マルサンの批判のついでにもう一つ痛烈な批判をしておこう、
その前に、https://youtu.be/xcWsHti7Z20 のユーチューブを、(ここでは大阪のあるメーカーが云々と言っているが、もちろん、ノーチラス号を開発し発売したことにも触れられていない、最初からマルサンが日本初だと決めつけている、日本で初めて?(笑)プラモデルの金型を作ったというマルサンの職人さんの記憶、証言も何か曖昧、マルサン以外にも当時プラスチックモデルがあったかもしれないし、云々、まあとにかくマルサン自社以外の世界のことはほとんど知らなかった様子) まあ、このような証言?記憶?だけでマルサン物語というのだから、まことにお粗末、
先に書いたように、マルサンがプラスチックモデルの開発にとりかかるまで、当時はまだプラスチ
ックの成型等に関しては未知の世界であり、マルサンはその未知の世界に挑戦したかのごとく物
語には書いてあるが、それは真っ赤な嘘だろう、仮にそうでなかったとしたら、それこそ、マルサン
はそのマルサンの会社から一歩も外に出ることなく、会社の中で引き籠り外の世界をまったく知ら
なかったことになる、まあ、そのようなことは考えられない、つまり、物語を面白くするために都合
のいいように脚色したものである、
ここで、またまた電話帳の登場である、
国会図書館にも保存されていない昭和29年の東京の電話帳である、
この電話張を見ただけでも、もう数えきれないほどのプラスチック加工業者、金型会社が載ってい
る、
本当に、数えるのがいやになるほど載っている、
広告欄を見てみると、金型金属彫刻の職人もいる、そのような金属彫刻職人もいなかったので非
常に苦労した云々と苦労話が書かれているが、それはマルサンの中にいなかっただけで要は人
材がいなかったということを証明しているようなものだろう、
要するに、プラスチックモデルの登場自体が遅かったくらいである、
もちろん、僕が図書館で閲覧した大阪の昭和29年の電話帳でもこのように数えきれないほどの
プラスチック加工業者が載っている、
だから、東大阪という町工場のメッカという環境下にあった「東京堂模型店」の濱田さんらが、
まだ誰も目を付けていなかったプラスチックモデルの開発に取り組むことができたのである、
そう、金もない組織もない、技術もない、機械もない、そこらへんの名もない、無名の模型店主らと
その仲間達が集まって大阪化学研究所の技術指導を受けながら日本で初めてプラスチックモデ
ルを開発し発売までこぎつけたのである、
ただ、残念なことに、濱田さんらの活動は数年で終わってしまった、会社の謄本を見ると、会社の
設立目的は、「合成樹脂製造加工販売並びに輸出」となっている、
おそらく、最終的には海外への輸出まで大きく羽ばたくことも考えていたのかもしれない、
その夢を叶えられなかった理由はなんだったのだろうか、そう、なぜ数年で終わってしまったの
か、一番考えられるのは資金難であろう、それらの理由と濱田さんらのその後の行方が一番知り
たいところであるが、直接関わった方々はもうこの世にはいない、
ただ、確実に言えることは、プラスチックモデルの夜明けは東大阪からであり、東大阪が発祥の地
である、ということである。そしてそれは、名もなき無名の模型店主らとそのなかまたちの手によっ
てもたらされた、ということである。
ところで、資料の中で大きな見落としがあった、それは、明日の記事にて。