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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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中学生の頃の夏には、

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夏になると大滝製作所の魚雷艇の記憶が蘇る、

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そう、この「魚雷艇RT7」、これは物凄くよく走った、


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何と言っても、マブチ55モーターという強力なモーターと単2電池4本を使用した、

そのスクリューの回転は物凄い、

中学生の時にはこの魚雷艇を何度も川で走らせた、


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走らせた川というのがこの矢部川、ストリートビューで見た現在の矢部川がコレ、

この道路の右側が矢部川、左側がちょうどその頃住んでいた家がある、

その頃はこの川はこんなに水がなかった、川原があった、その川原ではシジミが採れた、

こんな姿になってしまった、その頃はこの川は僕らの遊び場でもあった、この道路は舗装されてなく車が通ると

もうもうと砂ぼこりが舞い上がった、雨になると車が通るたびに泥水を浴びせられた、

この川で僕はこの魚雷艇の舵を少し切って大きく円を描くように走らせた、そう、ちゃんと手元に戻ってくるよう

に、この魚雷艇は川の流れに負けることなく、大きく円を描いて僕の手元に戻ってきた、

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そこで、この夏には手始めにこのトミーの水中翼船を走らせてみようと思っている、

もちろん、明石海峡の海で、まあ海とは言っても海岸べりであるが、それでも海は海、


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このトミーの水中翼船なら明石海峡のどこかへ行ってしまってもいいだろう、

大滝の魚雷艇はちょっと困る、どこかへ行ってしまったら惜しい、前回はキングシャークはうまくいったので今

度はコレを走らせて遊んでみるつもりにしている。

いろいろと、ご批判はあるようですが、

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今回のオウムの麻原死刑囚等の死刑執行については、世界からの人権屋さんからいろいろと日本は批判

を浴びています、死刑制度は非人道的で残酷非道であると言われています、

日本国内でも人権屋さんと言われる方々からも死刑制度は残酷非道な制度で廃止するべきだと言っていま

す、はたしてそうでしょうか?死刑制度は残酷で非人道的なものなのでしょうか?

そもそも、死刑制度が残酷なのではなく、その原因を作ったオウムの麻原死刑囚等が残酷非道な人間なの

です、残虐な手法で殺人を行わなければ死刑にされることはなかったのです、

殺人を行えばその刑の重さで制度として、ルールとして国の制度として裁かれ死刑になることもあります、

そのちゃんとしたルール、制度によって裁かれるのは当たり前のことです、

死刑制度が残酷非道なものではなく、その原因を作った麻原死刑囚が根本的に悪いのです、死刑に値する

行いをしたことが原因なのです、凶悪犯そのものの行いが原因なのです、

私に言わせれば、日本は世界でも最も人権を尊重する国ではないかと思っています、

そうです、凶悪犯そのものの人権を重んじる国です、被害者よりも凶悪犯の人権を重んじる国です、

日本を批判する国をご覧いただければ一目瞭然です、批判している国ではテロリストは容赦なく射殺します、

凶悪犯でも容赦なくその場で射殺します、

さて、日本ではどうでしょうか、あの秋葉原事件を思い出して下さい、あの凶悪犯に対しても警察官は拳銃

で犯人を撃つことはありませんでした、警察官が拳銃を使用する時は覚悟を決めて、それこそ退職を覚悟して

使すると聞いています、最近の事件でも交番での警察官のお方が殉職なさいました、ご自分が拳銃を使

用さることはありませんでした、ご自分の命は捨ててでも凶悪犯に対しても人権を重んじているわけです、

今回の私のことも同じことが言えるのではないでしょうか?

そう、Mさんのことです、

今回の私の言動に業界内や取り巻く方々が批判していることも聞いています、

ハッキリ言って、なにをやっても批判はつきものです、

そうです、過激な文章でもって攻撃するなんてとんでもない奴だ、とあちこちから言われているようです、

業界内でも私の手配書みたいなものが共有されているようなことも聞いています、

しかし、よく考えて下さい、その原因を作ったのはMさんです、

やってはいけないことをやってしまったからです、しかもわざわざ喧嘩を売ってこられたからです、

それをやらなければ、ここまで私に過激な文章で攻撃されることはなかったのです、

批判されるべきはMさんなのではないでしょうか、

別に私を正当化するつもりはありません、いや、訂正、少しありますが、

批判している方々は、

それとも、泣き寝入りをしてずっとこのまま妨害され続けられなさい、とでも仰りたいのでしょうか?

