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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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今年も買った!!

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今年も買った!! 年末ジャンボ宝くじ、 早速、我が模型神社に奉納?

まあ、買わなきゃ当たらない、もし、10憶円当たったら、間違いなくこれからの短い人生が狂ってしまうだろう、

そう思うと、当たってほしくもないし? まあ、当たっても1,000万円くらいがいいのかもしれない。



何が実用新案?

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この尾高模型の「ランボルギーニイオタ」のプラモの箱には実用新案特許出願中と書かれている、

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そう、このとおり、


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リモートコントロールで君もスーパーカーのドライバー!!、などと、

一体どのようなギミックがあるのかと期待して箱を開けてみると、

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リモコンボックスがあり、

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特にこれといったギミックはない、ただ単にリモコンで前進後進するのみ、


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もちろん、この説明図にも何が実用新案なのか全然書かれてはいない。

マルサンのことはこれで最終章、

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マルサンのことはこれまで散々痛烈に叩いてきた、

そう、嘘つきだとか、捏造しているとか、何か隠しているとか、その横暴さについても叩いてきた、

まあ、それは事実のことだから仕方がない、事実だから、誰も反論のしようがない、

誰か一人くらい反論してくるだろうと思っていたが、期待に反して誰もいなかった、

何度も言うが、あの伝説の金型職人(事実は伝説でもなんでもない、タダの・・・・、本当の伝説の職人は他に

いた))の証言も、関係者等の証言も何もかもが嘘と捏造で作られていた、

僕はそのように断言してもいいが、誰もそのようなことは言えなかった、言おうとしなかった、

ハッキリ言って、皆、マルサンについては疑問、疑惑を持っていたわけである、が、業界もマルサンに乗せられ

て今まで突っ走ってきた、

マルサンについては、まだまだここでは書けないことがいろいろとある、

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それで、マルサンのプラモを今年最後としてクリスマスツリーと一緒に飾ってあげた、

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これは当時、プラモデルの中に入っていた「ラッキーカード」、

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これを送って応募すると景品が当たったらしい、

どなたかこれを送った方はいらっしゃるだろうか、

まあ、冒頭にも書いたように今年はマルサンのことを叩いてきたので、マルサンを叩くのはこれで最終章?とし

たい、これくらいにしておこう、これくらいにしてあげる、

また来年はすぐに「日本プラスチック」のことを再始動する、そう、真実を伝えるために。

日本ホビー最高のギミックの、

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日本ホビーのプラモデルで最高のギミックを備えているのが、過去の記事でも紹介しているコレだろう、

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そう、この61式戦車、

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リモコンで前後左右、砲塔は360度旋回可能、そして砲弾を連続発射、発射の際は赤外線照射、

この操作をリモコンで行うという凄いギミックのマンモス戦車である、

しかも、ちゃんと組み立てれば間違いなく全てのギミックが作動するのだから凄い、

まあ、当時の戦車プラモの中でもこれ以上のギミックを持ったものはない、


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だから、その動きを今のように電子回路でやらないので、その仕掛けはまさにカラクリ機械のようになってい

る、

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どのような仕掛けで動くのか、その動きは未だに僕もわからない、よく理解できない、

なぜなら、その動きが見えないからである、そう、組み上げるとギア、カム等の動きが見えないから、

砲弾連続発射のカラクリは分解するとわかるが、この円盤状のギア、カム等の動きはまったくわからない、

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61式戦車と同じシリーズのものでM41戦車がある、

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この袋の中にはその砲弾発射部分の部品が入っている、

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ビニール袋を破って部品一式を取り出してみた、   <続く>

日本ホビー M41ウォーカーブルドッグ

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さてさて、砲塔回転と砲弾連続発射の仕掛けを知りたくて砲塔部分を組み始めた、

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とにかく部品の数がやたらと多い、ハッキリ言って、この砲塔のギミックを説明することはここでは無理、

実際に組み上げながら一つ一つその部品ごとの動きを確認しなければ理解できない、

1個のモーターで砲塔360度回転、砲弾連続自動発射させるのでギア、カム、アームの動きはまさにカラクリ

仕掛けとなっている、

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これは砲弾連続自動発射装置部分、

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発射装置はとりあえずこれでOK, もちろん、ちゃんと作動させるにはいろいろな調整が必要、

この上に弾の皿が乗っかり、あの穴に転がり落ちて発射される、

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これが、砲塔を回転させ砲弾発射の撃鉄をぶっ放す装置、まあ、僕自身、組んでいる時も一体どのように動く

のかさっぱりわからない、ギア等は全て単独で動く、

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これが、上記の装置を作動させる部品、まあ組み上げるのも大変、

なんと言っても、ピニオンギアなどはシャフトをトンカチで打ち込むので打ち損じたら一巻の終わり、

割れる恐れもあるし、打ち込みすぎたら回らない、


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組み合わせてみる、これが砲塔360回転と砲弾連続発射を駆動する装置となる、

ただ、これは本体に組み付けると隠れて見えなくなる、

どのように動くのかもここで説明するのは不可能、実際にギアを手で回して一つ一つその動きの繋がりを確認

しないと理解できない、まあ、これを考案したお方は天才かも、

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これは、砲弾連続発射の状態、てっぺんのビス止めしている4つの突起物のある円盤のみが回転して撃鉄を

作動させる、ドライバー部分のギアはカムで固定されて動かない、

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これは、砲塔360度回転の状態、カムは解放されてギアは回転するような状態に、

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ドライバーの先の部品から上が砲塔上に出る、それより下はボディーの下の板に取り付けるので見えなくな

る、だから、実際のモーターで動いている状態が見えないのである、   <続く>

日本ホビー M41ウォーカーブルドッグ

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発射装置をボディ本体に取り付けよう、


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組み上げた装置は下から取り付ける、

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撃鉄を作動させる円盤板をビス止め、

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カム、ギア、アームの付いた円盤板をビス止め、

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円盤状の4本の突起物が右に回転して撃鉄を引きバチン、バチン、と連続的に作動する、

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弾の受け皿を乗せて、ここから発射装置の穴に転がり込んで発射となる、

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このシャフトをモーターで駆動する、このシャフトを手で回して作動するかどうかチェックすると砲塔は360度

回転し、逆に回すと砲弾発射装置の撃鉄がバチン、バチン、と作動し弾が勢いよく飛び出していった、

これで砲塔の回転、弾の連続発射装置の組み上げは完了、

この部分がこのプラモでの一番の難関箇所でこれが無事に済めばあとの組み上げは簡単?

