昨日は東大阪の大阪化学研究所で内田さんにお会いしてきた、
近鉄の布施駅から歩いて5、6分、
あのマンションが建っているところが当時の敷地、
このマンションと消防署の向こう側が当時の敷地、
あの3階建てのビルが今の大阪化学研究所のビル、今は空きビルとなっている、
大阪化学研究所のプレートも掲げられている、
昭和28年頃から濱田さん兄弟はこの大阪化学研究所の工場内に機械類を持ち込んでプラスチ
ックモデルの開発等を行っていた、その指導を行っていたのが昨日お会いした内田さんの祖父の
内田義勇さん(1890~1955)であった、ただ、義勇さんは合成樹脂関連は専門家であったがプ
ラスチック関係の製造技術等は専門ではなく、実際の製造過程等の指導はしていなかった、
つまり、工場の片隅に場所を貸して濱田さん兄弟に自由に使用させ、たまに合成樹脂関連で聞か
れると指導する程度であったという、おそらく濱田さんらは独学でやっていたのだろう、
よく考えてみたら、当時プラスチックモデルを開発しようなどと考えた人もいなかっただろうし、技
術等を持っている人もいるわけない、まさに独学でやるしかないだろう、試行錯誤で、
濱田さんらが先生と呼んでいたその義勇さんも昭和30年夏に亡くなられた、当時九州で高校の
教員をなさっていた内田さんの父である彰さんは教員を辞め大阪化学研究所を引き継がれた、
彰さんは化学関連はまったくの素人であり、濱田さんらを指導することはなかった、
つまり、濱田さん兄弟は昭和30年の夏までにはすでにプラスチック関連についてはほとんど技術
等を習得していたものと思われる、一体どのようにして素人の濱田さんらが習得していったのかそ
れは内田さんも中高生の頃であり、まったく興味がなかったのでわからないとのこと、
たった2年ほどで、まさに恐るべし濱田兄弟である、一体いかなる濱田兄弟だったのだろうか、
そのあたりは90歳になられるお姉さまにお聞きすれば判明するだろう、
義勇さんが亡くなられた2、年後くらいに濱田さん兄弟は大阪化学研究所を引き揚げた、
そう、昭和31年にゼロ戦を発売しその翌年の昭和32年にノーチラス号を発売、そのノーチラス号
はNBKに譲った、
おそらくその後、舞台は東京のハマライトへ移ったのだろう、そしていろいろなメーカーと関わって
いったのである、
昔のアルバムを探していただいて当時の建物の写真等が残ってないかみていただいたが、
残念ながら当時の建物や濱田さん兄弟の写真は見つからず、しかし、まだアルバムがあるかもし
れないので探してみるとのこと、とりあえずは大阪化学研究所の門の写真だけ、
ところで、「東京堂模型店」があった場所は、布施駅から2つ目の小坂駅、
この小坂駅から歩いて3、4分のところ、
この「ビバリヤ」という靴屋さんのところ、
掃除をなさっているところが昔の「東京堂模型店」があった場所となっている。