Quantcast
Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
Viewing all 1704 articles
Browse latest View live

聞き込みに入ると、

$
0
0
「大阪化学研究所」のビルは今もあったが、もうそこには誰も住んではいない、空きビルであった、

関係者もご家族も誰も近隣にも住んではいなかった、

さあ、どこへ行かれたのだろうか、そこで刑事もどきに聞き込みに入ったのである、

本来なら、話を面白可笑しくするために、いかに苦労して汗ダラダラ流して何軒も何軒も聞き込み

したかのように脚色したいところであるが、そう、何かの物語のようにしたいところであるが、そん

なことしても仕方ない、そんな無駄な文章は書きたくない、

その聞き込みは簡単であった、聞き込み開始、一軒目で当たりであった、

ただ単にやみくもに聞き込みしても無駄なこと、

そう、あらかじめ昭和34年当時の住宅地図と、現在の地図で見当をつけていた、

当時「〇〇〇械」という店があり、今もその「〇〇〇械」というのがあるので、そこへまず聞き込み

に入ったのであった、

「ちょっとお尋ねしたいのですが、昔、あそこに「大阪化学研究所」という会社があったはずなので

すが今はどのようになっているかおわかりになりますか」

すると、店主の方は待ってましたと言わんばかりに、

「あ~、あの大阪化学研究所ね、実はね、 ・ ・ ・ ・ ・ ・  」
                                          <続く>
                                    テレビと同じで毎回引き延ばしてゴメン