今回はこれで終了、なぜなら、今回の目的はどのような仕組みになっているのか知りたかったので、

それが理解できたので僕としてはそれでOK,

まあ、これで皆が理解できたかどうかはわからないが、かりに理解できたならそれは凄いこと、

実際に現物を見て一つ一つ部品の動きを見ないとまず理解できないだろう、

僕だけが理解できれば?僕はそれで納得、僕が楽しければそれでいいこと、

あとはまた箱に入れて押し入れの奥にでもしまい込んでおこう、

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まあ、僕が死んだら誰の手に渡るか知らないが、一番難しいこの装置は組みあがっているのであとは簡単に

組み上げて動かして楽しんでもらおう。

61式戦車の砲塔の動きの動画は、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70420774.html

ライトプレーンのポスターで、

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この古いライトプレーンのポスターは一体いつ頃のものだろう、

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古い模型の歴史のことを調べるのは僕にお任せあれ!!? ということで早速調べてみた、

ライトプレーンのことを調べるには、もうアレしかない、

アレとは、そう、日本教材新聞しかない、

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ちゃ~んと載っていた、昭和30年7月号の新聞に、東京号は7月20日に発売したらしい、


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その発売記念として大会も開催したという、場所は多摩川スピードウェイで、たしか多摩川スピードウェイと言

ったら後の多摩テック遊園地だったと記憶しているが、その多摩テックは今はもうない、

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そして、このポスターは、

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これも昭和30年9月号にその広告が載っている、静岡模型教材協同組合の指定機だったらしい、

そうそう、その静岡模型教材協同組合といえば冒頭の「静岡ホビースクェア」での展示中の記事でも書いてい

るように「日本教材新聞」も展示しているが、その中で昔の模型メーカーの店舗の写真が好評で業界関係者

の方々に懐かしがられているという、

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いつまで展示するかまだ未定、「静岡ホビースクェア」は静岡駅前なので静岡に立ち寄られたらぜひご覧あ

れ。




54年前の年末は、

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年末になってくると必ず?といっていいほど思い出すのが日本ホビーのM41快速戦車のことである、

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これまでにも何度も何度も紹介してきたこのM41快速戦車、昭和37年の9月頃に発売された、

しかし、地方価格では1,000円と普通の子供のお小遣いではとうてい無理なプラモデルであった、

そこで、僕が狙ったのが正月のお年玉であった、親戚などからのお年玉を集めてこのプラモを手に入れようと

考えたのが昭和37年の年末だったのである、

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このプラモデルの発売を知ったのがこの少年雑誌の広告、その今までにない大きさ、ギミック等に刺激されて

なんとか手に入れたいと思っていたのであった、

そして無事に1,000円が集まり、小学校近くの文房具店でガラスケースの中に入っていたこの日本ホビーの

M41快速戦車を手に入れたのであった、そう、何と言っても今でも当時のことを鮮明に記憶しているのがこの

プラモデルであった、

これが発売されるまではニチモの弾出しのM46パットンや、大滝、今井科学等の戦車プラモで遊んでいたが、

それらとは比べものにならないほどの大きさ、ギミックに圧倒されたものであった、

もちろんその頃、僕はマルサンのプラモデルを買ったこともないし、近所の友達がマルサンのプラモデルを持

っているのを見たこともない、その頃僕がプラモデルを買っていたのは、小学校の近くにあった3か所の文具

店、それから自転車で15分くらいの隣町にあった時計店、電車で15分くらいの隣の大牟田市にあった松屋

デパートであった、しかし、それらの店でマルサンのプラモデルの記憶はまったくない、

マルサンの悪口は先日もうおしまいと言ったが、申し訳ないがもう一回だけ?言わせていただこう、

「マルサンの功績はプラモデルを全国に流通させ、その名を知らしめそして普及させたことである」と、まあ合

言葉のように書かれているが、はたしてそうだろうか、僕は決してそうは思わない、いやそうではない、

極論するとプラスチックモデルを全国の子供たちに普及させたのは、マルサン以外のメーカーである、

そう、三共、三和、今井科学であり、ニチモであり、大滝であり日本ホビーであり、緑商会であり、つまりマルサ

ン以外のメーカーであった、

60歳代後半の年代の方々で当時プラモデルで遊んだ方々はよ~く思い出していただきたい、

60歳代後半の年代(僕を含めて)といえば、ライトプレーン、木製キット時代からプラモデルが世に現れた頃

のことをよくご存じだろう、マルサンのプラモデルを作って遊んだ記憶のある方がいったいいかほどいらっしゃ

るだろうか、当時東京ならいざしらずましてや地方に住んでいた方々が文具店等でマルサンのプラモデルを見

て買ったという記憶のある方がいかほどいらっしゃるだろうか、

あくまでも僕の場合であるが、僕はマルサンのプラモデルを見た記憶はまったくない、友達がマルサンのプラ

モデルを買ったとか作ったとかは一切聞いたこともなかった、

今考えると、それはマルサンが動くプラモデルをほとんど発売していなかったことが原因だと思われる、

つまり、当時の子供たちは僕も含めて動くプラモデルしか興味がなかったからである、

なぜ動くプラモデルがほとんどなかったのか、それはギミックを考案する技術者がいなかったのだろう(笑)

