昨日の記事で読者のお方からコメントをいただいた、
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(昭和35年4月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
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(昭和35年5月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年5月5日日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年5月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年5月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年5月25日 日本模型新聞 ㈱自トッププレス監修済み)
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(昭和35年5月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年6月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年7月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
(昭和35年7月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
そう、ニチモの戦艦大和の発売は武蔵の後である、ということ、まあ、よほどのマニアのお方でないと気がつか
ない、いや、マニアでなくそのスジの重鎮のお方でも気がつかない、というかまったくご存じないのだろう、
まあ僕に言わせれば、別にマニアでも、重鎮でなくてもちょっと研究していればわかること、要は研究不足で
ある、ということ、なんと言っても、タダのド素人の僕が知っていることであるからそう言わざるをえない、
こんな余計なことを言うから僕はそのスジの著名人、そのスジのプロのお方から敵視され嫌われる要因にもな
っているが、まあしかし、正しい模型の歴史のことはちゃんと言わなければならない、間違いは間違いだと正さ
なければなるまい、
そのニチモの戦艦大和、タミヤの戦艦大和の発売前後におけるくだりのことは某書籍等に記されているが全
て誤りである、小池さんではないが、そのことは全てリセットしていただきたい、
結論から先に言うと、
ニチモの戦艦武蔵 → タミヤの戦艦大和 → ニチモの戦艦大和
これが発売の順序である、これがみな最初がニチモの戦艦大和となっている、ニチモの大和ではなく武蔵が
正解である、またそのニチモの武蔵のことは一切触れられていないのが不思議である、まったくの研究不足と
言わざるをえない、ちゃんと調べて書いてほしいものである、
繰り返して言うと、ニチモが最初にプラモ化した戦艦は武蔵である、それは4月のこと、そしてその翌月の5月
に田宮が大和を発売して、その翌月の6月にニチモが大和を発売ということになる、
まあおそらく、あまりにもニチモの武蔵、田宮の大和、ニチモの大和、と発売が接近していたので混同されたの
か、それともうかつだったのか、ハナからニチモの大和と思いこまれていたのか、まあ、ハッキリ言うといい加
減に書かれたのだろう、
まあ、どうでもいい順番であるがせっかく読者の方から僕のブログを読んでスッキリ?したと仰るのでそれにお
応えした次第である、
そこで、その証拠を記してみよう、
この広告のとおり、ニチモの戦艦大和の発売は昭和35年4月頃、
この記事にもあるように、艦船スケールモデルのオールプラスチックの第一弾のニチモの武蔵が発売されたと
ある、
そして次に、その5月の広告に田宮の大和の発売広告が載っている、
この記事にもあるように、プラスチックモデルの艦船モデルの第二弾として田宮の大和が発売されることにな
った、とある、その一弾というのがニチモの武蔵のこと、
そして、田宮が大和を発売した5月の翌月の6月にニチモが大和を発売、
3者出揃ったところで、ニチモの走るプラ武蔵、大和、オールプラ田宮の戦艦大和の広告、となる。
※ ではなぜニチモは一番手に大和ではなく武蔵にしたのだろうか、あくまでも推測であるが考えられることは
ただ一つ、それは、にしき屋がすでに戦艦大和の商標登録を行っていたため、ただその商標登録は木製キッ
トの戦艦大和のみ効力が及ぶものだったが、ニチモはそれを戦艦大和全体に及ぶものと勘違いしていたのだ
ろう、田宮がプラスチックモデルの戦艦大和を発売したものだからそれに気づいて慌てて直ぐに大和を発売し
たものと思われる。
※ どのサイト、書籍類を読んでもこのニチモの武蔵のことには一切触れられていない、皆がタミヤの戦艦大
和を発売直前にニチモが大和を発売したとある、それでタミヤの大和があまり売れなかったとある、まあちゃ
んと研究していないのと、人様の説の受け売りをなさっているのだろう、
※ それから、「艦船模型大全」をご参考に読まれたらその間違いもよくわかる、それといろいろな模型サイト
(具体的にどのサイトとは言わないが)、をご覧になるとその間違いもよくわかる。