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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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プラスチックの歴史は、

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例のマルサンを業界紙で痛烈に批判した「火星模型店」の多田さんはもういない、

その代わりに今度は僕が多田さんの代わりに痛烈に批判してあげよう、

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今まであまり読む気にならなかったが、怖いもの見たさでアマゾンで中古本を購入し読んでみた、

そう、新品の本で読むほどではない、もったいないので中古本で充分である、

読んでみて、もう、笑ってしまうしかない、

マルサンの本等を読むと、マルサンがプラスチックモデルの開発に取り掛かるまで業界ではプラ

スチックの成型等に関してはまだ未知の世界であり、マルサンはその未知の世界に初めて挑

戦したかのようなことを書いてあるが、勝手に自分らの都合のいいようにプラスチックの歴史を書

き換えてはいけないだろう、これが勉強不足によるものなのか、意図的なものかわからないが、

これが仮に勉強不足であるならば、もっと資料等を調べてよ~く勉強してから書くべきだろう、

いや、特に勉強しなくても当時の資料をほんの少しだけ見ればすぐにわかることであるが、

以前の記事でも書いているように、当時の戦後すぐの昭和20年代の電話帳を見てもすぐにわか

ることである、もう数えきれないほどのプラスチック加工業者、金型業者等が載っている、

例えば、次の資料を見てもすぐにわかる、

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これは、昭和25年のプラスチックのことを書いた雑誌である、

ざっと、その一部を載せてみよう、

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プラスチックが未知の世界のものであるどころか、原料から製造、成型までの詳しいことまで説明

してある、すでに生活用品の一部として普及していた、

そして次は、昭和24年発行の「少年工作」、

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ここでも、プラスチック製の玩具等までが書かれている、

このようにプラスチックの歴史は古く、戦後すぐに今ほどの普及はないとしても、特に珍しいもので

はなかった、ただ、当時としては他の素材に比べて高価であったというこである、

むしろ、プラスチックモデルの登場が遅かったくらいである、

そして、マルサンのようにドイツからわざわざ超高価な機械を導入するまでもなく、日本国内にも

沢山あったのである、金型職人も大勢いたのである、が、マルサンにだけは職人がいなかったの

である、

その証拠に、名もない、金もない、技術もない、ないないずくしの無名の「模型店主らとそのなかま

たち」が、日本で最初にプラスチックモデルを開発し、発売したのがその証拠である、

次回は、当時から金型職人は大勢いたことを当時の電話帳から証明しよう、

マルサン、及びマルサン信者への批判はまだまだ続ける。

石村さんちは確認したが、

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一昨日、大阪の東住吉区の現地へ飛んでみた、石村さん宅を確認するためである、それともう一

つ、直ぐ近くに同じ苗字の方が住宅地図で確認できたので、ひょっとしたらご家族かもしれないと

思ったからである、

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その石村さんが住んでいた家、しかし、今は空き家となっている、近くの住人の方に聞いてみた、

そう、間違いなく石村さんの息子さんが住んでいて、5年くらい前に引っ越されたとのこと、

どこへ引越されたかはわからないと、

もう一つの直ぐ近くの石村さんは、まったく関係のないお方であった、

ここで、追跡調査は終わるのか、いやいやまだ諦めない、

念のため、今度は天王寺の登記所へ行ってみたいが、時間がないのでそれはまたあらためて

行くことにした、

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帰りの環状線の途中で桃谷駅で降りてみた、僕が昭和43年に入行した時の初めての勤務店で

あった勝山通支店の場所である、今はその支店はない、その跡地にはあのマンションが建ってい

る、


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これは勝山通り、

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この勝山通りを東に車で10分ちょっと真っ直ぐ行って、途中で左に曲がって5分ほどで大阪化学

研究所に届く、

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この勝山通りから中に入ると、そこはまるで昭和30年代の世界となる、

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僕が昭和43年に勤務していた頃とまったく変わっていない、


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そのあたりの中で少しだけ新しい建物が建っているが、ここら近辺に当時大阪でも大手の模型問

屋であった「日本文化教具(株)」があったはずである、もちろん、昭和43年にはなかった、

その会社は昭和35年頃にはすでに消滅している、

それで、当時僕が担当していた酒屋さんがあるので立ち寄って当時のことを聞いてみようと思った

が、あいにくと休みでシャッターが閉まっていた、

すでに追跡調査するには、あまりにも時が経ってしまった。



日本プラスチックスで重大な見落としがあった、

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(株)日本プラスチックスで実は、重大な見落としがあった、もっと見直すべきだった、

