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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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今日は明石にて「昭和のプラモ講座」開催

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さて、今日は明石にて冒頭の第二回「昭和のプラモ講座」を開催する、

テーマは冒頭に書いているように、「昭和のロボットプラモ」と「日本初のプラスチックモデルを開発

した幻のメーカーとその後」 となっている、

日本プラスチックのことについては本邦初のことであり、

まだ公表できないような、いろいろなことも話してみたいと思っているのでお近くの方はぜひご来場

を。



今後の予定

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〇  5月14日(土)~15日(日) 静岡ホビーショー

    この日までに間に合うよう日本プラスチックの全容を解明,、そして、・ ・ ・ ・ ・

昨日は「昭和のプラモ講座」にお出でいただき、

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昨日は明石での「昭和のプラモ講座」にお出でいただき、まことにありがとうございました、

遠くは東京、名古屋、九州、和歌山、泉州等からわざわざお出でいただき、そしてお土産

や貴重な旧イマイのプラモデルまでいただき本当にありがとうございました、

「まんだらけ」の妄想で書いたリリパットロボットのことや、戦後初のロボット模型のことやら、

そして、日本プラスチックのことやら、ド素人の僕の話をお聞きいただき厚くお礼申し上げま

す、   さて、本題に戻って、

その中ではブログでは書けない内緒の話もいろいろとあったが、その中で盛り上がって最大

の内緒の話が次の、

●  〇社のあの戦艦〇〇は日本プラスチックの金型ではないかという疑惑、

緊急飛び入りで、相棒がその実物のプラモで比較説明、皆が納得?したかどうかは?

しかし、その可能性としては総合的に判断して充分にある、

こればかりは公には話せない、明石でしか話せない(笑)、仮にそれが事実だとしてもそれら

をバラシたら僕らは静岡から永久追放されるかも、〇〇〇模型みたいに、

だから、明石だけの話として内緒にしていただきたい(笑)

つまり、日本プラスチックは当時いろいろなメーカーと関わっていた、そう影の存在として、

これも4月に東京に行った時に詳しくお聞きしたいと思っている、

それから、ひと段落したので、再々再始動、

何度も言っているように、今週はまず火星人さんの自宅へ行って、東大阪の某会社へ行っ

て、できれば早めにOS工業さんへ行って、1日には大阪化学研究所の内田さんに会って、

もう、パワー全開にするしかないだろう、

また新しい事実が判明するだろう、乞うご期待!!

その会社は「OS工業(株)」

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濱田さんが昭和35年に創業された会社は、「OS工業(株)」である、
              http://www.os-kougyo.jp/publics/index/2(2月8日に出来立てホヤホヤ)
こちらのホームページも、http://www.os-kougyo.co.jp/index.html

ハマライト化学研究所は弟さんに任せ、濱田貞雄さんは新たにそのOS工業を立ち上げられ

た、当時の詳しいことは、今度訪問させていただいた際にお聞きしたいと思っている、

おそらく、まだ知られていない驚愕の事実が出てくることだろう、

ただ残念なことは、貞雄さんが10年前に亡くなられていたこと、もしお元気であったな

ら、全てのまだ知られていない事実が次々と明らかになったことだろう、

貞雄さんは、謙虚な方で自分のことを自慢したりすることもなく、日本で初めてプラスチック

モデルを開発したことも生前は一言も言われなかったので現在の親族の方々もまったくご存

じではなかった、今回初めてそのことを知ったという、

おそらく、これからも新たな新事実が出てくるはずである、

なお、OS工業(株)のホームページは僕の追跡調査がもっと進んだうえで会社の沿革は書き

加えられる予定となっている、ま、僕も事あるごとに宣伝して業績アップ?に貢献させてい

ただこうと思っている、まあ、取引先である〇〇〇はビックリ仰天なさるに違いない、吉と出

ることを願うのみである。


趣味感覚で、

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濱田貞雄さんは、趣味程度の感覚でプラスチックモデルの開発を行っていた、

