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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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ナカムラ模型 ボクサー アタックシリーズ

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ナカムラ模型のアタックシリーズのゼンマイ式の「ボクサー」、組み立ては簡単、

ボディーの中はゼンマイのギアボックスだけ、

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組立説明図も簡単なものとなっている、

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ハッキリ言って、組み立てるのも面白みはない、とくにどうってことない何の特徴もないプラモとな

っている、しょーもないプラモとわかっていても、一応は作ってみないことには「しょーもないプラ

モ」と言えないので作ってみた、

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箱絵は素晴らしいが、もちろん、その箱絵には完璧に負けている、

ミサイルは手動発射、他に可動箇所はない、

ゼンマイ式なので、走行距離は短い、走らせてもほとんど面白みはない、

ま、とりあえずは走らせてみたのでご覧あれ。




日本ホビー 61式戦車 5アクション

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日本ホビーの戦車プラモはギミックが多くて走らせても楽しく遊べる、その最高のギミックを誇るの

が1/20の61式戦車であった、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70420774.html
                     http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69111090.html

その61式戦車の仕掛けの動きを説明するのは無理、説明ができないほど複雑な構造となってい

る、いや、その動きを実際に見ても理解するのは困難である、まさにカラクリ戦車プラモと言っても

いいだろう、そこで、今回は5アクションシリーズの一つとしての61式戦車をもう一度作ってみるこ

とにした、そう、過去にも2輌作っている、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69879250.html

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今回は、同じ61式戦車、しかし、前回のものとは箱絵が違う、

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実はこの61式戦車もいただき物、だから作って遊ぶ、それが僕流、いただき物は作って遊んで

喜んでいる僕を笑ってもらうのが僕流なのである、

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実は、これは作りかけのジャンク物、おそらく、当時子供だった方が作ろうとしたが構造が複雑な

ために途中で断念したものだろう、接着してはいけない可動部品をベッタリと接着したりして、もう

剥がせない、

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無理に剥がそうとしたが無理、部品のアームやら、カムをベットリと接着してあるので剥がすこと

ができない、剥がそうと無理に剥がしたら散々な症状となってしまった、もうこれではこのボディー

は使えない、しかも部品もない、万事休すか、

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実は同じ5アクションシリーズの97式中戦車の残骸があった、これもいただき物、

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この残骸にはアーム、カムの残骸が残っていた、これを使おう、


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この5アクションシリーズのボディーは全て共用なっていて構造は同じとなっている、

若干発売時期によりほんの少し違っている箇所があるもそれはほとんど影響はない、

もちろん、ギア、カム、アームは同じなのでそれも使える、

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茶色に塗ってあったのでこの液体で色を落とす、

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起動輪のシャフトのギアが割れてスカスカになっていたので瞬間接着剤と樹脂で固める、

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一つ一つギア、カム等を組み合わせていく、

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これでギア、カム等の組み合わせは完了、欠落のギアがなかったので一安心、

組立説明図ではなかなか理解するのが難しい、子供ではここまで組み合わせるのも難しいだろ

う、しかもどのように動くのかもこの状態を見ただけではさっぱりわからない、そう、あまりにもギ

ア、カム、アームの組み合わせが複雑なためにわからない、動いているのを見ても理解するのに

苦労する、これにモーターを取り付けてちゃんと作動するか確認しないといけない、

実はこれが実に大変な作業となる、しかし、ちゃんと修正すれば間違いなく5アクションしてくれ

る、そう、0、5ミリ以下の修正が必要となる、  <続く>

日本ホビー 5アクション 61式戦車

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ギア、アーム、カム等の組み合わせが終わったのでモーターを取り付けてみよう、

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見ただけでは複雑な組み合わせなのでどのように噛み合って動くのはわからない、