タダの素人は引っ込んでなさい、とでも仰りたいのでしょうか?

すでにこの世界では私がMさんと喧嘩をしているいう情報が随分と流れています、

間違えないで下さい、私はMさんと喧嘩はしていません、喧嘩をしたらタダの素人が勝つに決まっています、

堂々と、この場で事実を公表しているだけです、泣き寝入りだけはしたくないからです、

泣き寝入りしている方々も多いと聞いています、まさに素人の出る杭は打たれる、ということです、

杭で打つのは業界人、マスコミ人だけが持つ特権なのでしょうか?

だから、それが、私のタダの一般人としての小さな抵抗なのです、それはいけないことなのでしょうか?

私のそのことで仮にご迷惑をお掛けしている方々がいらっしゃるとしたら、それは申し訳ございませんとしか

いいようがありません、

それからもう一つ、人は恩義というものを忘れてはいけないということです、ましてや、それを仇で返すことな

ど絶対にやってはいけないことです、ところが現実はそうではありません、なぜか、恩を受けた方に対してそ

れを仇で返す方々が多いのも現実です、悲しいことです、

まあ、そういうことを言える私ではないということも充分承知しております、

今日は、丁寧な文章で書きました。






昆虫プラモ

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夏になると昆虫プラモが流行り出す?

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これは、マルサンの「昆虫の不思議」、まだ組み立て途中のもの、

もう、3年くらいこのままの状態になっている、なぜかというと、中央のポストにコウロギが乗っかることになって

いる、それがデカイものだから組み立てると保管場所に困ってしまう、

さて、箱をどこへ仕舞いこんだのか見当たらない、結局はこのままの状態、

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当時としてはなかなか出来がいい、

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これを夏休みの昆虫採集として本物と一緒に入れても、ぱっと見ではわからないかも。

バンダイの昆虫プラモ関連記事、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72310581.html

イマイサマー作戦、         https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70513407.html

歳とると丸くなるというが、

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今日も僕の品のない上から目線の文章を我慢して読んでいただこう、最近はそのような批判があちこちで囁

かれているので僕の文章を読んでいただくのは非常に申し訳なく思っている、

今回はなぜ僕がこんなに嫌らしい人間になってしまったか、ということ(笑)、2回にわけて説明しよう、

それでは、

人は歳をとると人間が丸くなるというが、どうも僕はそうではないらしい、

若い頃は「いい人」だった、温厚で大人しくて、ところが段々と歳をとるにしたがって嫌らしくなってきた、

もう今なんか僕の人生の中では最高の嫌らしさとなった、まだまだその嫌らしさは進化?している(笑)

まさに皆とは逆行しているような気がしてならない、

実はと言うと、僕は若い頃(20歳代から30歳代前半)までは非常に温厚で大人しかった、

しかし、あることから思い切って意識的に性格を変えようとしたのが30歳代半ばごろだった、

人間は自分自身が持っている本来の性格というものは変えようがない、と僕は思っている、

だから、自分の性格を変えようとするならば開き直って意識的に変えるしかない、

そう、本来持っている性格は内部に秘めて、外部的、表面的に変えるしか方法はないと思っている、

悪く言うと、本来の性格は隠し持たなければならない、まあ、二重人格と表現したほうがいいのかもしれない

が、それらを状況に応じて自由に使い分けるしかないと思っている、

ところが、それが難しい、つい本来の性格が出てしまう、使い分けることができない、

その理由は、人はどうしても「いい人」でありたい、 「いい人」に見られたい、という願望があるからだろう、

ただ、僕に言わせれば、その「いい人」というのは、どうでもいい人だろう、

会社の中で昇格し出世している人を御覧なさい、大人しい人、いい人などいない、

ハッタリをかまし、嘘でもいいからもっともらしいことを堂々と言う人間がほとんどだろう、

もちろん、実力がなければならないが、実力だけではダメということ、

僕は30歳代半ばまでドン底だった、どうしようもないダメ行員だった、それは本来の性格が原因だった、

何の個性もない、いてもいなくても、どうでもいい行員、同期はドンドン昇格し、早い者は課長にもなった、

僕はまだヒラ、それが僕への人事評価であった、その頃はすでに僕は諦めもあった、まあ、定年まで勤めれ

ばいいやと、

組織内での人事評価というのは一旦定着するとそれを覆すのは難しい、コイツはダメだと決めつけられると

いつまでもそれが付いてまわる、そしてイジメ、今で言うパワハラの対象となるのははどうしても弱い人間、大

人しい人間、何も反撃してこない人間のところに集中してしまう、つまり、それらの対象として僕は絶好の人間

だったのである、

しかし、ある時に気が付いた、仕事ぶりを自分なりに冷静に観察すると先輩方と比べてもまったく遜色ない

ほど実力はある、いやそれ以上かもと(笑)

