ここにもプラスチックの模型玩具等がすでにあったことがわかる、
そう、この頃にはすでにプラスチック製の玩具等が出回っているが、静岡の木工業界では、まだまだプラスチ
ック製のものについては危機感を持っていないと、
実はこの頃、濱田兄弟はプラスチックモデルの開発成功直前で3月に㈱日本プラスチックスを設立し、10月
頃ゼロ戦のプラスチックモデルを発売する、当時、神戸の模型店で当時そのゼロ戦のプラスチックモデルの
キットを購入して作ったとの証言がある、あくまでも僕の推測ではあるが、その模型店とはおそらく、
「○○ケ○モ○○」ではないかと思われる、戦後すぐに創業され二次問屋でもあったのでその可能性は非常
に高い、ただ今となっては確認のしようがない、
それから、なぜ素人の濱田兄弟が東大阪(布施)で日本で初めてプラスチックモデルを開発できたのだろう
か、
戦前からすでに濱田兄弟の父が開業していた「東京堂模型店」であったが、東大阪はたいした空襲もなく被害
は少なかった、そう、日本でも有数の町工場の建ち並ぶ東大阪はほとんど無傷で残った、
戦後すぐに復興を開始し、板金加工、化学、印刷、セルロイド、プラスチック加工成型、金属加工等が盛んな
街へと発展した、そう、プラスチックモデルを開発するにはまさに条件が整っていたのである、
若くして「東京堂模型店」を引き継いだ貞雄さんは常に新しいことをやるのが好きであった、
町工場の建ち並ぶ環境の中、貞雄さんはプラスチックという素材に目を付けたのだろう、
おそらく、これからはプラスチックの時代だという先見の目があったのだろう、そこでまだ木工という素材が主
流であった模型にもプラスチックでやってみようと、
機械類は町工場周辺に揃っているので、そのあたりから調達できたのだろう、あとは合成樹脂の問題である、
それを指導したのが大阪化学研究所の内田義勇さんであった、今の阪大の応用化学を専攻された合成樹脂
等のエキスパートの方であった、濱田さんとの関係がどうだったのかは今となってはわからない、
おそらく濱田さんの人脈の中のお一人だったのではないかと推測される、
その内田さんの大阪化学研究所の工場の片隅に機械類を持ち込んで指導を受けながらプラスチックモデル
の開発を行っていたという、それを開始したのが昭和28年頃であった、
おそらく当初はプラスチック製の玩具類も製造しながら開発を行っていたものと思われる、
金型製作はどのようにしてその技術等を習得されたのか、大阪化学研究所の内田さんは合成樹脂のエキス
パートであったが、金型製作等の技術は専門外だったので指導はできなかったという、
おそらく、周辺の町工場に職人さんがいたのだろう、そこから指導を受けながら習得したのだろう、
しかし、それにしても凄い、素人であった濱田兄弟がわずか3年たらずでプラスチックモデルの開発に成功し
たのである、しかし、その先見の目があまりにも早すぎた、プラスチック製の模型というものに皆が目を向け始
めるにはあまりにも早すぎたのだろう、ゼロ戦を発売したのが昭和31年10月頃、その翌年にノーチラス号を
発売したが、まだまだ世の中は木製模型全盛時代であった、それと宣伝力の問題だろう、
マルサンのように豊富な資金力でもって全国的に宣伝でもすればプラスチックモデルというものが知れ渡り、
浸透するだろうが、
しかし、濱田兄弟は只者ではなかった、もう一つ先見の目があった、 <続く>