今朝の日の出前、風は少しヒンヤリ。
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今朝の日の出前
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昔、工作の定番は電気砲、
昭和初期の頃、模型少年たちはどのような模型を作って楽しんでいたのだろうか、
当時の模型科学工作の書籍を読むと、必ずと言っていいほど出てくるのが「電気砲の作り方」である、
今で言うレールガンによく似た兵器だろう、
多くの模型少年たちはその電気砲を作って楽しんでいたようである、
その中の一つの記事を紹介しよう、
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模型教育も決戦覚悟で、
戦時下においても模型教育は国策として強力に行われ、また物資が乏しくなっていく中でも素材としての金属
類は優先的に供給され、特に航空機模型の教育は重点的に行われていたことは以前の記事でも紹介したと
おりである、またそれらに関する出版も数多くなされていた、
これは戦時下に出版されていた航空機模型の工作雑誌である、
敗戦濃厚となった昭和19年中頃になると、「決戦版」となっている、
女性教員たちにも実習教育が行われていたようで、
この記事を読んでも、その意気込みが伝わってくる、
これらのライトプレーンの設計図等についても、当時としても第一級の方々の名がある、
そう、あの有名な木村秀政博士の名も、博士はロケットエンジン戦闘機「秋水」も設計なさったらしい、
しかし、段々と物資が乏しくなり印刷も白黒一色となっていく、
そうそうこの頃、濱田貞雄少年は北海道に疎開し現地でも持前のガキ大将ぶりを大いに発揮していたという、
そして終戦後は戦前から父が開業していた「東京堂模型店」を引き継いだのであった。
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戦時中の模型飛行機ライトプレーン
戦前からの模型教育で特に力をを入れていたのは航空機模型であったことは先の記事にも書いたとおりであ
る、
それで、当時のライトプレーンのキットの箱を開けてみた、
日付は昭和16年10月6日となっている、昭和16年の製品で間違いないだろう、
設計図の日付も昭和16年1月になっている、
気になるのが中に入っている物、まづサンドペーパー、これは今の物とほとんど同じ、
ニコニコ印となっているが、もちろんどこのメーカーのものかはわからない、
工作用の糸、
このセメダイン、残念ながら中身は入っていない、空き箱、
セメダインの歴史は古い、創業当時は今村化学研究所といっていた、
当時の価格は12銭、
「奉公糊」?粉ですぐ付く、とある、不易糊は知っているがこれは知らない、
使用方法が書いてある、
まだまだ粉が残っている、残っているからには試してみるしかない、
水で濡らして粉をふって、貼りつけてみた、
紙を貼りつけて10分ほど経つと、おお~、ちゃんと貼りついた、強力ではないが封筒を貼りつけるくらいなら
まだまだいける、しかし、貼り合わせの部分がこのように汚い、
まあしかし、昔のこのようなものを試してみるのは面白い。
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火星模型店の開業日は、
火星人さんが昭和36年10月の日本模型新聞で「プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく大阪の布
施市の日本プラスチックである」と痛烈に批判したことは以前の記事でも紹介した、
そして、僕が火星人さんに会って、「なぜ日本プラスチックが一番手であったと言い切れるのですか?」と
聞いたときに、「東京堂模型店を開業したのが昭和32年、その開店の際に松屋町の問屋で見かけたのが日
本プラスチックのゼロ戦とノーチラス号であった、まだ国産でプラスチックモデルは見かけなかったのでこれは
珍しいと思って仕入れたが、あまり売れなかった」と、おっしゃった、
そこで、「開店は昭和32年の何月でしたか?」と聞いたところ、、「何月だったかははっきりと記憶していない」