最後の生き証人とも言える方を、

$
0
0
「あ~、あの大阪化学研究所ね、10年位前にビル等は全部売却して東京に引っ越して行きました

よ、実はね、その息子さんと私は同級生だったんです、私は昭和16年生まれですが、彼は15年

生まれですよ、」

「エッ、そうでしたか、それでその連絡先等はわかりませんか、」

「う~ん、それはわかりませんね、ただ勤めていた会社に聞けばわかると思いますよ」

「エッ、そうですか、どこにお勤めでしたか」

「彼はね、〇〇〇に勤めていて、かなり上の地位までいきましたよ、」

「名前は内〇〇〇〇チで、名前の字体はよく覚えていません」

今回の僕の目的を話すと、

「ああ~、そういえば、誰だったかは知りませんでしたが、頻繁に誰か出入りしてた記憶はありま

す、」  「彼のお父さんは隣の〇〇化学に勤めていました」

ここで推測できることは、その頻繁に出入りしていた人とはおそらく、濱田さんだったのだろう、

そして、お父さんは合成樹脂関連の専門家だったということが推測できる、つまり「大阪化学研究

所」を若くして立ち上げ、その後その腕を買われ隣の〇〇化学にも勤務することになったのだろ

う、なぜなら、「大阪化学研究所」の謄本を見ると設立は昭和3年になっているからである、

そして、息子さんはそのお父さんの影響を受けて〇〇〇へ、

まさにその息子さんはその頃高校生である、当時の大阪化学研究所のことを鮮明に記憶されて

いらっしゃることだろう、

そこで、名前の字体は不明であるが、ネットで検索して調べてみたのである、

その結果、該当する方をついに突き止めることができた、

そう、誰でも知っている化学会社の〇〇〇、最終的な地位は〇〇〇〇〇技術部長、

ただそれは2,000年当時のデータ、今は退職されて75歳、まさに合成樹脂等に関しては専門

家中のエキスパート、いろんな学会等でも昔の古い資料等も提供されている様子であった、

そう、当時の合成樹脂の草創記の製造設備の設計図なども提供されている、

そこで、早速勤務されていたその〇〇〇に問い合わせたのであった、  

                                                <続く>

最大の壁にぶち当たる、

$
0
0
これまでで最大の壁にぶち当たってしまった、その内〇〇〇さんの居所が掴めない、

前頁からの続きの前に、今の状況を、前回同様、捜査に行き詰まったら現場に戻れということで

再び今日、現場に行ってみるつもりである、ひょっとしたらまた新しい何かが捕まえられるかもしれ

ない、そして今度は他の謄本をとってみようと思っている、

それでは、前頁からの続きを、

早速、退職されたその〇〇〇会社の大阪を管轄する大阪事務所に電話にて問い合わせてみた、

当然のことながら個人情報保護の観点からそんなこと教えてくれるはずはないと思うが、

15年ほど前の役職が〇〇〇〇技術部長で生まれが昭和15年、名前は内〇〇〇さん、

そして、11年ほど前が国〇〇主〇〇〇員、その当たりでご退職だろう、

もちろん、僕の目的は明確に伝えた、

僕の長い話を聞いた担当の女性の方は、「それでは、調べるのに時間もかかりますので後日また

ご連絡差し上げます」 と仰ったので、少しは期待していたが、

3日後、連絡があった、

そう、担当の女性の上司の男性の方からである、

結果は、何分古い話なのでいろいろと調べたがわからなかったと、

「普通であれば、どのような会社でも退職者名簿、OB会名簿等があるはずですが、それもないの

ですか」 と、嫌味を言ってあげた、

「はい、退職者名簿等は整備してません」 だと、

これは、もう何言っても無駄なことと、諦めた、(実はその会社もちゃんと〇〇会というOB会はあ

る)

退職者名簿、OB会名簿がないという会社は聞いたことがない、

過去の社員のことは、しかも部長までされた方のことも一切わからないらしい、

そのようなややこしいことは言わずに、ハッキリと「退職者等の情報は教えることはできません」

と言えば簡単明瞭なのに、そう言わないところに他に原因があるのだろう、余計に勘ぐってしまう、

嫌がらせ?に、今度は東京本社の広報室に電話をしてみた、

今度も、調べて後日連絡を差し上げます、とのこと、

さて、今度はどのような理由で断ってくるか楽しみである、   

しかし、それにしても困った、只今いろいろと他の手段を考えている、

それは、東京本社からの回答を待ってからのことである、  

と待っていたら3日後の昨日、東京本社から連絡の電話が入った、    <続く>




急展開、ついに突き止めた、

$
0
0
まづは緊急報告!! 大阪化学研究所の内〇さんとついに連絡がとれた、

僕の推理は大体当たっていたが、すこし外れたものもある、そう、意外な事実が?

そこで、前頁からの続きを、

〇〇〇東京本社から電話が入った、まあ、ほとんど期待はしていなかったが、

「模型など扱ったことないそうです、人違いのようですよ」 との回答だったので、

「それで、ちゃんと東大阪の大阪化学研究所ということを伝えてくれましたか」 と突っ込むと、

何か歯切れの悪い物の言いようで、おそらくちゃんと伝えてないのだろう、

おそらく、「何か模型がどうのこうのと言う方が内〇さんの連絡先を知りたいらしいのですが、いか

がしましょう」、 「エッ、模型?何のことやら、人違いとでも言っておいて」、

というような感じだったのだろう、 これで、〇〇〇頼みはなくなった、

そこで、捜査に行き詰ったら現場へ戻れということで再び現場に飛んだのであった、

ただその現場へ行く前にまた東大阪の法務局へ立ち寄ったのである、

そう、登記簿謄本で確認するために、今度は不動産の登記簿謄本である、

会社の商業登記簿ではなく、不動産の登記簿謄本である、ダメモトでとってみた、

ところが、その不動産の登記簿謄本を見て、おお~!!   <続く>

イメージ 1



ついに、電話番号も突き止めた、

$
0
0
その登記簿謄本を見て、おお~、

なんと、その登記簿謄本の事項欄には、現住所が記載されていた、そう、内〇さんの、

僕は例の同級生の方の証言が頭の中にあった、

そう、不動産を全部売り払って東京へ引越された、ということを、だからあえて不動産の登記簿謄

本をとることはしなかった、しかし、ダメモトで念のため不動産登記簿謄本をとってみた、

ところが、不動産は ・ ・ ・ ・ ・ ・  ここからは具体的なことは書けないので省略、

そして、その後変更登記がなされていたので、・ ・ ・ ・ ・ ・

イメージ 1


なので、当然、内〇さんの現住所が記載されているのである、

イメージ 2


さあ、現住所がわかった、あとは電話番号を調べるのみである、

今は便利なネットがある、そう、住所でポン、 電話番号が登録されていることを願うのみ、

名前と住所を入れて検索してみた、 同じ字体の同姓同名の方が10名ほどポンと出た、

おお~、その中に該当する住所の内〇さんが、

そこで、早速、電話をかけてみた、    呼び出し音が鳴っている、

                                                 <続く>





その推理はほとんど当たっています、が、

$
0
0
呼び出し音が鳴っている、

「はい、」 電話がつながった!