今まで、何度も資料等で調べていたが、何としたことだろう、何で今まで気がつかなかったのだろう

か、何で今まで見落としていたのだろうか、う~ん、僕としたことが、

やっぱり、何度も何度も資料は見るべきである、自分では見たつもりが実はよく見ていなかった、

これで、益々、日本プラスチックスの謎が深まってきた、

一体、この広告は何を意味するのだろうか 、これについてはまた後日、  <続く>


当時はプラスチックは何も未知の世界ではなかった

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マルサンの批判のついでにもう一つ痛烈な批判をしておこう、

その前に、https://youtu.be/xcWsHti7Z20 のユーチューブを、(ここでは大阪のあるメーカーが云々と言っているが、もちろん、ノーチラス号を開発し発売したことにも触れられていない、最初からマルサンが日本初だと決めつけている、日本で初めて?(笑)プラモデルの金型を作ったというマルサンの職人さんの記憶、証言も何か曖昧、マルサン以外にも当時プラスチックモデルがあったかもしれないし、云々、まあとにかくマルサン自社以外の世界のことはほとんど知らなかった様子) まあ、このような証言?記憶?だけでマルサン物語というのだから、まことにお粗末、

先に書いたように、マルサンがプラスチックモデルの開発にとりかかるまで、当時はまだプラスチ

ックの成型等に関しては未知の世界であり、マルサンはその未知の世界に挑戦したかのごとく物

語には書いてあるが、それは真っ赤な嘘だろう、仮にそうでなかったとしたら、それこそ、マルサン

はそのマルサンの会社から一歩も外に出ることなく、会社の中で引き籠り外の世界をまったく知ら

なかったことになる、まあ、そのようなことは考えられない、つまり、物語を面白くするために都合

のいいように脚色したものである、

ここで、またまた電話帳の登場である、


国会図書館にも保存されていない昭和29年の東京の電話帳である、


この電話張を見ただけでも、もう数えきれないほどのプラスチック加工業者、金型会社が載ってい

る、



本当に、数えるのがいやになるほど載っている、


広告欄を見てみると、金型金属彫刻の職人もいる、そのような金属彫刻職人もいなかったので非

常に苦労した云々と苦労話が書かれているが、それはマルサンの中にいなかっただけで要は人

材がいなかったということを証明しているようなものだろう、



要するに、プラスチックモデルの登場自体が遅かったくらいである、

もちろん、僕が図書館で閲覧した大阪の昭和29年の電話帳でもこのように数えきれないほどの

プラスチック加工業者が載っている、

だから、東大阪という町工場のメッカという環境下にあった「東京堂模型店」の濱田さんらが、

まだ誰も目を付けていなかったプラスチックモデルの開発に取り組むことができたのである、

そう、金もない組織もない、技術もない、機械もない、そこらへんの名もない、無名の模型店主らと

その仲間達が集まって大阪化学研究所の技術指導を受けながら日本で初めてプラスチックモデ

ルを開発し発売までこぎつけたのである、

ただ、残念なことに、濱田さんらの活動は数年で終わってしまった、会社の謄本を見ると、会社の

設立目的は、「合成樹脂製造加工販売並びに輸出」となっている、

おそらく、最終的には海外への輸出まで大きく羽ばたくことも考えていたのかもしれない、

その夢を叶えられなかった理由はなんだったのだろうか、そう、なぜ数年で終わってしまったの

か、一番考えられるのは資金難であろう、それらの理由と濱田さんらのその後の行方が一番知り

たいところであるが、直接関わった方々はもうこの世にはいない、

ただ、確実に言えることは、プラスチックモデルの夜明けは東大阪からであり、東大阪が発祥の地

である、ということである。そしてそれは、名もなき無名の模型店主らとそのなかまたちの手によっ

てもたらされた、ということである。

ところで、資料の中で大きな見落としがあった、それは、明日の記事にて。




益々深まる謎、

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その重大な見落としがあったことというのは、次の広告、

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        (昭和34年8月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

実は、この広告を見落としていた、日本プラスチックスの広告は載ってないものと先入観があった

ものだから、完全に見落としていた、しかも、プラスチックモデルでなかったので、

プラスチックモデルでなく、このような玩具を製作発売した意図もよくわからない、

ただ、この時期までまだ濱田さんらは活動していたことはわかった、

そして、この広告で益々謎も深まった、それは、


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この本社の住所は、大阪化学研究所であるも、電話番号は代わっている、