との返事であった、
その開店時期がわかればノーチラス号の発売時期がある程度特定できたのである、
そこで、日本模型新聞をあらたに読み直してみた、
(昭和42年3月27日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
昭和42年3月27日の記事で「10年前の業界トピックス」の記事がある、もちろん、火星人さんが書いたもの
である、この記事では10年前の3月のことが書いてある、
ということは、昭和32年の3月には開業していたということである、つまり昭和32年の1月から3月までの間に
開業したということである、
ということは、ノーチラス号は昭和32年3月には発売されていたということになる。
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プラモデル鞄
再び、「プラモデル」という名称の話を、そう、僕はいつまでもしつこい、
これは以前にも紹介した僕が勝手に作った?プラモデル鞄、
中にはカタログ等を入れている、
以前の記事にも書いたように、もう一度繰り返すと、
仮に、これを「プラモデル鞄」と称して売っても法的にはなんの問題もない、
そう、「プラモデル」という商標を登録申請することもできる、つまり、役務区分を「鞄」として登録申請すればい
い、ただし、登録申請しても無事に商標登録なるかどうかは5分5分とみている、
それを判断して審査決定するのはあくまでも特許庁だからである、では、なぜ5分5分とみているかは「プラモ
デル」という商標は今となっては普通名称化しているからである、そう、特定の商品名を指すのではなくプラス
チックモデル全体のことを指しているからである、普通名称化となっているものは商標登録申請しても却下さ
れる、「プラモデル」が普通名称化になっているかどうかはもちろん特許庁が判断するわけで特許庁がどのよ
うに判断するのかわからない、試しに登録申請してみるのも面白いかもしれない、
まあ、お馬鹿な日本プラスチックモデル工業協同組合は今でも誤った対応をして改善しようとはしない、
組合員である模型業界も同じこと、
その顧問特許事務所でもそのことにあきれているのでもう笑ってしまうしかない、
そう、日本プラスチックモデル工業協同組合の担当のお方に、「あなたのところの顧問特許事務所に聞きなさ
い、私の言っていることが正解だとわかるから」 とアドバイス?したが聞いたかどうかはわからない(笑)
それでも、「従来と同じ対応をする」ということなので、もう救いようがない、もう勝手にしなさいというしかない、
それは、マルサンが昭和35年に「プラモデル」を商標登録したことに始まる、すでにその時からマルサンは勝
手に「プラモデル」という商標登録をそれこそ拡大解釈したのか、それとも無知だったのか、それとも悪意に利
用したのかどうかは知らないが、「プラモデル発売」などと手書き等で書いたチラシ、ポスターなども禁止したと
いう、マルサンの関係者は模型店を巡回してそのようなチラシ、ポスターを見かけると強引に剥がしていったと
いう、もちろん、これらの行為は今からいえば営業妨害である、
チラシ、ポスターに手書きで書いてもなんら商標権には抵触しない、それどころか宣伝してあげているわけで
ある、普通に考えたら「プラモデル」という名称は広まったほうがいいわけで、ドンドン使ってもらったほうがい
いわけで、しかし、そのようなことマルサンには関係なかったようである、「プラモデル」という言葉も名称も使っ
てほしくなかったようである、
そして物語に出てくる例のプラモデルの発売の売り込みに苦労した話、そう、エライ苦労したような話、
これも嘘のようにしかみえない、なぜなら、なぜマルサンとの取引に関して条件を付けたのか、
やれ保証金とか、いろいろと条件を付けたのだろう、売り込みに苦労したのならそのような業界初の条件など
付けるはずがない、いやまてよ、ひょっとしたら、そのような無理難題な条件を付けたから売り込みに苦労した
のかもしれないが(笑)まあ、マルサンはやりたい放題していたのだろう、
だから、以前の記事にも書いたように神戸地区ではマルサン商品の追放運動が起きかけたのだろう、