マルサンのプラモデルが注目され始めたのはマスコミ物、怪獣物のプラモデルを発売し出してからである、

ハッキリ言って、それまでは子供たちの注目を浴びるようなプラモデルはなかった、

たまたま特撮、怪獣、マスコミプラモで当たったにすぎない、だからブームが去ったあとはご存じのとおりであ

る、つまりそれまで世の子供たちにプラモデルを普及させてきたのはマルサン以外のメーカーであったというこ

と、まあ極論するとそのようなことににつきるだろう、

さてさて、最後までマルサンに悪態?をついてしまった、今年はこれで終了、来年は4日から始めよう、

来年はどうなるかわからない、できるだけ悪態をついていこうと思っている。

来年もどうぞよろしく!!

謹賀新年

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さあ年が明けて今から平成29年の始まりとなった、

めでたいとは言っても僕としてはちっともめでたくはない、なぜなら、またまた歳をとってしまう、

残り僅かな人生がまたまた短くなっていく、子供の頃は勉強が嫌いなものだから早く大人になってその勉強か

ら解放されたいと思っていたが、いざ大人になってみるととんでもない、それは大きな間違いであった、

そして今度は早く仕事から解放されたいと早く定年が来ないかなと願っていたら、それも大きな間違いであっ

た、現役でバリバリと仕事をしているうちが華、定年したらタダのジジイ、それに気が付いた時にはもう遅い、

定年になったらもう段々と人生が短くなっていくのがヒシヒシと伝わってきてしまう、

毎年言っているように、今年の抱負、目標は、と問われても、

そんなもの今更あるわけない、もう時代の流れに身を任すだけ、その流れには逆らわない、

ただチマチマとプラモデルを動かしてこっそりと楽しむのみ、それを皆に笑ってもらうのみ、

さて、今年はどんなことが待ち受けているのだろうか、どんなことが起きるのだろうか、何か起こるかも、

それは僕にもわからない、わからないから生きていくことが楽しくなる、

今年もよろしく!!

僕の仕事始め?は4日から。

プラモデルが世に普及しだした頃は

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プラモデルが世に普及する前の昭和34年頃の正月は何をして遊んでいただろうか、

それは、マルサンがノーチラス号を発売したとされる翌月のことである、もちろん、マルサンがノーチラス号を

発売したことなど知るはずがない、今のように宣伝媒体というものがなかった、まあ知ってても地方までそれが

流通してくることはなかっただろう、

昭和34年頃というと僕はたしか小学4年生、たしかその頃としては定番の凧揚げ、メンコ、ビー玉、ライトプレ

ーン、で遊んだと記憶している、雨の日は、そうそう、家の中で銀玉鉄砲で撃ち合いをして遊んだことを記憶し

ている、

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以前の記事でも書いているように、その時に撃ち合いをして遊んだのがこの銀玉鉄砲、

ただ、その頃は銀玉鉄砲とは呼んでなかった、「マジックコルト」と呼んでいた、

実は、この「マジックコルト」こそ今でいう銀玉鉄砲の元祖なのである、

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ハッチを開け銀玉を入れ、スプリングの付いた棒を引いて引き金を引く、

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これは、そのマジックコルトのパクり品、どこのメーカーなのかさっぱりわからない、

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オリジナルの実物大の写真を載せている、

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大きさもほとんど同じ、形状もほとんどパクっている、

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大きな違いがコレ、銀玉の装填箇所、パクり品はスライド式、オリジナル品はハッチ式、

まあ、当時はこのようなパクり品がまかり通っていたのである、

                 http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69313786.html
                http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69118636.html


そのマジックコルトが発売される前に遊んでいたピストルが次のもの、

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そう、このプラスチック製というか、どちらかというとベークライト製といったほうがいいのか、

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これは、マルサン製のもの、マルサンもその頃はピストル玩具をいろいろと発売していた、

