Quantcast
Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
Viewing all 1704 articles
Browse latest View live

ピストル玩具も大阪が、

0
0
プラスチックモデルが世に普及するまで僕らはピストル玩具でよく遊んだが、その中でも銀玉鉄砲

での記憶はよく残っている、その銀玉鉄砲は昭和34年に発売されたことは先の記事にもすでに


ところで、この全国的に大流行した銀玉鉄砲も大阪のメーカーである、

今でも3代目の銀玉鉄砲を復刻して発売している、そう、セキデンである、http://www.sekiden-kk.co.jp

イメージ 1

これは初代のマジックコルト、正確に言うと、製造元セキデン、発売元筑紫屋となる、

筑紫屋は今の(株)スターコーポレーションである、http://www.star-c.co.jp/kaisyagaiyou.html

そう、何でもかんでも東京が発祥だなんて馬鹿言っちゃいけない、東大阪がプラスチックモデルの

発祥地ならこの銀玉鉄砲も大阪が発祥地である、

イメージ 15

当時のピストル玩具の製造は大阪と東京の都市に限られていた、

そして、ピストル玩具の製造は大阪の中でもやっぱり下町に限られていた、

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

そのほとんどが生野区に集中していた、

そして、プラスチックモデルだけでなく、このピストル玩具でも、

布施市(現東大阪)にも業者が集中していたのである、

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

以前の記事にも書いたとおり、まさに、東大阪は模型、玩具を生み出す要素が十分に備わってい

たのである、東京に負けないほどのプラスチック加工会社、金型会社、金属加工会社、セルロイド

加工会社、印刷会社、化学会社、等々、そう、まさに、「下町プラスチック」 である、

昔は商工業の中心地は大阪だった、西から文化は伝わった、それが東京に都が移ったものだか

ら、急速にいろいろなものが東京に集中してしまった、

例えは悪いが、味噌も糞も皆東京へ、東京へとなびいてしまった、

大阪都構想もまんざら悪くはないだろう、いいかも、

さあて、明日は火星人の多田さん以上にマルサンの批判記事を強烈に書いてみよう、

そう、多田さんに習い、題して 「マルサン信者達に告ぐ!!」 。

マルサン信者達に告ぐ!!

0
0
「火星模型店」の多田さんに代わり、今度は僕が言おう、

ずっと前から言ってきたことではあるが、ここであらためて言おう、

プラスチックモデルの国内初はマルサンではなく、(株)日本プラスチックス、である!!

東京のマルサンが初ではなく、東大阪の下町の(株)日本プラスチックスが開発したものがプラス

チックモデルの夜明けとなったのである、マルサンはその2年後である、

つまり、マルサンが日本初のプラスチックモデルである、というのは嘘である、今まで嘘をマスメデ

ィア等に垂れ流ししてきたわけである、そして今も、そう、朝日新聞と同類項である、

そして、マルサン信者が今まで言ってきたことも嘘である、それも意図的にである、事実を隠して

まで、なぜあえて僕が、マルサン信者達は嘘つきだと断定するのは、その理由はこうである、

〇 当時からマルサンが一番手ではないことは皆がわかっていたこと、

  では、マルサンが一番手ではないとわかっていながら、そうではないとなぜ誰も言わなかった

  のか、それは下手にトラブルを起こしたくないため、そう、日本人特有の「さわらぬ神に祟りな

  し」、ということである、しかし、僕はトラブルが大好き!!

〇 当時からマルサンが一番手ではないことは、他のメーカーもわかっていたこと、

  その証拠にNBK(現ブンカ)はニチモが伊号潜水艦を発売した頃に、日本プラスチックスのノ

  ーチラス号の金型を譲り受け同じノーチラス号を発売していること、つまり仮に他のメーカーは

  知らなくともNBKは日本プラスチックスのことは知っていた、なぜ、NBKなのか、これは僕の

 推測であるが、その頃、昭和33年にNBKは大阪支店を開設にあたり強力な営業活動を行って

 いた、その際にNBKと接触し、資金に困った日本プラスチックスは金型を売却したのだろう、

〇 日本プラスチックスが売り出したゼロ戦、ノーチラス号は当時市場には出回っていた、

  ゼロ戦はまだ現物も確認されてはいないが、ノーチラス号は何個も現物は確認されている、

  そのノーチラス号については当時の東京の問屋の広告等にも載っている、

  日本模型新聞の社友であった「火星模型店」店主の多田さんが「プラスチックモデルの一番手

  はマルサンではなく、日本プラスチックスである」と当時の日本模型新聞でも批判し、その多田

  さんも昭和32年の模型店開業時において、その日本プラスチックスのゼロ戦、ノーチラス号を

  大阪の松屋町で仕入れ販売したと証言している、

イメージ 1
                               (当時の火星人のアフターサービス券)
   