金型も自分でおこして製作していた、そう、趣味感覚でやっていたらしい、

まあ、そう言われればそれで今までの経緯について納得がいく、

そう、大阪化学研究所等を間借りして機械類をあちこちから持ち込んでやっていたことも、

電話もあちこちの電話番号を使用していたことも、

特に宣伝することもなく、ほとんど表舞台に現れなかったことも、そして、あっさりとプラモデ

ルから徹退したことも、

驚くべきことは、貞雄さんは素人だったという、大阪化学研究所にいた数年の間に金型設計

製作、成型加工、合成樹脂原料等の全ての技術知識を習得されたということである、そして

それらを趣味感覚で、もう驚くしかない、

その後、大阪化学研究所を引き揚げた後は東京で「ハマライト化学研究所」を立ち上げた、

日本プラスチックの製品として確認されているものは、証言ではゼロ戦、資料では「フライン

グヘリコプター」、現物では「ノーチラス号」を確認している、実はもっと他にもある可能性は

大である、

例の三共模型のプロペラボート「フライング シャーク」もそうではないだろうか、箱の側面に

は英文で日本プラスチックとある、いやもっとあるはずだ、日本プラスチックと表示がないもの
 
も、最近では戦艦大和の金型の話も出てきた、実はこの戦艦大和は、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 、

日本プラスチックはメーカーがプラスチックモデルに新規に参入する際に深く関わっていた

可能性が高い、そう、技術指導やら金型製作やら、

その一番いい事例が、NBKが初めて発売した「ノーチラス号」だろう、

すでに消滅してしまったメーカーは特にどうってことないが、現在生き残っているメーカーにとって

は「不都合な真実」が出てくる可能性が高い、そう、マルサンだけでなく、今までの物語が根底か

ら覆されるからである、

あくまでも僕の憶測ではあるが、日本プラスチックは、いや濱田さんは、プラスチックモデル

がメーカー全般に行きわたったところで、もう自分の役目は終わったということでプラモデル

業界から撤退したのではないだろうか、そう、プラスチックモデルの開発は趣味の範囲だっ

たからである、濱田さんはプラスチックモデルの発展のために影の存在として大きく貢献されてい

たのではないかと僕は推測している。


ハマライト化学研究所時代は、

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もう一度、次の広告をご覧いただこう、

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       (昭和34年8月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

日本模型新聞からはこの広告記事を最後に日本プラスチックは表舞台から姿を消してしまう、

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しかし、広告ではこのようにプラスチック総合経営、金型設計製作、及び原料、各種成型加工、

及び販売、となっている、昭和34年頃といえば、まだまだ模型メーカー等はプラモデルについて

は未着手、技術等も未知の時代であった、

だから、この広告はハッタリ、誇大広告だと思っていた、しかし、そうではなかった、

濱田さんはこの頃にはいやずっと以前に完璧なまでに技術から原材料の調達まで、それこそプラ

モデルを製造するノウハウを得ていたのである、そう、自分らで金型設計製作からプラスチック原

料の調達、製造まで、 プラモデル事業に新規参入するメーカーの技術指導や金型設計製作等

に関わっていたと思われる、その疑惑の一例が先の記事にも書いたように〇社の戦艦〇〇のプ

ラモデルである、昭和34年には主な舞台は大阪から東京の「ハマライト化学研究所」に移ってい

たが、その頃はおそらく数社のメーカーと関わっていた可能性が高い、実際に、その「ハマライト

化学研究所」の時代はかなり羽振りが良かったらしい、

僕の今までの推測は間違っていた、日本プラスチックは日本で初めてプラモデルを開発し発売し

たものの、あまり売れず資金難等で消滅したものとばかり思っていた、

が、事実はそうではなかった、表舞台には現れずメーカーの逆影武者的な存在として活動してい

のではないだろうか、濱田さんは残念ながら10年前にお亡くなりになられた、もし、今もお元気

あったらならもっと具体的な、アッと驚くタメゴロ―的な事実が判明したことだろう、

まだまだ断片的なことしかお聞きしていないので、東京へ行った時に最後の証人の方に当時のこ

とを詳しくお聞きしたいと思っている。

段々と深みに、

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段々と深みにハマっていく、まさか当初はここまで深みにハマっていくことは想像だにしなかった、