僕が遊んでいたピストルのうちこの2丁が一番記憶に残っている、

さてさて、そのマルサンのことについて再び批判してみよう、もうマルサンの批判はやめておこうと宣言し

たものの、やっぱりどうしても言いたくなってくる、マルサンの批判は楽しい、病みつきになってしまう、

今年、最初に言っておきたいのは、マルサンのプラモデルの歴史のことは全てリセットしなければならない、

ということである、今までにもしつこく書いてきたようにマルサンのプラモデルの物語はそのほとんどが嘘で捏

造されていることは書いてきた、

マルサンのプラモデルについて語り継がれてきた今までの物語は嘘、なぜ僕がここまで嘘と断定して痛烈に

批判するのか、それは、マルサンが何も知らなくて間違いで日本初だと誤って宣伝し発売したのならまだ許せ

る、だがそうではない、全てを知ってた上でいろいろな事実を隠してきたことにある、

そう、あの金型職人のお方の証言も嘘、関係者の方々の証言等も嘘、全て自分のところの都合のいいように

当時から今まで嘘で脚色し伝えてきたことにある、しかも、それがこれからも永遠に?それがプラモデルの歴

史として言い伝えられようとしたことにある、そう、それが故意に意図的に捏造されてきたわけである、

うすうすとそのことに気が付いていろいろと疑問を持った方々もいらっしゃったが、正面切ってそれを具体的に

批判されるような方々は僕が知っている限りではいらっしゃらなかった、まあ、ネット上ではあるが、正面切って

ここまで断言してマルサンを批判したのは僕だけかもしれない、ひょっとしたら、マルサンに関しては聖域の部

分があり誰も批判できなかったのかもしれない、それと具体的に批判できる根拠を持たなかったからだろう、

まあ、それらについても今までに書いてきたとおりである、

つい先日、「プラモデル」を日本全国に流通させ普及させたのもマルサンではない、と僕は断言した、

「プラモデル」を問屋筋の流通ルートに乗せ全国に普及させたのもマルサンである、と、まあ合言葉のようにこ

れも定説になっていたようだが、これも誤りである、嘘と言ってもいい、

単純に普通に考えてもわかることだろう、「俺のところと取引したければ保証金を積め」などと強要したらプラモ

デルなど普及するはずがない、実際に僕は当時マルサンのプラモデルは見た記憶がない、

文具店、電気店、デパートでもマルサンのプラモデルはまったく記憶がない、

僕が一番最初に作った記憶があるのは三共のピーナツシリーズであり、三和のモーターライズのトライアン

フ、アトムレーサー、である、それから、ニチモの伊号潜水艦、東京タワー(東宝模型ではなくその前身の不二

化学の製品だったかも)であった、それから、今井科学であり、大滝製作所であり、緑商会、タミヤ、であった、

マルサンのプラモデルなど目にしなかった、一度も購入して作ったことはなかった、

つまり、東京、大阪などの主要都市は普及していたとしても地方までは普及していなかった、

それともう一つの要因がマルサンには子供の心をとらえる動くプラモデルがほとんどなかったからである、

もちろん、スクリューやプロペラを回す程度のプラモデルはあった、その頃子供達が夢中になった戦車プラモ

もほとんどなかった、(アッ、一つだけあったかな)

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このポスターを見ても動かして楽しいようなプラモはない、ディスプレイタイプのものとスクリューを回す程度の

プラモデルである、当時子供が欲しいのは走る戦車であり、戦闘機であり、車であった、

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あの哨戒水雷艇のプラモデルも、そう、あの職人の方が金型が複雑すぎて制作することができなかったプラモ

デルも、一体どこの誰がこの金型を製作したのだろうか、正直に話して欲しいのだが、墓場まで持っていかれ

ることだろう、


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マルサンは多額の宣伝広告費を使いテレビでも「陸と海と空」という番組で宣伝したが、不思議なことに少年

雑誌ではほとんど広告を載せていない、たまに見かけるのは戦記雑誌「丸」であった、

僕らは、少年雑誌に載っているプラモデルの広告を見て購入していたのに、少年雑誌の広告のみが各メーカ

ーのプラモデルを知る手段だったのに、

ということは、マルサンは当初からプラモデルは子供たちを対象にはせず、大人達を対象にしていたのかもし

れない、それと、動くプラモデルが苦手だったのだろう、マルサンが子供たちに注目されだしたのは怪獣、SF

撮マスコミ物プラモを発売してからである、

つまり、それまでにプラモデルを全国の子供たちに普及させたのが三和であり、三共であり、ニチモ、今井科

学、緑商会、大滝製作所等であった、マルサン以外のメーカーであったということである、

何度も言うように、マルサンは「プラモデル」の商標を登録しそれを独占使用、その商標権というものを拡大解

釈し横暴を働いたということである、その精神は今のお馬鹿な「日本プラモデル工業協同組合」にも引き継が

れていることはすでに以前の記事でも書いているとおりである、

とりあえずはここまで。






売り込み当時の話も、

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僕がマルサンの批判をすると、もうどうにも止まらない、しかし、それは事実なのだから仕方ない、

実を言うと、ここで書いているのはあくまでも差し支えないもの、ここで書けないことは沢山ある、

さて、以前の記事にも書いているように、マルサンがノーチラス号を売り込んだ当時の苦労話の件である、

あれもまったくのデタラメの嘘で捏造脚色したものである、もう少しましな嘘で脚色すればいいものを、

あれは素人でも嘘だとすぐにわかってしまう、

そう、ノーチラス号を問屋に売り込みに行った際に、問屋は初めて見るプラスチック製のキットに「壊れたオモ

チャ」、「未完成のおもちゃ」、「玩具のクズ、残骸」などと言って、まったく相手にしてくれなかった、云々と書い

て、いかにもノーチラス号の売り込みに苦労したかということを表現している、まあこれもマルサン物語の定番

になっている、

プラスチック製のノーチラス号を問屋が模型店が初めて見るわけがない、とっくの昔に舶来のプラモデルは輸

入され発売されていたのは誰でも知っている、わざわざ渡米してそこで初めてプラスチッキモデルを見てレベ

ル社のノーチラス号を購入し持ち帰ったというが、わざわざアメリカへ行ってプラモデルを買わなくても日本の

模型店で買えた、

それと、プラモデルが「壊れたおもちゃ」「玩具のクズ、残骸」だと問屋が言うはずがない、

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プラモデルが残骸ならこの木製キットはもっと玩具のクズ、残骸だろう、木製キットなど箱を開けただけでは絶