そして、もう我慢できないということで、火星人さんは日本模型新聞にマルサンを痛烈に批判した記事を書い
たのである、そう、マルサンの商法やマルサンがプラモデルの一番手ではないという記事である、
火星人さんが昭和32年に「火星模型店」を開店する時に仕入れたのが日本プラスチックのゼロ戦とノーチラ
ス号であったが、その時には国産とはただ珍しいなと思って仕入れたという、
日本プラスチックという会社については特にその時は気にしなかったという、
しかし、マルサンが国産初と嘘をついて大々的に広告宣伝してノーチラス号を発売したり、上記のようなやりた
い放題していたので日本模型新聞で記事にしたという、
しかし、その頃には日本プラスチックの正体がつかめずに一体どのような会社だったのかわからなかったとい
う、そう、その頃すでに日本プラスチックは大阪の布施市から東京に移っていて跡形もなかったからである。
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日の丸を掲げる家が、
最近は祝日といえど日の丸を掲げる家を見かけることはほとんどない、
まあ、見かけるとしたら自民系の事務所か交番くらいのものだろう、昔は普通の一軒家であれば結構日の丸
を見かけたものである、会社でも祝日には必ず正面玄関前に日の丸を掲げていた、例え祝日が日曜日等と重
なっても宿直当番が日の丸を掲げていた、それが段々とどういうわけかそのような光景を見かけることはなく
なった、それも時代の流れだと言われれば納得するしかないのだろうか、
残念ながら、我が家はマンションなので日の丸を掲げることはできない、ベランダの手すりにくくりつけることは
禁止されているのでそれもできない、せいぜい画像のように机の上に置くしかない、
そうそう、日の丸といえばそれを粗末にする政党があった、
数年前に党大会の際に二つの日の丸を引き裂いて、それを糸で縫って繋ぎ合わせて党のロゴマークとして壇
上の正面に貼りつけていたことがあった、まあ、アレにはさすがの僕も驚いた、
批判が相次ぎすぐに取り払ったようであったが、まあ、アレが全てを物語っている、その後も日本を分断するよ
うなロゴマークをずっと使用していたが、とにかくセンスが悪い、最近は変更したようである、
センスが悪いといえば今回の代表選、台湾人か日本人かハッキリしないお方が優勢らしい、(ご本人は日本
人である、日本の国籍を持っている、とおっしゃっているが台湾籍を捨てたとはハッキリおっしゃらない、二重
国籍の可能性もある)、まあそのような本当にまともな人材がいないらしい、可愛そうな政党である、
まあ、まずありえない話ではあるが、仮に自民党に代わって政権を獲ったとしよう、そうなると日本人か台湾の
方か、国籍すらわからないお方が総理大臣になってしまう、ハッキリとした国家観がない方が総理大臣になっ
てしまう、はたして日本のために働いてくれるだろうか、それこそ日本は世界中の笑いものとなってしまうだろ
う。
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電池が入らないので、
先日動かして遊んだこのトーキング ビクトリー、実は電池をちゃんと接触させるのが難しい、
このスイッチの蓋を外してみると、
まづ、このように電池が水平ではなく斜めに入るようになっている、
そして、単2電池は無理に押し込まないと入らない、そう、今の電池は昔の電池よりもサイズが大きいので、
無理に押し込むと壊れそうで、そして取り出すのがまた大変、
だから、このように単3電池を利用して新聞紙を巻いて使用している、
そして、苦労するのが電池との接触、電池が斜めになっているので接触させるのも大変、
たしかオリジナルは電池受け金具がハトメになっていたはずで、それだとまず接触させるのは無理、
だから、スプリングにて代用している、ただ、これを固定させるのが大変、接着ができない、
その際に利用するのが「自由樹脂」というやつ、それをハンダコテで溶かして接着している、
これで完璧に固定することができる、
ただこの「自由樹脂」なるもの今まで東急ハンズ等で発売されていたが、なぜか発売中止となってしまった、
