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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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日本プラスチックのゼロ戦は、

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日本プラスチックのゼロ戦は昭和31年10月頃発売された、これは今までの証言、資料等から間違いはない

だろう、そして、その数か月後の昭和32年3月までに「ノーチラス号」が発売された、

その「ノーチラス号」については何個も現物がコレクターの方々の手元にある、

「ノーチラス号」の画像についてはhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihonpura.htm このサイトを参考に、

しかし、ゼロ戦についてはその現物は今のところ確認はされていない、当時そのゼロ戦を模型店で買って作っ

たという何人かの方の証言や、火星人さんのように問屋で仕入れて販売したという証言である、

はたして、そのゼロ戦がいまなおどこかに眠っているのか、あるいは、コレクターの方の手元にあるのか、それ

はわからないが、残ってない可能性が大だろう、

それでは、そのゼロ戦のプラモは一体どのようなプラモだったのだろう、火星人さんの証言では当時は国産の

プラモは存在していなかったのでゼロ戦とノーチラス号を問屋で見た時、「これは珍しい」と思って仕入れて店

頭に並べて販売したが、ゼロ戦の出来が悪くてあまり売れなかったという、

そのゼロ戦は一体どのような出来具合だったのだろうか、

その日本プラスチックのゼロ戦のことについて、あるルートを通じてあるお方から情報をいただいた、

ご本人の承諾はいただいていないので名前は明かせないが、その道の模型のマニアの方々であれば誰でも

ご存じの有名なお方である、

その方の情報によると、日本プラスチックのゼロ戦とは、   <続く>





日本プラスチックのゼロ戦は、

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さて、日本プラスチックのゼロ戦について、そのお方がお持ちの情報並びに見解を簡単にまとめると次のとお

りである、

○ 日本プラスチックが開発していた「ゼロ戦」と「ムスタング」は昭和31年10月より関西の大手問屋(富士模

  型、大模、マルク、京都模型等)に売り込みを始めた、

○ しかし、完成度が低くプラスチックモデルの最大の利点であるリアリティが不足していたために問屋筋には

  相手にはされず、期待したロッドがまとまらなかったために試作段階で頓挫した、

  その頃の日本プラスチックのプラスチックモデルは金型の原型となる木型師に恵まれず、児戯に近い再現

  であったため木製モデルメーカーの完成度の高い高級キットやモデラーが製作した完成品を見慣れた大

  手問屋の番頭からは全く相手にされなかったようだ、

○ この一連の問屋の対応を見ていたマルサン商店の石田実氏は後に語りぐさとなる保証金前納による予約

  販売や買い取り制、全国統一定価販売を思いついたと言われている、

○ 昭和31年10月に日本模型新聞紙上に予告広告が掲載されているも、その後発売、流通したという記載

   は見当たらない、よって、正規に流通したとは判定できない、

○ せめて、「ゼロ戦」、「ムスタング」のキットの現物が現存していればいいが、

  昔から模型業界には紆余屈折があり表には表れない黒歴史が多々存在している、それらのことはすでに

  当事者も証言者も存在せず、伝聞のみが残っているだけである。

以上がいただいた情報をまとめたものである、

これは文書でいただいたものなので、できれば直接お会いしてもっと詳しくお聞きできればと思っている、

ここで注目したいのは、当時からマルサン商店が日本プラスチックのことを詳しく知っていたのではないかとい

うことである、もともとマルサンはその物語を嘘で捏造しているのでこれは大ありだろう、

そうそう、そういえばあのマルサンの伝説?の金型職人の方がいらっしゃる、聞いてみたらいいだろう、

「実際、本当のことはどうなんですか?」と、(笑)https://www.youtube.com/watch?v=lTH83gkO5kY ←コレ、

ところで、、日本プラスチックの濱田さんの奥様には5月にお会いした際には、ゼロ戦の発売当時の詳しいこと

はまだお聞きしてなかった、そう、どのように売り込んでいったのか、

その頃、大阪の「電気科学館」に「ゼロ戦」と「戦艦大和」の金型を寄贈したと仰っていたが、そのゼロ戦の金

型がまさにその金型であった可能性は高い、

一番残念なのは、当事者であった大阪化学研究所の内田さんは5年前に、濱田さんは10年前にお亡くなりに

なった、当事者の方々の存在は今のところ確認はしていない、おそらく、もういらっしゃらないだろう、

しかし、今後とも残されたわずかな手がかり、資料等で解明に努めていく。







もし火星人さんが書いていなかったら

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もう、どう転んでも日本プラスチックが日本で初めてプラスチックモデルを開発し発売したことは間違いない、

ゼロ戦についても当時模型店で購入して作ったという証言、火星人さんの証言、そして奥様のゼロ戦の金型

の証言等から発売されたことは間違いないだろう、

そのゼロ戦も問屋を通じて少なくとも大阪、神戸地区に出回ったことも間違いないだろ

それでも、そのゼロ戦の現物が現在確認されていないから発売はされたとは言えない、という無理やりな見解

もあるが、それでは、

1,000歩譲って、仮にそのゼロ戦が出回っていないとしても、ノーチラス号は昭和32年3月にはすでに大

阪どころか、東京にまで出回っているので、日本プラスチックが日本で初めてプラモデルを開発し販売したこと

は100パーセント間違いないだろう、

実は、火星人さんがいなかったら日本プラスチックのことをここまで突き止めることはできなかった、

火星人さんが日本模型新聞に書かなかったら不可能であった、

そう、日本模型新聞にマルサンのことを痛烈に批判し、プラモデルの一番手はマルサンではなく、日本プラス

チックだと書かなかったとしたら、そして、マルサンのノーチラス号の前に日本プラスチックがノーチラス号を発

売したと書かなかったら、  それが日本プラスチックのことを突き止めようと思ったキッカケでもあった、

さて、ここで疑問が残る、

世のプラモデルのプロの歴史研究家?の方々は当然のことながら日本模型新聞を読みつくしているはずであ

る、特にプラモデルが世に現れる時代の頃は隅から隅まで模型新聞を読みつくしているはずである、

そう、日本模型新聞社まで出向き、そこで調査しているはずである、いや、はずでなく調査している、

その火星人さんの記事を見逃すはずがない、素人の僕でさえ現に見逃さなかった(笑)