12枚のギア類と複雑な形のカム、アーム類の組み合わせとなっている、

ギアの下にアーム、カム等が隠れているので、どのように動いているのか見えない、

だから、その動きを理解するのが大変である、


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25モーターの手持ちがないので他のモーターを代用、

組立説明図を見ても理解するのが困難、

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子供が組み立てるのは極めて困難、当時無事に組み上げることができたとしたらそれは相当な腕

の持ち主の子供だっただろう、

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無事に組み上げることができたとしても、これからが大変、ちゃんと5アクションさせるには細かな

修正が必要となる、そう、0、5ミリ以下の修正が必要となる、

ギア、アーム、カム等がちゃんと作動し、ギアが移動して他のギアと噛み合ったり、噛み合わせが

外れたりするように、それは大変な修正となる、アームを削ったり、駆動輪のシャフトのギアの位

置を修正したりと、1日くらいは要してしまう、

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ちゃんと組み上げたら直進くらいなら動いてくれる、他の動きとなるとこの説明図のようにギアが

移動する、そう、だからギアの動きの隙間は0、5ミリ以下となる、

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単2電池は入らないので単3電池を入れたらいい、

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砲塔回転用のアームを平ギアの突起物に差し込んで回転させる、

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同じ5アクションの61式戦車でも今回のものは基本的にはほとんど同じだが、スイッチ部分が違

っている、

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今回のものはボディー後部に付いているが、

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以前に組み立てたものは底に付いてスライド式になっている、

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キャタピラがないので97式で自作したものをかけてみたら上部に当たってしまう、

また自作するには時間がかかるのでギアの動きを撮ったのでご覧あれ、

とにかく、この5アクションのギアを考案した方は凄い、今のハイテクなデジタルしか知らない子供

達にも昔のアナログで機械的な動きを知ってほしい。


毎日、毎日、プラモを動かして遊び

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いまさら言うまでもなく、

毎日、時間があればプラモと遊んでいる、おそらく毎日プラモで遊んでいる高齢者、いや高齢者だ

けでなく、日本全国広しといえ毎日毎日、プラモを動かして遊んでいるのはひょっとしたら僕だけか

もしれない、ま、しょーもないが、それだけは自慢できる、しょーもないことでも一番になれば自慢

できる、これだけ頭?と手先を使っていればボケることはないと思うが、

それと、「 これからの夢は?」と問われても、 この歳になってもう夢なんてない、あるはずがな

い、 いや、まてよ、

一つだけ夢がある、それは、「夢心地」のまま死ぬこと、苦しむことなく、誰の介護を受けるこ

となく、寝ている時に、夢をみている時に静かにいつのまにか死ぬこと、それが僕のこれからの夢

である、ひょっとしたら、これが本当の誰もが望むところの夢なのかもしれない、

それならば、もう元気なうちに徹底的にプラモと遊ぶしかないだろう、

ということで、

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今度は、マイティ号を動かしてみた、

基本的に僕は色を塗らないが、これはそんなに古くないのでちょっとだけ塗ってみた、

そう、2か所だけ、白と黄色だけ、

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手動で発射できる、

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これらも色を塗らないとさまにならない、


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単3電池2本を収納、

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スイッチはこのツマミを回す、

ただ走るのみ、一応動画は撮ってみたのでご覧あれ。


ニュース速報!!

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ついに、日本プラスチックスの濱田さんを突き止めた!!

そのことについては、20日に開催する「昭和のプラモ講座)にて詳しくお話ししよう。

渥美産業のロボットは、

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過去の記事にも書いたように、確認している限りでは戦後初のロボット模型は次の渥美産業が発

売したロボットである、

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                             (昭和31年4月号 日本教材新聞)

ただ、発売時期、誰が考案したロボットなのかはわからない、昭和31年の4月に存在していたこと

は間違いない、ま、おそらく、この頃発売した可能性が高い、

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                                      (入沢商店 カタログより)

入沢商店のカタログにも載っている、

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このカタログによると、卸値が1個当たり135円で小売が230円、おお~、結構儲かる、