そこで思いついたのが、もう性格を変えるしかない、ただ本来の性格を変えることは出来ないので意識的に無

して表面的に変えようと、最初はなかなか難しい、表面的に変えようとしても難しい、

もうそうなったら、あとはヤケクソになるしか方法はない、

後先のこと考えずにヤケクソとなり、開き直ったらこれほど強いものはない、

もう、どうなってもいいんだと、クビにさえならなければいい、そう思ったら怖いものはない、

つまり、僕は完全にワルになり切ったのである、ワルというのは悪、

最初のターゲットになったのが直属の上司の課長だった、

これが僕が上昇機運に乗っかるキッカケとなった、      <続く>




残骸を引き取りに

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土曜日は相棒〒と大阪市内まで残骸の引き取りに行ってきた、

もう、日本全国あちこちにと出没する、そう、模型の情報があれば、

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まあ、埃だらけの木製艦船、


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千葉支部?の〇川さん、 以上コレだけです、

「模型探偵団」では日本全国どこへでも、無料にて模型の残骸の引き取りに応じます(笑)

はい、日本全国どこへでもタダにて頂きに参上いたします、

捨てる前にぜひご一報を。

また、念のためにお願い

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またまた、念のために書いておきます、

冒頭にも書いていますように、私のブログの記事の中で「真実のプラスチックモデルの歴史」に関するものに

ついては無断で画像、記事の転載、引用等は禁じます、禁じるのはコレのみです、

その他の記事、画像、動画等については、どうぞ、無断で盗用、引用、転載等、ご自由にお使い下さい、

そんなに大した記事は書いていませんので無断でどうぞお使い下さってかまいません、

私はプロではありませんので、ややこしいことを言うことはありません、

ただ一つだけ言わせていただけるとしたら、

盗用されるとしても、ちゃんと正確に盗用していただきたいと思います、間違った盗用をしてもらったら困りま

す、私の記事を盗用していただけるのであれば、よく読んで、画像等もよく確認して盗用していただきたいと思

います、中途半端な盗用ではなく私の正確な記事をちゃんと理解して正確な盗用をお願い致します、

黙っておこうかと思っていましたが、誤った情報を流していらっしゃるのであえて言わせていただきます、

たまたま見つけたのですが、

某ツイッターで某ロボットのことを書いた記事が最近ありました、それは、それでいいんです、盗用されたとして

も私としては何もクームを入れたり文句を言うことはありません、

ただ、それならばちゃんと正確に書いていただきたいのです、記事も画像も間違いで正確ではありません、

画像も違っています、一見すると合っているように見えますが、それが違うのです、

おそらく、その画像はアレを使用されたのかと思います、私もその画像をブログでも使用しています、

ただ、その画像は違っているんです、また記事のことも若干違っているんです、私の記事をよく読んで理解し

ているお方なら気がつくのでしょうが、その断定なさったことは間違いなのです、

さて、なんのこっちゃ、なんのことか気が付かれる方は、おそらくいらっしゃらないかも、いや、2、3人は、

具体的に書くと、またまたトラブルになりますから、私はトラブルが大嫌いですので、

要は、私の場合は盗用、転載、引用等は無断で使っていただいて何の問題もありません、

なぜなら、私はプロでもなく、大した記事ではないからです、ただその大したことない記事でも正確に盗用、転

載、引用等をして下さい、ということです、ただそれだけのことです、どうぞ、よろしくお願い致します、

こうやって、私がお願いするのもヘンな話ですが。


今日のこのネットニュースに感動!!https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180717-00010006-agora-int





ポンポン船を作る、

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ポンポン船を作ってみよう、


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ポンポン船はブリキだけかと思っていたら、このような木製キットもあった、

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60年はすでに経っているのではたしてこのポンプは機能するだろうか、

