その重大な見落としがあったことというのは、次の広告、
![イメージ 1]()
![イメージ 2]()
![イメージ 4]()
![イメージ 3]()
![イメージ 5]()
![イメージ 6]()
![イメージ 7]()
![イメージ 9]()
![イメージ 10]()
![イメージ 11]()
![イメージ 12]()
![イメージ 13]()
![イメージ 8]()
(昭和34年8月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)
実は、この広告を見落としていた、日本プラスチックスの広告は載ってないものと先入観があった
ものだから、完全に見落としていた、しかも、プラスチックモデルでなかったので、
プラスチックモデルでなく、このような玩具を製作発売した意図もよくわからない、
ただ、この時期までまだ濱田さんらは活動していたことはわかった、
そして、この広告で益々謎も深まった、それは、
この本社の住所は、大阪化学研究所であるも、電話番号は代わっている、
同じ昭和34年の商工名簿では大阪化学研究所の電話番号である、
ということは、昭和34年後半頃に電話番号だけをかえたということなのか、
それと、工場が増えている、
そう、なんと、いつの間にか河内工場と東京にも工場が、
そして、この広告には東京支店が載ってない、
もちろん、その東京支店とは先の記事に書いたようにちゃんとした事務所ではなく、濱田さんのお
そらく兄弟の方が東京での販路拡大のために新たに契約した電話であろうと思われる、
順序として、この後、新たに東京工場として電話を契約したのであろうが、これもおそらくちゃんと
した工場ではなく、どこかの工場を間借りしたものではないだろうか、
そこで、昭和34年3月現在の電話帳で住所と828-0083の番号で調べたが、見当たらない、
おそらく、この3月以降に電話を契約したのかもしれない、
もちろん、この頃の住宅地図は存在しない、この頃の住宅地図のデータがあるのは吉田地図の
大阪府下だけの地図だけである、
しかし、念のため一応どの当たりかだけ見てみよう、
取り出したのは、昭和35年の東京全区の都市計画図、
当時の文京区でも一番端っこの区域、
今の地図で合わせてみると、ココ、
この日建工業あたりが該当地となる、
次に、河内工場の場所を当時の住宅地図でみると、
この722番地の大東化成工業河内工場が該当する、上の広告欄にはその河内工場の電話番号
の記載がない、実は大阪の市立図書館の電話帳で調べたが、この大東化成工業の電話番号は
載っていなかった、濱田さんらはこの工場でも間借りしてやっていたのだろうか、
大阪化学研究所の内〇さんの記憶では昭和34年頃に濱田さんらは引き揚げていったらしいの
で、まあその時期とは一致する、本社の住所がまだ大阪化学研究所のままとなっているのは
これも推測ではあるが、郵便物の配達先として必要だったのではないだろうか、そう、事務所がな
いので、それにしても謎は深まるばかりである、
ところで、誰かそのブーメラン式「フライング ヘリコプター」で遊んだ方はいらっしゃらないだろう
か、可能性として、当時子供の頃、東大阪に住んでいた方、 駄菓子屋等で買った記憶があると
か。