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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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今日は出張のためブログは休み、

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今日は静岡出張のためブログはやすみ、どこへ出張? それはこのブログでは明かせないので

 ヒ、ミ、ツ。

その間借りしていた場所とは、ところが、

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ついに突き止めたその場所とは、


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当時の古い東大阪の商工名鑑に載っている、この電話番号である、これは昭和44年のもの、

三木商店、創業が昭和25年、惣菜屋さんらしい、

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その電話番号が721-7637 となっている、

もちろん、この昭和44年の商工名鑑だけでなく、念のために昭和39年の電話番号簿でも確認は

している、

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昭和33年当時は局番が一桁少ないので(72)となっている、

これで、三木商店というところを間借りの事務所等に使用していたのは間違いないだろう、

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ネットで調べてみた、アッタ、東大阪のみやこ商店会である、電話番号も当時のままとなっている、

もう、ここに間違いないだろう、それにしても総菜屋さんとは意外であり、なぜそこを選んだのかは

その理由等もわからない、

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すでに東大阪の住宅地図は購入してある、

該当地区を見てみると、その商店会はあの元財務大臣「塩じい」さんのすぐ近くである、

大阪化学研究所からも歩いて10分くらいの距離だろう、

直ぐに現地に飛んでみようと思ったが、たまたまその商店会の様子のユーチューブがあったので

見てみた、

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すると、なんとその「三木商店」のシャッターが下りている映像が、そして貼り紙が見える、

エッ、ひょっとしたら、すでに閉店済みか、

電話をかけてみたら、「この電話番号は使われていません」と、

ああ~、またしても遅かった、追いつめても、追いつめても逃げられていく、

しかし、逃げられれば逃げられるほど追いかけてみたくなる、

今度現地へ飛んで、聞き込みするしかないだろう。

④当時から、(株)日本プラスチックスの存在はしられていた、

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まづは、(株)日本プラスチックスの追跡調査に入る前に、

実は、(株)日本プラスチックスの存在というものは当時すでに知られ、プラスチックモデルの一番

手はマルサンではなく、日本プラスチックスだとわかっていた、

昭和36年10月の日本模型新聞に「火星模型店」の火星人こと多田さんが痛烈に批判した記事

を掲載した、そう、火星人なるペンネームで日本模型新聞に記事を毎号書いていた多田さんであ

る、多田さんは、日本模型新聞の社友でもあった、

その記事の見出しは、「プラモデルを返そう」という強烈な見出しであった、

そのプラモデルとは、もちろん、マルサンのプラモデルのことである、

その理由は、大阪弁で一口に言うと、マルサンのエゲツナイ商法に怒ったのであった、

その一つが「プラモデル」の商標登録の件である、もちろん他のメーカーがその名称を使用するこ

とはできないが、それは末端の小売店にまで徹底していたらしい、実際にそれらが徹底されてい

るかどうか巡回にくるマルサンの社員もいて、例えば小売店などで他社のプラ模型に手書きで

ラモデル、プラスチックモデル、と書いて掲示しただけでも撤去されたらしい、そのあまりにも強硬

な姿勢に小売店業界も怒ったらしい、それらの怒りの声を多田さんが代表して、プラモデル、プラ

スチックモデルの名称をマルサンが独占的に所有するのは業界の実情に合わないと痛烈に批判

したのであった、そして、関西圏ではマルサンのプラモデル追放運動まで起きかねない状況にな

ったのである、(この件については神戸の模型店でも証言あり)

そして、多田さんはその記事の中でも「プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく、大阪の

布施市にある(株)日本プラスチックスである」とマルサンを痛烈に批判したのである、

そう、多田さんは当時からマルサンのやることがよほど気にくわなかったのだろう、

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そのことについては、この「日本の模型 業界75年史」にも記述されている、

実は後で記述するが、火星人の多田さんはまだまだご健在であった、また当時の証言も得ること

ができたが、それはまた後で記述する、

つまり、(株)日本プラスチックスがプラスチックモデルの一番手、またはその存在を知っている人

はいたのである、ただ、その会社の実態を知る人はほとんどいなかったと思われる、

また、実際に関わった方々も今となってはもうこの世にはいらっしゃらない?だろう、

しかし、実際に存在して誰も知らなかった会社であるならば調べてみたくなる、

そこで、その(株)日本プラスチックスという会社の追跡調査が始まるのであった、

それは、去年の10月の下旬であった、

そして、追跡調査の基となったのが次の資料であった、

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                    (静岡 Yさんからの提供)