それに代わるものとして、これも「自由樹脂」としてほとんど同じ効果が得られるものが発売されているので使
用している。
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なぜ年間100丁前後のものが回収されるのか、
最近、2丁拳銃を持った立てこもり事件があったので再度拳銃の話をしてみよう、
とにかく男というものは飛び道具がなぜか好きである、誰でも男であれば子供の頃一度はピストル玩具のお
世話になったに違いない、ま、最近の子供でピストル玩具で遊んでいるのを見かけることはまずないが、
ところである話によると、毎年100丁前後の拳銃が警察に届けられ回収されているという、
それは遺品整理の時に家族が発見したり、骨董屋が家財道具を買い取った際にタンスの引き出し等に入って
いたものだという、
兵隊に行っていたおじいちゃんが終戦時に持っていた拳銃を警察に届けることなく、そのままタンスの中に保
管していて、そのおじいちゃんが亡くなった時に遺品整理をしていて発見したものである、
それから、昔拳銃を持っていてずっとそのままタンスの中等に保管したまま眠っていた、というケースである、
そう、昔は拳銃は誰でも自由に購入でき携帯できたのである、今から考えると恐ろしい世界ではあるが、当時
はそれが特別のものではない時代だったのだろう、
さて、ここに以前にも紹介した明治38年の銃砲のカタログがある、
読んでみると、これがなかなか今ではあり得ない面白いことが書いてある、
護身用ピストルに関することが書いてある、
簡単にまとめると、
財産、身分に関係なく無許可、無届にて買受可能、面倒な手続きは不要、誰でも直ちに買い取り可能、
所有、携帯のための税金、諸費用は一切かからない、老人、婦女子も簡単に使用できる、
一人で何丁も所有、携帯できる、地方の人はわざわざ来店しなくても今でいう通信販売できる、
ま、ざっと以上のようなことが書いてある、
当店にて販売した拳銃は全国で護身用に役立っている、代議士桧山鉄三郎氏は日本刀を持った4人の暴漢
に襲われたが、32口径5連発拳銃で4発連射し暴漢を追い払った、それにより非常に感謝された、
価格は安いものは3円から、
高いものは42円、といろいろな価格帯があるが、今の価格に直すといくらくらいな価格になるのだろう、
まだ調査していない、
取り扱い方法等も載っている、
これは、当時の工場の様子の写真、
これは、銃砲店等に対する銃砲火薬類取り締法、まあ今これらを読みこなすのは大変、
銃砲は露店など屋外で販売してはならない、軍用銃砲、火薬類を発明試験の際は陸軍大臣の許可をえるこ
と、等々が書いてある、
ステッキガンや、
スパイもどきの拳銃もある、
とにかくこのカタログを読みこなすには数日間を要してしまう、
まあ昔はこのように誰でも簡単に拳銃を所有できた、当時はいかほどの拳銃が一般市民に普及していたかわ
わからないが、相当な数のものが出回っていたことは間違いないだろう、
おそらく、その頃の拳銃がいまだにどこかのタンスの中等で眠っていることだろう。
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映画 「シン ゴジラ」は、
僕は映画評論家ではないので詳しいことはわからないが、
映画 「シン ゴジラ」の評判がかなりいい、一応観てきたが、ハリウッドの「ゴジラ」と比べてもかなりいい、
ハッキリ言って、ハリウッドのゴジラは観ていてつまらなかった、今回の「シン ゴジラ」はそのハリウッドをかな
り超えていたことは間違いないだろう、
昭和29年に公開された「ゴジラ」は僕が5歳の時に父に連れられて東宝の映画館で観た、
なにしろ、初めて観る怪獣映画だったので今でもその記憶は鮮明に覚えている、
父が東宝の株を所有していたのでその招待券で父に連れられて毎月のように観にいった、
「ラドン」、「地球防衛軍」、「モスラ」等々、当時の東宝映画はほとんど観にいった、
さて、
その「シン ゴジラ」に出演している石原さとみさんがいい、若い男性の間ではその石原さとみさんのタラコ
唇?がたまらないらしい、う~ん、たしかに僕が見てもたまらないほど魅力的である、(笑)
その映画「シン ゴジラ」について、