実は1月に静岡に出張?した際に、このロボットについて本家の渥美産業さんに聞いてみた、

しかし、古い話なので記憶にもないしわからないとのことであった、

一体、どなたが考案なさったのだろうか、謎である、

実は、この渥美産業が発売していたロボットにそっくりなロボット玩具が昭和35年頃の増田屋の

ブリキロボットがある、 「ロボット R-35」というロボット玩具である、

ロボット本体も、リモコンボックスの形状もソックリ、

ひょっとしたら、考案者の方が同じか、パクッタのかもしれない。

トヨペット クラウン 3丁目の夕日

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数年前の3丁目の夕日のクラウンを取り出してみた、

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タカラトミー製造でセブンイレブンの景品のラジコンのクラウンである、

そのまま放り込んでいたので、初めて動かしてみた、そう、モーター類が固まらないように動かし

てやらないといけない、

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単3電池を入れて、


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アンテナを立てて走らせるようになっているが、立てなくても2メートルの範囲なら電波は届くので

狭い部屋なら十分に走らせることができる、結構スムーズに走ってくれる、

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やっぱり、スカイツリータワーよりも東京タワーのほうが断然よく似合う。

いよいよ最終局面へ

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日本プラスチックスの追跡調査は最終局面へ入ろうとしている、

先日の記事でも書いたとおり、その後の日本プラスチックスについても辿りつけることができた、

そう、突然に、なかなか辿りつけることができなかったのに突然に辿りつけることができた、

ハマライト化学研究所まで辿りつけたのが1月の下旬、その後の追跡が困難になっていた、

もう、これ以上は無理と半ばあきらめかけていたが、先日突然に突き止めることができた、

実は、濱田さんは8年ほど前に亡くなられていた、しかし、濱田さんが起業して育て上げられた会

社に今も濱田さんの技術、精神が脈々と受け継がれている、

そして、ちょうど僕がその追跡に困難な状況に陥っていた先月の上旬にその濱田さんの会社は新

たに、・ ・ ・ ・ ・ ・ を、

そう、・ ・ ・ ・ ・ これがなかったら僕は、これからもずっと濱田さんに辿りつくことはできなかっ

ただろう、まさに、これは濱田さんの導きだったとしか思えてしかたないのである、

あとは関係者の方々に直接お会いして、当時のことをいろいろと詳しくお聞きしてみたいと思って

いる。


メイドインホンコンの水陸両用車

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水陸両用車といえば、ニチモの「バロン」だろう、

その水陸両用車の舶来の玩具でメイドインホンコンのものがある、

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この水陸両用車、商品名もメーカーもわからない、ただ、メイドインホンコンとのこと、

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ワイパーは僕が自作して取り付けたもの、


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単2電池3本を入れて、浮き輪のツマミがスイッチ、

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ヘッドライトも点灯、

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スクリューのピ二オンギアが噛み合っていない時は陸上走行のみ、

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スクリューを回す時は、レバーにてピ二オンギアを噛み合わせて回転させる、

三和模型 B-25D ミッチエル

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三和模型の倒産の要因は一言でいうと、粗造乱売によるものだった、

一時期にあまりにも多くのキットを発売したものだから、金型も粗悪でその出来はあまりにも悪い

ものであった、だから、次第に売れ行きが悪くなり資金の回収もままならず倒産となったものであ

った、三和模型といえば業界初のモーターライズの戦車プラモを発売したメーカーでもあった、

その三和模型の中で僕が好きなプラモが次のもの、

http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69829282.html タイガータンク リモコン

そのようなプラモを発売した三和模型が一体どうしたことなのか、突然に粗造乱売に走ったのであ

った、あまりの出来の悪さに随分と苦情があったらしい、

その粗造乱売のキットの一つとして双発シリーズがあった、

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「B-25ミッチェル」である、余計なことかも知れないが、この画像は遠くからズームアップで撮っ

たもの、

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これは近くから普通に撮ったもの、主翼がなんかヘンに写ってしまう、

