今までも書いてきたように、戦前の最大の模型玩具メーカーであったのは「朝日科学玩具」であった、
しかし、その朝日科学玩具が模型の歴史の中で語られることはほとんどないことも書いてきた、
そして、朝日科学玩具が戦前から出版していた「科学と模型」という月刊誌、戦争で一時中断していたものの
戦後すぐに発刊し昭和28年まで出版された、そして、その後朝日科学玩具は模型業界からは撤退し今の電
動遊具製造メーカーになった、ということも書いてきたとおりである、http://www.asahi-tec1907.co.jp/index.php?mp=info&PHPSESSID=b6d994c811ad4880bda90099ca529f52
その朝日科学玩具というメーカーが模型の歴史の中に埋もれてしまったのは、今となっては資料がほとんど
残っていないためだろう、
その唯一残された資料の一つが「科学と模型」という月刊誌である、昭和5年から昭和28年分まで全て集め
るのは今となってはほとんど不可能だろう、
その中の1冊、昭和27年のものをめくってみると、
このような広告欄も非常に参考になる、
西尾克三郎さん、この方は有名な鉄道写真家であったらしい、
ん、ん、ん、鉄道で有名な同じ姓で西尾音吉さんもいらっしゃった、そう、あの鉄道模型で戦前は有名な方であ
る、もちろん、音吉さんはこの「科学と模型」でも鉄道模型の記事を執筆なさっている、
実は西尾音吉さんは戦後は鉄道模型からは撤退し東大阪で模型モーターの教材メーカーに転換なさった、
大阪布施のピッチクラブとある、ひょっとしたら、日本プラスチックの濱田さんもこのクラブに所属されていたの
かもしれない、ひょっとしたら、この写真の飛行機も、
濱田さんの技術は素晴らしかったという、これは濱田さんと石村さんの共同作品の模型飛行機、
石村栄三さんというのは、日本プラスチックの登記上の代表取締役であったことは以前の記事でも紹介してい
る、
濱田さんらの名前がないかなと探したがない、
そう、この頃には「朝日科学玩具」は電動玩具メーカーへと転身を図っている、
おそらく、遊園地などの電動玩具の先駆者だったのかもしれない、
今は読売ジャイアンツの投手交代の時に選手が乗って登場するあのカートも製造されている、
「英工社」というのは後の三和模型、
まあ、たったこの1冊からもいろいろな歴史が見えてくるのである。