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う~ん、見た感じちょっと無理かなあ~、

まあ、試してみないことには結論も出ない、とにかく作ってみよう、     <続く>

あれから60年

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72472650.html の続き、

その頃、赤線で働く女性達を「パンパン」と呼んでいた、

普通は不特定多数の米兵を相手にするが、特定の米兵を相手にする女性を「オンリー」さんと呼んでいた、

今で言う、愛人契約?みたいなものであった、だから、その「オンリー」さんのために特別に部屋を用意してい

た、そう、「オンリー」さん専用の部屋であった、

その「オンリー」さん達の中に「マリリン」(名前を思い出せないので仮にマリリンとした)がいた、

そのマリリンさんも、お相手の米兵と遊びに出かける際は、よく僕を一緒に連れて行ってくれた、

海水浴場、映画館、スマートボール、そう、サーカスも観にいった、フリーゲート艦の見学もした、

そうそう、マリリンさんとその米兵、それと母と僕の4人で写真館で家族写真?も撮った、

実は、女性達は家族というものに憧れのようなものを持っていたのではないだろうか、

マリリンさんだけではなかった、写真館では他の何人かの女性達とも米兵、母、僕の4人で家族写真を撮っ

た、つまり、今考えると、女性達は家族というものに飢えていたのだろう、

そう、母は女性達にとっては「ママさん」であった、

せめて真似事だけでもいい、家族一緒に写真を撮ってみたい、そういうことだったのではないだろうか、

しかし、その米兵達ともいずれは別れがくる、そう本国への帰国であった、

いくら職業とはいえ本気で恋心を抱く女性もいた、米兵が帰国した後も手紙を今か今かと待つ女性もいた、

まあ、手紙が来たら大変、女性は大喜び、しかし、読めない、英文を読める人を探すのが大変であった、

しかし、所詮は叶わぬ恋、どのような内容だったのかは僕はもちろん知らない、

中には将来を約束?したものもいたかもしれない、そう、本国で一緒に暮らそう、

しかし、そのようなものは一時的な恋にすぎない、米兵達にとっては本国へ帰ればそんなものすぐに覚めて

しまう、落胆しヒロポンに溺れ廃人同様になって死んでいった女性達もいた。





ポンポン船を作る、

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作るのは簡単、

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はい、これで完成、

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キャビンのカバーはブリキで自分で作りなさいとある、そんなの無理、それは省略、

今日、風呂に入った時にロウソクに火をつけてポンプが作動するか試してみよう。

ポンポン船を作る、

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さてさて、60年以上も経ったこのポンポン船のキットは走るだろうか、

僕がポンポン船を走らせたのはたしか小学1、2年生の頃ではなかったかと記憶している、

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ロウソクに火をつけてポンプの下に潜らせて炙る、

狭い浴槽内にて走らせた。


マブチモーターの記事で、

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たまたま古い週刊誌をパラパラとめくっていたところ、


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その週刊誌がこの「週刊現代」、

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昭和44年5月15日号である、

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その中に、マブチモーターの記事が載っていた、

まあ、多分間違ったことが書いてあるだろうと読んでいたら、もちろんあった、

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毎度のことながら世界初だのと、しかも昭和28年だと、

この昭和44年にはもう捏造されたマブチモーターの歴史が作られていたのだろう、

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この記事の中で、戦後まもなく郷里高松市で馬蹄形のマグネットモーターを作り出し云々、とあるが、

それらのことも事実ではないことはすでに「模型モーターの歴史の頁」で詳しく紹介している、

戦前の話として、

その高松市の近くに例の「朝日科学玩具」の創業者の佐原社長の工場もあった、そこに馬淵青年は出入りし

ていたらしい、その朝日科学玩具が日本初の学校教材用の「スクールモーター」を開発発売し、それを戦後の

ドサクサに紛れてパクったのが馬淵青年が発売した「スクールモーター」であったこともすでに紹介したとおり

である、しかも馬淵青年がパクったのではなく、朝日科学玩具がパクったとマブチの社史に書かれているこ

ともすでに紹介しているとおりである、僕に言わせれば実にケシカランこと、嘘を書くなと、

このことを「朝日科学玩具」の3代目の社長さんに言ったら、「そうだったんですか」と、ただ笑っておられた、
     (今は朝日テック)

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結局は、マブチモーターの歴史というものも都合のいいように作られてきた、