「突然の電話で申し訳ありません、元〇〇〇にお勤めだった内〇さんでしょうか」

「はい、そうですが、」 電話に出られたのは奥様のご様子、

「自分で言うのもヘンですが、私は決して怪しい者ではございません」

「実は、・ ・ ・ ・   」 と、決して怪しい者ではないことを訴える、

「はい、では主人に変わりますね」

「はい、内〇ですが」 ご本人が電話に出られた、

「実は、私は ・ ・ ・ ・  ・ ・ ・         」 と、簡単に自己紹介を行い、

「それで、これから私の推理を申し上げます ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・      」と、長々と推理したこと

を説明した、

電話なので内〇さんの表情はわからないが、60年前の、しかも個人の名前までポンポン出て、

当時の関係者のみしか知りえないようなこと、しかも当の内〇さんでも当時は知りえなかったこと

を僕が言うので、おそらくビックリ仰天なさったに違いない、

すると、内〇さんは、「はい、ほとんど私の記憶していることと合ってます、ただ、一点だけ違って

いるところがあります、それは、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  」    
                                       <続く>

技術指導していたのは、父ではなく、

$
0
0
「はい、ほとんど私の記憶していることと合ってます、ただ一点だけ違っているところがあります」

「実は、技術指導していたのは父ではなく、祖父でした」

「エッ、」

「父はその道はまったくの素人で、その頃は九州で教員をやっておりました、」

「濱田さん兄弟ら5、6人は昭和28年前後頃からうちの工場の片隅でプレス機や機械を持ち込ん

で何かプラスチック加工品を作っていたようです、祖父のことを先生と呼んで技術面の指導を受け

てました、私は中学生から高校生の頃で模型等には興味はなかったので、実際に何を作っていた

のかは知りません、」

「祖父は昭和30年の夏に亡くなりました、私が15歳の時です、会社を引き継ぐために九州にいた

父は技術者を連れて祖父の会社を引き継ぎました、」

「濱田さんらは、ハッキリとは記憶していませんが、その2、3年後に引き揚げたと記憶しておりま

す」

「私は、大学を卒業後は〇〇〇に入社しましたので、その後東大阪に住んだことはありません」

「ですから、濱田さんらがその後どうなったかはわかりません、」

「父は4年前に亡くなったので、もし生きていれば詳しいことがわかったでしょう」

                                                    <続く>

なお、電話だったので、今度は直接お会いしてもっと詳しくお聞きする予定である、

アッ、日、月、はモデラーズフェスティバルなのでブログは休み。

今後の予定(来年)