対に部品が揃っているかどうかわからない、実際も部品が足りないものが結構あった、

それに比べて、ノーチラス号は部品が色が付いて綺麗、部品もライナーに付いて箱を開ければ大体が揃って

いるかどうかはわかる、組み立てが簡単、もう木製キットに比べていいことずくしだろう、

火星人さんも大阪の松屋町の問屋で日本プラスチックのゼロ戦とノーチラス号を見て、「これがプラスチック製

の国産とは珍しい模型だ」と即座に仕入れたという、それは、昭和32年の模型店開店の時であったという、

普通なら問屋が門前払いするはずがない、あったとしたら、例の殿様商売的なアレである、

そう、取引したいなら保証金を積め、数もまとめて発注しろ、云々というやつだろう、

それから、例のテレビ広告の「陸と海と空」、昭和34年6月から放映し、その効果でプラモデルの人気が上

昇、それで問屋で扱う会社が増えその一番が「三ツ星商店」だったと書かれている、

これも嘘、なぜなら、ノーチラス号の発売時にはすでに「三ツ星商店」の広告にノーチラス号が載っている、

これは、「日本プラスチックの謎に迫る」の項目にも書いている、そこにも書いているがその三ツ星商店の広告

には謎が残っている、もう一度おさらい?をしてみよう、ただ、あくまでも僕の推測であるが、まあいまのところ

それしか考えられない、 <続く>

飛び出す映画 シネコルト

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プラモデルが普及する前に欲しかったのが「シネコルト」であった、

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ピストル型の幻灯機である、テレビもまだ一般家庭には普及していない昭和30年代初頭にはブリキ製の幻灯

機が流行ったが、これはプラスチック製のピストル型の幻灯機であった、少年雑誌の広告欄にも必ず登場し、

懸賞品にも必ずといっていいほどこの「シネコルト」は登場していた、僕も欲しかったが当時でも600円と高価

だったので手にすることはなかった、

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単3電池2本を入れフイルムを装填し引き金を引くとパッ、パッと銃口から映写されるという仕掛けになってい

る、今からみれば笑ってしまうような玩具であったが、当時の僕らからみればかなりの高級玩具であった、


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同じシリーズで「シネジェット」というものもあった、

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空飛ぶ円盤型の中にフイルムを入れ光を通して穴から覗くというものである、

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この穴から覗くとフイルムの画像が見えるという代物、フイルムはツマミを手で回すようになっている、





ノーチラス号のプラモデルを取り扱った問屋は、

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さて、今度はマルサンのノーチラス号を取り扱った問屋のことである、

もちろん、この件でも「マルサン物語」は嘘で脚色している、これに関することは以前の記事でも書いている、

「マルサン物語」ではノーチラス号を問屋筋に売り込んだがとても相手にされず苦労したかのように書かれ、

昭和34年6月のテレビCM放映後に徐々にプラモデルの人気が上昇し、その後「三ツ星商店」がやっと1番目

取引を開始してくれたかのように書かれているが実はそれも嘘で脚色されて面白くしたものである、

本当はノーチラス号を発売時までにはすでに三ツ星商店とは取引が成立していた、

その証拠が次の模型新聞の広告である、

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これは、昭和34年1月5日の新聞、ちゃんとノーチラス号の広告が載っている、おまけに和工のダットサンも

哨戒水雷艇の広告も載っている、ということは発売時には取引契約成立していたということ、

ということは、まったくどこの問屋にも相手にされず玄関払いされたということは嘘、

ところが、以前の記事にも僕が指摘しているように、その後の三ツ星商店の広告に大きな謎が残るのである、

再度その広告の画像を載せてみよう、

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これは2月5日の日本模型新聞、ここまではマルサンのノーチラス号の広告が載っているが、これを最後に

三ツ星商店にはマルサンのノーチラス号は載っていない、そのマルサンのノーチラス号の代わりに三ツ星商

店が突然載せたのが日本プラスチックのノーチラス号なのである、

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これは、昭和34年6月25日の三ツ星商店の広告、

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なんと、マルサンではなく、日本プラスチックのノーチラス号の広告が載っている、

普通なら、マルサンのノーチラス号を載せるだろう、なぜ1年以上も前に発売された日本プラスチックのノーチ

ラス号の広告を載せたのだろうか、本来ならマルサンのノーチラス号を載せるのが正気だと思うが、

しかも、日本プラスチックはほとんど知られていないメーカーだったはず、その広告を載せてもなんのメリットも

三ツ星商店にはない、そして、しかも、この頃にはすでに日本プラスチックのブランドでは発売していない、

後に記述するがその2月には日本プラスチックのノーチラス号はNBKブランドとして発売されていたのである、

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7月5日の広告にも、

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7月25日の広告にも

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8月5日の広告にも、 これでもか、これでもか、というくらい日本プラスチックのノーチラス号を載せている、