だから、マルサンの前に大阪の布施の日本プラスチックが先にプラモデルを開発し販売したことは認識してい

たはずである、なのに、マルサンが日本初だと嘘の定説を作り上げてしまった、

つまり、日本プラスチックはゼロ戦の発売予告広告は模型新聞に掲載しているものの、その後、発売したとい

う広告も記事も載っていない、だから発売したという証拠がない、だから、マルサンが一番手なのだという、

そう、マルサンの広告には日本初のプラモデルを発売と載っているからだという、

そして、日本プラスチックのノーチラス号についてはまったく触れられていない、

なぜなのか、それはハッキリした理由は僕はわからない、

勉強不足だったのか、それともどうしてもマルサンにしたい理由があったのか、まあ、どうしてもマルサンにし

たかったのだろう、

実は、日本プラスチックの存在は当時から業界全体に知られていたと思われる、

しかし、日本模型新聞にも一切日本プラスチックについては記事が掲載されていない、昭和31年10月のあ

のゼロ戦の発売予告広告と、昭和34年8月の「フライング ヘリコプター」の発売広告のみである、

日本プラスチックの会社のことについての記事は一切掲載されていない、いや、掲載してない、

ハッキリ言うと、当時の日本模型新聞社も日本プラスチックのことはよ~く知っていたはずである、

いや、知っていたというよりは熟知していた、   <続く>




模型モーターの歴史を、

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毎月1回、定例的に明石博物館で解説ボランティア活動のメンバーで勉強会も開催している、
             http://www.akashibunpaku.com/
もちろん、男性の中では断然僕が一番若い、いや、これホント、一番若い、

何のための勉強会?、展示品の解説のための知識吸収のためである、考古学、焼き物、明石の歴史、等々、

それぞれ自分の得意分野でもって行っている、当然僕の得意分野?は模型玩具の歴史についてである、

イメージ 1

そこで、昨日の僕の講義のテーマは「模型モーターの歴史」について、これは館内にはブリキ電動玩具が

4点ほど展示してあるのでそれに関するものとして行った、

当然のこと、マブチモーターの歴史についても簡単に説明、そこでは特に例のことも解説した、

そう、マブチモーターの躍進の秘密である(笑)

なぜか、僕の模型講義は好評でまた来月もお願い、と懇願?されてしまった、

博物館には模型玩具の歴史に詳しい学芸員さんがいらっしゃらない、

なぜか懇願されると僕は弱い、仕方ない、引き続きやることにしてしまった。


なぜ、記事にしなかったのだろう、

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実は、日本模型新聞社は濱田さんらが属していた飛行機模型クラブの活動を支援していた、それらの活動を

取材したりして記事にも書いている、だから、当然のことながら濱田さんのことも知っていた、

だから、濱田さんは日本模型新聞にあのゼロ戦、ムスタングの発売予告広告を載せたのである、当然その際

にはどのように開発していったのか説明したことだろう、

日本模型新聞の創業者の田村貞造さんは大阪の天王寺に本社を構えた、天王寺から布施までは車で30分

もかからない、おそらく、大阪化学研究所の工場に取材に行ったことだろう(これは僕の推測)、

しかし、問屋筋に売り込んでもあまり相手にはされない様子などを見て記事にはしなかったのだろう、

実際はどこかの問屋と取引を開始して大阪、神戸地区では発売されていたが、はたしてその問屋がどこだっ

たのかは不明である、

その後すぐに日本プラスチックはノーチラス号を発売して大阪、東京にまで販路を広げたがその問屋の一つ

が東京の「三ツ星商店」だったことは判明している、それは昭和32年初頭のことである、その頃はまだ濱田さ

んは布施で模型飛行機を飛ばしていたので、当然のことながら日本模型新聞社の社長の田村さんとは接点

がある、ノーチラス号を発売したことも告げたことだろう、しかし、記事にはならなかった、

なぜ、日本模型新聞は記事にしなかったのだろう、謎である、

火星人さんが日本模型新聞の社友になって記事を書き始めたのは昭和34年の夏ごろからである、

だから、その頃の火星人さんの記事はない、火星人さんが社友になったキッカケはある時に日本模型新聞社

に記事を投稿したのがキッカケだったという、その投稿された記事が社長の田村さんの目に留まりそれで社友

待遇扱いにしてもらったという、火星人さんの記事はメーカーに容赦なかった、あの過激な批判文は社内では

批判もあったことだろう、そう、広告主のメーカーを批判するのだがら、

しかし、社長の田村さんは火星人さんに「好きなように書きなさい」と、自由に書かせたという、

そこで、火星人さんは昭和36年10月の記事であのマルサンを批判したのである、

ところで、そのマルサンが日本プラスチックのことを当初から知っていたという情報をいただいたので、もう一

度マルサンのことを調べ直してみた、そう、他にも何か隠していたのではないかということである、

実は、そのマルサンで、不可解な広告がある、

イメージ 1
                                (昭和33年12月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

これはおなじみのマルサンの日本初のノーチラス号発売という誇らしげ?な広告である、


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                    (模型とラジオ 昭和34年2月号)

これは「模型とラジオ」に掲載されている広告、

まあ、どちらも日本初のノーチラス号だと大々的に広告を載せている、

このノーチラス号を発売する際には多くの問屋筋や関係者等を招いて大々的に発表会を開催したらしい、

そこで、次の広告を見てみると、


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              (昭和34年1月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

さて、これの広告を見て何かヘン、と感じないだろうか、このPT212哨戒水雷艇の広告を見て、
                                       <続く>

まあ、マルサンにはいろいろと黒歴史が、

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もう一度次の広告をご覧いただいて、

イメージ 1
              (昭和34年1月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

よ~く考えたら、なにかこの広告ヘン、この広告はノーチラス号発売の広告からわずか数日後である、

ということは、ノーチラス号と同時発売と言っていいだろう、 と言うよりも、ノーチラス号より前に完成していた

ものかも、エッ、どういうこと? いつの間に金型を作っていたの?

だって、苦労して開発していたのはノーチラス号ではなかったの、しかも、これはノーチラス号よりも複雑で精

密らしい、これは一体、誰が金型を作ったの?、普通なら日本初のノーチラス号と哨戒水雷艇の発売となると

ころだろう、むしろ、哨戒艇のほうが複雑で精密なのでそれが主役でノーチラス号が付録ではないのか、なぜ

数日たって付録みたいに発売の広告を出したのだろう、伝説の金型職人の方もそれについては一切証言でも

語られていない、とにかくノーチラス号1本だったようで、

(このPT212哨戒水雷艇のキットについては、「ぷらもった」さんのhttp://blogs.yahoo.co.jp/airblue1223/64158912.html をご覧あれ) 

そのPT212哨戒水雷艇がコピー製品だったといえ、その金型等は誰が作ったのだろう、

この伝説の金型職人のお方の証言?は極めてあいまいな答えである、

https://www.youtube.com/watch?v=xcWsHti7Z20 この証言では日本プラスチックという会社もあったかもしれ

ないが、あったとしてもそれはプラスチックモデルとは言えないもので第一当時は成型機が存在してなかった

などと嘘の証言をしている、成型機は存在してました、

まあ一番いいのは伝説の金型職人のお方に聞いたらおわかりだろう、

「お願いですから、本当のことを教えて下さい」 と、(笑)

マルサンは同時に「ダットサン」も発売しているが、これは和工樹脂という会社が製造したものと判明してい

る、それからもう一つボーイングB47も同時期に発売している、これもノーチラス号と一緒に開発していたのだ

ろうか、金型職人の方もあえて曖昧な回答をしている、その頃はいろいろな金型を作っていたのでハッキリと

は記憶にない、と、あれだけ苦労して金型を作ったはずなので絶対に記憶しているはずだが、非常に怪しい、

となると、一体どこの誰が作ったのか、(このボーイングB47のプラモについても「ぷらもった」さんのhttp://blogs.yahoo.co.jp/airblue1223/64113209.html をご覧あれ)

ひょっとしたら、日本プラスチックが関わっていたのかも?