$
0
0
2月21日(日)    東京秋葉原でモデラーズフェスティバルhttp://firstair.co.jp/modefes/

春頃          明石でプラモ講座「ロボット編」
              「日本のプラスチックモデルの夜明け」講義

5月       静岡ホビーショー

モデラーズフェスティバルも無事に終了、

$
0
0
22日、23日、とモデラーズフェスティバルも無事に終了した、

イメージ 1

わが「模型探偵団」も参加、ただスペースも限られているので展示は画像のとおり、

左の艦船プラモはフジミ模型がプラモデルとして最初に発売した「戦艦長門」と、戦車プラモとして

は第一号のリモコンタイガー戦車、アップで撮るのを忘れてしまった、ゴメン、

古いプラモデルを展示したのはもちろん、わが「模型探偵団」のみ、ただ、ほとんどの方はあまり

興味がないらしく素通り、僕らの年代がいなくなったらはたしてこれらのプラモデルはどのような存

在になるのか心配になってきてしまう、ま、死んだあとのことは心配することもないが、

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

展示の大部分がこのようなガンダムやガレージキット系のものばかり、

僕はこのようなものはまったく興味はない、どれが技術が上手いのかもまったくわからない、

次回はロボット達を展示しようと思っている、

ところで、今回は予想外の方にお会いできた、

遠くは北九州から来ていただいた〇〇さん、

あの堺の〇ルコ模型店に通っていたという〇〇さんご夫婦、

明石で開催した模型講座に参加していただいた〇〇さん、等々、

わざわざお出でいただいて本当にありがとうございました、

次回はロボットの展示を予定、しかし、毎年毎年高齢になってしまう、ま、体が動いて運転が出来

る間は続けていこう。


今までのことを整理してみると、

$
0
0
追跡調査は今も継続中、

それでは、今までのことを簡単に整理してみよう、

〇   昭和28年頃から、「東京堂模型店」店主の濱田さん兄弟らとその仲間達5,6人がプラス

    チックモデルの開発にとりかかる、その場所は「(資)大阪化学研究所」であった、

    指導者は大阪化学研究所の設立者内〇さん、(設立は昭和3年)、内〇さんは阪大の応用

    化学卒であり、その道のエキスパートであった、その大阪化学研究所では帝人と提携し

    人絹(レーヨン)関連の仕事を主としていた、

    濱田さんらは、プレス機や合成樹脂関連の機械を大阪化学研究所の工場内の片隅に持ち

    込み内〇さんの技術指導を受けながらプラスチック加工品を作っていた、

〇  昭和30年夏、技術指導をしていた内〇さんが亡くなる、

   濱田さんらは、その頃にはすでにプラスチックの技術については習得していたものと思われ
 
   る、 内〇さんの息子さんはその頃、九州で教員をやっていたが父の仕事を引き継ぐために

   九州から技術者を連れて大阪化学研究所の会社を引き継ぐ、

   濱田さんらはその技術者の指導を受けながらなおもプラスチックモデルの開発を続行する、

   そして、その開発に目途がつく、

〇  プラスチックモデルの開発に目途がついた濱田さんらとそのなかまたちは(どこかの政党み

   たい)昭和31年2月、(株)日本プラスチックスの会社を設立、

〇  そして昭和31年12月頃、ついにゼロ戦のプラスチックモデルを発売 (時期は推定)

   ただ、どの程度販路を広げたのかは不明、

〇  そのおよそ1年後、昭和32年の後期から昭和33年の前期にかけてゴム動力のプラス

   チックモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」を開発し発売、

〇  販路を広げるために東京支店を開設、(昭和33年前期)、ノーチラス号を発売直後、

   東京支店とは言っても、それはちゃんとした会社の事務所ではなく、濱田さんの兄弟の名義

   で契約した電話でありおそらく個人の住宅、あるいは借家だった、

〇  最大手である三ツ星商店と取引を開始、東京地区でも発売が開始される

    この間、何があったのかは不明、(指導者であった内〇さんが亡くなった2,3年後に

    濱田さんらは大阪化学研究所から引き揚げた)

