「突然の電話で申し訳ありません、自分で言うのもヘンですが、私は決して怪しい者ではありませ
ん、火星人の多田さんでしょうか?」
「 ・ ・ ・ ・ ・ はい、そうですが、」
「それにしても、一体どうやって私のところを突き止めたの?今まで誰一人として私のところまで辿
りついた人はいませんよ、貴方が初めてです!!」
「いつかはマニアみたいな方から何か接触が来るかなとは思っていましたが、今まで誰一人として
来なかった、本当に貴方が初めてです、やっと突き止めてくれましたか!」
火星人さんの驚きようは電話口でも十分に想像できた、そして、自分の存在をやっと探してくれた
のか、というような喜びみたいな火星人さんの気配が感じとれた、
「それにしても、どうやって私の居所を突き止めたのですか?」
「はい、実は、・ ・ ・ ・ ・ 省略 」
どうやって突き止めたかというと、具体的に説明したら多田さんの居所がわかってしまうので省略
しておく、そう、ご本人には失礼ながらまだまだご健在であった、年齢等もふせておこう、
まあ、大体の年齢の想像はつくと思うが、
今回の教訓としては、決めつけてはいけない、思い込みはいけない、先入観もいけない、
しかし、ある程度勝手に推理して調査もしないといけないのでそのあたりが中々難しい、
そこで、多田さんとは電話でいろいろとお聞きすることができた、
差支えないところだけ書いておこう、
実は、多田さんも(株)日本プラスチックスのことについては当時もわからなかったらしい、
そう、一体その会社は布施のどこにあるのか、どのような会社なのか、まったくわからなかったら
しい、
そこで、「では、なぜ昭和36年の10月号の模型新聞の記事でマルサンを痛烈に批判し、プラモ
デルの一番手はマルサンではなく、日本プラスチックだ」 と記事に書いたのですか、と聞くと、
「火星模型店を開業したのは今から58年前です(昭和32年)、その時に入ってきたのが日本プラ
スチックスのゼロ戦と、ノーチラス号でした、当時はまだプラスチック模型がなく、プラスチック模型
とは随分と珍しい模型が入ってきたものだと感心してました、ただ、ゼロ戦が先に入ってきた
か、それともノーチラス号が先だったかは今となっては確かな記憶はありません、その後、マルサ
ンのノーチラス号が入ってきました、だから、日本プラスチックスが一番手だと断定できたのです」
「あの頃から、マルサンはとんでもない商法をやっていたのでケシカランと思っていました」
「当時は日本模型新聞社からはどのような内容で記事を書いてくれとかいう要望はありません
でした、ま、自分の好きなように記事を書いていました」
「当時も日本プラスチックスのことは何も知りませんでした、一体布施のどのあたりにあったので
すか?」
と、聞かれたので、僕はその経緯を説明、 「ああ~、そうだったのですか、だから当時もわから
なかったのですね、しかし、それにしてもあなたは凄いですね、日本模型新聞社の者でも知らなか
ったことを60年経った今になって調べて突き止めたのですからプロ以上ですよね、」
「しかも、私が模型店を閉店した後、私に辿りついたのはあなただけです、ビックリしました」
「私が54歳の時に模型店の店を閉じました、模型新聞の記事は25年間続けました」
等々、電話で1時間ほど、
とにかく、ゼロ戦のプラモデルは未だに確認はされていないが、当時の模型店主が実際にそれを
仕入れ販売したというのだから、それもタダの模型店主ではなく日本模型新聞社の社友であった
多田さんが証言するのだから、これはもう間違いないだろう、もう、誰が何と言おうと、マルサンが
一番手だというヘンなこじつけなどは通用しないのである、
そう、日本プラスチックスのゼロ戦が一番手、次がノーチラス号、そして3番手がマルサンの動か
ないタダの貼りぼてのレベルのパクリのノーチラス号なのである、
ただ、ゼロ戦のプラスチックモデルはもう存在している可能性は極めて低い、おそらく発見される
ことは今後ともないだろう、
あと重要なこと?等々は、書けないので省略する、(来年開催予定のプラモ講座の時にでも)
意外だったのは、多田さんが日本プラスチックスのことをまったく知らなかったこと、てっきり多田さ
んは日本プラスチックスのことを知り尽くした方だとばかり推測していたが、これは見事に外れて
しまった、が、最後の生き証人としてプラスチックモデルの国内初は日本プラスチックスだったとい
うことの証言をとることができた、もちろん、年内はご本人の都合で会えないが、来年の1月くらい
にご自宅へ訪問させていただくことにした、
アッ、それと、大阪化学研究所の内〇さんとも会わなければいけない、それもおそらく1月頃に
なるだろう。
それから、もう一度https://www.youtube.com/watch?v=xcWsHti7Z20 このユーチューブを。
(まあ、いい加減なおぼろげな記憶、証言、当時他のメーカーにもひょっとしたら樹脂製品の模型
があったかも、だと、あったかも、ではなく、あったんです!!
当時は成型機もあまりなかったらしい(笑)、成型機は沢山あったんです!!昭和32年からプラスチックモデルを開発し始めたらしいが、すでにその時には日本プラスチックスのゼロ戦、ノーチラス号は東京でも出回っているんです、こんなもの証言にもならない、このようないい加減な証言等に基づいて物語を作っている、まあ、証言者は世間のことは、まったく関心がなかったような、司会者?も人の嘘の情報の受け売りでまったく勉強不足)