まあ、いろいろとマルサン商店には当初から隠し事がいろいろとあったようである、まさに黒歴史である。

さて、広告といえばさらに不可解というか謎の広告が日本模型新聞に載っている、  <続く>

三ツ星商店の謎の広告

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実は、三ツ星商店の謎の広告がある、

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                               (昭和34年2月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この広告は昭和34年2月5日の三ツ星商店の広告、当然のことながらマルサンがノーチラス号を発売して間

もないのでそのノーチラス号が載っている、この広告は特にどうってことはない、

ところが、次の広告をご覧いただこう、


イメージ 1
                                 (昭和34年6月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

これは昭和34年6月25日の三ツ星商店の広告である、ところが、よ~く見ると、

イメージ 2

なんと、マルサンのノーチラス号ではなく、日本プラスチックのノーチラス号の広告が載っている、

エッ、なぜ、マルサンのノーチラス号ではなく、日本プラスチックのノーチラス号が載ってるの?

昭和32年に発売された日本プラスチックのノーチラス号がなぜ2年以上も経ってから三ツ星商店が広告に載

せているの、普通なら、マルサンのノーチラス号でしょ、まだ発売されてから間もないのに、

そう、新製品か売れ筋製品を広告に載せるのが当たり前だろう、

何かの三ツ星商店の手違いでしょ、と思ったが、そうでもないようで、


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               (昭和34年7月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)


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            (昭和34年7月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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               (昭和34年8月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

これでもか、これでもか!!、というくらい日本プラスチックのノーチラス号を載せている、

つまり、上記の昭和34年2月以来、マルサンのノーチラス号の広告は載せていないのである、その代わりに

この日本プラスチックのノーチラス号を広告に載せているのである、

まあ僕は、この広告のおかげで日本プラスチックのノーチラス号がちゃんと流通していたことを証明はできた

のでまさにありがたい広告ではあったが、それにしても、

手違いでこの広告を載せたということはないだろう、普通なら絶対にマルサンのノーチラス号を載せるはずだ

ろう、

しかも発売から2年以上も経ってである、もちろん、日本プラスチックがこのノーチラス号を発売した昭和32年

当時の広告には見当たらない、発売当時には載せなかったのに、どうして今更という感じである、まあ普通で

は考えられない、

まあ、考えられる一つの理由としては日本プラスチックのノーチラス号の在庫が大量に残っていたので在庫処

分のつもりで広告に載せた、う~ん、しかし、そうではないだろう、

この広告がNBK(日本文化教材)のノーチラス号ならまだ話はわかる、NBKは日本プラスチックのノーチラス号

の金型等を譲り受けこの昭和34年の2月頃に発売したからである、

しかし、NBKのものではなく日本プラスチックのノーチラス号を載せているのである、

そこで僕がマルサンの今までのやり口、手口等から総合的に判断して推理したのがこうだ、

○ マルサンと三ツ星商店の間でノーチラス号のことで何かトラブルがあった、そう販売のことでトラブルが

   あった、つまり、マルサンは日本プラスチックが先にノーチラス号を開発し発売しているのは当然知ってい

   るので三ツ星商店の在庫の日本プラスチックのノーチラス号を市場に出さないよう強要した、

  しかし、三ツ星商店はそれに反発して言うことを聞かなかった、そしてマルサンにアテツケの意味で日本プ

  ラスチックのノーチラス号の広告を載せた、

三ツ星商店、してやったり!! ということだろう、三ツ星商店アッパレ!

この僕の推理は間違っているだろうか、 まあいずれにしろマルサンの歴史は真っ黒けということ。







黒夢という商標が

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さきほどテレビを観ていたら、「黒夢」という商標権が午後1時からインターネットオークションにかけられると

いう、「黒夢」というバンドがあるらしいが僕はまったく知らない、


結構な数の指定商品を登録している、

あのお馬鹿な日本プラスチック工業協同組合とはエライ違いである、

もうしつこいくらいそのお馬鹿ぶりは書いてきたが、いまだにその商標権の意味を理解していない、

自分とこの顧問特許事務所もあきれてしまうほどのお馬鹿なのでもう救いようがない、

その日本プラスチック工業協同組合が主催する「全日本ホビーショー」が東京で開催される、

僕は行かないが、お近くの方はぜひ行ってあげて下さい、

ところで、その東京では豊洲市場のことで毎日のようにニュースで話題になっている、

その中で皆が一番不思議がっているのが一体だれが空洞を決めたのか、その責任者が誰なのか、いまだに

わからないということだろう、一体役人の組織はどうなっているのか、命令系統はどうなっているのか、

テレビでもそのことが話題にもなっているが、皆そのことを不思議がっている、

おそらく、それらのことについては曖昧になってしまう可能性が高い、犯人?を突き止めるのは無理、

役人の常識は僕らの非常識、僕らの非常識が役人の常識だからである、

僕はそのような組織で8年間務めたので、豊洲市場のことについては特に驚いてはいない、

では8年間務めたその組織の現場の実態を公表できる範囲でバラしてみようかな(笑)

それを知れば今回の豊洲市場のことも理解できるとおもうが、  <続く>



英工社は後の、

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                                      (昭和29年2月10日 日本教材新聞)

さて、この「㈱英工社」というメーカーはその後どうなったのだろうか、

結論から先に言うと、後に、「三和模型」となったのである、

イメージ 1

この本を購入はしていたけれど、パラパラとしか読んでなかったので今日あらためて読んでみたら、それらしき

ことが書いてあったので確認してみた、ただ、この本も読むとやはりマルサンを一番手にしたいようである、

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                  (昭和30年7月10日 日本教材新聞)

この記事によると、大洋模型と合併した、とある、ただ、大洋模型のことはわからない、

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                    (昭和32年12月10日 日本教材新聞)