〇  日本文化教材(現ブンカ)から昭和34年4月頃、ノーチラス号が発売される、

   もちろん、そのノーチラス号は日本プラスチックのもので日本文化教材のブランドとして

   発売された。

まあ、これらのことを頭に入れて「マルサン物語」を読むとより面白く読めるだろう。

マルサンブルドッグ パンサータンク

$
0
0
相棒から次はコレで遊んで、と預かったのがマルサンのゼンマイ玩具である、

イメージ 1

ん、ん、ん、何か某メーカーのアレに似ている、ひょっとしたら、そのアレの外観をパクッタのかも、

ゼンマイで砲塔を左右に振り、火花が出るらしい、

イメージ 2

今、噂の真っ最中のマルサンのブルドッグトイのパンサータンクである、

ところが、コレが動かない、つまりは、「遊んで」ということで預かったのではなく、「動くようにして」

ということである、 まあ、動くようにして遊んだら返却しよう、

イメージ 7

まづは分解して、

イメージ 8

各部分を潤滑スプレーで吹き付けてやると動き出した、

イメージ 11

発火石がない、

イメージ 3

そこで、所有しているニチモの発火石を取り出して、袋の中を見てみたが、

イメージ 4

劣化して発火石が粉々の粉末状になっている、もう発火石が付いてない、

イメージ 5

イメージ 6

このように、袋の中で粉々になっている、

仕方ないので、アマゾンでジッポーの発火石を注文した、それが届いたら取り付けよう、

イメージ 9

ゴムキャタピラは伸びて緩んでいるので、チョキーンと切って靴底補修剤で繋いで調整しよう、

イメージ 10

砲塔のビス止めの穴がひび割れているので補修する、      <続く>

マルサンブルドッグ パンサータンク

$
0
0


イメージ 1

砲塔のネジ止め穴のひび割れもパテで補修、

イメージ 2

そして、某メーカーのパンサータンクと同じ転写マークを付けることにした、

イメージ 3

これで、ますますパンサータンクに似てきた、

イメージ 4

ゴムキャタピラも張り具合を調整して繋いだのでスリップすることなく走るようになった、

イメージ 9

ジッポーライターの発火石が届いたので、

イメージ 8

その発火石を取り付けて、

イメージ 7

ボディーをセットして、これでOK,

イメージ 6


イメージ 5

ゼンマイが硬くて、ネジで巻くとこのようにネジの穴が広がってしまう、

だから、ゼンマイを途中までしか巻けない、

それでも走らせてみると、

ゼンマイ式だと超スピードでピューッと走るかと思いきや、なんと戦車らしくゆっくりと走る。



追跡調査はまだまだ続く、

$
0
0
さてさて、(株)日本プラスチックスの設立からノーチラス号の発売までの大体の概要はわかった

が細かい部分になると、まだまだ大部分のことは解けていない、

内〇さんにお会いできるまでに、少しでも解明できるように今後も追跡調査は行っていく、

一番知りたいのは、濱田さんのその後の行方である、そして、なぜ大阪化学研究所から引き揚げ

たのか、つまり、なぜプラスチックモデルから手をひいたのか、ということだろう、

その前に、(株)日本プラスチックスのこの電話番号の解明である、

イメージ 5
(あうとぱあんさん、提供)

この、72-0290 はもちろん大阪化学研究所の電話番号である、当初はこの電話番号を使っ

ていたが、途中からは次の電話番号に変わっている、

イメージ 1

途中でこの72-7637 という番号に変わっている、

さて、この電話番号は一体誰の電話番号なのか、まづこの件から解明しなければならないだろ

う、そして、本社の登記上の当初の住所である、

イメージ 2

登記上の最初の本社の住所は河内市若江南、となっている、さて、この住所には何があるのか、

イメージ 3

当時の住宅地図で見てみると、「大東化成工業 河内工場」が該当する、

はたして、これは何を意味するのか、

そして、登記上は社長は濱田さんではなく、石村さんになっているのである、

イメージ 4

この石村さんとは一体どのような方だったのか、

その石村さんはどの当たりに住んでおられたのか、当時の住宅地図で調べてみた、
                                               <続く>

戦後復興した朝日屋科学玩具は、

$
0
0

空襲で壊滅的な打撃を受けた「朝日屋科学玩具」はその翌年昭和21年に再興を図った、


イメージ 1


イメージ 3

そして、学校教材用や鉄道模型用としていろいろな模型モーターを発売した、

イメージ 2


もちろん、その中には例の「スクールモーター」も含まれていた、

マブチモーターが社史の中でパクられたと言っているのはこの朝日屋の「スクールモーター」であ

る、しかし、それはまったくの逆であることは、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70725988.htm

l ←の記事でも書いたとおりである、

このことを、「朝日テック」の社長さんに話したところ笑っておられた、

イメージ 4
                                    (昭和15年7月号 科学と模型)

この「スクールモーター」は朝日屋科学玩具が昭和12年に開発発売したもので、おそらく当時の

小学校等でも理科教材用として使用されたのだろう、

しかし、その朝日科学玩具も戦時中にほとんどの工場、職人を失っていたため、昭和28年頃に

模型部門等は廃業し今は四国で「朝日テック(有)」として、遊園地経営、電動乗り物製造の会社

として今もその技術は受け継がれていることは記事にしたとおりである。

昨日はまたまた図書館へ飛ぶ

$
0
0
(株)日本プラスチックスの謎を解く上で最大のネックはあまりにも時が経ってしまったということだ

ろう、なんと言っても60年も経過してしまった、そして直接関わった方々がもうこの世にはいらっし

ゃらないということである、もう4、5年早くこの調査に取り掛かっていたならば謎は解けた可能性

は高い、直接その現場で一緒に仕事をしておられた内〇さんにお元気な内にお会いできていたな

らば、その内〇さんは4年前に亡くなられてしまった、その息子さんは今75歳、(濱田さんを指導

していた内〇さんからみれば孫)