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同じ昭和34年の商工名簿では大阪化学研究所の電話番号である、

ということは、昭和34年後半頃に電話番号だけをかえたということなのか、

それと、工場が増えている、

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そう、なんと、いつの間にか河内工場と東京にも工場が、

そして、この広告には東京支店が載ってない、

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もちろん、その東京支店とは先の記事に書いたようにちゃんとした事務所ではなく、濱田さんのお

そらく兄弟の方が東京での販路拡大のために新たに契約した電話であろうと思われる、

順序として、この後、新たに東京工場として電話を契約したのであろうが、これもおそらくちゃんと

した工場ではなく、どこかの工場を間借りしたものではないだろうか、

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そこで、昭和34年3月現在の電話帳で住所と828-0083の番号で調べたが、見当たらない、

おそらく、この3月以降に電話を契約したのかもしれない、

もちろん、この頃の住宅地図は存在しない、この頃の住宅地図のデータがあるのは吉田地図の

大阪府下だけの地図だけである、

しかし、念のため一応どの当たりかだけ見てみよう、

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取り出したのは、昭和35年の東京全区の都市計画図、

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当時の文京区でも一番端っこの区域、

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今の地図で合わせてみると、ココ、

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この日建工業あたりが該当地となる、

次に、河内工場の場所を当時の住宅地図でみると、

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この722番地の大東化成工業河内工場が該当する、上の広告欄にはその河内工場の電話番号

の記載がない、実は大阪の市立図書館の電話帳で調べたが、この大東化成工業の電話番号は

載っていなかった、濱田さんらはこの工場でも間借りしてやっていたのだろうか、

大阪化学研究所の内〇さんの記憶では昭和34年頃に濱田さんらは引き揚げていったらしいの

で、まあその時期とは一致する、本社の住所がまだ大阪化学研究所のままとなっているのは

これも推測ではあるが、郵便物の配達先として必要だったのではないだろうか、そう、事務所がな

いので、それにしても謎は深まるばかりである、

ところで、誰かそのブーメラン式「フライング ヘリコプター」で遊んだ方はいらっしゃらないだろう

か、可能性として、当時子供の頃、東大阪に住んでいた方、 駄菓子屋等で買った記憶があると

か。



「東京堂模型」という名の模型店は、

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昔、地方に住んでいた人達は東京に憧れていた、何もかも東京からの発信であった、

東京の人達は皆がハイカラに見えた、流行歌も東京を舞台にしたものが多かった、

フランク永井さんの歌もそうであり、特に僕の記憶にあるのが、守屋浩さんの「僕は泣いちっち」

であった、とは言っても、若い人たちには何のことやら、ということになるだろう、

その中で、店名を付ける際にも「東京堂」と付けるものが流行った、

そう、書店、模型店、時計店j、文具店、貴金属店等々、

もちろん、大阪地区でも模型店で「東京堂」と付けるものが流行ったようである、

大阪地区の昭和35年頃の資料等を見ても、いくつかある、

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この中だけでも「東京堂」とつくのは3店舗ほどある、この中には、

あのマルサンを痛烈に批判していた「火星模型店」の多田さんも載っている、そして同じく模型新

聞の記事を書いていた松本猛志さんの名もある、なぜ大阪の模型店の方々が模型新聞に業界に

対する意見記事を書いていたかというと、日本模型新聞の創業地は大阪の天王寺なのである、

今でこそ日本模型新聞((株)ジートッププレス)の本社は東京に移ってしまったが、昔は大阪から

発信していたのである、 そして、プラスチックモデルも大阪が発祥地であり、何も静岡や東京が

模型の中心地ではなかったのである、そう、戦前までは「朝日科学玩具」という大阪のメーカーが

日本でも最大手の模型メーカーであったことはすでに記事にしたとおりである、

それが時代の流れとともにほとんどのものが東京に集中してしまった、

ところで、日本プラスチックスの「東京堂模型店」の濱田さんも載っている、


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                  (昭和35年1月5日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

ところが、ここでまたまた謎が、 名が貞一さんとなっている、

とにかく濱田さんの名は名簿によっていろいろと違っている、その理由もよくわからない、

まあ、調べれば調べるほどいろいろと謎が出てきて深まるばかりである。

昨日は天気もよかったので、

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昨日は天気もよく、このところペダルを漕いでいなかったので、神戸までペダルを漕いできた、

いつものように、ハーバーランドからメリケンパークまでの往復である、

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「アンパンマンミュージアム」の真向いの川崎重工ドッグ横にはデカイ船が、

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近くで撮るとカメラには収まらない、それと甲板がどのような状態なのかわからないので上空から

見てみようと思って、

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上空へ昇って見る、

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何を運ぶ船だろう、

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帰り道で、長田で見っけた、人材不足でマルサンにはいなかった金属彫刻職人を、

ここもよく通るのに今まで気が付かなかった、最近は金型関連に気を使っているので気が付い

た、何でも興味を持たないと気がつかないのだろう、


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須磨の海岸も夏も終わり平日となると、ほとんど人影はない。

マルサンの功績?