   マルサン信者達は日本プラスチックスのゼロ戦を実際に見た、購入した、仕入れて販売した

  等の証言を聞いたこともない、などと言っているが、ただそれは調査していないだけのこと、

  まあ、調査する能力もなかっただろうが、それよりもそのような証言が出てくると都合が悪くな

  るので無視していただけのことである、

〇 日本プラスチックスがマルサンより早くプラスチックモデルを発売したということは日本模型新
   
   聞の記事にも載っている、  

〇 すでに東京でも出回っていた日本プラスチックスのノーチラス号をマルサンが知らなかっ た

  はずがない、そう、マルサンがノーチラス号を発売する2年前には出回っているのだから、

  もし、知らなかったとすれば、それこそ世間知らずで、マルサンの会社から一歩も外に出ず、

  外の世界から遮断していたのだろう(笑)

〇 先の記事でも書いているように、マルサンの苦労話も嘘、証言も、

  何度も言うように、戦後すぐにプラスチックの製品等は現れ、機械等も、プラスチック加工会社

  も、金型業者、金属彫刻師も国内には数多く、数えきれないほど存在していたので、マルサン

  物語のような苦労話はありえない、そりゃそうだろう、それは日本プラスチックスが証明してい

  る、まったくのド素人達が一から研究開発し、機械から何から自分たちで調達して日本で初め

  てプラスチックモデルを開発したのだから、ドイツからか何か知らないが当時でも数千万円もす

  る超高級な機械があってもあのような苦労話などありえない、よっぽど、マルサンには職人が

  いなかったことを自ら証明しているようなものである、

それらのことを、マルサン信者達が知らないはずがない、そう、知っているはずである、

仮に知らなかったとすれば、それは勉強不足、ド素人の僕でも知っている、プロとして恥ずかし

いことだろう、自分の無能さを自ら証明するようなものだろう、

言えることはただ、(株)日本プラスチックスという会社の実態を知らなかっただけである、

そう、(株)日本プラスチックスは今まで誰も知らない謎の会社だったのである、

(ただし、NBKだけは知っていたことになる、金型を譲り受けているので)

つまり、だれも知らない謎の会社だったのでそれはマルサン信者達にとっては都合が良かった

のである、(ただマルサン信者にとって都合の悪いことに、今回その(株)日本プラスチックスにつ

いて全てではないが、概要が解明されてしまったが)

つまり、マルサン信者達の自分らの都合のいいように嘘で脚色して作り上げたものである、

そのような嘘で脚色した物語等をマスメディア、書籍等で垂れ流しするものだから始末に悪い、

また、それらに踊らされている方々も情けない、プラモデル50周年と騒ぎ立て、マルサンのノーチ

ラス号を日本初のプラモデルとして宣伝し復刻するのも情けない、いや、笑ってしまうしかない、

間違いなく、当時の模型業界も知っていたに違いない、知っていたにもかかわらずマルサンの太

持ちをしていたのだろう、

望むところは、マルサン信者達の反論を望む、まあないだろう、できないだろう、

できるはずがない、万が一あるとしたら喜んで受けて立とう、全て論破してあげよう、

アッ、失礼、一つだけマルサンの功績?があった、それは先の記事にも書いたように、いち早く

プラモデルという名称を勝手に商標登録して独占し、有り余る資金でもって広告宣伝し、世の中に

プラモデルという名称を知らしめ、同業者達を困らせて反発を招いたということだろう、

ま、それだけの功績は僕も認めてあげてもいいだろう、

おそらく、マルサン信者達はそれをもってプラモデルの一番手はマルサンだと言っているだけのこ

とである、まあ、本当にレベルの低いお粗末な話である、

早い話が、マルサン信者はド素人以下の低レベルであるということである。

※ マルサン信者とは、  日本初のプラモデルはマルサンのノーチラス号だと唱えている者、およ
                び、それを煽っている者

あまり売れなかったゼロ戦

0
0
今回の件でいろいろと多くの?敵を作ったような気がする(笑)、まあそれが僕の狙いでもあるが、

敵を作れば元気が出る、やる気が出てくる、そう、何と言ってもボケ防止になる、

僕の持論でもあるが、「いい人ではダメ」、よく「あの人はどんな方ですか?」と聞かれると、

「はい、とてもいい人ですよ」と答えることがある、ハッキリ言って、どうでもいい人のことである、

何の特長もない、何のとりえもない人、存在感のない人のことである、

それよりも、「あいつは悪だ、嫌いだ」と言われたほうがましである、そう、嫌われるだけ存在感が

あるということである、組織の中ではそれが顕著に表れる、好かれるか、嫌われるか、のどちらか

に当てはまる人間になったほうがいい、好きか嫌いかは人の好みの問題である、間違っても「とて

もいい人」になってはいけない、そう、八方美人になってはいけない、それは政治の世界でも同じ

だろう、とてもいい総理大臣で何かを残した総理大臣は特に記憶がない、左翼に叩かれマスゴミ

に偏向報道され嫌われた総理大臣ほどいい仕事を残している、それは過去の歴史が証明してい

る、またまた余計なことを言ってしまったが、話を日本プラスチックスの戻そう、

多田さんの証言によると、

日本プラスチックスのゼロ戦はあまり売れなかったそうだ、もちろん箱入りのキットであった、

しかし、出来が悪かったそうで、それとまだまだプラスチック模型というものに馴染みがなく、

そもそも今のように情報網等も発達してなく、その存在でさえ知らないので店頭で売り込むしか方

法はなかった、(おそらく資金面で少年雑誌等での広告等もうてなかったのだろう)