まあ、そんなこと、どこの世界でもよくあること、

言いたいのは、今まで何度も言ってきたように、歴史は勝者、成功者によって捏造し作られるということであ

り、本当の歴史の真実は消え去った者、敗者が知っている、しかし、それが今となってはほとんど知ることがで

きなくなった、そして、その消え去った者、敗者については脚光を浴びることもなく無視され、勝者、成功者の

みが脚光を浴びその話だけで歴史が作られてきた、ということである、

そのことも、ほとほと言い疲れてしまった。

今、改めて「模型モーターの歴史」というものが定められているかどうか調べてみたが特になさそうである、

マブチモーターの歴史が模型モーターの歴史そのものみたいに語られている、

ちゃんとした「模型モーターの歴史」を定めたいが何と言っても今となっては当時からの古い資料等がほとんど

在しないので正確に掴むのはもう不可能だろう。

22日は休み、

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明日、22日(日)は湯郷温泉行きのためブログは休みです、一人でコソッと行ってきます、
          http://spa-yunogo.or.jp/
いえ、何も悪いことはしていません。

昨日は湯郷温泉へ

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昨日は岡山の湯郷温泉へ一人で行ってきた、http://spa-yunogo.or.jp/

車でゆっくり走って片道2時間、僕は一般道を走るので、

もう2年ほど遊びに行ってないので、たまには遊びに来いとおっしゃるので仕方なく行ってきた、

そう、温泉地とはいっても何も無いところなので(笑)、ぜひいらっしゃ~い、などとお世辞にも言えない、

僕も最初は驚いた、このような温泉地もあるのかと、そういう意味では一度は来る価値はあるのかと、

まあ、本当のことを言うから嫌われるが本当だから仕方ない、

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まあ、休日といえど人影はほとんどない、ここは湯郷温泉のメインストリート、

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前に見えるのは足湯場、 だ~れもいない、

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このように、人影はほとんどない、

ハッキリ言って、湯郷温泉は何にもない、僕は事実しか言わない、

冷泉なので湯けむりもない、見物するところもない、本当に何にもない、

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土産売り物店等も1軒もない、みな店じまいしている、


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右のホテルも廃墟のように、

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かつてバブル時代の頃はストリップ劇場も3軒あったらしいが今はこのように廃墟と化している、

市も観光協会もこの温泉地の活性化をまったく考えてないのだろう、いや考えていないらしい(笑)

女子サッカーチームのかつての「湯郷ベル」も今はさっぱり、

かつては、年一度「おもちゃフェスティバル」なるものを開催し「おもちゃの街」と称して活性化を図っていて、

僕も会場で「昭和のプラ模型」などの講演?などで協力していたが今はそれも廃止され行く機会もなかった、


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僕が遊びに行ったところがこの「昭和館」、もう3年くらい遊びに行ってなかったので行ってきた、

そう、「遊びに来い」と仰るので、8年前に開館した当初はまずまずの来館者があったが段々と減少気味だと

いう、第一人通りがまったくない、わざわざではあれなので、近くを車で通る機会があったらぜひお立ち寄りく

ださい、

館内の一部を画像で紹介しておこう、実は開館時よりも随分と展示物が増えている、

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これは、小松崎画伯の最後の作品、そう、これが本当の最後の戦艦大和の作品、

戦艦大和を真後ろから見た去り行く戦艦大和の後ろ姿、小松崎画伯の最盛時から比べると随分とタッチの力

が衰えているのがわかる、もう亡くなる直前の作品、

左下のサインをよ~く見ると、サインが途中で途切れている、またサインもハッキリしない、

そう、サインする力もなくなり途中で途切れてしまったのだという、

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これは、大正時代のキャラメルの自動販売機、もちろん、調整すれば作動する、

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その自動販売機ももう4台ある、右の色付きの販売機は超レア、

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僕が小学生の頃まではこのようなパチンコ台であった、

実は小学校に入る前から僕はパチンコ店に出入りしていた、そう、あの女性達に連れられて、

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これらも小松崎画伯の原画、

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この部屋では「ブルーフイルム」の上映会をやっている、アッ、嘘!!冗談、

今それをやったらどうなるのだろう、まあ、今時「ブルーフイルム」なんて言っても知っている人は僕らの年代

の方々だけだろう、

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これは、中島章作画伯の大作の万博会場の絵、少年雑誌の口絵かなにかで使用されたもの、


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これもそう、

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小松崎画伯の書斎を再現したもの、

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これは、あの自宅の火災時の、

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これは昔の便所を再現したもの、便器は当時の高級なものを使ってある、