この当時は、まだ㈱英工社となっている、社長の名は高橋英夫さん、そう、後の三和模型の社長さんである、

ただ、それを確認しないといけないので、


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                   (昭和33年1月10日 日本教材新聞)

その一か月後の昭和33年1月には㈲三和模型になっている、この間の記事には三和模型に変更したとの記

事はない、ただ、これには社長の名前が載ってないので確認すると、


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これには、三和模型 高橋英夫さんになっているのでこれで英工社が三和模型になったと確認できた、

一応、ご参考までに。

ロボット十勇士

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             「真田十勇士」を観てきたので、こちらは、「ロボット十勇士」

次のような証言が、

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昨日は日本プラスチックに関して証言をいただいた、その内の一つを紹介すると、

http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71462664.html この記事について証言をいただいた、

その方の証言によると、まあ、どなたかは昨日の某トークショーすでにバレてしまった(笑)

そう、艦船模型界の重鎮の○○さんである、

もちろん、その○○さんも僕のブログは読んでいらっしゃるようである、

日本プラスチックの話題がトークショーであったとは想定外、なぜかタイミングが良過ぎるなあ~、

どうも○○さんによると、その僕の記事は間違っているらしい、

結論から先に言うと、日本プラスチックがニチモの箱絵をパクってニチモの後にノーチラス号を発売したとのこ

と、当時の業界、問屋筋の関係者などに聴取しとっくの昔に調べ上げているとのこと、では、昭和32年に日本

プラスチックが発売したノーチラス号は何だったの?ということになるが、

そうであるとしたら、その昭和32年に日本プラスチックが発売したノーチラス号はあまり売れなかったので、

その後、NBKブランドにてそのノーチラス号を発売した、(昭和34年2月)

ところが昭和34年2月にニチモが「伊号潜水艦」を発売し爆発的に売れたので、そのブームにあやかって、そ

のニチモの箱絵をパクって日本プラスチックは今度は自社ブランドにてノーチラス号を発売した、

ということになるのだろう、

しかし、そうだとしても、日本プラスチックがマルサンより先にノーチラス号を発売したのは間違いないはずだ

が、 いや、それでも日本プラスチックのものは全国的に流通していないとのこと、

僕の場合は、業界とは利害関係もないまったくの素人なので残されたわずかな資料、追跡、取材等で調査を

行っているので、当時の業界のことは実際のところどうだったのかまったくわからない、

まあ、皆さんに判断、推測していただくしかないだろう、僕は僕の調べたことでいくしかないだろう、

まあ話題にしていただいたことにより、少なくとも日本プラスチックが当時には業界内でも認知されていたこと

は間違いないことが証明されたのだから、そう、今までは日本プラスチックの存在さえ語られることはなかった

のだから、そして結果的に今現在の業界内にも日本プラスチックの存在を証明していただいた、

それにしても、そこまでわかっていたとしたら、なぜ一切そのようなことが今まで表で語られなかったのだろう

か、それは僕としては謎である、

次は、その○○さんの日本プラスチックのゼロ戦の証言を、  

その証言により、日本プラスチックのゼロ戦が実際に存在していたことが 確定できた、

○○さん、トークショーで話題にしていただき、ありがとうございます、  <続く>


http://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihon-p2.htm  ノーチラス号のキットの参考サイト



日本プラスチックのゼロ戦は、

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では、○○さんの日本プラスチックのゼロ戦に関しての証言である、