日を追うごとに、徐々に売れてはきたが、まあそんなに大したことはなかったらしい、

ノーチラス号については、そこそこに売れた、やっぱり何と言っても後に発売されたニチモの伊号

潜水艦の売れ行きはかなり良かったらしく、マルサンのノーチラス号の売れ行きは大したことはな

かったらしい、

日本模型新聞の創業者の田村社長とは元々知り合いでも何でもなく、多田さんがある時に記事

の投稿をしたところ、それが認められ毎号のように記事を書くようになったとのことである、

多田さんの記憶は正確である、僕が当時のことを聞いてもピッタリと僕の知識と合致する、

マルサンの生き証人とは全然違う、 まあ比べるのが失礼ということだろう、

ここでは書けない面白いこともいろいろとあるが、それは、ヒ・ミ・ツ、

それから、もう一つプロの模型歴史研究家?達に言っておこう、

このような証言は、もっと早くからとれたはずである、もう10年早ければもっと模型店主等の証言

者はいたはずである、今となってはそのほとんどはこの世にはいらっしゃらない、

もう20年早ければ、それこそ完璧なまでにいろいろな証言がとれたはずである、それをなぜやら

なかったのだろう、そのようなことをやったのか、やらなかったのか、よくは知らないが、昭和50年

代にはすでにプラスチックスモデルの一番手はマルサンだという説が定着していた、

当初から「マルサンありき」という意図的、悪意的、なものを感じてならない、まったく、朝日新聞と

同じ穴のむじな、である、

そして模型メーカー業界もそれに踊らされて同類項である、

なぜ意図的、悪意的なプラスチックモデルの嘘の物語を作ることができたのか、その最大の理由

は、日本プラスチックスがあまりにも早い時期にプラスチックモデルを開発し、あまりにも早く消滅

したからである、そう、悪い言い方をするとしたら、まさに「死人に口なし」を利用したに過ぎない。




日本プラスチックスの苦労話のほうが、

0
0
一応念のために、多田さんの証言をとるためにとった注意点の補足説明をしておこう、

つまり、証言の確実性をとるためにどうやって話をもっていったかということである、

一言で言うと、誘導尋問にならないようにということである、多田さんの記憶を混乱させないように

ということである、 例えば何色だったか尋ねる時に、「その時は何色でしたか?」と尋ねるのと、

「その時は、赤色でしたよね」と尋ねるのとでは随分と違ってくる、そう記憶を混乱させてしまう、

「そういえば、赤色だったかな」と、なってしまう、

そこで、先の記事でも書いているように、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70895313.html