中国縦貫道を通る際に時間があれば美作インターから10分くらいなので、ぜひお立ち寄りください。

昭和37年のレベルのカタログ

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舶来もののプラモデルのカタログは一つも持ってなかった、

そう、舶来プラモはほとんど興味がなかったので、

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ところが、ヤフオクでレベル社の昭和37年のカタログが出ていたので入札していたら500円で落ちてしまっ

た、う~ん、誰も興味がなかったのだろう、これが僕がたった一つだけ所有している舶来ものカタログである、

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もちろん僕が読めるわけがない、ネットの翻訳機能を使おうとしたが、これがなかなかアルファベットを入力す

るのが面倒なのでやめてしまった、

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この中にジャパンとある、これだけは読める、アッ、ロンドン、メキシコ、ドイツ等も、

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例のノーチラス号もある、

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ストラトジェットも、

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水雷艇も、

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何と書いてあるのかさっぱりわからない、

画像に載せたら自動的に翻訳したものが出るのを発明して欲しい。

渥美産業 貯金バス

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渥美産業はいろいろな木製模型キットを発売していた、しかし、今となってはその存在すらほとんど知られてい

ない、それはプラモデルとしてはすでに紹介している艦船の洋上模型しか知られていないことと、昭和40年3

月に事実上廃業したことによる、(その後は大州模型として営業継続していたがそれも今年廃業)

その渥美産業の木製模型キットとしてはロボット模型なども紹介してきた、

その中の一つとして「貯金ロボット」も紹介したが、今回は「貯金バス」なるものを紹介しよう、


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                               (昭和32年1月10日 日本教材新聞)

そう、この広告の「貯金バス」、料金を入れると走り出しドア―を開けるとストップ、

これは、いかなる模型なのか、

その現物は「千葉支部」に保管してあるのでその現物の画像を送ってもらったので紹介してみよう、

わが「模型探偵団」では東京支部、千葉支部、とあちこちに全国展開している(笑)、


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当時の価格は180円、

さて、その設計図を見ると、これがまたパット見では理解できない、

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ここまでは理解できる、ギアボックスは使用しないでプーリを輪ゴムで動力を伝達する、

まあ、プーリーと輪ゴムだけでは車輪を回転させるのはかなり難しいが、これはプーリーを2個使って減速して

いるのでまあなんとか走るだろう、

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さて問題は、お金を入れるとどのようにスイッチが入り、ドア―を開けるとスイッチが切れるようになっているの

か、この設計図をパッと見しただけでは理解できない、


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これらの部品も見てよ~く考えていただこう。


世界初の電動飛行機

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昔は「世界初」、「日本初」などと称して、つまりハッタリかましていたことはすでに紹介しているとおりである、

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これもすでに紹介している三和模型の世界初の電動飛行機、もちろん、これもハッタリ、

その頃にはいろいろなメーカーが世界初などと称して電動飛行機を発売していた、ということもすでに紹介して

いるとおりである、

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これに使用されているモーターがマブチAP25モーター、

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そのモーターがコレ、マブチAP25モーター、

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「銀電池」を使用となっているが、試しに乾電池を繋いでみると問題なく普通に回転する、

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これもすでに紹介している世界初の電動飛行機、

その他、いろいろと世界初の電動飛行機はあったようなので、まあ、どれが世界初なのかまったくわからない、

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これはそのモーターを回す「銀電池」、銀電池も当時はいろいろと種類があったようである。

そうそう、昔の電池といえば思い出した、

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そう、この乾電池、またゾンビのように生き返るだろうか、今は死んでいるが、   

再再度試してみることにした、    <続く>


今更言うまでもなく随分と手配書が出回っているようで、

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またまた、僕のロクでもない文章を我慢して読んでいただきたい、何度も何度も同じようなことを書いて本当に