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マルサン物語等を読むといろいろな矛盾が出てきてしまう、

とても書ききれないが、その中の一つで必ず出てくるのが当時のノーチラス号の売り込みの場面

である、そう、ノーチラス号は部品がバラバラで残骸のようだといって問屋がまったく相手にしてく

れなくて売り込みに苦労したというくだりである、

そんなことはないだろう、そうだとしたら当時の木製キットはもっと部品がバラバラで残骸の塊であ

る、部品が揃っているかどうかもわからないし、ちゃんと完成させられるかもわからない、

じゃあ、木製キットは売れなかったのかというとそうではないだろう、当時は木製キットが当たり前

の時代である、プラスチックモデルは部品はライナーにくっ付いているし、揃っているかもわか

る、それに木製キットに比べて綺麗、組立も簡単、完成時の様子もわかる、

それと、当時はすでに舶来物のプラスチックモデルは発売されている、問屋も初めてプラスチック

モデルをみるわけではない、

それが、玄関払いされたというのはオカシイだろう、

よっぽど、セールス能力に欠けていたとみえる、一体どのようにセールスしていたのだろう(笑)

当時の模型新聞等を見てもそのようなことは書いてない、むしろプラスチックモデルの出現を歓迎

している、そしてプラスチックモデルの出現に脅威を感じていた、

まあ、下手な脚色をしたものである、もっとましなバレナイような脚色をすればいいものを、

そしてなによりも矛盾しているのは、そんなにプラスチックモデルの発売に不安があり売り込みに

苦労していたならば、あのような殿様商売的な条件を付けて問屋に卸すことはないはずである、

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                  (昭和33年12月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

このように、発売開始と同時にややこしい条件をつけるはずがない、

それから、当時は電話帳を片手に売り込みに歩き回ったとある、

アレッ、マルサンにも電話帳はあったらしい、それなら世間の様子もわかっていたはずだろう、

そう、電話帳片手に有能な職人も安価な機械もプラスチックに精通した技術者等も、有り余る資金

でもって引き抜きできたはずである、

ただ、一つだけマルサンの功績?がある、

そう、いち早く「プラモデル」という名称を勝手に商標登録、その名称を独占し、有り余る資金でも

って広告宣伝し、「プラモデル」という名を市場に知らしめたということだろう、(アッ、これはどこか

の模型モーターと同じような手口)

マルサン信者はこのことをもって「プラモデル」の第一号はマルサンだと言っているに過ぎない。



フジミ模型の歴史

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フジミ模型が表だってご当地の静岡で活動できなくなって久しい、

その理由は噂でしか聞いたことがないので、よくはわからない、

その理由がどうであれ、僕としては孤軍奮闘?している者に興味がある、組織から弾き出され

た?ものに魅かれるのでなぜか応援したくなってくる、もちろん、僕は今のプラモデルにはほとん

ど興味がないのでフジミ模型が今どのようなプラモデルを発売しているのか、詳しくはない、

大体が、噂での評判でしか知らない、

そのフジミ模型の歴史のことで簡単に記した記事があるのでその一部を紹介しておこう、


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     (昭和42年3月6日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

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その竹馬の友であった今井氏と共同で経営していたが、昭和28年には分離独立してフジミ模型

社を営業開始、今井氏は今井商店を営業開始したことは周知のとおりである、

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                          (昭和31年7月号 日本教材新聞)

その頃のフジミ模型社の店舗の様子、

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その頃の今井商店、

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このような木製キットを発売していた、

そして、フジミ模型がプラモ第一号として発売したのが1/550 のスケールプラモである

「戦艦長門」であった、時は昭和36年7月と模型メーカーとしては後発であった、 <続く>

それから、資料で東京堂模型の濱田さんのことで新たなことがわかった?、明日の記事にて、

濱田さんに何があったのか、

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「東京堂模型店」の濱田さんの名前が違っているということは先日の記事に書いたが、特に気に