僕のほうからは、ゼロ戦、ノーチラス号、の名称などは口に出してはいない、

あくまでも、日本プラスチックスのことしか僕は口に出していない、

多田さんのほうから、ゼロ戦とノーチラス号を問屋から仕入れて発売した、ということを引き出した

ものである、

もちろん、当時の予告発売広告には、ゼロ戦とムスタングP51の両方のことが載っているので、

当然ムスタングのことも気になっていたが、あえて僕はムスタングのことは一切口に出さなかっ

た、多田さんもムスタングのことは口には出さなかった、当時仕入れていれば必ずムスタングのこ

とも記憶に残っていることだろう、仮に僕が、「ムスタングも仕入れたでしょう」とか、

「ムスタングもあったはずですが」とか言うと、多田さんの記憶が混乱して「う~ん、そう言われる

と」とかなる可能性もあるので、あえて、ムスタングのことは一言も出さなかったということである、

繰り返すが、証言の確実性を期するためである、

あくまでも僕の推測であるが、ムスタングは発売されなかった可能性が高いと言えるだろう、

ま、今度多田さんにお会いした時に、そのあたりを誘導尋問みたいにならないよう、確認してみた

いと思っている、

先の記事で紹介している、あのユーチューブのマルサンの証人の証言を引き出す話法はまったく

話にならない、最初から証言者に具体的な情報を与えて証言を得ようなど、話法のイロハのイも

知らない方のようで、僕に言わせれば誘導尋問でそれこそヤラセみたいなものだろう、

あらかじめ、打ち合わせして撮ったのだろうから、それでもアレだからどうしようもない、

それと、あのようなお粗末で嘘で脚色されたマルサンの書籍なども読む気にもならない、

ま、怖い物見たさに一応は読んでみたが(笑)、

まあ、笑ってしまうような苦労話等、それをマスメディア等で垂れ流しするものだから、本当に迷惑

な話である、それに踊らされてプラモデル50周年と称してノーチラス号の復刻版を発売するのも

情けない話である、(再度繰り返す) ま、懐を深くもって購入して下さいませ、「ですって」

まあ、そんなことよりも僕らが知りたいのは日本プラスチックスのことである、

そう、マルサンの嘘で脚色された苦労話よりも、日本プラスチックスの真の苦労話である、

本当にこれは興味がある、

金もない、技術もない、タダのド素人の模型店主ら、つまりド素人集団がどのようにして研究開発

していったのか、どのようにして機械類を調達したのか、苦労したに違いない、

想像するだけでも興味が湧く話ではないだろうか、「下町ロケット」ではなく、「下町プラモ物語」

である、しかし、当時直接関わった方々はおそらくもうこの世にはいない、

これが大メーカーであったとすれば世の中に大きく知れ渡ったことであろうが、マルサンのように

資金もなく宣伝することもできなかったのだろう、知れ渡ることなく歴史の片隅に消えてしまった、

「東京堂模型店」の濱田さんらは一体どのような夢を抱いていたのだろう、

登記簿謄本には「合成樹脂製品製造販売並びに輸出」とあるので、あるいは海外にまで広げたい

という夢があったのかもしれない、

しかし、その夢も途中で消え去った、その理由は一体なんだったのだろうか、

考えられることは先の記事にも書いたとおり、突然の死、資金難、だろう、

資金難については、NBKがすぐにノーチラス号を発売しているので金型を売却したことでもわか

る、他のことについては謎のままとなっている、

なんとか濱田さんの人物像、痕跡を探し出したいとは思っているが。

それと、実は一昨日再び多田さんのところへ電話をかけた、もちろん、当時のことやら、いやもっと

重要なこと、それらのことは予定しているプラモ講座の時にでも。

イメージ 1

それから、マルサンがプラモデル第一号ということはこの「日本プラモデル50年史」に詳しく載っ

ているのでご参考までに、懐を深くもって購入して下さいませ。

もう一つついでに、いろいろとネットで検索して調べていると、時には驚くようなニュース記事に出会

うことがある、ニチモがプラモデル部門を廃業したのは去年のこと、廃業した直接の原因ではないと

思うがビックリするような記事を見つけた、ここではちょっと書けません、誰も知らないだろうな~、そ

れもプラモ講座の時に。




NBKの社史にも記載されてない、

0
0
何度も載せている社史で、日本文化教材の社史がある、

イメージ 1

この社史の記事をブログへ載せるための承諾はとってない、だから無断で載せている、

実は、このブンカの社史の記事をブログへ掲載するために7年ほど前、ブンカの本社の広報担当

のお方に承諾を得るために電話をかけた、その回答は、「社史というものは当社にはありません

、」と、 「いえいえ、そんなことはないでしょう、私が現に所有していますので」

「社史はありませんので、掲載の承諾等もしようがありません」

もう、どうしようもないので、「はい、わかりました」と電話をきったことがある、

日本文化教材のプラスチックモデルの第一号はノーチラス号であった、

そう、日本プラスチックスのノーチラス号の金型で製造し、組み立て説明図も同じもので、ただ箱

絵が違ったNBKブランドとして発売したものであった、時は昭和34年2月から4月の発売である、

イメージ 2

イメージ 3

しかし、その記念すべき?プラスチックモデル第一号の発売のことについては、この社史の中でも

一切触れられていない、ただ、年表のようにマルサンのノーチラス号と、ニチモの伊号潜水艦のこ

とだけである、普通に考えて、例え他社の金型を使用したとはいえ、自社が参入したプラスチック

モデル第一号である、記念すべきことだと思うが、なぜ記載されていないのだろうか、

まるで、日本プラスチックスの存在をあえて打ち消したような、僕の気のせいか、

なお、この社史は平成6年の発行である。

そうそう、マルサン信者達もそのNBKのノーチラス号の件についてはまったく触れていない、

知っているのか、知らないのか、まあ、知ってても隠しとおしているのだろう、

そう、「マルサン伝説」が根底から崩れるからである。

今年も買った!!

0
0


イメージ 1

今年も買った!! 年末ジャンボ宝くじ、 札束入れるカバンも用意した。

メリケンパークでの白バイ隊の訓練

0
0
22日に自転車で神戸メリケンパークまで行った時、兵庫県警の白バイ隊が訓練を行っていた、

イメージ 2


イメージ 1

見物人もほとんどなく、報道陣も一人もいない、たまたま偶然に見物できた、

その一部を動画に撮ったのでどうぞ。(サイレンが鳴るので会社のオフィスで観る方は注意)


久しぶりに飛行船を、

0
0

イメージ 1

昨日は久しぶりに飛行船を目撃した、もう、何年ぶりになるだろうか、


イメージ 3

明石海峡大橋の真上を通過、

イメージ 2

イメージ 4

これは毎度お馴染みの、我が家の飛行船。

フジミ模型 プラモ第一号「戦艦長門」

0
0
http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/folder/1864868.html の続き、