そう、ズームアップで撮ったらいい、

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とにかく、作るのが大変、バリは多いし

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凸凹は多く、一応上下に可動となっているものの動かすことは不可能、無理に動かしたら爪は間

違いなく折れてしまう、

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このエンジンの金型の悪さ、

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もちろん、昇降舵等も動かすことは難しい、

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あちこちとサンドペーパー等で磨いて修正して組み上げないといけない、

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これは爆弾、爆弾倉庫開閉扉は爪が折れてしまった、

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箱の能書きには可動箇所がいろいろと書いてあるが、どうにか動くのはプロペラのみである。

今度の日曜日は大阪の「スーパーフェスティバル」

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実は8日頃から風邪気味で病院で診察してもらったら「インフルエンザB」であった、

咳、鼻水は出るし寝ると息苦しい、うちの誰かさんが1週間前にインフルエンザにかかって回復し

たところであった、できるだけ、誰かさんの体等に接触しないように(もちろん、普段から接触する

ようなことはやってないが)していたが、それでもうつってしまったようである、

もちろん、ブログの毎日の更新は怠らずに、なぜなら毎日楽しみ?に読んでいただいている読者

の方々がいらっしゃるので、ただ、博物館でのボランティアは休業、

でも安心してください、もうほとんど回復してしまった、凄い回復力だろう、

何と言っても、日曜日は大阪で「スーパーフェスティバル」が開催される、大阪で開催されるのは
                 http://artstorm.co.jp/superfestival_osaka.html
たしか10年振りだろう、8時過ぎには会場に乗り込む予定である、

来週の日曜日は冒頭のように、「プラモ講座」を開催しなければならない、

そして、某会社の訪問も、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71045286.html 予定している、

そして、そして、濱田さんの会社にまた電話して、4月くらいには訪問させていただこうかなと思っ

ている、アッ、まだある、火星人さんのところにもまたお邪魔しないといけない、なんと言っても90

歳で一人暮らしなので心配である、とにかく忙しい?まだまだ、元気でいないといけない。


エルエス リモコン スペース1号

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ちょうど2年前に作ったままで、まだ動かしていないものがあった、

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エルエスの「リモコン スペース1号」である、

2年ぶりに取り出してみると、やっぱりモーターのピ二オンギアがスカスカに、

なので、交換する、ゴムキャタピラはボロボロに劣化していたので、自作しようかと思ったが、

最低3日は要するので、とりあえずはストックしてある他のゴムキャタピラを代用、

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これで、本体は完了、

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毎度毎度のことながら、現行の単2電池は入らない、

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もちろん、単3電池も長さは同じなので入らない、無理に押し込むとスイッチ基盤が割れてしまう、

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だから、単4電池を使用することにした、電池ボックスを買いに行く暇がないのでこのまま単4電池

を使用する、

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ガムテープでグルグルにリード線を固定して配線完了、

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本体とリモコンボックスを繋ぐ、

ギミックはミサイルが手動で発射できるのみ、他は何にもない、    <続く>

来週も、

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今日はこれから「スーパーフェスティバル大阪」に行ってくる、8時には会場に入り、今日はそこで

1日遊んで終わり、

月曜日からは更にパワーアップさせて動かなければならないだろう、そう、「日本プラスチック」の

件についても更に深く解明しなければならない、その「日本プラスチック」も日本初のプラスチック

モデルを開発し発売したということだけでなく、更に知られざる驚愕?の真実が判明するだろう、

残念ながら濱田さんは10年前にお亡くなりになっていたが、まだまだ関係者の方々にいろいろと

当時のことをお聞きすることができるので非常に楽しみな展開となっている、

まだ、ここでは記事にできないので現在まで判明している部分だけは日曜に開催する冒頭の「プラ

モ講座」で説明するので、いち早く知りたい方はぜひどうぞ。

大阪化学研究所の内田さんと、

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いよいよ、大阪化学研究所の内田さんと4月1日にお会いすることとなった、