何度も言うように、当初はせいぜい日本プラスチックの存在と概要が解明できればいいくらいに考

えていた、そして、いろいろなお方とも知り合うことができ、好意的に対応していただいた、

しかも、関係者の方々には非常に喜んでいただいた、そう、関係者でもまったく知らなかった遠い

過去の歴史のことをよくぞ調べてもらったと、そのような歴史があったのかと、

そして、よくぞ突き止めてくれたと、まさにそれを今か今かと自分を突き止めてくれるのを待ってい

たかのように、それが火星人さんであった、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70895313.html
                          http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70922053.html
                          http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70928067.html

その火星人さんに電話をかけてみた、今週またお邪魔しますと、予定としては金曜日、

最近、自転車でスーパーに買い物に行く途中で転んだらしいが、幸いなことに骨は折らずにすん

だらしい、それと病院嫌いで医者からは入院しろと言われているも、それを拒否していらっしゃる、

なんでも自宅で自然に死んだほうがいい、と頑固でまさに昔風の男である、

冗談だろうとは思うが、「去年死ぬはずだったが、間違いなく今年中には死ぬはずだから」と、

そして、終活の準備もしていると、 そして、その一部を明かしてくれた、

それを聞いて、「エッ!! 本当ですか!!」 と、あまりの驚きにその後の言葉が出てこない、

僕の本心としては嬉しいが、何と言っていいのやら、

仮にそれが事実だとしても、親族の方がはたして実行してくれるかどうかはわからないが、

火星人さんのそのお気持ちだけでも充分すぎると思っている、まだまだ長生きしていただかない

と、そう、まだまだお聞きすることが残っている、それと、実はジートッププレスの社長さんと火星人

さんと僕との三者会談?がまだ残っているので、それが実現するまでは口も達者でいてもらわな

いと困るのである。






ミツワ エスコンシリーズ

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モーターは動力用とステアリング用の2個、毎度のことながらモーターのピ二オンギアはスカスカ

になっていたので交換、もちろん、モーターには接点復活スプレー等を吹き付けて回転をよくす

る、


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リモコンコードは取り外し可能のコネクター式になっているので、まずこの部分の接触具合を調整

する、

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最大の難所はこのリモコンボックス、とにかく金具の接触箇所が多いのでそれを調整するのが難

しい、

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この赤いのが前進、後進用のスライドスイッチ、

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4個の金具が全てうまく接触しないといけない、これがリモコンボックスにセットすると、どこかが浮

いたり、接触箇所がずれたりとなかなか調整するのが難しい、

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なんとか無事に調整完了、ただ、操縦すると両手がふさがりその動画を撮るのが大変なので

静止させた状態で撮ってみた。


同じミツワのユニコンシリーズの記事はhttp://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69561362.html





20年前、よく利用していた、

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20年ほど前、まだインターネットが流行り出す前、よく利用してしていたのが通販だろう、

その中で、模型雑誌ホビージャパンの広告でお馴染みのものがあった、

そう、「ジョイハウス」であった、おそらく多くの絶版プラモ好きの方々が利用されていたのではない

だろうか、もちろん、僕もその中の一人であった、

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もちろん、今はこの住所には存在しない、廃業なさっている、

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20年前当時は格安だった、大滝の煙を吐く走るロッキードなど一桁違った、

詳しくは言えないが、去年の夏にあることから知り合いになり何度もお邪魔するようになってい

た、しかし、最近連絡がとれなくなり行ってみた、

あいにくと留守であった、お隣に聞いてみると、「朝早くから出かけていましたよ」 とのこと、

まあ、お元気だったからいいや、

今日は火星人さんの自宅へ行く予定だったので、昨日の夜に電話をかけてみた、

しかし、何度も電話をかけるも呼び出し音が鳴るのみ、

もしや、と不安がよぎったが、もう一度かけてみようと9時過ぎにかけてみた、

すると、やっと電話に出られたので、「大丈夫ですか~」と言うと、

「良くないわ~」とか細い声が、僕が数日前に電話をかけて以来体調がよくないらしい、

「じゃあ、明日お邪魔するのは無理ですよね」、 「うん、来週にして」と元気のない声、

僕としては何にもしてあげられないのが辛い、何と言っても90歳、

来週にでもまた電話をしてみるしかない。

ニチモの伊号潜水艦はロングセラーだった、

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ニチモがプラモデル事業を廃業してからまもなく3年が経とうとしている、