まあ、普通ではまずありえないことだろう、

なぜ、マルサンと取引を開始したのにそのマルサンのノーチラス号を載せずに1年以上も前に発売された日本

プラスチックのノーチラス号を載せたのだろうか、

これから書くことはあくまでも僕の推理である、まあ、それしか考えられない、

マルサンが日本プラスチックの存在を知っていたのは間違いないだろう、おそらく日本プラスチックがゼロ戦を

開発し問屋筋に売り込んでいた当時から知っていたのではないだろうか、

もちろん、日本プラスチックのノーチラス号のことも知っていた、そりゃ当然のことだろう、日本プラスチックのノ

ーチラス号は東京地区でも流通して発売されていたのだから、そう濱田さんの兄の亨さんはゼロ戦を開発し発

売したその翌年(昭和32年)には東京に進出し、その年に発売するノーチラス号をも問屋筋に売り込みを図っ

たものと思われる、と同時に亨さんは「ハマライト化学研究所」を立ち上げたことも以前の記事で紹介してい

る、

売り込んだ先の一つが「三ツ星商店」であった、しかし、ゼロ戦は別としてノーチラス号はあまり売れなかった、

それは火星人さんも証言している、ゼロ戦もノーチラス号もあまり売れなかったと、

そこで、三ツ星商店には大量?の日本プラスチックのノーチラス号が在庫として残っていた、

マルサンがノーチラス号を三ツ星商店に売り込みにいった際、当然のことながら三ツ星商店はマルサンにこう

言ったことだろう、「あなたのところのノーチラス号よりも先に日本プラスチックが発売していますよ、その在庫

が今も残っていますよ」と、

そうなると、マルサンにとって非常に都合が悪い、和工樹脂よりも前に日本プラスチックのーチラス号の存在

があると非常に都合が悪い、大々的に本邦初と宣伝してノーチラス号を発売したいのに、

そこで、マルサンは三ツ星商店との取引開始後に日本プラスチックのノーチラス号の在庫を処分廃棄するよう

に強要した、しかし、三ツ星商店はそれに強く反発した、

そこで、三ツ星商店はマルサンにアテツケの意味でわざと日本プラスチックのノーチラス号の広告を載せた、

まあそれが僕の推測である、僕としてはそれしか考えられない、

それともう一つ面白い事実として、NBK(日本文化教材)がマルサンの2か月後の2月にその箱絵違いで日本

プラスチックのノーチラス号を発売したということである、そのことも何かマルサンと関係しているのではないだ

ろうか、NBKは問屋が本業でプラモデルを当時は開発発売はしていない、

なのになぜ、日本プラスチックのノーチラス号を箱絵だけを変えて自社のNBKブランドとして発売したの?

その理由としては、マルサンはNBKにもノーチラス号を売り込みにいったはずである、おそらく、NBKも問屋

なので日本プラスチックのノーチラス号を取り扱っていたに違いない、マルサンの売り込み時の対応等にキレ

たのだろう、それならと、マルサンに対抗する意味で日本プラスチックのノーチラス号を自社ブランドとして

売り出したのではないだろうか、もちろん、NBKの社史にはそのようなことは書かれていない、不思議なことに

プラモデルのことは一切書かれてはいない、

まあ、僕が考えられることはこれしかない、「これを信じるか信じないかは貴方次第!!」。

※ ニチモの伊号潜水艦は2月に発売とされているが、模型新聞の広告によると3月10日に全国一斉発売と

  なっている、だから、それらの資料でいくとNBKブランドのノーチラス号が2月発売、ニチモの伊号潜水艦は

  その翌月の3月10日発売となる。http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71469031.html


コグレ模型 シカゴガードマン パトロール

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さあ、今年のプラモ作り始めは何にしよう、

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パツと目についたのが、このコグレ模型の「シカゴガードマン パトロール」である、


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箱を開けてみる、ゴムタイヤは大丈夫かな、せっかく作ってもこれが劣化して変形していると走らない、

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まだまだ大丈夫、新品同様?  あと用意するのがマブチ25モーター、

屋根の赤色灯を点滅させて走るらしいが、    <続く>

コグレ模型 シカゴガードマン パトロール

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箱を開けてみると、車体ボディーには転写マークとすでに塗装がなされている、

アレッ、作りかけなのか、と思ったが、

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いや、作りかけではないみたい、

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すでに、メーカー側でボディー下部の黒色は塗装済み、そして転写マークも貼りつけて出荷している、


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順番通りに組み立てていく、まづはギアボックスから、タイヤを打ち込んで、

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マブチ25モーターに12枚歯のプラのピニオンギアを付けて、

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そのギアボックスをシャーシーに取り付けて、次は赤色灯の点滅装置を取り付ける、  <続く>

コグレ模型 シカゴガードマン パトロール

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屋根の赤色灯の点滅装置を取り付ける、


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これはもうお決まりのカムが回転し板バネと接触して点滅させるというもの、


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配線の数が多いのは、スライドスイッチにより前進後進をさせるため、普通はスライドスイッチは前進のみが多

いがこれは前後進が可能となっている、

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前輪のステアリング部分を組み立てて、

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屋根の豆球を取り付ける、

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窓ガラスを取り付ける、ただガラスは前部、後部とサイドの三角窓の部分だけ、ドアのサイドのところは付いて

ない、しかもピタッと合わない、ガラスは分離されてなく一体化されており三角窓の部分は画像のとおり隙間が

空いてしまう、

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単2電池2本を入れてテストしてみる、作動はOK,

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ボディーはビス止め、次は最後にバンパー、ミラー等を取り付ける、   <続く>

コグレ模型 シカゴガードマン パトロール

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バンパー、サイドミラー、サイレン等を取り付けて完成、


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三角窓のガラスは隙間が開き、ドアのガラスはない、まあセル板で自作して取り付ければいいがオリジナル性

を保つためにそのままにしておく、

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こちらもこのように隙間が空いてピッタリと合わない、

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スライドスイッチで前進後進が可能、前にスライドさせると前進、後ろにスライドさせると後進、

だから、配線の数が多くなってしまう、シングル走行なのでこの場合は前進のみで充分だろう、

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なお、この車とは全然マッチしないドラーバーの人形が付いている、

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それでは電池を入れて走らせてみよう。


戦前模型 駆逐艦イカヅチ

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これは戦前の木製模型の駆逐艦イカヅチ(雷)、

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もちろん、モーターライズではない、ディスプレイの模型である、

この時代の頃の軍艦模型ではモーターライズのものは僕が調べた限りでは見当たらない、そう、市販されてい

た模型は見当たらない、モーターライズにするとしたら自作するしかなかった、仮に自作するとしてもかなり大

きな模型になっただろう、なぜなら、今のように小さい電池、強力な小型模型モーターがなかったので、

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日本理化模型製作所となっている、これはどんなメーカーだったのか僕にもまったくわからない、

当時はもう数えきれないほどの中小の家内工業みたいなメーカーがあったので今となっては調査することは

ほとんど不可能、資料等もまず残っていない、

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作りは雑なものとなっている、

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色の塗り方もこのように雑な塗装、

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張られていた線も切れていたりしているので張り直そうと思っている、