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その名簿の中に記載されている「日本プラスチック東京支店と、

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同じく日本プラスチックの本店の住所、電話番号であった、

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                  (東大阪 あうとぱあんさん 提供)

そして、この名簿であった、

まず最初に取り掛かったのが本店住所の「布施市長堂2-90」に日本プラスチックスが存在して

いたかどうかの確認であった、

そこで、当時の昭和34年の古い住宅地図を取り寄せて確認してみることにしたのである、

しかし、その該当住所には日本プラスチックスは存在していなかった、  <続く>

電話番号簿で探してみよう、

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昭和34年8月頃、「フライングヘリコプター」を発売していたことは先の記事でも書いた、


その東京工場の電話番号はおそらく、誰かの電話番号と工場を間借りしていたものと推察される、

さて、その電話番号は誰のものなのか、

そこで、電話番号簿で調べてみることにした、

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これは、昭和34年3月現在の電話番号簿、これより以前に電話を設置していればこの電話番号

簿に載っているとは思うが、

この電話番号簿の中から、828-0083 の電話番号を探し出してみよう、

昨日やってみたが、実際やってみると大変な作業で目が疲れてしまう、

最初のページから1ページずつ人差し指を滑らせながら見ていくしかない、

まあ、1週間くらいを目途にやってみよう。

⑤日本プラスチックスは工場も事務所も電話も持たなかった、

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昭和34年の住宅地図で、「布施市長堂2-90」に(株)日本プラスチックスという会社が存在して

いたかどうか確認してみた、

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しかし、その該当住所に(株)日本プラスチックスという会社は載っていない、

その該当住所らしき場所には(資)大阪化学研究所という会社であった、

さて、(株)日本プラスチックスという会社は架空の会社だったのだろうか、

そこで、東大阪の法務局へ行って、会社の登記簿謄本をとってみたのである、

会社はたしかに実在した、登記簿謄本がとれたので(株)日本プラスチックスという会社は実在し

ていた、

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この登記簿謄本のとおり(株)日本プラスチックスは存在していた、

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本社住所は途中で布施市長堂2-90に変更している、

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これは取締役欄、

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設立目的は登記事項のとおり、合成樹脂製品製造加工、及び輸出、

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設立は昭和31年2月11日、

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おそらく活動期間は数年間だったのだろう、その後活動らしきものがないので法務局に「みなし解

散」とされ、会社の登記簿は閉鎖されてる、

しかし、会社は間違いなく「布施市長堂2-90」に存在していた、しかし、住宅地図ではそこには

(資)大阪化学研究所が載っている、

ここで考えられることは、(株)日本プラスチックスは(資)大阪化学研究所の別会社ではないかと

いうことであった、

そこで、次にとったのがその(資)大阪化学研究所の登記簿謄本であった、

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その(資)大阪化学研究所も同じ住所の布施市長堂2-90 となっている、

しかし、役員等は日本プラスチックスとは違っている、同系列の別会社ではない、

(株)日本プラスチックスは勝手にその布施市長堂2-90 の住所を使用したのか、

そうでなければ、なぜ同じ住所となっているのか、

そこで、注目したのが次の電話番号であった、

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72-0290 という電話番号である、(昭和34年の名簿)

そこで、今度は(資)大阪化学研究所の電話番号を調べてみたのである、

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まさにその電話番号は(資)大阪化学研究所の番号であった、(これは昭和39年の番号簿なので

局番が3桁に増えて変更になっている)

さあ、これで(株)日本プラスチックスという会社は(資)大阪化学研究所の場所を間借りしていたと

いうことがほぼ確実となったのである、そう、工場の片隅を間借りしていたのだろうと、

つまり、(株)日本プラスチックスは店舗も工場も電話も持たない会社だったのであった、

それにしても、一体どのような会社だったのだろうか、

そこで、日本プラスチックスの代表者である濱田偵男さんは一体どのような方だったのかを調べ

てみたのであった、  <続く>

電話番号簿で調査中、

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昨日あたりから、昭和34年3月の電話番号簿で調べ始めた、

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東京工場の、828-0083 の番号である、

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膨大な数の電話番号なので、1ページずつ人差し指を滑らせて一行ずつ探していく、

一気に探すのは無理、目が疲れてしまう、

アッ、アッタ!!