あの地元では衝撃的?なニュースがその原因だとは思わないが(笑)

さて、先の記事にも書いたようにニチモの最初のプラモデルは伊号潜水艦であり昭和34年2月の



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もっと正確に言うと、その2年前の昭和32年にこの広告のフライングヘリコプター ソニー号を発

売していた、もっともこれをプラスチック玩具というべきか、プラスチック模型玩具というべきなのか

微妙なところではあるが、

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ところで、その伊号潜水艦は昭和40年代中期のカタログにも載っている、

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そう、この伊号潜水艦、なんと当時の価格と同じ100円そのまま、

おそらく発売から15年くらいは模型店の店頭でずっと売られていたのだろう、

火星人さんの証言でもこの伊号潜水艦は当時爆発的に売れたらしい、

もちろん、僕もたしか小学5年生の頃に小学校前にあった文房具店で買った記憶が残っている、

ひょっとしたら、プラモデル歴史の中でも最大のロングセラー商品だったのかもしれない、

どなたか、昭和40年代に購入された方はいらっしゃるだろうか。

火星人は「モデル大賞」の、

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昨日、本屋で26日発売の模型雑誌モデルアートを立ち読みした、そう、火星人の記事を読みたく

て、もちろん、僕のネタは一切入ってないし、記事を書かれた編集の方のことも一切僕は知らない

い、おそらく、僕のブログ等から火星人さんがまだお元気だということを知り、その思い出話を書い

ていらっしゃるのだろう、昔、その「火星模型店」に通っていた方々はそのモデルアートの火星人

の記事を読まれてはいかがろうか、

ただ、その火星人さんも先週から体調がよくないので、月曜日にでも電話をかけてみたいと思って

いる、ところで、その火星人さんは当時の日本模型新聞紙上で言いたいことを書いていたのは先

の記事でも紹介したとおりである、

例えば、「マブチモーターに告ぐ」とか、「マルサンのプラモデルを返そう」とか過激な文でもってか

なりメーカー等を痛烈に批判していた、

まあ、普通ならまずありえないだろう、そんなこと記事にしたらメーカーの広告がなくなってしまう、

日本模型新聞としてはメーカーの太鼓持ちとなって広告収入を得るのが常識だろう、

火星人さんに聞いたところ、当時は何でも自由に書いていいと言われていたらしい、

書いた記事はそのまま修正することなく誌上に載せられたという、

メーカーからクレームがくることもなかったという、

それは、なぜなのか、火星人さんは言う、

その一つの最大の理由は「モデル大賞」だったと、

そう、その「モデル大賞」を企画し中心的な役割をはたしていたのが火星人さんであった、

メーカーにしてみれば、火星人さんに逆らえばそれこそボロクソに自社製品を評価される恐れが

あったからだという、まさに火星人さんは模型業界の最大のご意見番だったのである、

火星人さんが「火星模型店」を閉店なさったのが昭和53年、それからすでに38年という歳月が流

れようとしている、その長い間、「火星模型店」という名が出てくることもなかっただろう、

それが最近になって再び「火星模型店」という名が脚光?を浴びるようになり、そのことを火星人

さんに話すと随分と喜んでおられる、おそらく、そのようなことは閉店以来なかったのだろう。

さて、話は変わって、押入れをゴソゴソとしていたらトロフィーが出てきた、

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「モデル大賞」ならぬ、「日模賞」となっている、これはいかなる賞なのか、