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朝日新聞の社旗もかろうじて残っている(笑)いや、訂正、軍艦旗である、

いまだに僕がわからないこと、それはなぜ反日新聞の朝日新聞がこのような軍艦旗を社旗として使用している

のか、なぜ韓国がこの朝日新聞の社旗を軍艦旗だと批判しないのか、あれほど自衛隊の軍艦旗を嫌って批

判しているのに朝日新聞の社旗を批判しないのか、まあ仲良しだということはわかるが、

ところで、この駆逐艦イカヅチにはあの有名な艦長のことが今も語り継がれているらしい、

そう、駆逐艦イカヅチの工藤俊作艦長のことである、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E4%BF%8A%E4%BD%9C_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)


しかし戦後、工藤艦長はそのようなことは一切語ることはなかったという、家族でさえ知らなかったという、

ただ、戦争で亡くなった戦友達の冥福を祈り表に出ることもなく静かに暮らされたという、

本当の意味での偉人と称される方はそのような方を指すのかもしれない、自分の功績を自慢するわけでもなく

驕ることもなく、武士道精神を貫いて生きていく、まあ、こんなことを言う僕はすでに時代遅れ、

ただ、これはプラモデルの歴史の中においても同じことが言えるのかもしれない、

あの日本プラスチックの濱田さんもそうであったという、生前はプラスチックモデルを日本で初めて開発し発売

したことなど一切語られることはなかったという、濱田さんご夫妻には子供さんがいらっしゃらなかった、

それで今は甥っ子さんが今の会社を引き継いでいらっしゃる、その甥っ子さんもご存じなかった、

大阪で日本プラスチックという会社を立ち上げプラモデルを作っていたということは聞いていた、東京でのハマ

ライト時代のことも聞いていた、しかし、日本で初めてプラスチックモデルを開発していたことなど一切聞いたこ

ともなく、まったく知らなかったという、濱田さんは基本的に過去のことはあまり話さず未来志向的なところがあ

ったという、また自慢することを極端に嫌ったという、

あのマルサン商店とはエライ違いである、まあ比べること自体が失礼だろう、

マルサンはいろいろな事実を隠し嘘の証言等で捏造脚色してまで嘘のラモデルの歴史を作り上げてしまった、

そして、その嘘で捏造したマルサンの物語を基にそれを今もビジネスとして成り立たせてしまった、

その嘘もレベルの高い嘘なら騙されもしようが、あのような程度の低い嘘などすぐにバレてしまう、

日本プラスチックの濱田さんはいろいろな玩具メーカー、模型メーカーと関わった、

マルサンと関わっていた可能性もある、当時としてはそれが自然の流れだろう、

しかし、それは決して表舞台に立つことはなかった、影の存在としてプラスチックモデルの発展の基礎を作ら

れた、その濱田さんは10年前に亡くなられた、もう10年前にたどり着いておればご本人に直接その真実をお

聞きすることができたのに、いや、ひょっとしたら、「いや、もう過去のことだから」と固く口を閉ざされたかもしれ

ないが、

プラモデルの歴史だけでなく、いろいろな歴史の本当の真実というものは闇の中に閉ざされているものが多い

のではないだろうか。








和工樹脂の謎

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嘘のマルサン物語を書いた書籍はいろいろとあるが、主なものは次の3点だろう、

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このうち「日本最初のプラモデル」という本は実は火星人さんからいただいたものである、

