まづは、(株)日本プラスチックスの追跡調査に入る前に、
実は、(株)日本プラスチックスの存在というものは当時すでに知られ、プラスチックモデルの一番
手はマルサンではなく、日本プラスチックスだとわかっていた、
昭和36年10月の日本模型新聞に「火星模型店」の火星人こと多田さんが痛烈に批判した記事
を掲載した、そう、火星人なるペンネームで日本模型新聞に記事を毎号書いていた多田さんであ
る、多田さんは、日本模型新聞の社友でもあった、
その記事の見出しは、「プラモデルを返そう」という強烈な見出しであった、
そのプラモデルとは、もちろん、マルサンのプラモデルのことである、
その理由は、大阪弁で一口に言うと、マルサンのエゲツナイ商法に怒ったのであった、
その一つが「プラモデル」の商標登録の件である、もちろん他のメーカーがその名称を使用するこ
とはできないが、それは末端の小売店にまで徹底していたらしい、実際にそれらが徹底されてい
るかどうか巡回にくるマルサンの社員もいて、例えば小売店などで他社のプラ模型に手書きでプ
ラモデル、プラスチックモデル、と書いて掲示しただけでも撤去されたらしい、そのあまりにも強硬
な姿勢に小売店業界も怒ったらしい、それらの怒りの声を多田さんが代表して、プラモデル、プラ
スチックモデルの名称をマルサンが独占的に所有するのは業界の実情に合わないと痛烈に批判
したのであった、そして、関西圏ではマルサンのプラモデル追放運動まで起きかねない状況にな
ったのである、(この件については神戸の模型店でも証言あり)
そして、多田さんはその記事の中でも「プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく、大阪の
布施市にある(株)日本プラスチックスである」とマルサンを痛烈に批判したのである、
そう、多田さんは当時からマルサンのやることがよほど気にくわなかったのだろう、
そのことについては、この「日本の模型 業界75年史」にも記述されている、
実は後で記述するが、火星人の多田さんはまだまだご健在であった、また当時の証言も得ること
ができたが、それはまた後で記述する、
つまり、(株)日本プラスチックスがプラスチックモデルの一番手、またはその存在を知っている人
はいたのである、ただ、その会社の実態を知る人はほとんどいなかったと思われる、
また、実際に関わった方々も今となってはもうこの世にはいらっしゃらない?だろう、
しかし、実際に存在して誰も知らなかった会社であるならば調べてみたくなる、
そこで、その(株)日本プラスチックスという会社の追跡調査が始まるのであった、
それは、去年の10月の下旬であった、
そして、追跡調査の基となったのが次の資料であった、
(静岡 Yさんからの提供)
その名簿の中に記載されている「日本プラスチック東京支店と、
同じく日本プラスチックの本店の住所、電話番号であった、
そして、この名簿であった、
まず最初に取り掛かったのが本店住所の「布施市長堂2-90」に日本プラスチックスが存在して
いたかどうかの確認であった、
そこで、当時の昭和34年の古い住宅地図を取り寄せて確認してみることにしたのである、
しかし、その該当住所には日本プラスチックスは存在していなかった、 <続く>