おそらく当時この賞をニチモからもらった方もいらっしゃることだろう。

NBK ノーチラス号の残骸

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mas*k*zu_c*nem* さんからのご質問により、そういえば何か潜水艦の残骸がたしかあったなと

思い探してみたらあった、

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そう、この残骸の中にあった、

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これが、その潜水艦のノーチラス号、残骸なのであちこちと部品は欠落している、

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スイッチは金属製の潜望鏡、発泡スチロールもあり、

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単3電池2本を使用する、

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アレッ、電池を交換する際の蓋が船底にない、

実は、このノーチラス号は船体の上下は接着しないようになっている、

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接着しないで、この爪で上下の船体を固定するようになっている、

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そう、このように、

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この刻印のとおり、NBK(日本文化教材)のノーチラス号となっている。

日立キドカラー号 飛行船

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再び「日立キドカラー号」の話題を、

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戦後初めて日本の上空を飛んだ飛行船が「日立キドカラー号」であった、

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時は、昭和43年9月1日であった、

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その前に飛んだのが昭和4年の8月のこと、

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そう、この「ツエベリン伯号」以来のことであった、

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                 (昭和44年1月1日 玩具通信より)

その39年ぶりに日本上空を飛んだ「日立キドカラー号」を記念して発売されたのがバンダイの

「日立キドカラー号」であった、

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このように、日本全国を飛び回った、当時この「日立キドカラー号」を見上げて追いかけた子供達

も多くいたことだろう、

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その「日立キドカラー号」についてはこの「飛行船時代」にも詳しく書かれている、

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しかし、その「日立キドカラー号」も昭和44年4月4日、徳島の津田海岸に係留されていた時に

天候が悪化し強風にあおられて繋いでいたワイヤーが切れて、キドカラー号はのたうちまわり

手に負えなくなりガスを抜かれ分解されて2度と飛ぶことはなかったのである。


ハマライト化学研究所は某模型メーカーと

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実は、昨日ある書籍を読んでいたら大変な事実を掴んでしまった、

僕がすでに持っていたある書籍を念のために読んでいたら、そう、ひょっとしたら東京で濱田さん

兄弟が立ち上げた「ハマライト化学研究所」のことが載っていないかと、ひょっとしたら載ってるか

もと、  すると、アッタ~!!、当たり~!!「ハマライト」のことが載っていた、

疑惑だけではなかった、濱田さんのハマライト化学は某模型メーカーがプラモデル業界に新規に

参入する際に深く関わっていたのである、 ちょうどその時期に、

そして、そのプラモデルとは ・ ・ ・ ・ ・ ・

そして、そして、

その某メーカーとは、う~ん、それは、まだまだ内緒にしておこう、(明石でのプラモ講座に来てい

ただいた方々はおわかりのはず、今回特定できたプラモデルは戦艦〇〇ではなく、〇〇ー〇〇〇

ー) 

そして、そのことが書いてあるその書籍とは、それもまだ ヒ・ミ・ツ、

ヒントだけ言うと、その書籍はある方の伝記物、

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おそらく、濱田さん兄弟は当時多くの模型メーカーや玩具メーカーと関わっていたのだろう、マル

サン以外のメーカーと(笑)、

つまり、金型設計製作、原材料調達、技術指導などで、

しかし、それにしてもまったくの素人の濱田さん兄弟が大阪化学研究所の内田さんから指導を受

け、プラスチックモデルの開発にとりかかったのが7、8年前ほどの昭和28,9年頃である、

その時、濱田さんは23、4歳の頃である、それがたった3年でゼロ戦のプラスチックモデルを開発

発売し、それからたった3年ほどで模型メーカーのプラモデル業界への参入のために深く関わっ

ていたとは、もう驚きとしか言いようがない、

一体、濱田さん兄弟はいかなる人物だったのだろうか、益々興味が湧いてくる、

その濱田さん兄弟を昭和28年頃から指導していた大阪化学研究所の内田さんのお孫さん(当時

中高校生だったという)には明後日の1日に東大阪の現地でお会いすることになっている。


濱田さんは模型業界の、

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すでに某模型メーカーのことなどもバレバレになってしまったが、おそらく調査を重ねるごとにこれ