その前に文書でいただいた証言をもう一度念のため載せておこう、

○ 日本プラスチックが開発していた「ゼロ戦」と「ムスタング」は昭和31年10月より関西の大手問屋(富士模

  型、大模、マルク、京都模型等)に売り込みを始めた、

○ しかし、完成度が低くプラスチックモデルの最大の利点であるリアリティが不足していたために問屋筋には

  相手にはされず、期待したロッドがまとまらなかったために試作段階で頓挫した、

  その頃の日本プラスチックのプラスチックモデルは金型の原型となる木型師に恵まれず、児戯に近い再現

  であったため木製モデルメーカーの完成度の高い高級キットやモデラーが製作した完成品を見慣れた大

  手問屋の番頭からは全く相手にされなかったようだ、

○ この一連の問屋の対応を見ていたマルサン商店の石田実氏は後に語りぐさとなる保証金前納による予約

  販売や買い取り制、全国統一定価販売を思いついたと言われている、

○ 昭和31年11月5日の日本模型新聞に掲載された発売予告広告を見る限りゼロ戦もムスタングも食指の

  湧くような出来ではないように見える、

○ その広告以降、発売、流通したという記載は見当たらない、よって正規に流通したとは判定できない、

○ せめて、「ゼロ戦」、「ムスタング」のキットの現物が現存していればいいが、

  昔から模型業界には紆余屈折があり表には表れない黒歴史が多々存在している、それらのことはすでに

  当事者も証言者も存在せず、伝聞のみが残っているだけである。

ざっと要約すると以上であった、

それで、東京でのトークショーについては僕は行ってないので聞いてはいない、

相棒が直接お会いしてお聞きしたところ、

○ そのゼロ戦の出来具合を具体的に説明していただいたようである、出来の悪さはもちろんのこと、なんと

  転写マークのことやら、接着剤のことまで、当時転写マークは存在せず日の丸は印刷されたものを切り抜

  いて貼るような代物であった、もちろん、プラスチック専用の接着剤は存在せず接着するのに困った、等

  当然そのような代物を問屋筋が相手にするはずがなく流通はしていないはず、ということ、

  ということは○○さんが当時そのゼロ戦を手にして実際にご覧になったのかというと、そうではなく、

  ずっと以前に問屋筋の関係者等から聞いた話だという、

  これで日本プラスチックが実際にゼロ戦を問屋に持ち込んで売り込みを図ったことの一つの証言になるだ

  ろう、そのゼロ戦が試作品だけで頓挫したとされるも、実際に発売されたかどうかは実際に当時模型店で

 購入して作ったなどという証言、そして実際にそれを仕入れて販売したという模型店の証言が確認できれば

 いいわけで、それらの証言はすでに紹介しているとおりである、そう、火星人さんの大阪の問屋でゼロ戦とノ

 ーチラス号を仕入れて販売したという証言、当時そのゼロ戦を模型店で購入して作ったという複数の証言が

 あるので大阪、神戸地区で販売されていたということは紛れもなく事実であろう、

まあいずれにしても、日本プラスチックのゼロ戦が存在していたという証言がまた一つ増えたということであ

る、トークショーでわざわざ日本プラスチックの話題をとりあげていただきありがとうございました、これで日本

プラスチックという会社が今の世に認知されたのかもしれない、確認はしていないがこのトークショーのおかげ

で日本プラスチックの話題が結構上がっているらしい、

ただ僕の場合は、あくまでも日本で初めてプラスチックモデルを開発し販売したのは日本プラスチックである、

ということである、 マルサンのように豊富な資金力でもって派手に広告宣伝し全国的にプラモデルを流通させ

プラモデルを認知させたのはマルサンが初だから、日本初のプラモデルメーカーはマルサンである、という説

はとらない、僕に言わせればそれは研究不足の苦しいコジツケにみえて仕方ない、

それから参考までに、

○    転写マークはその頃はすでに存在していたのである、

当時の東京堂模型の濱田さん宅から一駅くらいの歩いても20分くらいのところに○○○という会社があった、

今は会社は転居なさって、それでも同じ東大阪にある、

そこでは昭和31年にはすでに日本で初めて転写マークを開発し販売していたのである、

しかもその会社の創業者の方のお兄さんは○○模型の創業者であり、濱田さんらとは例の模型飛行機クラブ

で同じ仲間で飛行機を飛ばしあっていたのである、

これは口先だけの証言ではない、ちゃんと残された数少ない資料、取材で確認してある、

ただ、ゼロ戦にその会社の転写マークを使っていたかはわからないし今となっては当然確認できない、

まあ関西地区ではその転写マークは流通していたかもしれないが、当初は東京地区までは、いや全国的には

流通はしていなかっただろう、だから、マルサン説を唱える方にしてみれば、その○○○という会社が転写マ

ークの開発の一番手であるとはいえないのだろう(笑)。

証明するためには証拠が必要、

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僕は模型業界のプロでもなく、素人で人生をリタイヤしたタダのジジイである、

まあ、退職後は時間を持て余して時間潰しのためにプラモデルで遊んだり、しょーもないことをして暮らしてい

る、だから、僕が何を言っても信用してもらうことはできない、それこそ僕の言うことを信用したら大変なことに

なってしまうので信用しないほうがいい、ましてや僕の証言なども絶対にアテにならない、

要は、特定の一人の証言だけでは信用できないということ、違った立場の人の複数の証言でもって判断しない

といけない、そんなこと当たり前だろう、一つの証言だけで判断すると大変なことになってしまう、

その人の立場にとって都合のいい証言になってしまうからである、それこそ捏造された証言にもなってしまう、

だってそうだろう、僕だっていざとなったら自分に有利になるよう証言するに決まっている、

ある人がこう証言したからコレに決まり、なんて決めつけるのは危険きわまりない、

それは今までの人生経験から学習している、

「ただの素人の糞ジジイが何を今更グタグタ言って模型業界をかき回すんだ、このバ~カ」 と言われているだ

ろう、そんなこと百も承知、まあ模型業界も今となっては知られたくない過去の黒歴史等を暴かれて迷惑な話

だろう、もう、徹底的に嫌われ者要注意人物になりたいと思っている、いい人ではなく、嫌われ者になってこそ

一人前だと思っている??

アッ、本題に戻って、

だから、僕は必ずその証拠を示している、証拠を示さなければ誰も納得はしないだろう、

誰々の証言と言ってもそれはハッキリ言って信用はできない、嘘の証言もあるし、記憶違いの証言もある、

場合によっては都合のいい証言もある、まあ、複数の証言があれば信用できるだろうが、

例えば、昔日本プラスチックという会社がありました、とただ言っただけでは誰も信用しない、はたしてそれが

実際にに存在したのかどうか誰も信用はしない、そう、口先だけの証言になってしまう、

そこで、実際に存在していたことを証明するために登記所で登記簿謄本をとってそれを示して証明する、

日本プラスチックが大阪化学研究所の工場の片隅を間借りしていた、と言ってもそれこそ絶対に誰も信用して

くれるはずがない、何といっても60年以上も前のことでそれがはたして事実であるかどうかは普通は絶対に

証明はできない、しかし、それを証明するためにはあったということを証明すればいい、

そこで証明するために、当時の住宅地図で場所を特定し大阪化学研究所と同じ電話番号であることを電話番

号簿で証明し、当時その現場を見ていた内田さんを突き止めて証言をいただいた、

そして日本プラスチックの濱田さんが東京堂模型店の店主であったことも当時の業者名簿で証明した、

東京のハマライト化学研究所という会社が濱田さんが立ち上げた会社であったことも全て当時の電話番号簿

やら残された資料等でもって証明してきた等々、僕が断定したことは全て口先だけのものではなく、ちゃんと資

料等でもって証明してきたとおりである、妄想の場合はちゃんと「僕の推理であるが」とかで書いている、

そう、ただの口先だけの証言では信用してくれないからである、

火星人さんの証言にしても極端に言うと、それが嘘かもしれないし記憶違いかもしれない、

それで火星人さんの証言が正しいのかどうかも当時の資料等でもって証明してきた、

例えば、火星人さんは昭和32年に「火星模型店」を開業したと証言されたが、はたしてそれが本当なのか何

月に開店されたのか口先だけの証言では証明できない、それで、当時の模型新聞にて昭和32年の3月には

開店されたことが証明できたことはすでにご承知であろう、

俗に言う、「なかったことを証明することは不可能であるが、あったことを証明するのは可能で意外と簡単なこ

とでもある。 」 そう、例えば流通しなかったという証明はできない、しかし、流通したという証明はできるので

ある、今まで日本プラスチックの存在さえ否定されてきた、ゼロ戦の存在さえ否定されてきた、それは存在した

という証拠がなかったからである、しかし、日本プラスチックという存在も証明された、ゼロ戦の現物はいまだ

確認されてはいないが、その存在、それが市場に流通したという複数の証言があることは記事にも書いてきた

とおりである、よってこれもほぼ間違いはないだろう、

日本プラスチックのことで僕の間違いというのがあれば証拠を出して証明すればいいことである、

そう、何度も繰り返すが、なかったという証言?では証明にならないのである、

ところで、今まで僕がブログで模型業界のことを馬鹿だの愚か者だの、嘘つきだの、と言っているが、未だ

に僕に対しての反論、批判、クレーム等は一切ない、お待ちしているのに何も来ない、もちろん、業界筋の

方々も僕のブログは間違いなくご覧になっている、

沈黙なさっているその理由は、  そして、マルサン伝説の崩壊を願っていた人物がいた、

                                                      <続く>  

※ アッ、失礼、一人だけ無謀にもケチを付けられた方がいらっしゃった、結局はそれが引き金になって益々

  僕が模型業界を叩く原動力にもなってしまったが。

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OS工業㈱では社員募集中!!http://www.os-kougyo.jp/publics/index/8/

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初代社長の濱田貞雄さんは、プラスチックモデルを日本で初めて開発し発売した会社の日本プラスチックを立