早速、石破さんがコメントを求められて発言していたが、何か難しいことを言っていて学のない僕にはよく理解
できなかった、実は石破さんも僕と同じ会社に勤められていたそうであるが、わずか3年ほどで辞められて政
界に入られたらしい、ちょうど僕もその頃は東京に勤務していたが石破さんのことはまったく知らなかった、
もちろん、元防衛大臣の小池知事もコメントを求められていて、何か小池知事のほうがわかりやすいコメント
のように思えたが、 僕の気のせいか、
その小池知事は毎日のようにマスコミに出ている、そう、東京都議との対決姿勢を鮮明に出してきた、
まあ、築地市場の件についての賛否は別にして、これからいろいろと利権等の問題が暴露されてくるかもしれ
ない、まあ僕も国政については自民びいきであるが(今のところ他の政党には任せられない)、東京都議につ
いてはどうもいただけない、次の都議選では自民系は議席を減らすことは間違いないだろう。
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昨日の昼から断食中
実は昨日の昼から断食をしている、
昨日はまづ6時頃朝ごはんを食べ、
そして、8時過ぎから自転車で海岸沿いを走る、平日はほとんど人はいない、安全で快適に走ることができ
る、
ここは、江井ヶ島海水浴場、小学生達が地引網の授業を行っているようである、
ここは、明石原人の骨が発見された場所、しかし、その真贋のほどは怪しい、本当に旧石器時代以前の人骨
なのか、今のようにハイテクな機器もない時代に判定できるわけもないし、発見当初は動物の骨だと言われた
り、発見者もアマチュアの研究家で当初はプロの考古学者にはまったく相手にはされなかったようである、
何といっても、その骨の現物さえ残っていない、戦時中の空襲で焼失したらしい、今残っているのはそのレプリ
カのみとなっている、学者の間では今もいろいろと説が異なっている、
まあ、学者もまったくと言っていいほどアテにはならないが、以前の記事にも書いたように、東大の権威ある地
震学者でもコンクリートの塊と何万年前の岩石の区別がつかないのだから、そう、例のコンクリートの塊を何
万年前の断層活動による岩石だと活断層の現地説明会を行った事件である、
ま、それはいいとして、
明石市立文化博物館でもそれらの骨のレプリカや説明板等が展示されているが、僕はこの明石原人について
は解説はしないようにしている、あまり興味はないし、第一変な解説をしたり大先輩(ボランティアの中では僕
が一番若くて新米)の説に反することを言うとケチを付けられるので面倒なことになってしまう、
そう、すぐにケチを付けられてしまう(笑)皆、自分の説が正しいと思い込んでいるので、老人の思い込みは厄
介である、だから関わらないようにしている、
だから基本的に昭和史に関することを中心に、その中でも特に戦時中の模型玩具の歴史等を行っているが、
これがまた好評で(笑)、今月は博物館に展示してあるブリキ玩具の歴史について解説講義を行う予定となっ
ている、これが大先輩達はまったく知らないことなのでケチを付けられることなく、静かに興味深そうに聞いて
いらっしゃるようである、しかし、僕があまり目立つようになるとまたケチを付けられる可能性がでてくる、ボラ
ンティアやるのもいろいろと気遣いが必要で楽ではない、
ところで、この発見場所はもう草がボウボウで何にもない、あるのはこの案内板だけ、記念碑みたいなものも
何もない、まあ、明石市としてもやる気がないのだろう、
帰宅したのが11時過ぎ、往復3時間のサイクリングであった、
そして、帰ってきてから断食の開始、とりあえずは3日間の予定、もちろん今朝も食べない、採るのは野菜ジュ
ースのみ、さて、体にはどのような変化が起こるのだろうか、吉と出るか、凶と出るか。
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戦車模型は昭和29年に
「ゴジラ」が映画公開されたのは昭和29年、その年にはどのような模型が発売されていたのだろうか、
(昭和29年2月10日 日本教材新聞)
その年の2月には英工社というメーカーが戦車模型を発売している、僕が資料で確認している限りではこの戦