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ついに見っけた!! と思いきや、よく見ると、82-0083 

局番が一桁少なかった、 そう、3桁の828 である、 828番はたしかに存在する、

828-0044 というのもあった、段々と近づいてきているような気が?


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まだまだ、1/5 位、 はたして見つかるだろうか、    <続く>

宇宙戦艦ヤマトは、

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一時話題になった「宇宙戦艦ヤマト」の件、

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http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70675698.html 「新戦艦高千穂」の記事
                                             

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 「宇宙戦艦 ヤマト」
となったという話があったが、真偽のほどはわからない。
          

ナカムラ模型のライター

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最近のいただき物でライターがある、

僕はタバコを吸わないので必要とはしないが、面白いライターだったのでいただいてしまった

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実はよくみると、「ナカムラ模型」の宣伝用ライターだった、

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「ナカムラ模型」のロゴマークが付いている、

しかも、このライターには凝った仕掛けがある、

パット見ではごく普通のライターのように見えるが、

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実は、このライターにはオルゴールが付いている、

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底にオルゴールがセットしてあり、

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着火すると下にシャフトが出てきて、オルゴールを作動させるようになっている。


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そうそう、タミヤのライターもいただいた。

渥美産業の1/1000 箱詰め、

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生まれて初めての箱詰め作業、 箱を起こして、設計図を折り畳んで。

⑥「東京堂模型店」の店主であった、

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さて、(株)日本プラスチックスの代表の濱田偵男さんは一体どんな人だったのだろうか、

そこで、登記簿謄本に記載されている「布施市下小阪693番地」の住宅地図を取り寄せて調べて

みたのである、
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693番地で一番怪しいのは、この「東京堂模型店」であった、

ただし、店名だけでは個人名がわからない、そこで、今度は業者名簿で調べてみたのであった、

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「日本教材新聞社」発行の昭和34年、「業者名鑑」である、

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その名簿の中にあった、布施市下小阪693 「東京堂模型店」 濱田貞雄 (字体は違っている)

(株)日本プラスチックスの代表者は「東京堂模型店」の店主だったのである、

ここで、僕は仮説をたてた、

「東京堂模型店」の濱田さんは、大阪化学研究所の工場を間借りしてプラスチックモデルの開発

に取り組んだのではないだろうか、と、

それにしても、素人の濱田さんが一体どうやってプラスチックモデルの開発を行ったのだろうか、

それは、大阪化学研究所のことを調べなくてはならない、

現在の地図で見てみるとまだそれらしき会社は載っていた、まずはその現地へ飛んでみないこと

には、  現地へ飛んでみると、その建物はすでに空きビルとなっていた、  <続く>

なんとしても見つける、

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絶対に見落としてはならない、1行、1行、確認していく、

828-0083 の電話番号は載っているだろうと、

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828-0075 が出てきた、段々と近づいてきた、「江戸川乱歩」さんの名も、

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828-0089 が出てきた、この欄は芸奴さんの職業欄、(ほとんど芸名)

もうこれで、828-0083 が載っていることを確信した、そう、絶対にどこかに載っているはず、

もう、絶対に見落としてはならない、

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半分ほど終了、あと残り半分に絶対に載っているはず、   絶対に見つける、  <続く>

電話番号簿でやっと、見つけた、

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もともと名前から電話番号をひくのが電話番号簿でそのように編集されている、

電話番号から名前をひくなどもともと想定されていない、僕もそんなこと今までやったこともない、

そう、(株)日本プラスチックスのことを調べるまでは、まあ、誰もそのようなことをやったことはない

だろう、が、今では、それが僕の得意技?となってしまった、

それで今回もやっと、見つけた!!