ち上げた方で、その精神、技術の流れを受け継ぐ会社です、奥様は会長です。

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世界で初めてのプラモデル展示館

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もうだいぶ前に紹介していたがその記事は消えてしまったので、再度紹介しよう、

イメージ 1

この昭和53年頃に建設されたニチモの世界初の「プラモデル展示館」、

この中の説明文が面白い、

イメージ 2


日本初のプラモデルはニチモの社長江田信太郎さんにより考案された特許付伊号潜水艦である、

というように書かれている、1978年より20年前というと、昭和33年だろう、

マルサンから訴えられなかったのだろうか(笑)

ただ、特許付きというのは事実である。http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70045667.html

業界筋の方々が沈黙している理由

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本来なら僕がこれだけ模型業界のことをブログで叩いているわけだから反論、批判、クレーム等が殺到?して

もおかしくはない、そう、馬鹿だの、愚か者だの、と罵って名誉を棄損?しているわけだから1件くらいは来ても

おかしくはない、しかし、未だにない、 もちろん、陰では「あの糞ジジイ、アイツさえいなければ」と言っている

のが目に浮かぶ、ウワッ、身辺に気を付けなくては、しかし、こうなってくると徹底的にやりたくなってくる、

まあ僕のブログも毎日皆さんに(誰とは言わないが)チェック、いや、検閲されているので、僕もそれを見越して

書いていることすでにお気付きだと思いますが、僕のブログを読むのが不愉快になるように書いて、もう読

みたくなくなるように書いている、

実は僕が日本プラスチックの調査を始めた頃から段々と疎遠になりはじめた、何からの疎遠かというと、

模型業界に携わっている方々からである、そう、段々と連絡等が、である、まったくなくなった方も、

そう、段々と僕を避けるように、もう完璧に嫌われてしまったようである、

その理由は、言わなくてもおわかりだろう、

今更言うまでもなく、僕がやっていることは業界にとって非常に都合が悪く迷惑なことだということ、

ある業界の仕事をされている方の話 <今アナタがされていることが公になり、今の定説が覆されたら、それ

こそ模型業界は混乱し大きな損失を被ることになります、だから同じ業界の人間としてはソッと静かにしてい

なければなりません、表だって応援はできませんが、一つの方法として模型業界とは一切利害関係のない

アナタ個人の研究結果として「プラモデルの歴史の真実」などの発表をしたらいいのでは、>、と、

そう大体の方は、マルサンの嘘はおわかりなのである、、ただ利害関係のある同じ業界人としては静かにして

いなければならない、ま、そういうことである、

いずれにしろ、何らかの形で発表しなければならないだろう、

「プラモデルの歴史の真実」で出版しようかな~、もちろん、模型雑誌関係の出版社は取り扱うわけがない、

模型業界とは一切しがらみ、利害関係のないところとなる、

そうそう、たしか業界では2年後がプラモデル60周年でいろいろなイベント等も計画しているだろう、でそれに

合わせて、同時期くらいに出版しようかと考えている(笑)

う~ん、子供でもわかりやすいように漫画形式にするとか、そうなると、「日本プラスチック物語」かな~、

実際のところ、混乱するかどうかはわからない、大迷惑する某メーカーはあるだろう、その某メーカーはビック

リすることは間違いないだろう、何をビックリするかというと、その某ーカーはまだ知らないはずである、エッ、

と驚くはずだ、それを知ったらそのメーカーはどのような対応をするのだろうか、まだ知らせてはいない、今の

うちに知らせようかな、いや、まだやめておこう、後のお楽しみのために、なんて僕は悪い奴、

もちろん、一番迷惑するのはマルサンだが、  タミヤさんでもないですよ、 

その某メーカーさんの関係者の方がこの僕のブログを読んでいらっしゃればお気付きである、が、未だにその

気配はない、おそらくどなたもご覧になってはいないのだろう、

今ご覧になれば、僕のブログを開いた瞬間に、エッ!!まさか、 そう記事など読む前にご覧になった瞬間に

ビックリなさるだろう、そして慌てて?確認なさるかも、

いや、ご存じではあるが、あえて知らないふりをして沈黙を守っていらっしゃるのかも、

話は変わって、「マルサン伝説」は僕の中ではすでに崩壊しているが、

実は、その「マルサン伝説」の崩壊を願っていた人物が僕の他にもう一人がいたのである、 それは、  

                                                                <続く>

コイツ(僕のこと)、なんとシツコイ奴、いつまでこのようなことを書き続けるつもりか、ハイ、生きてる限りです。




火星人は火星へ旅立った、

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http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71472349.html の続き、