かくして、フジミ模型のプラモ第一号として、「戦艦長門」は昭和36年6月頃発売された、

イメージ 1

イメージ 2

戦艦は数多くあるけれど、なぜその中でも「戦艦長門」だったのか、

それは、戦艦といえば「戦艦大和」、「戦艦武蔵」ということで他社からも数多く発売されており、あ

えて競合を避けたのかもしれない、そして戦前戦中は戦艦といえばその「長門」が親しまれており

あえてそれも狙ったのかもしれない、

それにしても、フジミ模型としては初めてのプラモ化である、木製キットとは違いより精密な資料と

なる図面等が必要であった、

当時、木製艦船模型で有名な静岡理工社という模型メーカーがあった、そこでは艦船モデルの精

密な図面を数多く揃えていた、メーカーはそのような図面をお互いに融通しあった形跡が見受け

られる、フジミ模型も「戦艦長門」のプラモ化にあたり、静岡理工社の図面を基にした形跡が見受

けられる、

イメージ 3
          (千葉県Nさん提供 静岡理工社1/200 戦艦長門 木製キット図面)


イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

その静岡理工社の1/200 木製キット図面と比べたら明らかにそれを基にしていることがわかる

だろう、1/200といえば超大型模型キットである、僕もその現物模型は見たことがない、

さて、そのフジミの戦艦長門を組み立て始めると最初からつまづいてしまう、  <続く>

追跡調査するキッカケは、

0
0
20年ほど前、まだ僕が昭和のプラモデルに興味を持ち始めてまもない頃、日本初のプラスチック

モデルはマルサンのノーチラス号だと思っていた、そう、どの書籍を読んでもマルサンのノーチラ

ス号だ、マルサンだと書かれていた、そして和工のダットサンだの、どうだのと言われていた、

しかし、その後いろいろな資料等を読んでいくうちに、それが何か怪しいことに気が付いた、

そう、(株)日本プラスチックスの存在であった、しかし、書籍に書かれた説では「ゼロ戦、ムスタン

グP51の発売予告は載っているが、実際に発売された証拠がない」云々と、あくまでもマルサン

が一番手であることを言っていた、しかし、日本模型新聞では、僕の記事にも書いているように、

日本プラスチックスはマルサンの前にゴム動力のノーチラス号を発売していることをちゃんと

記事に載せている、(なぜか、日本プラスチックスとはメーカーを記載せずに大阪の某メーカーと

しているが)、だから、例えゼロ戦の現物は確認できなくても、日本プラスチックスがマルサンの前

にプラスチックスモデルを発売したのは明白な事実であった、しかも、その日本プラスチックスの

ノーチラス号の現物は何個も確認されている、そして問屋を通じて東京でも販売されていたことも

確認されていた、それでも、なお今までマルサンが一番手であると嘘の定説を垂れ流してきたわ

けである、そう、何度も繰り返してあげるが、嘘で脚色した伝説を作り上げて、

これも何度も繰り返すが、それは(株)日本プラスチックスの実態がまったく掴むことができず不明

のままで謎の会社であったからである、

僕も、(株)日本プラスチックスのことはおそらく永久に謎のままで終わり、マルサンが一番手だと

いう嘘の定説も永久に語り続けられるだろうと思っていた、

つまり、誰もプロの研究家達も調べてもわからないのだから、もう絶対にわかるはずがないと思い

込んでいた、ましてやド素人の僕が調べても絶対にわかるはずがないと、

ところがある日、あるお方から僕に依頼?があった、

「日本プラスチックスのことを調べて日本プラスチックスがプラスチックモデルの一番手であること

証明してほしいと、」そこには登記簿謄本に記載されていた会社の住所と社長等の名前が記さ

れていた、その時は本心としては僕には無理、無理、と思っていた、調査するにはあまりにも資料

が少ない、しかし、何か他に資料等が見つかればなんとか調べてみようと思っていた、

それから1年以上が過ぎただろう、

今年の10月に静岡のあるお方から次の資料を提供していただいたのである、

イメージ 2

昭和34年の業者名簿と36年の名簿である、実は記事でも書いているように、日本プラスチックス

の東京支店の住所と電話番号が載っていた、

イメージ 1

そして、この当時の東大阪の要覧名簿を「あうとぱあんさん」から提供いただいた、

この3つの情報が追跡調査の基礎となり推理ができたのである、

この3つの情報のうち一つでも欠けていたら秘密工場であった大阪化学研究所も特定することは

できなかっただろう、本当にご協力いただき厚くお礼を申し上げたい、

まだまだ日本プラスチックスの謎は解明できてはいない、一番肝心な濱田さんのことと何故消滅し

てしまったのか、どのように開発していったのか等々、解明することは数多い、

ただ、何度も言うように直接関わった方々はもうこの世にはいらっしゃらない、