あと1/5ほど残して、ついに見つけた、

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見逃したら最後、再び見直す気はまったくない、

だから、絶対に見逃さないよう1行、1行、確実に見ていった、

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このページの中にその 828-0083 の電話番号は載っている、

さて、誰の電話番号等を間借りしていたのだろう、と、よく見てみたら、

意外にも、間借りではなかった、そこに記載されている名前は、     <続く>

新しく化学会社を立ち上げていた、

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さて、その 828-0083 の電話番号は、

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このページに載っている、

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この、ハマライト化学研究所、電話番号、住所もピッタリ、間借りではなかった、

濱のハマからとってハマライトと付けたのだろう、

このハマライト化学研究所は昭和33年7月現在の電話番号簿には載ってないので、昭和33年

後期から34年前期にかけて新規に電話をつけたのだろう、

つまり、濱田さんらは東京に新しく「ハマライト化学研究所」という会社を立ち上げたのであった、

あくまでも推測であるが、濱田さんらは33年後期にノーチラス号の金型等をNBKに譲り、その資

金でもって東京にその会社を立ち上げて「フライングヘリコプター」の製造発売にとりかかったので

はないだろうか、

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          (昭和34年8月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

この「フライングヘリコプター」の現物はいまだに見たことも聞いたこともない、

本当に、(株)日本プラスチックスという会社はややこしい、


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この本社の布施市長堂2-90 という住所は「大阪化学研究所」

72-7637 の電話は布施駅南側の「みやこ町商店会」の「三木商店」(しかし、すでに閉店)

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東京工場の東京都文京区駒込坂下199 TEL828-0083 は新しく立ち上げた「ハマライト化

学研究所」

河内工場の河内市若江南杉山722 は「大東化成工業 河内工場」

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まあ、とにかくややこしくて、一体どうなってるんだろう、と言いたくなる、

う~ん、これから先のことを突き止めるのがなかなか難しい。

当時の電話番号簿を見ればその時代がわかる、

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もはや、電話番号簿は僕にとってなくてはならない必需品となってしまった、

電話番号簿がなければ今回の追跡調査等は不可能であった、

そう、本当にこれほど電話番号簿が役立つとは思わなかった、

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これらは東京の昭和29年、31年、33年、34年の電話番号簿である、

10年くらい前に老後の模型研究?のために入手していたものである、やっと今頃になって役にた

ってきた、これらの昭和の古い電話番号簿は時代考証するさいにも非常に役にたつ、

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例えば、この昭和29年の電話番号簿、これは職業別電話番号簿で広告も載っているので面白

い、(人名別、50音順は単に氏名、電話番号、住所だけなので広告は載ってない)

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この昭和29年の電話番号簿を見ただけでも、例のマルサンの話が真っ赤な嘘であることがわか

る、このページは「彫刻」の欄、これだけでも数ページにもわたっている、

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マルサンの話ではプラスチック金型を彫る彫刻師がいなかったというが、昭和29年にはすでに東

京だけでも数えきれないほどの業者が存在していた、いないどころか、ちゃんと立派な機械まで揃

っていた、あと、それから、プラスチックの成型についても、

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もうこんなに当時はすでに業者がいた、数ページにわたって載っている、

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そう、プラスチックの成型など特に目新しいことでもなんでもなかった、

何もドイツから当時の金で4,000万円も出して揃えるまでもなく、プレス成型ではなく、立派な射

出成型までできる機械も国内には存在していたのである、むしろ、プラスチックモデルが現れてい

なかったのが不思議なくらいである、だから、素人の「東京堂模型店」の濱田さんらが開発できた

のである、それがなによりの証拠である、昭和29年でもこれだけ存在していたのだから、この3年

後の32年ならもっと多くの職人、加工業者、もっといい機械類も出てきたであろう、

話は変わって、昔の電話番号簿は今と違って個人情報などまったく関係ない、

全てが大っぴらであった、

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例えば、この俳優さんの欄、

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このとおり、氏名、住所、電話番号、がオープンとなっている、

今ではとても考えられないだろう、

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高齢者にとっては、随分と懐かしい俳優さんの名が載っている、

まあ、昔は全てがオープンであった、個人のプライバシーや、人権がどうのこうのという時代では

なく、おおらかで住みよい時代であった。



⑦大阪化学研究所を間借りして開発、

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その、大阪化学研究所は布施駅から歩いて5、6分くらいの所にある、

もちろん、当時の工場等は建て替えられて今は3階建てのビルとなっている、

ただ、そのビルは今はもう空きビルとなっていた、

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空きビルになって4、5年になるという、 (資)大阪化学研究所のプレートはまだ架かったままとな