「マルサン伝説」の崩壊を願っていた人物、それは火星人であった、

表題には「火星人は火星へ旅立った」と書いて断定しているが、ほぼ間違いない、

実は、去年の12月に火星人に会った時には、「今年中に死ぬはずだったが死ななかった、来年中には絶対に

死ぬはずだから」 と仰っていた、その後電話では数回連絡をとりあっていた、

そのたびに、「今年中には絶対に死ぬから」と仰っていたが、もちろん冗談と思っていた、

たしか4月頃に電話をかけた時に、「明日、訪問させていただきたいのですがご都合はどうですか?」と尋ねた

際に、「今、体調がよくないねん」と仰ったので、「それではまた来週にでも電話します」ということであった、

それで次の週に電話をかけた、「どうですか、体調は?」   「うん、大分よくなった」

「じゃあ、明日あたりに訪問していいですか?」と聞いたら、「明日は病院にいく予定だから」とのことであった、

「それでは、また日をあらためて連絡します」 ということにしていた、

しかし、5月に入ってからは静岡のホビーショーやら東京への取材やらですっかり忘れていた、

6月の下旬ごろになって火星人さんの自宅へ電話をかけた、

すると、「おかけになった電話番号は現在今使われていません」とのアナウンスが、

エッ、エライことに、

早速、大阪まで飛んでいった、

玄関ドアの表札は外されていた、新聞受けの小さな穴から覗くと家財道具は整理されているような気配、

まあ明らかに空き家の状態になっていた、火星人さんは一人暮らしであった、

名刺に「電話連絡が付かないので心配になって訪問しました、連絡下さい」等々を書いて玄関と郵便ポストに

投函した、しかし、いまだに連絡はない、ご家族の方からの連絡を待っていたが、

もちろん、探し出す手はあるが、 連絡がないということはそのご意思がないということなので、いまさらこのよ

うなことでご家族をかき回すのはやめたほうがいいだろう、

実は、火星人さんが住んでいたその住居は売り出されていた、 

火星人さんが火星へ旅立たれたのは間違いないだろう、 享年 90歳であった、

病院嫌いであった、本来は治療しなければならないのに、そこまでして長生きはしたくないと、

病院では死にたくないと、治療せずにそのまま自宅で自然に死にたいと、

実は、その火星人さんからは生前に僕に遺言?があった、遺言といっても口で僕に言われたことである、

そう、二つの遺言があった、    

そして、そのうちの一つが、 「マルサンの定説を覆しなさい」、であった、   <続く>


火星人さんからの遺言とは、

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火星人さんからの遺言は次の二つであった、

〇 マルサンの定説を覆しなさい、

〇 押し入れ一杯にプラモデルの在庫が残っている、私が死んだら全部アンタに譲るように娘に言ってある、

もちろん、遺言とは言っても口先でのことなので文書などはない、

マルサンの定説を覆しなさい、これは只今続行中、これは生前からの強い思いだったのだろう、

それと在庫のプラモは全部アンタに、これも生前からの強い思いだったに違いない、そう、誰かに、

なぜそう断定?できるのか、それは、以前に書いた次の記事を思い出していただきたい、


(実はその時にプラモデルが押し入れに一杯アルヨ、と仰った、火星模型店を閉じる際に店の在庫は全て問屋

に引き取ってもらった、溜まっていた日本模型新聞はたしかまとめて5,000円で売れた、が、

店の一番奥の押し入れに保管していたプラモデルを忘れていた、仕方ないのでそのまま引っ越してきたこの

家に持ってきたという、それが押し入れの中にアルヨ、と仰っていた)

そう、誰かに自分を突き止めて探してほしかったのである、そして、自分の思いを託しかったのだと、

そしてついにやっと自分を突き止めて探し出してくれた、それが僕だったのだろう、

昭和53年に「火星模型店」を閉じてから40年ちかくもの間、絶対に誰かが自分を探し出してくれるはず、

それが僕だったのだろう、まあコイツなら託してもいいかな、ということだったのだろう、

ただ、在庫のプラモはアンタに、という遺言が実行される可能性は低いと感じていた、

それを実行するかしないかは娘さん次第だから、(娘さんは60歳とのこと、もちろんお会いしたことはない)

もう今となってはその可能性はほとんどない、もちろん、娘さんの連絡先等は聞いてない、ただ富田林に住ん

でいると聞いていただけである、まさか、こんなに早く火星人さんが逝かれるとは思っていなかった、

しかし、その火星人さんの思いだけで僕は充分である、できれば線香だけでもという思いであるがそれも不可

能だろう、もちろん突き止める手立てはあるが、今更ご家族をかき回すことはしたくない、未だにご家族から連

絡がないということはそれがご意向という表れとみるしかない、それにしてもあと数か月遅かったら火星人さん

と出会っていなかった、

あと、3、4か月遅かったら火星人さんとは出会えなかった、これも何かの縁だったのだろう、

「マルサンの定説を覆しなさい」 この火星人さんの強い思いが僕の原動力にもなっている。

※  それと、ある方にも火星人さんのことを伝えた、もちろん、その遺言のことも。

以上がこの場で書ける部分である。
  

これからの予定

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これからの予定

11月3日    東京での「モデラーズ フリマ」 これが残念ながらイベント会社の都合で中止

   3日    「おおさかホビーフェス」http://osaka.hobbyfes.com/  ひやかしに行く予定
                                  (某社のブースへ行ってあのことを教えよう、ワクワク)

11月5日~6日   大阪南港ATC 「モデラーズフェスティバル」開催http://modefes.tumblr.com/
        当「模型探偵団」からも出展

真実のプラスチックモデルの歴史

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新たに書き加えて直してみた、真実のプラスチックモデルの歴史、
日本で初めてプラスチックモデルを誕生させたのは模型飛行機好きの仲間達であった、

戦後すぐの昭和20年代中期頃から関西では模型飛行機好きが集まってクラブを作り飛ばし会で楽しんで

いた、その仲間達はプラスチックという素材に目を付ける、それまでの木製の素材からプラスチックという

素材で模型を作ってみたらどうだろう、その数は6人、その中心的メンバーが濱田貞雄、亨の兄弟であった、

濱田貞雄、亨は「東京堂模型店」を経営、他のメンバーは木工所、鉄工所、工作機械会社経営など、それ

ぞれが得意分野を持っていた、特に木工所を経営していた石村栄三は金型製作等が得意であったという、

その模型仲間達が目指すのはプラスチックモデルキットの開発であった、機械類の調達は目途がたった

もののプラスチックという合成樹脂に関してはまったくの素人であった、

そこで、濱田兄弟は近くの大阪化学研究所の内田義勇に指導を仰ぐことにした、工場はその大阪化学研

究の工場の片隅を間借りすることとし、そこに機械類を持ち込んでプラスチックモデルの開発が始まった、

そこでは、お互いが自分の得意分野を生かして開発を行った、

そして、開発に目途がたった昭和31年濱田兄弟は(株)日本プラスチックという会社を立ち上げた、

昭和31年に(株)日本プラスチックは1/50 ゼロ戦を、翌年にはゴム動力の「原子力潜水艦

ノーチラス号」を発売する、そして、プラスチックモデルの黎明期、いろいろな玩具メーカー、模型メ

ーカーと関わった、プラスチックモデル参入時の田宮模型の窮地を救ったこともあった、

しかし、それらのことはプラスチックモデルの歴史の中に埋もれて表舞台に現れることはなかっ

た、それはこの60年もの間、噂はされていたがほとんどが謎のままだった、そして間違った歴史

が語り継がれてきた、その間違った歴史はこれからも永遠に語り継がれるところであった、

そう、それが捏造された「マルサン伝説」等であった、模型業界にとっても都合のいい捏造された

歴史そのものであった、

追跡調査すること10か月、(株)日本プラスチック、その全容をほぼ解明することができた、

そして、プラスチックモデルを誕生させた二人の兄弟の精神、技術を今も脈々と受け継いでいる

会社があった、その会社が、OS工業(株)である、http://www.os-kougyo.jp/publics/index/2
                       同じく関連会社  http://www.os-kougyo.co.jp

では、下記にその経緯を書いておこう、

  
   ● (株)日本プラスチックが日本初のプラスチックモデルを開発発売するまでの経緯

 ○ その二人の兄弟とは、濱田兄弟であった、兄弟の名は、兄の亨、弟の貞雄、

○ 濱田兄弟の両親は戦前に布施市(現東大阪市)に「東京堂模型店」を開業
   小坂駅南側徒歩5分ほどの場所、(現在その場所はシューズ店になっている)