完全に解明することは今となっては不可能だろう、60年も過ぎてしまったのだから、

しかし、来年も引き続き(株)日本プラスチックスの謎を追っていく、まだまだ終わらない。

今日でブログ納め、

0
0
今年もあと3日、とりあえずは今日で官公庁にならってブログ納めとしたい、

新年は4日からブログ始めとしたい、

今年はいろいろと新発見があった、来年もおそらくいろんな面で新発見があることだろう、

そして、忙しくなるだろう、

人は歳とると丸くなると言われているが、僕の場合はなぜか歳をとるごとに角が立ち攻撃的になっ

ていく(笑)、僕の場合は、それが元気の素でパワーの源泉となっている、人とは逆の道を行くの

がとっても好きなのである、

まあ、今回のマルサンの件でも業界関係者をはじめそれらの太鼓持ちの方々の反発等を招

、多くの敵を作ってしまったようで、すでにその兆候は表れてきている、

それはそれで僕は非常に嬉しくて元気が出てきてしまう、望むところである、

今までの嘘を明らかにし、事実を語っただけのことであり、文句があるなら反論したらいいだけの

ことである、そう、文句があるなら堂々と勝負してきたらいい、ただし、全て論破してあげよう、

それから、僕のブログの文体は上から目線で断定的な表現となっている、

実は、そのような文体が書きやすい、「 ・ ・ ・ ・ です、」 「 ・ ・ ・ ・ だと思います」

「 ・ ・ ・ ・ ではないでしょうか」  「 ・ ・ ・ ・ へ行ってきました」等々、のような敬語等は

使いにくい、いや実に使いにくい、

それは会社の組織の中でもそうだろう、自分の意見を通すためには上から目線で断定的で命令

口調で表現しなければ通用しない、そう、それが例え自分の上司であっても、本部へ決済等を仰

ぐ場合などはなおさらのことだろう、その影響もあって僕の場合は上から目線で断定的な表現とな

っている、それと言うまでもなく最近は攻撃的、挑戦的、がプラスされている、

それが気に入らなければ見なければいいし、気に入った方だけ見ていただいたら僕は満足、

つまり、自己満足の世界に浸っているだけのことである、

そして思想的には、いや考え方は実に中立的(笑)なので、左翼が嫌い、そのせいか随分と左翼

系のプラモ好きの方々の訪問がなくなってきた、実に好ましい、

そう、中立的な考えの方々、いや、まともな常識的な考えの方々だけに見ていただいたらそれで

僕は嬉しい、

来年も引き続き日本プラスチックスの謎に迫っていく、もう少し解明できるだろう、

最後に、今年も毎日楽しみ?にして読んでいただいた方々、

「来年もどうぞよろしくお願いしま~す。」 いや、「来年もよろしくお願いしたい!」 、

                                                   以上。

電話がつながらない、どうしたんだ!!

0
0
電話がつながらない、一体どうしたんだ!!

そう、火星人の多田さんに電話したがまったくつながらない、

実は28日から昨日まで3日間、多田さんに電話しても「ツー、ツーッ」と話し中の音で、繋がらな

い何度電話しても同じ、 考えられることはまず受話器の外れ、ただ何日間も受話器が外れたま

まというのもヘン、受話器が外れているのかどうかは照会できるらしいが、倒れていたらどうしよう

もない、最悪のケースとして、どこかへ電話しようとして、受話器を持ったまま倒れているのかも、

何と言っても多田さんはまもなく90歳、失礼ながら、何が起こってもおかしくない、

そこで、僕が出動することにした、いずれ会わなければならないお方である、

そして、何と言っても僕は「安否確認」の専門家?であった、(そう、4年前までは)

数多くの「安否確認」を行ってきた、数多くの倒れている方々を発見してきた、

まさか、ここでその技?が役に立つとは、

多田さんに今あの世に逝ってもらっては僕も困る、まだ聞きたいこともある、

片道2時間、 はたして、その結末は、 4日の記事にて <続く>

謹賀新年

0
0
イメージ 1

今年も(株)日本プラスチックスの謎に迫ります!!

今年は、プラスチックモデルが開発発売されてから60周年、

そう、日本プラスチックス60周年の年である、

そうそう、 2年後の60周年はどうするのだろう、やるのかな(笑)

嘘で脚色されたマルサン伝説を子供、孫の代まで伝えさせてはならない!(安倍総理の言葉の一

部引用)

マルサン信者、及びその太鼓持ちらに葬られてしまった、真の日本プラスチックス伝説を伝えるべ

きである、   プラスチックモデルの発祥地は東京ではなく、東大阪の下町であることを伝えなけ

ればならない、嘘でガチガチに固められたマルサン伝説を打ち砕いて、本当の真実のことを明か

さなければならない、そうでなければ東京堂模型店の濱田さんらも浮かばれないだろう、さて、ど

うやってマスメディアで流すか検討中!!

ブログ始めは4日から。

安否確認 出動!!

