プラモデルが世に普及する前の昭和34年頃の正月は何をして遊んでいただろうか、
それは、マルサンがノーチラス号を発売したとされる翌月のことである、もちろん、マルサンがノーチラス号を
発売したことなど知るはずがない、今のように宣伝媒体というものがなかった、まあ知ってても地方までそれが
流通してくることはなかっただろう、
昭和34年頃というと僕はたしか小学4年生、たしかその頃としては定番の凧揚げ、メンコ、ビー玉、ライトプレ
ーン、で遊んだと記憶している、雨の日は、そうそう、家の中で銀玉鉄砲で撃ち合いをして遊んだことを記憶し
ている、
以前の記事でも書いているように、その時に撃ち合いをして遊んだのがこの銀玉鉄砲、
ただ、その頃は銀玉鉄砲とは呼んでなかった、「マジックコルト」と呼んでいた、
実は、この「マジックコルト」こそ今でいう銀玉鉄砲の元祖なのである、
ハッチを開け銀玉を入れ、スプリングの付いた棒を引いて引き金を引く、
これは、そのマジックコルトのパクり品、どこのメーカーなのかさっぱりわからない、
オリジナルの実物大の写真を載せている、
大きさもほとんど同じ、形状もほとんどパクっている、
大きな違いがコレ、銀玉の装填箇所、パクり品はスライド式、オリジナル品はハッチ式、
まあ、当時はこのようなパクり品がまかり通っていたのである、
そのマジックコルトが発売される前に遊んでいたピストルが次のもの、
そう、このプラスチック製というか、どちらかというとベークライト製といったほうがいいのか、
これは、マルサン製のもの、マルサンもその頃はピストル玩具をいろいろと発売していた、
僕が遊んでいたピストルのうちこの2丁が一番記憶に残っている、
さてさて、そのマルサンのことについて再び批判してみよう、もうマルサンの批判はやめておこうと宣言し
たものの、やっぱりどうしても言いたくなってくる、マルサンの批判は楽しい、病みつきになってしまう、
今年、最初に言っておきたいのは、マルサンのプラモデルの歴史のことは全てリセットしなければならない、
ということである、今までにもしつこく書いてきたようにマルサンのプラモデルの物語はそのほとんどが嘘で捏
造されていることは書いてきた、
マルサンのプラモデルについて語り継がれてきた今までの物語は嘘、なぜ僕がここまで嘘と断定して痛烈に
批判するのか、それは、マルサンが何も知らなくて間違いで日本初だと誤って宣伝し発売したのならまだ許せ
る、だがそうではない、全てを知ってた上でいろいろな事実を隠してきたことにある、
そう、あの金型職人のお方の証言も嘘、関係者の方々の証言等も嘘、全て自分のところの都合のいいように
当時から今まで嘘で脚色し伝えてきたことにある、しかも、それがこれからも永遠に?それがプラモデルの歴
史として言い伝えられようとしたことにある、そう、それが故意に意図的に捏造されてきたわけである、
うすうすとそのことに気が付いていろいろと疑問を持った方々もいらっしゃったが、正面切ってそれを具体的に
批判されるような方々は僕が知っている限りではいらっしゃらなかった、まあ、ネット上ではあるが、正面切って
ここまで断言してマルサンを批判したのは僕だけかもしれない、ひょっとしたら、マルサンに関しては聖域の部
分があり誰も批判できなかったのかもしれない、それと具体的に批判できる根拠を持たなかったからだろう、
まあ、それらについても今までに書いてきたとおりである、
つい先日、「プラモデル」を日本全国に流通させ普及させたのもマルサンではない、と僕は断言した、
「プラモデル」を問屋筋の流通ルートに乗せ全国に普及させたのもマルサンである、と、まあ合言葉のようにこ
れも定説になっていたようだが、これも誤りである、嘘と言ってもいい、
単純に普通に考えてもわかることだろう、「俺のところと取引したければ保証金を積め」などと強要したらプラモ
デルなど普及するはずがない、実際に僕は当時マルサンのプラモデルは見た記憶がない、
文具店、電気店、デパートでもマルサンのプラモデルはまったく記憶がない、
僕が一番最初に作った記憶があるのは三共のピーナツシリーズであり、三和のモーターライズのトライアン
フ、アトムレーサー、である、それから、ニチモの伊号潜水艦、東京タワー(東宝模型ではなくその前身の不二
化学の製品だったかも)であった、それから、今井科学であり、大滝製作所であり、緑商会、タミヤ、であった、
マルサンのプラモデルなど目にしなかった、一度も購入して作ったことはなかった、
つまり、東京、大阪などの主要都市は普及していたとしても地方までは普及していなかった、
それともう一つの要因がマルサンには子供の心をとらえる動くプラモデルがほとんどなかったからである、
もちろん、スクリューやプロペラを回す程度のプラモデルはあった、その頃子供達が夢中になった戦車プラモ
もほとんどなかった、(アッ、一つだけあったかな)
このポスターを見ても動かして楽しいようなプラモはない、ディスプレイタイプのものとスクリューを回す程度の
プラモデルである、当時子供が欲しいのは走る戦車であり、戦闘機であり、車であった、
あの哨戒水雷艇のプラモデルも、そう、あの職人の方が金型が複雑すぎて制作することができなかったプラモ
デルも、一体どこの誰がこの金型を製作したのだろうか、正直に話して欲しいのだが、墓場まで持っていかれ
ることだろう、
マルサンは多額の宣伝広告費を使いテレビでも「陸と海と空」という番組で宣伝したが、不思議なことに少年
雑誌ではほとんど広告を載せていない、たまに見かけるのは戦記雑誌「丸」であった、
僕らは、少年雑誌に載っているプラモデルの広告を見て購入していたのに、少年雑誌の広告のみが各メーカ
ーのプラモデルを知る手段だったのに、
ということは、マルサンは当初からプラモデルは子供たちを対象にはせず、大人達を対象にしていたのかもし
れない、それと、動くプラモデルが苦手だったのだろう、マルサンが子供たちに注目されだしたのは怪獣、SF
特撮マスコミ物プラモを発売してからである、
つまり、それまでにプラモデルを全国の子供たちに普及させたのが三和であり、三共であり、ニチモ、今井科
学、緑商会、大滝製作所等であった、マルサン以外のメーカーであったということである、
何度も言うように、マルサンは「プラモデル」の商標を登録しそれを独占使用、その商標権というものを拡大解
釈し横暴を働いたということである、その精神は今のお馬鹿な「日本プラモデル工業協同組合」にも引き継が
れていることはすでに以前の記事でも書いているとおりである、
とりあえずはここまで。