はしなかった、

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そう、この昭和35年の新春挨拶の広告欄、貞男でなく貞一になっていた、

まあ、これはただの字体違いか印刷違いかに思っていた、が、

ひょっとしたら、この貞一さんは濱田さんのご兄弟かもしれない、というのは、

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これは、昭和36年の新春挨拶広告、これも貞一さんになっている、もうこれは貞男さんの字体間

違いではなく、貞一で正当だろう、ということはご兄弟としか考えられない、

そして、次の広告で、

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これは昭和40年の新春挨拶広告、

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        (昭和40年新年特集号 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

これは、なんと「ハツヨ」さんとなっている、おそらく奥様ではないだろうか、

濱田さんは一体どうなさったのか、

断定はできないが、考えられることはひょっとしたら、濱田貞男さんは亡くなられたのかもしれな

い、そう、昭和34年前期頃に、そうであればなんとなくつじつまが合ってくる、

自分勝手に推測してみよう、

貞男さんが亡くなられたので、ご兄弟らは仕方なく大阪化学研究所から引き揚げ河内市に工

場?を移し、ノーチラス号の金型等はブンカに売却、今度はプラモデルではなくプラ玩具を製造す

ることにした、東京にも工場を間借りして販路を図るも売れ行きはかんばしくなく、ついに資金難に

陥ってやむなく解散、

そう、主役の貞男さんが突然亡くなり、途方にくれたご兄弟らは再起をかけたがついに力尽きた、

これはあくまでも僕の推測である、

そして、「東京堂模型店」の新春挨拶広告もその昭和40年を最後に広告欄に現れない、

大阪化学研究所の内〇さんにお会いした時に、濱田さんのことでご存じのことは全部聞いてみよ

うと思っているので、あるいはそのあたりも判明するかもしれない、

早くお会いしたい。

フジミ模型のプラ第一号「戦艦長門」は、

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フジミ模型はプラスチックモデル第一号の「戦艦長門」を発売する前に組織変更を行った、

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       (昭和36年4月15日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

昭和36年4月1日付けで株式会社へと組織変更を行った、

それまでは艦船の木製キットをいろいろと発売していたが、その中でも一番注目されるものが次

のものだろう、

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          (昭和34年2月5日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

もう今では絶対に考えられないこの広告、宮内庁の許可を得たのかどうかはわからない、

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当時の販売店用ポスターにも、天皇陛下お召艦として菊のご紋もちゃんと入っている、

当時はこのようなことも簡単に許されたのだろう、


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そして、木製からプラ化へとフジミ模型が全精力を注いで開発したのが「戦艦長門」であった、

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               (昭和36年5月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

そして、昭和36年7月にプラスチックモデルの第一号として、「戦艦長門」が発売されることとな

る、
                                         
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                                                                                                      <続く>

火星人の多田さんは日本模型新聞にとっては、

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「火星模型店」の店主であった火星人の多田さんは、タダの模型店店主だったのだろうか、

いや、実はそうではない、すでに何度も記事に書いているように、日本模型新聞には毎号記事を

書いている、それも、メーカーにたいしての批判や、新製品の紹介、過去の模型の歴史、模型店

への取材、等々、多方面にわたる、まさに当時としてはまさに火星人の多田さんがいなければ

日本模型新聞は成り立たなかったと言っても過言ではない、

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    (  昭和45年5月18日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

これらも全部火星人の多田さんの記事、

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模型から玩具までの新製品の紹介記事も、

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      (昭和45年6月22日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

10年前の模型の歴史のことも、

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        (昭和45年6月8日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

模型店の取材記事も、そう、多田さんは西日本全域の模型店を担当し取材に駆け回っていた、

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そして、なんと業界人を交えての座談会のことも、

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      (昭和45年新年号 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

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司会役までも務めていたのである、もうまさに多田さんがいなければ模型新聞の発行は無理とも

いえるほどの活躍をなされている、これが毎号のことだから凄い、

本業の模型店のほうは大丈夫だったのかと心配になってくるほどである、

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ついでに、この昭和45年の新春号にはすでに東大阪の「東京堂模型店」の名前はない、

さて、以上のように日本模型新聞にとってなくてはならない火星人の多田さんはこの日本模型新

聞社とはどのような関係だったのだろうか、 実は火星人の多田さんは、  <続く>

それから、「東京堂模型店」の濱田さんは戦後すぐに模型店を開業されたことが判明した、

なぜそう言えるのか、それは16日の記事にて、

火星人は日本模型新聞社の社友だった、

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日本模型新聞に毎号記事を書き、模型業界のご意見番として言いたいことを書き、そしてマルサ