0
0
12月30日朝の8時30分頃、 「あーッ、まだ話し中になっている」

実は28日から3日間電話をかけ続けているが、ずうっと話し中の「ツーッ、ツーッ」音である、

故障なのか、それとも、

おそらく、受話器が外れているのだろう、そう、火星人の多田さん宅の電話である、

ただ受話器が外れて多田さんが気が付いてないだけならいい、問題はなぜ外れたままなのか、

最悪の場合、多田さんがどこかへ電話しようとして受話器を持ったまま倒れているのかもしれな

い、NTTに照会して受話器が外れているのかどうかわかるらしいが、仮に外れているのがわかっ

ても多田さんが倒れていたらどうしようもない、多田さんはまもなく90歳、その可能性は十分にあ

る、 もうこうなったら多田さんちへ行くしかない、出動するしかない、

何と言っても、僕は「安否確認」の専門家?であった、(4年前までは)

数多くの「安否確認」を行ってきた、数多くの倒れている方々を発見してきた、

多田さんに今あの世に逝っていかれたら僕も困る、まだまだお聞きたいこともある、

いずれ多田さんにはお会いしなければいけない、

そこで、30日に出動したのである、明石を出たのが9時頃であった、片道2時間なのでそう遠くは

ない、住所はすでに調査済みなのでわかっている、あらかじめストリートビューで建物の外観等も

調べてあるのですぐにわかるだろう、

最寄りの駅から多田さんちまでは10分、ストリートビューで調べてあったのですぐにわかった、

ただ実際に多田さんがそこに住んでいらっしゃるかどうかはわからない、

建物の中に入って郵便ポストを見てみる、アッター、多田さんのポストがあった、

ここに住んでいらっしゃるのは間違いない、ただ管理事務所が休み、

そこで、多田さんの郵便ポストの中を覗いてみた、そう、郵便物やチラシが溜まっていないか、

覗いてみると、おお~、ポストの中は何も入ってない、数日間も連絡がとれなかったけれど、

ポストの中がスッカラカンとは、このような場合、まず倒れていることはない、

とりあえずは一安心、エレベーターに乗って多田さんの4階へ、

あった、多田さんの表札が、インターホンを鳴らしてみた、

すると、インターホンから、「どちらさんですか?」 との応答が、

僕はすかさず、「多田さん生きてましたか!!」     <続く>







火星人もムスタングは見たことない、

0
0

「多田さん、生きてましたか!!、実は電話が数日間繋がらなかったので倒れていないか心配に

なってやってきました!! 明石の〇〇ですよ!!」

「う~ん、突然やってくるなんて、アンタも強引な人やな」

「そりゃそうですよ、多田さんに今あの世に逝かれたのでは私も困りますからね」

玄関扉が開き、「アンタに今言われて受話器をみたら外れてたわ」「明石から大変だったね」

多田さんはまだまだピンピンしていた、 ここからは差支えない部分だけ書いておこう、

多田さんに新たに聞いてみた、

「昭和32年、模型店開業の時にゼロ戦とノーチラス号を仕入れて発売したとのことですが、その

時にP51ムスタングは仕入れませんでしたか?」

「いや、ムスタングは見たことない」 「ゼロ戦が先だったか、ノーチラス号が先だったか今となって

は確かな記憶はないが、開店の際に問屋から仕入れて販売した、」

「ゼロ戦はあまり売れなかった、ノーチラス号も売れ行きはよくなかった、何と言ってもその後発売

されたニチモの伊号潜水艦は物凄くよく売れた」

「マルサンのノーチラス号の売れ行きのことについてはあまり記憶に残ってない」

「当時の業界は日本プラスチックスのことは知っていたのですか?」

「それは知っていたはず、何と言っても問屋から模型店は仕入れているのだから、すくなくとも問

屋は知らないはずがない、だからその後マルサンがプラモデルを持ち込んでも別にそのノーチラ

ス号は目新しいことでもないはず、だってすでに外国製のプラモデルは取り扱っていたわけだか

らプラモデルを初めて見るわけでもない、問屋が初めてプラスチックモデルを見たかのように残骸

のようだとマルサンを門前払いするなどありえない話でまったくの嘘」

「そうですよね~、もうすこしましな嘘で脚色すればよかったんですよね~(笑)」

「ただ、私は日本プラスチックスの会社の具体的なことは知らなかった」 等々、話は尽きない、

日本模型新聞を見つけたので、「おお~、日本模型新聞をいまだにとっているのですね」

「いや、別にとっているわけではなく、未だに送ってくれてね~」

「ああ~、そうですよね、何と言っても多田さんは社友でしたからね」

1時間超ほど話し込んで、また一か月後くらいに訪問することを告げて多田さん宅を後にした、

そう、何と言っても多田さんは90歳なのだから、そして僕には他にも目的があるので。

※ ゼロ戦の証言は数件確認されているが、ムスタングについては多田さんも見たことない、他
   の証言もまったくないところから発売されなかった可能性が高い。


東京AFVの会で受賞

0
0


イメージ 1

12月に開催された「東京AFVの会」にてエルエスの幻の試作品戦車模型「5式戦車」は見事に

懐かし部門で2位に入賞!!http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70760179.html