車模型が一番古い、同時にモーターライズも発売としている、タミヤ初の戦車模型は昭和31年の11月なので
それよりも2年以上も早く発売している、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69092582.html
(昭和30年1月10日 日本教材新聞)
この英工社の模型については現物はいまだに一つも見たことはない、
(昭和28年12月10日 日本教材新聞)
昭和28年には車輪をプラスチック製にしている、
さて、この英工社というメーカーはその後どうなったのだろうか、只今リサーチ中。
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模型飛行機を楽しむのは非国民ではなかった、
戦時中のテレビドラマなどを観ていると、贅沢な暮らしをしていたり、家の中から笑い声が聞こえたりすると見
回りの自治会長等から非国民だと罵倒されるシーンをよくみかける、実際はどうだったのだろうか、
ましてや、模型飛行機などを飛ばして遊んでいたらそれこそ非国民だと皆から罵倒されたのだろうか、
僕は今でこそ高齢者になってしまったが当時はまだ生まれていないので実際のところよくわからない、
そこで、次の雑誌を読んでみよう、
当時発行されていた昭和19年7、8月号の「模型航空」である、敗戦濃厚となったその当時でもこのような模
型雑誌が出版されていた、
そう、男子どころか女子にまで模型飛行機の授業は行われていた、そして、飛ばして楽しんでいる、
地方でも盛んに模型飛行機大会が開催され九州の佐賀や、名古屋等での大会の様子の記事が載っている、
敗戦濃厚となり、物資等が乏しくなっても模型飛行機関連には国策として教育が強力に実施されていたので
ある、
なんと、無線操縦の模型飛行機まで飛ばして楽しんでいた方もいたようで、
まあよほどの金持ちでマニア中のマニアの方々が楽しんでいたのだろう、
それから、ドイツの「V1ロケット飛行爆弾」の記事も載っている、
当初は無線操縦で飛ぶ爆弾かなと思われていたようで、そうではなく、あらかじめ目標を定めてそこに到達す
るように設計されたロケット爆弾であった、と解説されている、
さて、エンジン模型飛行機は戦前からマニアの間で楽しまれていたが、飛行機模型エンジンといえばOSエン
ジンの小川精機だろう、
これは僕が持っているたったひとつの小川精機の模型エンジンで50年ちかく前のエンジンである、
あまり模型エンジンには興味はないが、通っている模型店で「持ってけ」と仰るのでタダでいただいてきた、
そこで思い出した、そういえば小川精機の社史みたいな本があったなと、
その小川精機の創業者の小川重夫さんの著書である、
「我が模型人生」という著書である、昭和61年5月に発行された社史の非売品である、
これは以前から持っていた書籍であったが、じっくりとは読んでなかった、
あらためてじっくりと読んでみたところ、驚くべきことが書いてある、
この書籍により日本プラスチックの濱田さんの若き頃のことがわかってきたのである、
そして、その日本プラスチックがプラスチックモデルのゼロ戦を開発していたメンバーのこともおおよそ判明し
た、そう、以前の記事にも書いたように大阪化学研究所の内田さんが証言していた、「濱田兄弟らはうちの工
場を間借りして仲間5、6人とやっていた」と、実はその仲間たちとはどのような方々だったのか、その接点は
なんだったのか、それが判明したのである、
まさか、この書籍に濱田貞雄さんの名前が載っていたとは、 <続く>
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断食は終了
今朝で3日間の断食は終了、結論を先に言うと、
体重は1、8キロ減、 血圧は140-95 くらいから 128-86 に低下、
ま、すぐに戻ってしまうかもしれないが、体脂肪率等については計器類がないので不明、
採ったのは野菜ジュースとお茶のみ、
体調は特に自覚症状はなし、いつもと変わらぬごく普通、まだまだ2、3日はいけると思ったが一応終了させ
た、次回は4日ほどを予定している、もっと効果が出てくるかも?