当時から日本プラスチックスという会社の実態を知る人はほとんどいなかったのだろう、

そう極限られた人達しか知ることはできなかったのだろう、

それを60年も経った今頃になって追跡調査するというのだから馬鹿げた話かもしれない、

追跡調査したところで誰も喜んでくれるようなことでもない、あくまでも自己満足の世界でしかな

い、まあせいぜい、マルサン信者の方々の反発を招くのがいいところであろう、

ところで、昨日はまた大阪の市立図書館へ飛んだ、

主役の濱田さんの電話番号を調べるためである、それと日本プラスチックスの登記上の代表取締

役の石村さんの居所である、

イメージ 1

会社の登記上は何度も言うように、濱田さんは取締役で代表取締役が石村さんになっている、

が、この商工名簿では逆になっている、その理由はわからないが、

会社の電話番号はすでに説明しているように大阪化学研究所の電話である、

では、濱田さんの「東京堂模型店」の電話番号は何番だろうと調べてみた、

ところが、当時の電話帳に載ってない、見当たらない、う~ん、なぜ?

電話がなかった、設置していなかった?

それでは、個人名では、と探してみると、アッタ、しかし、字体が違う 「濱田貞雄」となっている、

イメージ 2
 
(実はこの電話帳の画像を撮るのも大変な?手続きが必要で、許可証に記入して別室に連れられていかれてそこで撮らなければならない)

商工名簿では、「濱田偵男」となっており、この電話帳は貞雄となっている、

これはまったくの別人なのか、いやそうとも限らない、実は業者名簿には、

イメージ 3

そう、貞雄 となっているのである、

ま、これは一度また調べてみる必要があるだろう、それはまづさておいて、

もう一方の石村さんのことも調べてみた、そして、おそらく息子さんではなかろうかと思われる方の

電話番号まで突き止めたが、その電話はまたまた4、5年前に契約はなくなっている、

おそらくその頃に亡くなられたのかもしれない、

しかし、まだまだ諦めない、孫の代まで、地の果て?までも追いつめていく(笑)

その石村さんの ・ ・ ・ ・ ・           <続く>


石村さんの追跡調査開始する、

$
0
0
さあそれでは、石村さんを昭和31年に遡ってから追跡調査を開始しよう、

イメージ 4


この会社の謄本の昭和31年当時の住所がコレ、大阪市東住吉区、

まづ、当時の住宅地図を取り寄せて見てみる、

イメージ 1

コレが当時の住宅地図、これは僕が凄いのではない、この地図会社が凄い、何と言っても

当時すでにこのような住宅地図を製作していたのだから凄い、あの大手のゼンリンよりも凄い、

前にも言ったように、この会社は吉田地図という会社である、しかし今はもうホームページでさえ

削除されている、そう、今は住宅地図は販売していない、もう住宅地図も販売していないのにホー

ムページがあるのはオカシイとクレームがあったらしい、それでホームページも削除したとのこと、

なぜそのようなクレームがあったのかその真相はよくわからないが、余計なことかもしれないが今

度聞いてみたいと思っている、それと、なぜ住宅地図から撤退したのかも聞いてみたい、

話がそれてしまった、戻して、

その住所に石村さんはアッタ、拡大してみよう、

イメージ 2

そう、その番地にちゃんと石村さんの家がある、

今はどのようになっているのだろう、

イメージ 3

おお~、奥村組社宅はマンションになっている、地形は昔のまま、しかもその左には、二つに区切

った家屋のようなものがある、なんとなく当時のままのような気がするが、

そこで、ストリートビューで確認してみると、

う~ん、古い空き家のような、    現在の住宅地図で確認してみると、   <続く>

石村さんを追跡調査、

$
0
0
それでは、当時の石村さん宅があった場所の現在の地図を見てみよう、

実は、地図で確認して現在の土地の名義人を調べるのである、

イメージ 1

イメージ 2



これは「ブルーマップ」といって、登記簿謄本を見る場合はこの地図で地番を確認しなければなら

ない、そう、住所と登記簿の地番は違うので、登記簿を閲覧する場合は、このブルーマップで登記

簿上の地番を確認しなければならない、

1冊何万もするので、普通は図書館へ行って閲覧するか、それとも登記所へ直接いけば窓口に備

えてあるので、そこで確認するとよい、これは大阪市立図書館でコピーしたもの、

もちろん、コピーする際は許可書に記入してどこををコピーするのか説明してコピーする、

分厚くてコピーできない場合は昨日説明したとおり、別室へ連れていかれて厳重な監視の元?