っている、 そう、ここに辿りつくのが4,5年遅かった、

そこで、近隣に聞き込みを行ったところ、近くで大阪化学研究所の内田さんと同級生だったという

方に出会った、その方は75歳、内田さんは10年くらい前に東京方面に引っ越されたとのこと、

そして、昭和30年頃は4、5人の男性達が常時この工場に出入りしていたと、

内田さんは某大手化学メーカー〇〇〇(合成樹脂関係専門家)に勤務されていたと、

そこで、その〇〇〇の本社に電話して連絡先等を問い合わせるも当然それは無理な話であった、

次に今度はその空きビルとなっている不動産の登記簿謄本をとってみた、

その登記簿謄本には内田さんの現住所が記載されていた、その住所を基に調べてみたら電話番

号が判明したので電話をかけてみたのであった、

その電話は間違いなく内田さんであった、内田さんの話はざっと次のとおりである、

〇 内田さんは当時中高生、

  濱田さん兄弟ら5,6人は昭和28年頃からうちの工場に出入りしていた、

  工場の片隅にプレス機やらいろいろな機械を持ち込んでプラスチック製品を作っていた、

  濱田さんらは祖父(1890年生まれ)のことを先生と呼んで、祖父の技術指導等を受けながら

  プラスチック製品を製造していた、当時内田さんは模型等には興味がなかったので、具体的に

  何を製造していたのかは知らない、 (内田さんの祖父は今の阪大の応用化学専攻で、当時

  は帝人と提携し人絹(レーヨン)関連の製造を行っていた)

〇 その祖父は昭和30年の夏に亡くなった、大阪化学研究所を引き継ぐために当時九州で教員

   をしていた父は現地から技術者を連れてきて会社を引き継いだ、父は化学関連については

   まったく素人だった、

〇 祖父が亡くなって2、3年後くらいに濱田さんらは引き揚げていった、

  内田さんは大学卒業後はすぐに勤務先の東京へ出ていったので、東大阪に住んだことはなく

  濱田さんらがその後どうなったのかは知らない、内田さんの父は5年前に亡くなったが、父なら

  濱田さんらのことを知っていたはず、

〇 濱田さん兄弟は当時30歳代、弟さんは独身で大阪弁であった、

ということで、日本プラスチックスは大阪化学研究所の工場を間借りしてプラスチックモデルの開

発を行いそして発売までこぎつけた、ということが確定したのである、   <続く>



マイティジャック マイティ号

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作りかけのプラモデルを取り出してきた、今井科学のマイティ号である、

初版ではなく、新しい再販のものである、まあ新しいとは言っても40年は経っているが、

40年くらいは僕にとっては新しいプラモデルとなってしまう、

モーター走行できるのでずっと前に作りかけていたが、まだ色を塗ってない、

というのは、僕は色を塗るのが下手糞なのでずっとそのままにしておいた、

これは色を塗らないと様にならない、まあ、塗るとは言っても最小限に塗るしかない、

しかし、何と言っても、マイティジャックのプラモデルで最高峰に君臨し、プラモデルの仕掛けでも

最高峰に君臨するのは、

「マイティジャック秘密基地」 だろう、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69068273.html

プラスチックモデルのできるまで、

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「子供の科学」の昭和38年3月号を読んでいたら、「プラスチックモデルのできるまで」というペー

ジがあった、

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子供が組み立てているこのプラモデル、そう、これは三和模型のブリキのリモコンのタイガータン

ク、  ん、ん、ん、よく見ると、ちゃんとゴムキャタピラが架かっている、

オカシイな、ゴムキャタピラは架からないはずだが、

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このおばさん達が箱詰めしているプラモデルは何だろう。

⑧ 火星人の多田さんを突き止め証言をえる、

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昭和36年10月号の日本模型新聞紙上でマルサンを痛烈に批判したのは、当時大阪の十三で