まあ、ハッキリ言うと、現代人はとにかく食いすぎだろう、
断食も1日を乗り越えればあとは空腹感を覚えることはない、一日が勝負、ま僕の場合は特に辛かったことは
ない、
僕は普段から特に美味い物を食べたいとかそのようなことは思わない、フランス料理等の美味いものを食べ
たいとかはまったく思わない、ご飯と、梅干し、削りぶし、ふりかけ、目玉焼き、たらこ、これだけあれば基本的
に大丈夫、もちろん、外食はやらない、年に1回するかしないかの程度、(もちろん、これは定年後のこと)、
まあ、人間にはいろいろな欲望がある、それがないと人間には発展がないのも事実である、
要は、その欲望をちゃんとコントロールできればいいことだろう、
そして、たまには欲望を捨ててみることも必要、今回のように食欲を捨ててみるとまた違った世界も見えてく
る、食物を粗末にすることもなくなる、
会社でも同じこと、うだつが上がらなければ周りの評価がどうなろうとも余計な心配はやめて、それこそ開き直
って余計な欲を捨て思いっきり仕事をすればいいこと、
とにかく、人間には欲望が多すぎる、だからたまにはその中の一つでも捨ててみると道が開けるのも事実であ
る、
それから、体重を減らすには神経を酷使すればいっぺんに減らせる、僕の場合、銀行を定年退職して徐々に
7キロくらい増えてしまった、この原因は神経を常時酷使すれば体重は増えないのだろう、もちろん銀行を退
職してすぐに某○○○○機構で働いたがこの時に体重が増えてしまった、これはほとんど神経を使わなくなっ
たのと(笑)、銀行の時の2割くらいしか力を出さなかったためと思われる、
そうそう、https://youtu.be/eUxqVoP54kQ この時は一晩で2キロちかく体重が減ったことを思い出した。
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濱田貞雄さんは小川精機の、
この書籍は日本プラスチックのことを調べる前に入手していたので、ざっとしか読んでいなかった、
今回たまたま読んでいて気がついた、その驚くべき?あらたな事実とは、
実は、濱田貞雄さんは石村栄三さんらとともに、OSエンジン小川精機の創業者の小川重夫さんと模型仲間で
あった、
その中のメンバーの中に濱田貞雄さんの名が、昭和24年というと貞雄さんが19歳の頃である、
そしてここには、昭和24年に飛行クラブ「KIMAC」というクラブを設立したときのメンバーが書かれている、
マルク、マルタ、瀬口、大丸、ユニバーサル、ナニワ科学等々、の模型店、
OK、とあるのは「OK模型」である、そうラジコン飛行機で有名なhttp://www.okmodel.co.jp/
それに、「東京堂」とある、これは濱田さんの東京堂模型店である、
次に一般会員の中で、
この中で、石村栄三さんの名がある、
この石村栄三さんは日本プラスチックの登記簿上の社長である、
これで、濱田貞雄さんと石村栄三さんのつながり接点が判明した、そう模型飛行機仲間だったのである、
実は5月に濱田貞雄さんの奥様(現在90歳)にお会いした際、次のような証言をされた、
○ 石村さんは木工所をやっており金型を作るのが得意であった、とにかく手先が器用で職人肌であった、
○ 昭和26、7年頃、高松宮殿下をお招きして飛行機大会を開催していた、
まあ、その時はなにげなく聞いていたが、まさか60年以上も前のことが、と、
しかし、その証言が事実であったことが他のページに載っている、、
そして、その職人肌が製作した模型飛行機の写真が載っている、
そう、その模型飛行機の出来栄えが、皆の脅威の的であったと、 <続く>
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11日~12日 休み、
11日~12日の二日間は用事のためブログは休み、
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模型飛行機仲間の集団だったのだろう、
5月に濱田貞雄さんの奥様(現OS工業会長)にお会いした際に次のことをも話された、
○ 昭和26,7年頃に高松宮殿下をお招きして模型飛行機大会を開催していた、
○ 石村栄三さんは手先が器用で金型製作が得意で職人肌の人であった、だから東京へ進出してハマライト
研究所を設立した時も一緒に連れていった、
それを裏付けることが次のページに載っている、
ここに昭和25年11月に高松宮殿下をお招きして模型競技会を開催したとある、1年の誤差はあるもののそ
の奥様の記憶力には驚くばかりである、
そしてこのページには、昭和30年に開催された模型飛行機大会では濱田さんと石村さんの共同で製作した
ロッキードコンストレーション4発機が脅威の的になったと記されている、
その脅威の的となったロッキードコンストレーション4発機がコレ、昭和32年頃、石村栄三、濱田貞雄の作に
よるUコントロール機とある、
う~ん、まさに素晴らしい出来の模型飛行機である、当時はちゃんとしたキットは存在してないのでおそらくい
ろいろな工作機械、材料等を持ち込んで制作したのだろう、そうそう、昭和32年頃といえばゼロ戦を発売した