からも驚くべき事実が出てくることだろう、ただ残念なことはすでに濱田さんらは10年ほど前にお

亡くなりになられていることである、直接ご本人に当時のことをお聞きすることができたなら、それ

こそ驚愕の事実が判明したに違いないだろう、最後の鍵は90歳になられるお姉さまである、来月

の下旬に京まで行ってお会いする予定となっている、

濱田さんは生前、当時のことなどはほとんど話されることはなかったという、もちろん、日本で初め

てプラスチックモデルを開発したことなども自慢したり、話されることもなかったという、

あのマルサンの金型職人とはエライ違いだろう、格が違いすぎる、

だから、甥っ子さんも(濱田さんが設立された今の会社の社長)も当時プラモデルの金型を作った

り、プラモデルやら玩具やらを作っていたのはご存じであったが、まさか、日本で初めてプラスチッ

クモデルを開発されたことなどはご存じではなく、ただ、ただ驚かれた、

濱田さんは日本で初めてプラスチックモデルを開発されただけでなく、それこそ、当時の模型業界

におけるプラモデル産業発展の最大の功労者であったと僕は思っている、

もし、濱田さんが当時いなかったら今の某模型メーカーも存在しなかったかもしれないし、プラモ

デル産業の発展も数年遅れていたかもしれない、

しかし、日本プラスチックという会社が模型歴史の表舞台に現れることはなかった、歴史の片隅に

埋もれてしまっていた、それはなぜか、それは表だって特に宣伝も何もしなかったからである、

そして、濱田さんは模型メーカーに発展させる気はなく、あくまでも趣味的な遊び的な感覚であっ

たという、だから、あえて宣伝する必要もなかったのだろう、

後年になってその歴史を調べるには残っている資料、記録でしか調べる術はない、

その資料、記録、現物がほとんど残っていないわけだからその存在を知るのが難しい、

だから、マルサンのように捏造したものであっても派手に宣伝広告したものがもてはやされ、それ

がいつのまにか本物になってしまうのである、一言で言うと、一番に言ったもん勝ちということであ

る、しかし、そのマルサン伝説とやらはもうすっかり崩壊してしまったので、あとは日本プラスチッ

ク、濱田さんも模型歴史の表舞台に現われていただかないといけない、いや、もう一人いた、

その濱田さんらを指導していたプラスチックモデルの生みの親ともいえる大阪化学研究所の内田

さんである。

明石にて「生範義 展」

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明石が生んだ、スターウォーズ、ゴジラを描いた巨匠 「生範義 展」が開催される、

場所  明石市立文化博物館  4月16日~5月29日

駄玩具みたいな有井の建設シリーズ

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駄玩具みたいな、グリコのオマケを大きくしたようなプラモに有井製作所の建設シリーズがある、

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その建設シリーズの中の「ハシゴ車」と「ロードローラー」である、

ずっと前に組み立てていたので取り出してみた、

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接着剤は不要、パズル式ではめ込めとなっている、

ハシゴ車はゼンマイ式、ロードローラーはゴム動力となっている、

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ハシゴもこのように伸ばすことが出来る、

とても可愛らしいプラモデルとなっている。

その金型の原型は濱田さんが、

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http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71114212.html の続き、

もう、バレバレになっているのでいいだろう、そして自叙伝にも書いてあるのでいいだろう、

田宮模型の車では最初のプラモデルの「ベビーレーサー」の金型の原型は濱田さんが提供したも

のであった、

東大阪の日本プラスチック時代から東京のハマライトへと舞台を東京へ移した濱田さんは、そこで

いろいろな模型メーカーや玩具メーカーと関わっていた、特に宣伝、PRすることもなかったが、そ

う、趣味程度の遊び感覚でやっていたが、その評判はかなり知れ渡っていたのだろう、

実際、ハマライト時代の濱田さんはかなり羽振りもよかったという、

一体、いかほどの模型メーカーや玩具メーカーと関わっていたのだろうか、その詳細はすでに濱

田さんはお亡くなりになっているので今のところわからない、

ただ、言えることはもし濱田さんが当時いなかったら、今の模型業界も・ ・ ・ ・ ・ ・

何度も言うように、濱田さんは生前当時のことを話すことはほとんどなかったという、

一体、濱田さんはいかなる人物だったのだろうか、

それは、今月下旬にお会いするお姉さまにお聞きするしかないだろう。


昨日は大阪化学研究所の内田さんに

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昨日は東大阪の大阪化学研究所で内田さんにお会いしてきた、