そう、あの電話がつながらなくて心配になって直接火星人さんの自宅を訪ねた時にいただいた本である、

結局は受話器が外れていたのが原因だったが、僕が訪ねるまで火星人さんは気がつかなかったようで、

なぜ火星人さんがこの本を読んでいたのか、やっぱり火星人さんは昭和53年に模型店を閉店してからもマル

サンのことが気になっていたそうである、それで本屋でこの本を見かけた時に購入して読んでみたとのことで

あった、もちろん、この本の内容についてはただ笑っておられた、当時の模型業界内でただ一人マルサン説を

正面切って否定されたのは火星人さんだけだったのだろう、

そして、僕に「マルサン説を覆しなさい」と仰った、それが最後の遺言みたいになったことは以前の記事にも書

いたとおりである、そう、もう火星人さんとは会うことができなくなってしまった、

ところで、この3点の書籍の内容はというと、マルサンのプラモデル開発、発売時の話はほとんど同じ内容とな

っている、そう、まるで口裏を合わせたように、

マルサンの社長がアメリカへ渡米してレベル社のノーチラス号を持ち帰りそれを職人達に見せたら、「これは

一体何だ!!」とプラモデルなるものを初めてみたとか、問屋に持ち込んだらこんな玩具の残骸みたいな、ク

ズみたいな、などと言われまったく相手にしてもらえなかったとか、あの伝説の金型職人(僕に言わせれば伝

説でもなんでもない、誰がそのように言い出したのかしらない、まあ、勝手にご自分でそのようなことを)のお

方は、プラスチックという材質そのものを初めて見たとか、当時は国内には成型機がなかったとか、まあたわ

ごとを仰っている、

何度も繰り返すが、

舶来プラモデルは当時はすでに日本でも輸入されており買おうと思えば東京なら「ステーションホビー」でも売

っていた、

だから、問屋筋がマルサンのノーチラス号を見ても残骸やら壊れたオモチャなどというわけがない、すでに問

屋でも舶来プラモを取り扱っているわけである、プラスチックという材質も戦後すぐに普及しはじめその頃には

ピストル玩具やら電化製品、日用品等にもなっており初めて見るわけがない、マルサンそのものがピストル玩

具を発売している、もうあの職人さんの嘘の証言には笑ってしまうしかない、

まだまだ嘘の証言はあげればキリがないが、

マルサンが当時一番隠していたことといえば、

ノーチラス号と同時発売したとされる

〇 和工樹脂製のダットサン

〇 PT212哨戒水雷艇

〇 ボーイングB47

この3点である、   この中でPT212哨戒水雷艇については前の記事でも書いたようにあの職人さんが作っ

たものでないことは間違いないだろう、その理由については前の記事にしたとおりである、

また、あの職人さんはPT212哨戒水雷艇とボーイングB47の金型製作のことを聞かれても当時はいろいろと

作っていたからいちいち覚えていないと仰っている、ノーチラス号より金型製作が困難な哨戒水雷艇のことを

覚えていないことなど絶対にありえない、ましてや日本初?の意気込みで作っていたはずである、

そう、ご自分が作ってないからトボケテいらっしゃるのである、つまりまだ腕が未熟でできなかったのだろう、

では一体誰が作ったのかとなると、今となってはわからない、もちろんあの職人さんにお聞きすればわかるこ

とであるが、もう墓場まで持っていかれるおつもりだろう、

そして、もう1点の和工樹脂製のダットサンである、もちろん、この和工樹脂のダットサンがマルサンのノーチラ

ス号より前に完成していたのだろう、マルサンがそれを取り扱った経緯としては三越デパートに和工樹脂が取

引を持ってなかったからとしている、

まあそこまではいいとして、問題はここから、

その和工樹脂のことについては今なお不明である、業界紙の日本模型新聞にもその記事は一切載ってない、

数か月後にはマルサンから離れて和工ブランドとして数種類の車のプラモを発売している、

当時の三ツ星商店の広告欄にはその和工製品が載っているので三ツ星商店とも取引ができたのだろう、

ただ、すぐに和工は消滅したようで広告欄にも載らなくなった、

一体どのようなメーカーだったのだろうか、未だにそれは解明されていない、

その事情を知っているのはもちろんマルサン商店である、そう和工樹脂との取引開始のいきさつからその後

の和工樹脂がどうなったのか、しかし、マルサン関係者はそのことをまったく話したことはなかった、

つまり、和工樹脂のことが知られると非常に都合が悪いのである、何か重大な隠し事があるのだろう、

おそらく、今までに和工樹脂のことを追跡調査された方はいらっしゃらないだろう、

僕が東京に住んでいれば調査してみようということになるが、何と言っても明石からでは無理、

それこそ、東京に別宅でも持たない限り無理、そんなことは絶対に無理、

和工樹脂には何か重大な事実が隠されているような気がしてならない、当時のマルサン関係者が絶対に話す

ことがなかった和工樹脂というメーカーはどのような会社だったのだろうか、  <続く>


和工樹脂の謎は永遠に?

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当時から和工樹脂のことを絶対に明かさなかったマルサンの関係者たちのことである、

間違いなくマルサンにとっては不都合な真実が隠されているに違いない、

和工樹脂という会社にはマルサンにとって一体どのような不都合な真実が隠されていたのだろうか、

いや、その和工樹脂のことだけでなく、当時の状況等についても嘘の証言、捏造でもって作られていることは

すでに説明しているとおりである、

和工樹脂のことについても、もっと早くからその真実を追跡調査すれば判明していたかもしれない、

しかし、何度も繰り返すように当時はプラモデルの歴史などどうでもよく、誰も気にすることではなかった、

しかし、後になっていざ歴史を語る上ではどうしてもその起点となるものが必要になってくる、それが嘘と捏造

で作られたマルサンの歴史であった、そう、もうそれらの真実を知っている生き証人の方々はご存命ではな

い?だから、マルサン関係者の言うがままにプラモデルの歴史が作られてきた、

もちろん、一番悪いのは嘘と捏造の証言をしたマルサン商店の関係者達である、 

しかし、もうひとつ原因がある、 それは、・ ・ ・ ・ ・  

まあいろいろな事情があるのでここでは書くまい、

要は、捏造で作られたマルサン物語でビジネスが成り立ってきたということである、そう、今も、

今も捏造されたマルサン物語がプラモデルの歴史として書籍、講演等、いわゆるマスメディアで垂れ流しされ

ているということである、

歴史は真実が出てくると書き換えられる、誰も最初から嘘と捏造で歴史を書くわけない、自分の研究調査は正

しいと信じて歴史は書かれる、

ただ、マルサンの場合は違う、マルサン商店関係者が当初から嘘と捏造で歴史というものを作り上げてしまっ

た、つまり意図的に悪意で、他に証言者がいないことをいいことに、それが僕は気にくわない、

そこで、話を戻して、そのマルサンが決して口にしなかった「和工樹脂」のことについてであるが、

ハッキリ言って、その実態はまったくの不明、当時の関係者の方々もご存命であるかどうかわからない、

おそらく、いままでに追跡調査された方々もいらっしゃらないだろう、

前の記事にも書いたように僕にもその調査は現実的には無理、

解っていることと言えば、

〇 本社の住所  東京都千代田区淡路町1-9   電話 29-6864

〇 工場      東京都練馬区南町4-6265   電話99-2132

この住所と電話番号だけである、他のことは一切わからない、模型新聞にも一切記事はない、

もちろん、この頃の住宅地図も存在しない(ゼンリンは昭和40年代に入ってから)、また住居表示変更もなさ

れているので今のところまったく見当もつかない、

東京地区に住んでれば行動も起こせるが明石からでは無理、まあ、絶望的な感じ、

しかし、このままでは永遠に謎のままになってしまう、一番手っ取り早いのはあの伝説の?といわれる金型職

人のお方に聞けばいいのだろうが、まあ正直に話される可能性はゼロ、あくまでも墓場まで持っていかれるこ

とだろう、

しかし、このまま引き下がるのも、    <続く>


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