場所はプラスチックモデルの発祥の現場となった大阪化学研究所である、

お会いするその内田さんは当時濱田さんに指導されていた内田〇〇さんのお孫さんである、

大手化学メーカー〇〇〇の技術部長までされた合成樹脂の専門家であり、濱田さんらが〇〇さ

んの技術指導を受けながらプラスチックモデルの開発にとりかかり、ゼロ戦のプラスチックモデル

を発売した頃は中高生であったという、当時の様子を目の当たりに目撃されていたのでどのよう

にして濱田さんらが技術を習得していったのか判明するかもしれない、実は濱田さんはまったくの

素人だったという、その濱田さんらがたった2、3年の間に当時としてはまったく未知の世界であっ

たプラスチックモデルを日本で初めて開発したのである、濱田さんと内田〇〇さんとはどのような

関係だったのだろう、どのようにして機械類を調達したのだろう、興味はつきない、

アッ、そうそう、内田さんに「日本初のプラスチックモデル発祥の地」の記念碑の提案をしておこ

う。

ミツワのエスコンを、

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昨日の「スーパーフェスエスティバル大阪」ではいい出物はまったくなし、少々期待外れであった、

やっぱり東京には負ける、その中で一つだけ買い物したのがミツワのエスコンシリーズの車のプ

ラモである、

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リモコンボックスで前後左右に操縦できる「エスコンシリーズ」の外車の「ブイック リベラ」と、

「フォード サンダーバード」である、「ブイック リベラ」は相棒が買い物したもので、ついでに動か

して欲しいと言うので持ち帰ってきた、 なので、エルエスのスペース1号は後回し、

このミツワのエスコンシリーズは僕のお気に入りの車のプラモで以前にも動かしている、
                                 http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69561362.html   http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69556147.html

ミツワにはこの「エスコン」と、「ユニコン」の2種類がある、

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エスコンシリーズにはいろいろな種類がありなぜか外車が多い、

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すでに組み立て済みのもので、わりと綺麗に仕上がっている、多分簡単に動かせるように出来る

と思うが、  <続く>

電話でお聞きしただけでも驚愕の、

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昨日、濱田さんが創業された某会社へ電話をして少しだけお聞きしてみた、