ンやマブチモーターのことを痛烈に批判した火星人こと「火星模型店」の多田さんは、日本模型新
 (まあ、僕も多田さんに習って強烈にそれ以上に批判しているがそれは事実だから仕方ない)

聞社の社友であった、社友とは今ではあまり聞かなくなったが、社員ではないが社員並みの待

遇、社員と行動を共にする仲間だったということだろう、

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        (昭和40年 新春号 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく、(株)日本プラスチックであると昭和36年の10

月にこの日本模型新聞でマルサンを痛烈に批判した多田さんのこと、

おそらく、火星人の多田さんならば日本プラスチックスの全てのことをご存じだったに違いない。

初版はプラの薬莢?パットン戦車

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火星人の多田さんが日本模型新聞で書いた記事の中で、気になる部分を見つけた、

まあ、僕が知らなかっただけのことかもしれないが、


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この昭和38年6月の記事で

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        (昭和38年6月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

この部分、昭和35年2月頃ニチモが発売したM46パットン戦車の中で、その薬莢のこと、

当初はその薬莢は真鍮ではなく、プラだったこと、これは知らなかった、

ハナから薬莢は真鍮だと思っていたが、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69889264.html

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そこで、念のために公告をみてみた、

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        (昭和35年2月5日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)


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なるほど、薬莢らしき物がライナーにくっ付いている、

しかし、未だにこのプラの薬莢は見たことがない。


フジミ模型プラモ第一号 「戦艦長門」

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フジミ模型に限らず、静岡勢のメーカーはプラモデル参入については後発であったことは先の

記事で書いたとおりである、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70521304.html

そう、元々が木工会社メーカーで木製キットに自信があり、まだまだ木製模型の時代は続くという

甘い見通しがあったのだろう、しかし、世の中の変化は速い、あまりにもプラモデルの普及が速く

これでは模型界に遅れをとってしまうと焦りを感じたのだろう、急きょプラモデルへの参入へと方

向換した形跡がみてとれる、

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       (昭和36年新春号 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

この昭和36年の挨拶文にもあるように、まだまだフジミ模型としては危機感まではいかなかった

ようである、しかし、静岡理工社のように相当なプラへの危機感を持ったメーカーもあったが、

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                 ( 昭和36年1月25日 日本模型新聞 (株)ジトッププレス監修済み)

それは、この広告を見てもよくわかる、まだフジミ模型が木製にこだわっていたことが、

しかし、時代の変化は急激で速い、木製模型にこだわっていたにもかかわらず、本音としては

木製模型の時代は終わったと感じ取っていたに違いない、

この頃にはおそらく、プラモ化へと大きく舵をきったのであろう、

そこで、木製キットの中でも一番自信のある艦船模型へのプラ化の開発にとりかかったのであろ

う、それが、「戦艦長門」であった、

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そしてついに、4月にその発売予告広告を発表、

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この広告では、プラモの全長は長門の主砲40センチ砲と同じ40センチとなっている、

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         (昭和36年4月5日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

アレッ、1/500 となっている、そう、1/500だと全長は44センチとなる、

これは後には1/550 と訂正されている、あまりにもプラモ化へと急いだものだからタダの計算違

いであった、   <続く>

「日本の模型 業界75年史」は、

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先の記事にも書いたとおり例の「日本の模型 業界75年史」http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70462245.html 

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実は、この書籍を書き上げた方は飛田さんである、

飛田さんと言っても、まあすぐにわかる方はほとんどいらっしゃらないだろう、

では、「モデルホビース商会」と言えば、ああ~、あのスロットカーの、となるかもしれない、

そう、その「モデルホビース商会」の社長さんである、

もちろん、その業務は昭和40年代後期には廃業された、 息子さんに話を伺ったところ、お父様

は、この75年史を書き上げるのをライフワークとされたいらっしゃったとのことである、

ずっと前の記事に書いているように、廃業なさる時に膨大な在庫がどうなったのかお聞きしたとこ

ろ、静岡の〇〇〇ワに全て引き取ってもらったということであった、

しかし、その膨大な在庫は静岡の七夕豪雨で流されてしまったということで何も残ってはいない、

そう、証言によるとプカプカと浮かんで流れていくのを目撃した方もいる、

ところで、そのモデルホビース商会は創業時の名前は「新教社」と言った、

もちろん、模型の製造並びに卸であった、

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                            (昭和28年3月号 日本教材新聞)

