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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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文春、「日本プラモデル60年史」で

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さて、引き続きそのデタラメ記事についてその嘘を暴いていこう、

そして、マルサンのノーチラス号金型製作についての事実を紹介したい、

もっともその事実は、僕としてはずっと前からわかっていたことであるが、

今回のこのデタラメ書籍の「日本プラモデル60年史」が出版されたので、ちょうどいい機会だと思って暴露しよ

う、

イメージ 1
          (文春 「日本プラモデル60年史」平成30年12月20日)

この記事の中でも例のごとく、相変わらず柴田さんがノーチラス号の開発を命じられた、とある、

はい、ハッキリと断定させていただきます、柴田さんは命じられていませんでした、

命じられたのは先輩の職人さんたちです、

このことについては、僕はずっと以前からそのように言ってきました、柴田さんではないと、

そして、柴田さんはその時プラスチックという素材を初めて見た、とある、

えええ~!!! 昭和32年当時、その頃はすでにプラスチック製品は多く出回っていました、電化製品、玩

具、日用品など、出回っていました、

だから、この最後の行に書いてあるように、家電製品のプラスチックのパーツを作っている工場に見学に行っ

たのでしょ、

おそらくそれまで、日本内でプラスチックを見たことがなかったのは柴田さんただお一人だけだったのだろう、                                                                  (笑)、

イメージ 2
           (文春 「日本プラモデル60年史 平成30年12月20日)

もちろん、ここに書かれていることも真っ赤な嘘、

ノーチラス号の金型は柴田さんが苦労して作ったようにありますが、柴田さんは作っていません、ただ先輩の

職人さんが作っているところを見学していました、その現場を眺めていただけです、

普通に考えたらそうなるでしょう、他にベテランの熟練工の職人さんらがいらっしゃるのに何も入社1、2年の

見習い工さんが、日本初の?のプラモデルの金型製作を任されるはずがありません、作れるはずがありませ

ん、ただ、僕がそう断定するからにはその根拠が必要となるだろう、

それは僕から直接柴田さんに申し上げます、ぜひお会いしてお話ししたいのですが、

僕は当時の関係者の方々を取材してきました、いろいろな事情で表には出てこられない方々もいらっしゃいま

した、マルサン社長と親しかった方にも取材してきました、

たったお一人だけの証言ではありません、

柴田さん、

もう、そろそろいい加減に本当のことを仰ったほうがいいのではないでしょうか、楽になると思いますが、

日本初のプラモデル金型職人を演じるのにお疲れになったでしょう、本当にお疲れ様です、

天国から先輩職人だった皆さんもちゃんと柴田さんを見ていますよ、

でも、絶対に言えないでしょうね、そんなこと言ったら今までの全てのことがひっくり返ってしまいますからね、

ただ、もう一度念を押しておくと、

それは、柴田さんお一人を責めることも、責任を押し付けることもできない、

なぜなら、柴田さんをそのように祭り上げたのはプロの模型ライターの方々だから、

マルサン物語を面白おかしく脚色して作り上げた模型ライターの方々の責任は大きい、

おそらく、柴田さんも引くに引けなくなってしまったのだろう、

そんなこともわからないプロのライターの方々は、あたかも事実のように記事にして、インタビュー、イベントな

どに無理やりに当時のことを証言(もちろん嘘の)させたりして表舞台に登場させ、伝説の金型職人として祭り

あげてしまった、

柴田さんは、日本初のプラモデルの金型職人として、そして伝説の金型職人としてそれを長年演じてこなけれ

ばならなかった、さぞ、お辛い思いをされてこられたのではないのかと、

柴田さんの心中は察するにあまりある、そんな柴田さんの心中もわからないロクでもないプロの模型ライター

の方々は猛反省なければならない、プロとして恥じを知らなければならない、

もう、嘘で捏造されたマルサン物語を書くことはいい加減にやめましょうよ、

イメージ 3


ここでも、昭和32年当時、プラスチックはまだ馴染みの薄いものだった、とある、

プラスチックの歴史を勝手に捏造してはいけません、

著者のお方がお生まれになった時にはすでにプラスチックは家庭にも多くありました、

もちろん、玩具類にもプラスチック製のものがすでに多くありました、ご記憶にないのですか、

もちろん、すでに日本プラスチックの濱田さんも昭和28年にはプラ製の玩具類を製造していた、

そして、濱田さんが工場として使っていた「大阪化学研究所」の斜め向かいでは、あのグリコの玩具工場があ

り、そこでは、「宮本順三さん」が射出成型機などをすでに導入して昭和27年からプラ製のオマケを製造して

いた、またその周辺ではすでにプラスチック成型の多くの町工場が存在していた、

もちろん、すでに昭和28年当時には多くの金型業者、成型業者も存在していた、まさに東大阪はその意味で

もプラスチック産業の先駆けでもあった、

つまり、プラスチック産業は戦後すぐに始まり、昭和25年当時にはプラスチック加工業者専用の、「共同作業

所」なるものも存在していた、そこでは機械類が揃っていない業者達が共同で使用していた、

以上のこともすでにこのブログにて証拠資料、画像等で証明しているので著者の方はちゃんとお勉強してほし

い、ちゃんとお勉強していないのでそのようなデタラメな時代背景などの記事になってしまう、

当時の時代考証もできない、模型のこともちゃんとお勉強していないからこのような本を出版してしまう、

慣れないお仕事を無理してはいけません、恥をかくだけです、このような模型雑誌を出版されるにはまだまだ

10年早いです、基礎からお勉強して出直して下さい、

読者を舐めてはいけません、そして、素人を舐めてはいけません、

それにしても、どうして文春さんから出版したのだろう、当初は、たしかモデルアート社さんからと噂では聞いて

いたが、どうしちゃったんだろう(笑)、

明日は、ノーチラス号発売当時の嘘について、    <続く>


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