その某会社とは、まだまだ会社名は公開できないが(「プラモ講座の時には説明するので、記事

にするのはその後)、驚愕の事実が出てくる、出てくる、面白いほど、 ただしかし、

ちょっとマズイ?話もでてきた(笑) 実は某模型メーカーとも取引があり会社のルーツが日本プラ

スチックだと知られると、そりゃもうビックリ仰天というか、困惑されるというか、一体どうなるのだろ

う(笑)、はたしてそれが吉と出るか凶と出るか、もちろん、吉と出ることを祈るのみ、

これで、その某模型メーカーがどこかはすぐにおわかりになるとは思うが、

先の記事にも書いたように、今回突然に濱田さんのその会社に辿りついたのはまさに濱田さんの

導きがあったように思われてしかたないのである、僕が「ハマライト化学研究所」まで辿りついたの

が1月下旬でそれから先の追跡が困難になってもう無理かなと思っていた、そう、舞台が東京に

移ったからである、2月からはどうやって追跡調査をやろうかと悩んでいた時にネットでいろいろと

検索していた、そうしたら濱田さんの会社のホームページがヒットした、なんとそのホームページ

は2月8日に立ち上げたばかりのホームページであった、この会社の内容を読んで、ひょっとした

ら、濱田さんの会社に違いないとその会社に電話をしたのであった、もしこのホームページが立ち

上がっていなかったらこれからもずっと辿りつくことはできなかっただろう、そしてその2月8日とい

う日は濱田さんの誕生日だったという(これは偶然の一致らしく、その時はまったく気がつかなか

ったらしい、なお、その日は僕の父の命日でもある)、まさに濱田さんがこのホームページに気が

付いて欲しいと訴えかけていらっしゃったように思えて仕方ないのである、追跡調査は最終局面

だとしたが、これからがいよいよ面白くなってくる、まだいつ終わるのかわからない。


段々と人物像がわかってきた、

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段々と濱田さんの人物像がわかってきた、

僕が描いていた濱田さんよりも濱田さんは偉大であった、

なぜ、プラスチックモデルの開発に目を付けたのか、なぜ途中でプラスチックモデルから撤退した

のか、段々とわかるようになってきた、そう、なぜ自社の物件を持たず間借り等をしていたのか、

なぜ、派手に広告PRを行わなかったのか、なぜ、昭和31年10月の日本模型新聞にゼロ戦の予

告発売を掲載しながら、その後ピタッと発売したという広告も動きの記事もなくなったのか、まった

くの謎のメーカーとなってしまったその謎が段々と解けてきた、

それは、〇〇でやっていたからではないかという、そう、〇〇である、もう普通の人ではなかった、

それも、タダの〇〇ではない、もう〇〇の世界ではない、

濱田さんは超人でもあった、濱田さんの話を聞くとあの職人はもう、あのようなデタラメな証言

対に出来ないだろう、「俺が日本初のプラモデル金型職人だ」などと言うことはできなくなるだろ

う、上にはもっと上の世界がある、もう、僕らは驚愕の連続となるだろう、

普通の人では絶対にこんなことは出来ない、いややろうとしても不可能、まさに偉大な人だったの

である、証言されるのは現在90歳のお姉さまである、それと甥っ子の社長の方の証言である、

もちろん、その証言等は僕の調査したこととピッタリと合致する、その記憶力にも驚いてしまう、

濱田さんは、「俺が日本で初めてプラスチックモデルを開発した」などとは生前は一言も発せられ

なかったという、だから、甥っ子の社長の方も今回初めて知ったという、

ところで、

あのゼロ戦の金型の行方は?存在している可能性はゼロではなくなってきた、可能性がゼロでは

ないかぎり追跡してみるしかないだろう、

その証言の具体的な内容の一部は、もちろん明石にて。

それから、直接当時のことをお聞きするために4月に訪問させていただくことにしている。

日本初のゼロ戦金型は、

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濱田さんが昭和35年に創業した会社は今までに何回かNHK等のテレビでも放映されているの

で、ひょっとしたらその会社名等をご存じの方もいらっしゃるかもしれない、合成樹脂関連はもとよ

り薬品関連にまで及んでいる、だから、模型メーカーから薬品メーカーまでその取引先は数百社

にも及んでいる、

テレビで放映されたのはその中でもアレルギー対策用の薬品や健康食品の製品で、それらの研

究開発費として国からも予算が支給されているほどである、

実は、その会社のルーツとなる会社が日本プラスチックであった、プラスチックモデル事業からそ

ろそろ撤退しかかった頃の昭和35年に濱田さんはその会社を創業した、驚くことに濱田さんは合

成樹脂関連のことについてもまったくの素人であったという、大阪化学研究所でプラスチックモデ

ル等の開発に取り組み始めたのが昭和28年頃であり、わずか7年足らずでプラスチックモデル

の開発から金型製作、合成樹脂材料生産等の専門家になったのである、これからは濱田さんの

人物像についても解明していかなければならない、

ところで、

日本プラスチックが開発発売した日本初のプラスチックモデルのゼロ戦の金型は未だに残ってい

るのだろうか、その残っている可能性はゼロではない、

実は、その金型は当時、某所に寄贈されたという、いやゼロ戦の金型だけではない、

もう一つ金型が寄贈されたという、それは、 ・ ・ ・ ・ ・  (テレビのように引き延ばしてゴメン)