いや、僕は直接は東京に行ってはいない、影の代理人に依頼してあったので、聞くところによると

入賞したらしい、

それから一応念のために、

僕はクラブ、同好会等には一切入ってはいない、また入会を勧誘されたこともない、

そう、その業界スジからは要注意人物とリストアップされているので(笑)、勧誘されるはずがない

第一、入会しようなどと思ったこともない、

なぜなら、自由に自分勝手に細々と模型で遊びたいからで、ヘンに気を使いたくないからである、

中には、かなり高級な模型クラブもあるらしく、僕なんかそれこそ入会審査で落とされてしまうだろ

う、そう、学なし、金なし、品なし、ないないずくし、「分をわきまえろ!!」と言われてしまう、

そんなクラブでよくも自由に楽しく遊べるものかと、オベンチャラ言って媚びるのも大変だろう、僕

はとても耐えられないだろう、気を使い過ぎてそれこそ気の弱い僕などはノイローゼになってしま

うだろう、

まあ、その他大勢の雑魚は自分一人でチマチマと自分の思い通りに遊んだほうがいい、

そして、誰にも媚びることなく言いたいことを堂々とハッキリ言ったらいい、

ところが、皆僕のように気が弱いのかハッキリと物が言えないらしい、

おそらく、祟り?みたいなことを恐れているのだろうが、そんな祟り大したことない、

仕事で気を使い、家庭内で気を使い、趣味の世界でも気を使い、

せいぜい趣味の世界だけは自由に楽しんだらいいのに。


戦後初の走る戦車模型キットは、

0
0
戦後初の走る戦車模型キットは何だろう、

イメージ 1

イメージ 2
                  (昭和29年2月号 日本教材新聞)

手持ちの資料で確認している限りでは、この(株)英工社の木製戦車キットである、

もちろんこの現物は持ってない、見たこともない、そして、この(株)英工社という会社のこともまっ

たくわかっていない、

ん、ん、ん、しかし、この戦車のデザインは後に発売された某戦車模型に似ているなあ~、

いや、気のせいだろう、

それから日本プラスチックスの件、マスメディアに流すために第一段階の行動を開始することにし

た、その方法は? 業界スジは絶対にのってこないので、いい方法がある、まだまだヒ、ミ、ツ、

明日は、その某所へ。


濱田さん兄弟はまだ若かった、

0
0
東京堂模型店の濱田さん兄弟ら5、6人が大阪化学研究所の内田さんの技術指導を受けながら

プラスチックモデルの開発をしていたことはすでに記事に書いているとおりである、

ところで、その当時、濱田さん兄弟の年齢は何歳くらいだったのだろうか、とっくにもうこの世のお

方ではないと思っていたので内田さんにお聞きしていなかった、

そこで昨日、内田さん(当時技術指導をしていた祖父のお孫さん、当時15歳ごろ)に電話をして当

時の記憶が残ってないかお聞きしてみた、

当時、濱田さん兄弟は若かったらしく、弟さんは30歳そこそこで独身、大阪弁丸出しだったらし

い、お兄さんは何歳か上で30歳代だったという、

ん、ん、僕の予想とは随分と違っていた、まだご健在の可能性はある、そう、火星人の多田さんと

同じ年代である、ということは仮に子供さんがいたとしたらちょうど僕の年代となる、

これはなんとかして突き止めなければならない、

今日は、某所へ行くことになっている。

昨日は某所へ、

0
0
第一段階として冒頭にあるように、マルサン伝説等に関して過激?な批判を行ってきたが、今まで

のところ一つもそれに関して反論は何もない、まあ、できるわけはないが、

おそらく、マルサン信者及び業界関係者等もこのブログを読んでいるはずである、まあ、沈黙を続

けるしかないだろう、沈黙を続けられると余計に、いやもっと強烈に反応したくなる、

そこで、次は第二段階である、

昨日は某所へ、

そのスケジュール内容等は、まだまだ、ヒ、ミ、ツ、

僕の目的はマルサン伝説を完璧に打ち砕くこと、そして、プラスチックモデルの発祥地は東大阪で

あるということを知らしめることである。

電気トラクターの組立

0
0
さあて、今年最初の模型組み立てとなる、

イメージ 1

MHSのロゴマーク、これは「モデルホビース商会」のマークである、木製キットのトラクター、

昭和30年頃の製品なので、まあ、今となっては組み立てる方もまづいないだろう、

ビニールパックしてあるので中身は見たことない、

はたしてゴムキャタピラは大丈夫なのだろうか、開封してみると、

イメージ 2

ゴムキャタピラは癖がついてちゃんとワッパにならない、

開封してしまったので仕方ない、組み立ててみよう、  <続く>
Viewing all 1704 articles
Browse latest View live




Latest Images