火星模型店」を経営し、日本模型新聞の社友でもあった「火星人」こと多田さんであった、

そう、「プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく日本プラスチックスである」と、

なんと、その多田さんは今もご健在であった、現在90歳、

僕は多田さんには失礼ながら、もうこの世のお方ではないと思い込んでいたのである、

日本模型新聞の社長さんに電話にて火星人の多田さんのことをお聞きしたところ、なんと今もご

健在であることを聞かされた、もちろん、連絡先等は教えていただけなかったが、いろいろと調べ

て多田さんの連絡先等を知ることができた、

そこで、まず電話をかけてみたのであった、

多田さんの驚きようは電話口でも感じ取れた、「よくぞ、おれのところを突き止めてくれた、今まで

誰一人として突き止めた人はいなかった、いつかは誰かが突き止めて連絡をしてくるかなと思って

いたが、貴方が最初だ」 と、

多田さんの証言を要約すると、

〇 「火星模型店」を開業したのは昭和32年、ちょうどその開店の時に松屋町の問屋から仕入れ

   たのが日本プラスチックスのゼロ戦とノーチラス号だった、まだプラモデルは国内産のものは

   存在していなかったので、これは珍しいプラスチックの模型だなと思って仕入れた、

  ただ、ゼロ戦が先だったか、ノーチラス号が先だったかは今となっては記憶がハッキリしない、

   ムスタングP51は仕入れたことも見たこともない、

  ゼロ戦はあまり売れなかった、ノーチラス号も売れ行きはよくなかった、

  後に発売されたニチモの伊号潜水艦は飛ぶように売れた、

  マルサンのノーチラス号はよく売れたのか売れなかったのか、あまり記憶には残っていない、

  とにかく、マルサンのやり方は気にくわなかった、

〇 日本プラスチックスの会社のことについては何も知らなかった、

〇 53歳の時に模型店を閉店した、ビル建設のために立ち退きしたためそれを機会に店を閉 

  じた。

この多田さんの当時の昭和36年の記事、証言、それと他の当時日本プラスチックスのゼロ戦を

購入したという数件の証言等により、日本プラスチックスがゼロ戦を発売したという事実は確定し

てよいだろう、もちろん、その翌年の昭和32年に日本プラスチックスがノーチラス号を発売したこ

とも事実である、日本プラスチックスがマルサンよりも先にノーチラス号を発売したことは日本模

型新聞にも載っており、その現物もいくつも確認しており、東京地区でも発売され市場に流通して
いたことは問屋の三ツ星商店の広告にも載っておりまぎれもない事実である。

スターウォーズ名作画集のお知らせ

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出版社から書籍が送られてきたので宣伝しておこう、

1ヶ月ほど前に出版された「スターウォーズ名作画集」である、

まあ、僕はほとんど興味はない、 パラパラとめくっただけ、

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厳密に言えば画像に載せるのは著作権に抵触するが、宣伝してあげるのでお礼は言われても、

文句は言われないだろう、

興味のある方はぜひご購入してあげて下さい。

田宮模型 木製艦船 「空母大鳳」

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さて今度は、めったにお目にかかれない田宮模型の木製艦船模型の「空母大鳳」である、

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そう、ミリオンシリーズの「空母大鳳」である、

完成品はまずお目にかかれないだろう、もちろん、キットも、これは僕の所有物ではない、

千葉のNさんからお借りした模型である、Nさんは木製艦船模型の専門家であり、僕のように出た

がり屋さんではない、めったに表には出られない方である、この田宮のミリオンシリーズの「大

鳳」の完成品はまづ出ないので僕のブログで紹介してみたらどう、とおっしゃるので送っていただ

いた、この「空母大鳳」の模型についての下手な能書きについては特に書かない、知っている人

はちゃんと知っているので、

とにかくこの完成品を見ていただいたらそれでいい、

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単3電池1本と0系マブチモーターで走るようになっているが、当時の木製艦船模型の常識として

スクリュー、スイッチ、ジョイント、舵等の部品はもともと付属していない、自分で別に模型店で購

入しなければならない、それでこの完成品は動力系は付けていない、

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物差しは30センチ、 何と言っても小松崎画伯の箱絵がいい、

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もちろん言うまでもなく、僕がこのように作るのは不可能、僕の腕では無理、とてもできない、

僕ができるのは動かして遊ぶことだけ、

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まあ、今のプラモデルとは比べようがない、木製キット時代の雰囲気を感じ取ってもらえばよい、

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このゼロ戦の立体感、当時の木製キットでないと味わえない、

対空砲の砲身なども付いていないので、虫ピン等を利用するしかない、

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ゼロ戦は逆転スイッチに使われていた茶色の紙の硬い素材をくり抜いたもの、平べったいので立

体感を出すために台座を付けなければならない、

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煙突の傾き具合もいい、

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もちろん、この錨も部品としては付属していないので、別に購入して取り付ける、

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モーターを取り付けて浮かべて走らせるにもバランスをとるのが非常に難しいだろう、

まあ、当時これを実際に作られたという方は今では70歳を超えられていることだろう。
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