〇 濱田兄弟(亨、貞雄)とその仲間達5、6人は昭和28年頃から、布施駅近くの(資)大阪化

  学研究所に機械類を持ち込んでプラスチックモデルの開発に取り組み始めた、

  その技術指導には大阪化学研究所代表者の内田義勇さん(1890年生)で、濱田さんらは 

  内田さんを「先生」と呼んで技術指導を受けていた、内田義勇さんは今の阪大(応用化学

  専攻)卒で帝国人絹(帝人)と提携しビスコのキャップ(溶剤容器のノズル)を製造していた、

〇 その技術指導を行っていた内田義勇さんが昭和30年の夏に亡くなられた、
   
   おそらく、この頃までには濱田兄弟らはプラスチック関連の技術等に関してはほぼ習得し
   
   ていたものと思われる、

〇 その内田さんの息子の彰さんは当時九州で教員をしていたが、会社を引き継ぐために現

  地から技術者一人を引き連れて大阪化学研究所を引き継いだ、彰さんは化学関係につい

  てはまったくの素人であり、濱田さんらに指導等はしていなかった、

○ プラスチックモデルを開発する以前はプラスチック製の玩具も製造発売していた、

  濱田兄弟らは、プラスチック製の玩具を製造販売していた、

  奥様の証言  当時プラスチック製玩具で手錠を製造発売したが、子供にとっては危険玩具
            として「週刊朝日」に記事で掲載され警察に警告を受ける、

〇 濱田兄弟らは、昭和31年2月  資本金 50万円にて(株)日本プラスチックス を設立

  日本プラスチックスの住所、電話番号は大阪化学研究所と同じ、つまり工場は間借りのまま、

〇 昭和31年10月頃、日本初のプラスチックモデルの「ゼロ戦」を発売 

  ゼロ戦だけでなく、ムスタングP51戦闘機も当時神戸地区にて子供の頃、模型店にて購入

  して作った、という証言等がモデルアート等の雑誌に投稿されている、

 もちろん、市場にも大阪松屋町の問屋を通じて流通していた、(大阪十三にあった火星模
  
 型店の多田さん(通称火星人)が昭和32年の開店時にそのゼロ戦とその翌年発売したノー  

チラスス号を仕入れ販売したと証言、そして後年の昭和36年10月号の日本模型新聞で日本

 初のプラプモデルの一番手はマルサンではなく、(株)日本プラスチックであると、マルサンを

 痛烈に批判した、
  
しかし、その完成した商品のゼロ戦を大阪の問屋に持ち込んでもほとんど相手にはされなかっ

たという、なぜなら、その出来具合が良いとはいえず木製模型を見慣れた問屋筋は興味を示さ

なかったのだろう、それと、あまりにもプラスチックモデルの登場が早すぎ世の中に浸透してい

なかった、ただ、どこかの問屋は取り扱ってくれた、その問屋の名は不明、

昭和32年、「火星模型店」が開店のために商品を松屋町の問屋で仕入れる際、そこでプラスチ

ック製の模型キットを見かけ、「これは珍しい」とゼロ戦とノーチラス号を仕入れたという、

そう、当時まだ国産のプラスチックモデルは存在していなかったからである、

その「火星模型店」は昭和32年3月には開店している、

ただ、ゼロ戦はあまり売れなかったと、火星人さんの証言では出来が良くなかったのとまだまだ

プラスチックモデルというものが認知されていなかったためだったという、

それと、ノーチラス号も売れ行きはよくなかったという、
  
〇 そのゴム動力のプラスチックモデル「ノーチラス号」は昭和32年の3月には発売、

東京地区にも販路を拡大するために東京支店を開設 、そのために貞雄さんの兄の亨さんが

 東京へ、問屋の最大手の三ツ星商店と取引開始、

 しかし、その「ノーチラス号」もあまり売れなかった、三ツ星商店には在庫が多く残ったものと
  
 思われる、なぜなら、その2年後の三ツ星商店の広告にもそのノーチラス号が載っている、

 そして昭和33年、兄の亨は東京でハマライト化学研究所を立ち上げる、

〇 弟の貞雄は昭和34年東京のハマライトと合流するために大阪化学研究所から引き揚げた、

 そのハマライトではプラスチックの原材料、顔料の販売、金型設計製作、プラスチック玩具の
  
 製造を行い時流に乗って多くの利益が上がった、その後、

 「ノーチラス号」の金型等はNBK(日本文化教材)に譲渡、その後、NBKは自社ブランドとして

 昭和34年2月頃、「ノーチラス号」を発売、

 このゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」のプラスチックモデルの現物については、

 「ぷらもった」さんのブログの記事http://blogs.yahoo.co.jp/winkplamotta2011/14744751.html
 を参照のこと

〇 濱田さん兄弟は河内市(現東大阪市)にも工場を持っていた、

  工場は、同じ市内(当時は河内市)の「大東化成工業」   (これらは昭和34年頃まで)

 その「大東化成工業」とは知り合いでその敷地を少し分けてもらい、そこに簡単な工場を建て

  て製造も行っていた、

  昭和34年夏ごろ、「フライングヘリコプター」というプラスチック製の玩具を発売、

  おそらく、これもあまり売れなかっただろう、(現在までその現物は確認されていない)

 貞雄さんが大阪から引き揚げる際 おそらくその時にゼロ戦と戦艦大和の金型を大阪の電気

 科学館に寄贈したものと思われる、 (戦艦大和の金型についてはどこのメーカーかは不明)

 そして、ハマライトでは兄の亨さんと共にいろいろな模型メーカー、玩具メーカー等に関わった、

  玩具メーカー  増田屋、野村トーイ等々、(ピストル、自動車の玩具等)

  模型メーカー  NBK, タミヤ模型、 三和模型、三共模型等、

 ただ、具体的にどのように関わったのかは不明、推測するしかない、おそらく、金型製作、

 原材料供給等などで、模型メーカーがプラモデルに参入するさいに大きく関わったものと思わ

 れる、(一つの事例としてはタミヤの「伝説のプラモ屋」等でもハマライトのことが記されている

 田宮模型が窮地に陥った時にベビーレーサーというプラモデルの金型を無償で貸与してそれ
  
 によって田宮模型は救われたという話)http://blogs.yahoo.co.jp/winkplamotta2011/14787065.html
  
  昭和35年に貞雄さんはハマライトから分離してOS色素(現OS工業(株))を創業した、

  その後、ハマライト化学研究所は、・ ・ ・ ・ ・


※ 濱田兄弟に技術指導していた大阪化学研究所の内田義勇さん(1890年~1945年)は、

  今の阪大(応用化学専攻)で、プラスチックモデルの生みの親といえるだろう、


〇 その日本で初めてプラスチックモデルを開発した二人の兄弟で弟さんの濱田貞雄さんが

  設立した会社  OS工業(株)http://www.os-kougyo.jp/publics/index/2

  そのような会社に入社して働きたい、もの作りが好きな人、只今募集中!!

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