戦時中のテレビドラマなどを観ていると、贅沢な暮らしをしていたり、家の中から笑い声が聞こえたりすると見
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回りの自治会長等から非国民だと罵倒されるシーンをよくみかける、実際はどうだったのだろうか、
ましてや、模型飛行機などを飛ばして遊んでいたらそれこそ非国民だと皆から罵倒されたのだろうか、
僕は今でこそ高齢者になってしまったが当時はまだ生まれていないので実際のところよくわからない、
そこで、次の雑誌を読んでみよう、
当時発行されていた昭和19年7、8月号の「模型航空」である、敗戦濃厚となったその当時でもこのような模
型雑誌が出版されていた、
そう、男子どころか女子にまで模型飛行機の授業は行われていた、そして、飛ばして楽しんでいる、
地方でも盛んに模型飛行機大会が開催され九州の佐賀や、名古屋等での大会の様子の記事が載っている、
敗戦濃厚となり、物資等が乏しくなっても模型飛行機関連には国策として教育が強力に実施されていたので
ある、
なんと、無線操縦の模型飛行機まで飛ばして楽しんでいた方もいたようで、
まあよほどの金持ちでマニア中のマニアの方々が楽しんでいたのだろう、
それから、ドイツの「V1ロケット飛行爆弾」の記事も載っている、
当初は無線操縦で飛ぶ爆弾かなと思われていたようで、そうではなく、あらかじめ目標を定めてそこに到達す
るように設計されたロケット爆弾であった、と解説されている、
さて、エンジン模型飛行機は戦前からマニアの間で楽しまれていたが、飛行機模型エンジンといえばOSエン
ジンの小川精機だろう、
これは僕が持っているたったひとつの小川精機の模型エンジンで50年ちかく前のエンジンである、
あまり模型エンジンには興味はないが、通っている模型店で「持ってけ」と仰るのでタダでいただいてきた、
そこで思い出した、そういえば小川精機の社史みたいな本があったなと、
その小川精機の創業者の小川重夫さんの著書である、
「我が模型人生」という著書である、昭和61年5月に発行された社史の非売品である、
これは以前から持っていた書籍であったが、じっくりとは読んでなかった、
あらためてじっくりと読んでみたところ、驚くべきことが書いてある、
この書籍により日本プラスチックの濱田さんの若き頃のことがわかってきたのである、
そして、その日本プラスチックがプラスチックモデルのゼロ戦を開発していたメンバーのこともおおよそ判明し
た、そう、以前の記事にも書いたように大阪化学研究所の内田さんが証言していた、「濱田兄弟らはうちの工
場を間借りして仲間5、6人とやっていた」と、実はその仲間たちとはどのような方々だったのか、その接点は
なんだったのか、それが判明したのである、
まさか、この書籍に濱田貞雄さんの名前が載っていたとは、 <続く>