その某所とは、残念ながら実はその某所は平成元年に閉鎖されてしまった、

ひょっとしたら、当時それが展示されていたかもしれない、

なぜ寄贈されたのか、その理由等も聞いてみたい、ひょっとしたら、当時国内で初めて作られたプ

ラスチックモデル!!などと能書きが書かれて展示されていたかも、

引き継いだ大〇〇〇〇〇館には残っているのだろうか、う~ん、残ってないだろうな~、

おそらく引き継ぎの段階で処分された可能性が高い、

せめて、目録くらいの資料でも、

ゼロ戦の金型は、

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寄贈されたゼロ戦の金型は、

「大阪市立電気科学館」であった、しかもゼロ戦だけでなく、戦艦大和の金型も(一体どのような戦

艦大和のプラモだったのだろうか)、

その「大阪市立電気科学館」は平成元年に閉鎖され、今は「大阪市立科学館」に引き継がれてい

る、そこで、昨日その「大阪市立科学館」の学芸員の方に問い合わせてみた、

結果は、引き継いだものにはなし、リストにもなし、当時は展示しても5年位で展示物の入れ替え

を行いその際に処分するのが普通だったとのこと、仮にその時の展示物の写真等が残っていると

しても調べるのは困難ということ、

ということで、残念ながら発見できず、残っている可能性はほぼゼロ。

去年の11月からとりかかり、

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去年の11月に本気で日本プラスチックの追跡調査にとりかかり、今回ついにその流れを受け継

ぐ会社に辿りつくことができた、まだまだ終わりではなく、これからが本番となる、知りたいこと、知

られざる真実が多く眠っていることだろう、

当初は日本プラスチックの存在が確認できればいい、大体の概要が判明すればいい、くらいのつ

もりでいた、それが段々と欲が出てきて今回まで至ってしまった、

まあ、よく言われるように、たかが模型の歴史である、その真実が判明したからといってほとんど

の方は興味もないし何の影響もないだろう、「それがどうした」くらいのものだろう、

これは、あくまでも趣味の世界での話である、その趣味の世界での模型の歴史が誤って、いや悪

言うと捏造されて伝えられてきた、それは当初からわかっていたことではあったが、そう、日本模

型新聞を読めばちゃんと書いてある、マルサンの前に日本プラスチックがノーチラス号を発売した

ことも、火星人さんが当時のマルサンのことを痛烈に批判していたことも、

世の模型の研究家達は日本模型新聞を読んで調べたはずである、そう、多くの研究家達が日本

模型新聞を借り受けて調べたという、しかし、そのまま返却されなかったのも多くあるという、

現在、日本模型新聞は本社には保管されていない、全て国会図書館に保存されている、

検索してみると、随分と欠落しているものもある、1年分そっくり欠落しているものもある、

それは、誰かが研究のために借り受けてそのまま返却されなかったからだという、

ようするに、随分と前からマルサンが日本初ではないことはわかっていた、

しかし、どういうわけかマルサンが日本で一番手ということになり、それに都合のいいように嘘の

脚色で飾られ今まで伝えられてきた、また業界もそれに踊らされてきた、

それらに反論できなかったのは日本プラスチックの実態が不明であったことが大きな理由だろう、

今回それを突き止めることができたが、最大の喜びは日本プラスチックの濱田さんが創業した今

の会社の〇〇工業(株)の社長さん(濱田さんの甥っこさん)に喜んでいただいたことである、

そう、まったくご存じではなかった、濱田さんが日本プラスチックという会社でプラモデルを作って

いたことはご存じであったが、まさかそれが日本初のものであるということはご存じではなかった、

濱田さんは非常に謙虚なお方で自分を自慢するようなことは一切なかったという、

もちろん、「俺が日本で最初にプラスチックモデルを開発したんだ」ということは一切聞かなかった

という、だから、本当に社長さんには喜んでいただくことができた、僕としてもこれが最大の収穫だ

ったという気がしてならない、これも先の記事にも書いたようにまさに濱田さんの導きがあったよう

な気がしてならないのである、

もう一つ大げさに言わせてもらうと、おそらくこれがなかったら模型の歴史は誤ったまま受け継が

れ、隠された真実が歴史の片隅に埋もれたまま永遠に表舞台に現れることはなかっただろう。


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