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有限会社新教社から(株)モデルホビース商会に組織変更と社名変更したのが、昭和30年9月、

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                                 (昭和30年9月号 日本教材新聞)

その頃発売したのが、この電気軽タンクという木製戦車模型であった、

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http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69092582.html  この電気軽タンクの記事

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                       (昭和32年6月号 日本教材新聞)

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                 (昭和33年3月号 日本教材新聞)



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それで話は変わって、その75年史の別冊に目をやってみると、


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この中に、昭和24年現在の模型店等のリストが載っている、

そして、その中に「東京堂模型店」が載っている、

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そう、濱田さんの「東京堂模型店」である、

おそらく、戦後すぐに濱田さんは模型店を開業なさったのであろう。

日没時の明石海峡大橋

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              ベランダからの今日の日没時の明石海峡大橋

クリスマスといえば、緑商会のサンタクロース

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この季節になると、必ず出回るのが緑商会のサンタクロースだろう、

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この組み立て説明書はとてもデカイ、

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それにしても、この転写マークは一体どこに貼れというのだろう、大きくてはみ出してどこにも貼る

ことはできない、

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目玉だけはくり抜いて貼り付けているが、

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ツリーの中に飾ってみた、


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ところで、昨日、ついに火星人を突き止めた、もう嬉しくて嬉しくて、それは19日の記事にて、

そう、「よくぞ、俺んとこまで突き止めてくれた、誰も今まで突き止めた者はいない」 と。

火星人の多田さんを突き止めた、

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ついに、火星人の多田さんを突き止めた、

「よくぞ、私のところを突き止めてくれた、今まで誰も突き止めることはできなかった、貴方が初め

てだ!!」

ちょっとしたヒントから、火星人の多田さんの居所を突き止めることができた、

そう、僕としては最後の生き証人みたいなお方である、マルサンの証人みたいな曖昧で嘘のよう

な証言者とはわけが違う、実際に当時仕入れて販売した模型店主である、そして日本模型新聞

の記事を25年間続けてこられた方である、

多田さんは自分の居所を誰かが突き止めることを、今までずっと待ってたかのようであった、

電話口なのでお顔は見えないが、喜んでおられる様子が感じ取られた、

あっと言う間に電話での1時間が過ぎてしまった、この記事は明日の記事にて、

さて、話は変わって、今度は石村さんの追跡調査をやらなければならない、

石村さんとは、登記簿上の日本プラスチックスの社長である、

以前に現地調査した時の空き家がhttp://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70865121.html

そう、今は5、6年前に引っ越されたので空き家になっている、

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だから、名前が載ってない、これでは石村さんのお孫さんの姓名がわからないので、

15年前の住宅地図で調べてみた、

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石村〇〇さんとなっている、 この方が5、6年前に引っ越された方である、

そして次が昭和34年当時の地図、

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これは、謄本上の石村〇三さん、

実は電話帳でも調べたが、その電話帳には石村〇〇郎さんが間に入っている、

つまり、石村〇三さん、石村〇〇郎さん、そして引っ越された石村〇〇さん、となるのである、

推測であるが、石村〇〇さんはお孫さんではないかとされる、

さて、引っ越された石村〇〇さん、どうやって追跡して突き止めようか。

火星人の多田さんと電話で、

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「突然の電話で申し訳ありません、自分で言うのもヘンですが、私は決して怪しい者ではありませ