翌年でノーチラス号を発売した頃である、
まあ、これで納得できた、濱田、石村の両者がいかに手先が器用で職人肌だったのか、金型製作等もお茶の
こさいさいのことだったのだろう、ただ技術的なことはクリアーできても合成樹脂のことについては知識等がな
いと無理なので、そこで当時の合成樹脂についてはエキスパートであった大阪化学研究所の内田さんに指導
を仰いでいたと思われる、ただ、その内田さんも昭和30年の夏に亡くなられたので、おそらくそれまでにはプ
ラスチック関連の知識、技術面のことは習得していたものと思われる、亡くなられた内田さんの大阪化学研究
所を引き継いだ息子さんは当時は教員をやっており、文系だったので化学関連は素人で濱田さんらには指導
はまったくできなかったという、濱田さんらは自由に工場を使用してプラスチック関連の製品を製造していたと
いう、そして、その2、3年後に大阪化学研究所から引き揚げたという、
つまり、東京へ進出してハマライト研究所を立ち上げたのであった、
昭和30年に亡くなられた内田さんのお孫さん(当時中高生15歳の頃、現在75歳)の話によると、
当時の大阪化学研究所では5、6人の男性が出入りしていたということである、
その内の3人は判明している、2人は濱田さん兄弟、それから石村栄三さん、あと2、3人がわからない、
おそらく、模型飛行機クラブ関係の人たちではなかったのだろうか、それしか今のところ考えられない、
まあ、接点としてもそれ以外考えられない、
あくまでも推測ではあるが、プラスチックモデルは濱田さんが中心となり、模型飛行機仲間達が集まってそれ
らが得意の分野でもって、例えば工作機械の調達やら金型製作やらの分担役割を担って開発していったのだ
ろう、大阪化学研究所の内田さんの話によると、濱田さんらは昭和28年頃から機械類を持ち込んで工場の片
隅でやっていたような記憶があると、おそらくプラスチックモデルは模型飛行機好きの集団がそれぞれの得意
分野を生かして開発したのだろう、あと気になるのは判明していない2、3人の方々のその後の人生である、
これを突き止めるのは今となっては相当難しい、仮に判明したらその後の人生のことやらいろいろとお聞きし
てみたいが、いや、もうご健在ではないだろう、しかし、名前だけでも突き止めたい。
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宇宙戦車スーパービートル
このプラモはどんな障害物でも乗り越えられる宇宙戦車スーパービートル、
走りながらレーダーが回転、ミサイル発射台は左右に回転するようになっている、
それはこのクラウンギアが噛み合って回転するようになっている、
しかし、そのクラウンギアと噛み合うギアは見当たらない、
さて、その仕組みは、 <続く>
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緑商会 宇宙戦車スーパービートル
スーパービートルはレーダーとミサイル発射台を回転させながら走る、
このミサイルは自作物、
しかし、それを回転させるクラウンギアと噛み合うギアは見当たらない、
そう、どこにも見当たらない、実はそのクラウンギアと噛み合うのは車輪のシャフトである、
このようなかたちでシャフトとクラウンギアが噛み合っている、うまい具合に噛み合って?回転するものであ
る、当初はどこにも噛み合うギアが付いてないと慌てたものであった、
弟分のビートル2世もこれと同じ仕組みとなっている、
もちろん、兄貴分のスーパービートルのほうが走破性は優れている。
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昭和42年頃といえばSFプラモが、
「宇宙戦車スーパービートル」が発売された昭和42年頃はまさに各社が競ってSF物を発売した、
(昭和42年10月16日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
中でも緑商会が特に力を入れ他社を圧倒していたのはご存知のとおりである、
もちろん、火星人さんも毎号のように各社のプラモを実際に組み立てて動かしてみて、そのことを記事に書い
ていた、
「スーパービートル」、「ビッグモグラス」等の記事も書いていらっしゃる、
(昭和42年11月6日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
まさに火星人さんがいなければ日本模型新聞も成り立たなかったと言っても過言ではないだろう、
また火星人さんは近畿地区、遠くは四国まで出かけて模型店の取材を行って記事を書いておられた、
その際、店のほうはというと、それは奥様がきりもりされていたという、
そうそう、その火星人さんのことについてちょっと書かなければならないことがある、
それは、またいずれかの日に、
僕も出展するのでお近くの方はぜひどうぞ、(今回はSF宇宙戦車物、ロボット物を展示予定)
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