登記簿謄本上の代表取締役であった石村さんの行方を追ってみたが、それも少し遅かった、
そう、古い住宅地図等で石村さんの住宅は特定したものの、すでに4、5年前にご家族は引っ越し
され今は空き家となっていた、近所で聞き込みするも引っ越し先等はわからなかった、
今後は何らかの方法で追跡したいと思っているが、今となっては非常に困難だろう、
大阪化学研究所から濱田さんらが引き揚げたのは大阪化学研究所の内田さんが亡くなられてか
ら2、3年後ということなので、昭和33年の後期頃ではないかと推測される、
それはなぜかというと、NBK(日本文化教材)が昭和34年2月頃に自社ブランドとして「ノーチラ
ス号」を発売しているからである、 おそらく、これも推測であるが、「ノーチラス号」の売れ行きは
あまりよくなかったので資金繰りのためにNBKに金型等を売却したのだろう、
それで、大阪化学研究所から引き揚げて次の製品の開発に取り組んだのかもしれない、
しかし、その「フライングヘリコプター」もあまり売れなかったと推測される、
その「フライングヘリコプター」の現物も、購入したなどという証言等も確認されていない、
そして、(株)日本プラスチックスはその「フライングヘリコプター」の広告を最後に消え去ってしまっ
た、 濱田さんの「東京堂模型店」も親族の名義に変更された後、昭和40年の広告を最後に消え
去ってしまった、会社の登記簿謄本も「休眠会社」とみなされ最終的には強制的に法務局が「みな
し解散」としその登記簿上から閉鎖された、
はたして、濱田さんらはその後どうなったのだろうか、
僕が一番知りたいのは、素人集団であった濱田さんらがどのようにしてプラスチックモデルを開発
していったのか、まだ誰も取り掛かっていない頃、国内ではプラスチックモデルについては未知の
世界であった頃、なぜそれに挑戦してみようとしたのか、一体、どのような困難、苦労があったの
だろうか、
結局、濱田さんらが開発、発売したゼロ戦、ノーチラス号はあまり売れなかった、
それは、あまりにも時期が早く、時代の時流に乗れなかったからかも知れない、
それと、広告宣伝力の問題だろう、資金的に余裕がなかったのだろう、
まだ、濱田さんらのご家族等には辿りついてはいない、なんとか辿りつきたいとは思っているが、
まだまだ、追跡調査は続いていく。