デジカメにて撮影することとなる、

さあ、これで登記簿上の地番が判明したので登記簿を見るために大阪に飛ぼう、 

今も今村さんの家族の名義であることを願って、   <続く>

と思ったが、今はわざわざ登記所までいかなくてもすぐにわかるシステムがある、

これからは北極海が注目される、平田晋作の

$
0
0
政府では平成32年頃に北極観測船を就航させ北極の研究に力をいれるという、

北極海では氷も段々と減少しているらしく、ある時期だけでもルートが確保できれば燃料代も大幅

に削減できるだろう、それに、まさか北極海までは海賊達も出てこないだろう、

そして何と言っても、北極は未だに未知の世界にあふれている、

その大昔、世界の大国はその北極探検のために探検船を建造し北極を目指したが多くの探検船

がいまだに行方不明で北極の海に沈んでいるという、

北極探検といえば、あのSF軍事冒険小説が思い浮かぶ、そう、平田晋作の、あの小説である、

「新戦艦高千穂」である、


その小説からおよそ100年後に北極探検船が実現するという、北極には今まで手をつけられな

かったことにも今さらながら驚いてしまう、

イメージ 1

ところで、その平田晋作は31歳の若さでこの世を去ったが、その短い人生の間にもいくつかのS

F軍事科学小説を残している、昭和11年には日米開戦を予想しどう戦うべきかもこのような小説

に残している、平田晋作とはどのような人物であったのかを知る上でもこのような小説を読んでみ

たら面白いだろう。

やはり、4、5年遅かった、

$
0
0

大阪の登記所へ飛ぼうかと思ったが、今はわざわざ登記所へいかなくてもすぐにわかるシステム

がある、http://www1.touki.or.jp このサービス、

このサービスを早速使ってみた、

おお~、すぐにパソコン上に表示される、これは本当に便利なシステムである、

ところが残念なことに、

イメージ 1

石村さんの所有物件ではなかった、まったくの別人であった、おそらく借家に住んでおられたのだ

ろう、

イメージ 2

実は、昭和42年の電話帳には住所が同じで姓も石村さんになっている方が載っている、

おそらく日本プラスチックスの石村さんの息子さんあたりではないかと推測される、

イメージ 3


そこで、パソコンで検索してみた、すると同姓同名で電話番号も同じ方が出てきた、

そう、06-6622-5977 の方、 電話をかけてみると、「現在は使われておりません」

これは、5年前のデータである、おそらく亡くなられたのだろう、

やはり、4、5年遅かった、土地は石村さんの所有物件ではなく、そして亡くなられている、

昔みたいに戸籍謄本、住民票を閲覧できれば追跡は可能であるが、今はできない、

もう、石村さんのお孫さんに辿りつくのはほぼ不可能な状況となった、

しかし、最後の望みをかけてまたまた大阪の図書館へ飛ぶことにした、  <続く>


その頃、ニチモでは、

$
0
0
日本プラスチックスの濱田さんらがゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を開発していた頃、

ちょうどその頃、ニチモもゴム動力の伊号潜水艦を開発していたと思われる、

ここに、すでに以前の記事で紹介しているが、その伊号潜水艦の特許公報がある、


イメージ 4



イメージ 3


イメージ 1

特許出願日が昭和33年12月4日となっている、おそらく、発売に向けて全ての量産体制が整っ

た後に出願したのだろう、(発売がその2か月後なので)

ということは、その前年の昭和32年の後半頃から開発を開始したのだろう、

日本プラスチックスの濱田さんらは、昭和33年の前期には発売を開始したと推測されるので

やっぱり、濱田さんらが1年ほど早い、

イメージ 2


あと推測できるのは、ニチモがこのように真面目に特許申請などせずに(発売後に申請すれば)

発売を先行させていたならば、おそらく、マルサンよりも先に伊号潜水艦を発売できたであろう、

そのマルサンの広告では、

イメージ 5

イメージ 6
                        (昭和34年2月号 模型とラジオ)

気がひけたのか、この広告には国産初とは書いてない、ただ、国産成功とだけ書いてある、

この前年には東京でも日本プラスチックスのノーチラス号は出回っていた、そう、三ツ星商店など

の問屋を通じて販売されていた、東京のマルサンが知らなかったことはないだろう。
Viewing all 1704 articles
Browse latest View live




Latest Images