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近鉄の布施駅から歩いて5、6分、

あのマンションが建っているところが当時の敷地、


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このマンションと消防署の向こう側が当時の敷地、

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あの3階建てのビルが今の大阪化学研究所のビル、今は空きビルとなっている、

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大阪化学研究所のプレートも掲げられている、

昭和28年頃から濱田さん兄弟はこの大阪化学研究所の工場内に機械類を持ち込んでプラスチ

ックモデルの開発等を行っていた、その指導を行っていたのが昨日お会いした内田さんの祖父の

内田義勇さん(1890~1955)であった、ただ、義勇さんは合成樹脂関連は専門家であったがプ

ラスチック関係の製造技術等は専門ではなく、実際の製造過程等の指導はしていなかった、

つまり、工場の片隅に場所を貸して濱田さん兄弟に自由に使用させ、たまに合成樹脂関連で聞か

れると指導する程度であったという、おそらく濱田さんらは独学でやっていたのだろう、

よく考えてみたら、当時プラスチックモデルを開発しようなどと考えた人もいなかっただろうし、技

術等を持っている人もいるわけない、まさに独学でやるしかないだろう、試行錯誤で、

濱田さんらが先生と呼んでいたその義勇さんも昭和30年夏に亡くなられた、当時九州で高校の

教員をなさっていた内田さんの父である彰さんは教員を辞め大阪化学研究所を引き継がれた、

彰さんは化学関連はまったくの素人であり、濱田さんらを指導することはなかった、

つまり、濱田さん兄弟は昭和30年の夏までにはすでにプラスチック関連についてはほとんど技術

等を習得していたものと思われる、一体どのようにして素人の濱田さんらが習得していったのかそ

れは内田さんも中高生の頃であり、まったく興味がなかったのでわからないとのこと、

たった2年ほどで、まさに恐るべし濱田兄弟である、一体いかなる濱田兄弟だったのだろうか、

そのあたりは90歳になられるお姉さまにお聞きすれば判明するだろう、

義勇さんが亡くなられた2、年後くらいに濱田さん兄弟は大阪化学研究所を引き揚げた、

そう、昭和31年にゼロ戦を発売しその翌年の昭和32年にノーチラス号を発売、そのノーチラス号

はNBKに譲った、

おそらくその後、舞台は東京のハマライトへ移ったのだろう、そしていろいろなメーカーと関わって

いったのである、

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昔のアルバムを探していただいて当時の建物の写真等が残ってないかみていただいたが、

残念ながら当時の建物や濱田さん兄弟の写真は見つからず、しかし、まだアルバムがあるかもし

れないので探してみるとのこと、とりあえずは大阪化学研究所の門の写真だけ、

ところで、「東京堂模型店」があった場所は、布施駅から2つ目の小坂駅、

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この小坂駅から歩いて3、4分のところ、

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この「ビバリヤ」という靴屋さんのところ、

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掃除をなさっているところが昔の「東京堂模型店」があった場所となっている。

プラスチック玩具のピストルを、

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ハマライト時代の濱田さんはプラスチック玩具のピストルも製造していたらしいので、念のために

調べてみた、


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取り出したのは昭和35年に作成された某資料、

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日本全国の当時ピストル玩具を製造していたメーカー、玩具問屋等のリストが載っている、

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もちろん、布施市内でピストル玩具を製造していた業者も載っている、

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しかし、この資料の中には濱田さんは載ってない、

濱田さんは一体どこのメーカーのピストル玩具を製造していたのだろう。
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