ん、火星人の多田さんでしょうか?」

「 ・ ・ ・ ・ ・ はい、そうですが、」

火星人の多田さんをついに突き止めた、最後の生き証人を突き止めた、

「それにしても、一体どうやって私のところを突き止めたの?今まで誰一人として私のところまで辿

りついた人はいませんよ、貴方が初めてです!!」

「いつかはマニアみたいな方から何か接触が来るかなとは思っていましたが、今まで誰一人として

来なかった、本当に貴方が初めてです、やっと突き止めてくれましたか!」

火星人さんの驚きようは電話口でも十分に想像できた、そして、自分の存在をやっと探してくれた

のか、というような喜びみたいな火星人さんの気配が感じとれた、

「それにしても、どうやって私の居所を突き止めたのですか?」

「はい、実は、・ ・ ・ ・ ・    省略     」

どうやって突き止めたかというと、具体的に説明したら多田さんの居所がわかってしまうので省略

しておく、そう、ご本人には失礼ながらまだまだご健在であった、年齢等もふせておこう、

まあ、大体の年齢の想像はつくと思うが、

今回の教訓としては、決めつけてはいけない、思い込みはいけない、先入観もいけない、

しかし、ある程度勝手に推理して調査もしないといけないのでそのあたりが中々難しい、

そこで、多田さんとは電話でいろいろとお聞きすることができた、

差支えないところだけ書いておこう、

実は、多田さんも(株)日本プラスチックスのことについては当時もわからなかったらしい、

そう、一体その会社は布施のどこにあるのか、どのような会社なのか、まったくわからなかったら

しい、

そこで、「では、なぜ昭和36年の10月号の模型新聞の記事でマルサンを痛烈に批判し、プラモ

デルの一番手はマルサンではなく、日本プラスチックだ」 と記事に書いたのですか、と聞くと、

「火星模型店を開業したのは今から58年前です(昭和32年)、その時に入ってきたのが日本プラ

スチックスのゼロ戦と、ノーチラス号でした、当時はまだプラスチック模型がなく、プラスチック模型

とは随分と珍しい模型が入ってきたものだと感心してました、ただ、ゼロ戦が先に入ってきた

か、それともノーチラス号が先だったかは今となっては確かな記憶はありません、その後、マルサ

ンのノーチラス号が入ってきました、だから、日本プラスチックスが一番手だと断定できたのです」

「あの頃から、マルサンはとんでもない商法をやっていたのでケシカランと思っていました」

「当時は日本模型新聞社からはどのような内容で記事を書いてくれとかいう要望はありません

でした、ま、自分の好きなように記事を書いていました」

「当時も日本プラスチックスのことは何も知りませんでした、一体布施のどのあたりにあったので

すか?」 

と、聞かれたので、僕はその経緯を説明、  「ああ~、そうだったのですか、だから当時もわから

なかったのですね、しかし、それにしてもあなたは凄いですね、日本模型新聞社の者でも知らなか

ったことを60年経った今になって調べて突き止めたのですからプロ以上ですよね、」

「しかも、私が模型店を閉店した後、私に辿りついたのはあなただけです、ビックリしました」

「私が54歳の時に模型店の店を閉じました、模型新聞の記事は25年間続けました」

等々、電話で1時間ほど、

とにかく、ゼロ戦のプラモデルは未だに確認はされていないが、当時の模型店主が実際にそれを

仕入れ販売したというのだから、それもタダの模型店主ではなく日本模型新聞社の社友であった

多田さんが証言するのだから、これはもう間違いないだろう、もう、誰が何と言おうと、マルサンが

一番手だというヘンなこじつけなどは通用しないのである、

そう、日本プラスチックスのゼロ戦が一番手、次がノーチラス号、そして3番手がマルサンの動か

ないタダの貼りぼてのレベルのパクリのノーチラス号なのである、

ただ、ゼロ戦のプラスチックモデルはもう存在している可能性は極めて低い、おそらく発見される

ことは今後ともないだろう、

あと重要なこと?等々は、書けないので省略する、(来年開催予定のプラモ講座の時にでも)

意外だったのは、多田さんが日本プラスチックスのことをまったく知らなかったこと、てっきり多田さ

んは日本プラスチックスのことを知り尽くした方だとばかり推測していたが、これは見事に外れて

しまった、が、最後の生き証人としてプラスチックモデルの国内初は日本プラスチックスだったとい

うことの証言をとることができた、もちろん、年内はご本人の都合で会えないが、来年の1月くらい

にご自宅へ訪問させていただくことにした、

アッ、それと、大阪化学研究所の内〇さんとも会わなければいけない、それもおそらく1月頃に

なるだろう。
              https://www.youtube.com/watch?v=lTH83gkO5kY
それから、もう一度https://www.youtube.com/watch?v=xcWsHti7Z20 このユーチューブを。
  (まあ、いい加減なおぼろげな記憶、証言、当時他のメーカーにもひょっとしたら樹脂製品の模型
 があったかも、だと、あったかも、ではなく、あったんです!!
当時は成型機もあまりなかったらしい(笑)、成型機は沢山あったんです!!昭和32年からプラスチックモデルを開発し始めたらしいが、すでにその時には日本プラスチックスのゼロ戦、ノーチラス号は東京でも出回っているんです、こんなもの証言にもならない、このようないい加減な証言等に基づいて物語を作っている、まあ、証言者は世間のことは、まったく関心がなかったような、司会者?も人の嘘の情報の受け売りでまったく勉強不足)


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