は、ふ~ん、なんか日本プラスチックのような、でもないようなことが書いてあるな~、

と軽い気持ちで特に気にも止めてなかったのである、

ところがである、今回のOS工業さんの取材の時にハッ、とするような証言があったことはすでに記事にしたと

おりである、

そう、濱田さんは生前に東大阪の工場で100人くらいの従業員を使ってプラモデルを製造していた、と言って

いたということ、甥っ子の社長さんは冗談だと思っていたらしいが、

そして、もう一つの証言で、

OS工業の社長さんが知り合いの方にたまたま伯父さんの濱田さんが昔、日本プラスチックという会社でプラ

モデルを製造していた、ということを話したら、なんとその知り合いの方が、高校生の頃その日本プラスチック

の工場の隣の会社でアルバイトをしていた、と話されたという、

なぜその方が昔の日本プラスチックのことを記憶していたかというとその話が面白い、

まあ、名前を出さなければいいだろう、え~い、言っちゃおう、

〇〇会社の〇〇さんが日本プラスチックの女性従業員を愛人にしたのだという、まあ絶対に記憶には残るだ

ろう(笑)

それから、濱田さんは当時の頃を高級車を乗り回し、心斎橋界隈を肩で風を切って歩いたものだ、と自慢気に

よく話していたという、

こうなってくると、そのレベル社の生産のことが現実味を帯びてくる、事実ではないかと思っている、

今までの謎がまず金型、射出機成型等などの機器類の調達を当時どのようにしたのかであった、

プラスチックの製造方法等は大阪化学研究所の内田さんが指導していたのでそれで解決するが、

その機器類をどのように調達したのかが謎であったが、米国から持ち込んだのであれば謎は解決する、

大阪化学研究所の内田さんの証言でもどこからは知らないがいろいろな工作機械等をうちの工場に持ち込ん

でいた、と証言なさっている、

濱田さんの生前の話では、工場は100人の従業員を使っていたということなので、レベル社の輸出用のプラ

モデルを生産するとなるとそれくらいの大がかりな工場は必要だろう、

もちろん、金型等の技術もアメリカの金型を参考にすぐに習得できただろう、

あとは、濱田さんの奥様にその工場で何を作っていたのか従業員は何人ほどいたのか、機器類はどこから調

達したのか、等々を奥様にお聞きすれば判明するかもしれない、

仮にそれが判明した場合、まだ謎が残る、

レベル社との接点は何か、

なぜ濱田さんはその後数年で東大阪を引き払って東京へ進出したのか、

甥っ子の社長さんが仰るには、伯父は、「俺は裸一貫で東京に来たんだ」と、言っていたという、

東大阪でプラモデルを生産していたということと、派手な生活ぶりは聞いていたが、その具体的なことは何も

聞いていないし、何もおっしゃることはなかったという、

その東大阪では一体何があったのだろうか、しかもその活動期間はわずか5、6年間、

それらについては、奥様に確認してみれば答えが出るかもしれない、

日本プラスチックについては、また新たな展開をむかえたことになる。

※ 奥様は91歳、脳梗塞のためリハビリ中でうまく喋ることができないらしいが、記憶力等はまったく問題な

  しとのこと、









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