申し訳なく思っている、別に認知症気味ではないのでご心配なく、

徹底しておきたいことはもう何度でも書きたい、

実は、元々評判はよくなかったが、特に最近はあちこちと手配書が出回っているようで非常に光栄に思ってい

る、「模型探偵団」、「明石小五郎」と聞いただけで皆が関わらない方がいい、と大評判のようで嬉しい、

いい意味でも悪い意味でも素人がそこまで評判になること自体が嬉しい、

最近は特に業界あたりからもすっかり無視され、相手にされなくなってしまった、それほど悪名が轟渡っている

のだろう、、業界というのは模型業界、出版業界である、もう相当数指名手配書が出回っているのかも、

そう、妨害工作やら陰謀やら、いろいろと水面下で張り巡らせられている、

その原因の一つは、僕の過激な攻撃によるものらしい、ただ、僕は事実を書いている、どこかのチャンネルみ

たいなものではなく、堂々と身分を明かしてこの場でしかも最近は僕の実名まで明かして書いている、

そんなに僕の言動が影響するとはとても思えないが、しかも何度も言うように僕は素人である、

プロならまだしも、素人の言動が影響するとはとても思えない、

それと、僕は弱い立場の方を攻撃することは絶対にない、それだけは自慢できる、

工作員M様みたいに弱い立場の人間を見下したり、妨害工作したりは絶対にしない、そこまで落ちぶれてはい

ない、

そこで、

僕が書いていることが事実でなければ堂々と反論すればいいだけの話、僕の言っていることが嘘だったらそ

れこそ大変な問題である、堂々とできなければ直接僕にコソッと反論すればいいだけの話、それらは一切な

い、ということは事実だから反論できないということだろう、

大体が皆、業界、そのスジの著名人等に媚びすぎている、媚びなければはじき出されると思っているのだろ

う、実はそうなのです(笑)、しかし、その媚びている姿は僕からしたら非常に見苦しい、

こんな本当のことを書くものだから益々皆からは嫌われる要因にもなっているのだろう、

最近は某地元明石の住人の方々からも「明石小五郎という奴はヘンな奴でっせ」と言われているらしく、もう笑

ってしまった、なぜなら、それらのお方とは顔は知っていても話さえしたこともない、

そういう噂になっているだけでも光栄である、 そう、そのことで僕のことが証明された、 つまり、

その某明石のヘンな方からヘンな奴と言われているということは僕はまともな人間だということだろう(大笑い)

ただ、僕が申し訳なく思っていることが一つだけある、

何度も言っているように、僕と関わるとご迷惑をお掛けするということである、現にあるかもしれない、

それは非常に申し訳なく思っている、

だから、最近は非常に気を使っている、「私と関わると絶対にご迷惑をお掛けしますよ」、と必ずお聞きして

いる、なぜか、と問われると、その理由も具体的に説明させていただいている、

「いや、別にかまわないよ」、「何の問題もないよ」と、一応は了解をいただいているが、

中には、「それならやめとこう」と、仰る方も(笑)、 別にそれはそれでいい、それぞれ事情があるので、

最近は特に今までにない?過激な文章でもって書いているので、皆さんからは非難ごうごうかと予想して

いたが、そうでもないのだろう、

それと、最近は何度も言うように、出版、模型業界人の方々には恩義というものなどほとんど存在しないという

こともあらためて具体的に思い知らされた、仮にそれが僕の勝手な思い込みだとしたらそれこそしい世界で

もある。

もう、こうなったら業界からも、そのスジの方々からも無視され相手にされなくなったので、もっと過激に生きて

いくしかないだろう、

人は歳をとると段々と人間が丸くなるというが、僕の場合はそれがあてはまらないのかもしれない。












マルサン ノーチラス号時における発売順序は、

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細かい事で申し訳ないが、もう一度念のために、今までも何度も指摘しているが、

マルサンのノーチラス号の発売時における順序は次のとおりである、

〇 マルサン ノーチラス号 昭和33年12月 発売

             ↓

〇 NBK(日本文化教材)ノーチラス号(日本プラスチック製造) 昭和34年2月 発売

             ↓

〇 ニチモ 伊号潜水艦     昭和34年3月 (正確には3月10日)

この順序が正解、今までの間違った説では、NBKのノーチラス号がほとんど抜けているのと、ニチモの伊号潜

水艦が2月になっているがこのとおり、3月が正解、

このような事実もなかなか訂正されない、

プラモデルの歴史の中でも特にこの発売順序は重要な意味合いを持つものであると、僕は思うのだが、

まあ、これも素人の僕が言っているので無視されているということだろう、いや、言っているのではなく、ちゃん

と今までも証拠資料を示しているのだが、僕でダメなら、一体どなたが指摘すると間違った説が訂正されるの

だろう(笑)。

あれから60年

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72477924.html の続き、

当時の女性達との写真はもうない、引っ越し等で母が廃棄処分したと記憶している、

女性達と米兵、僕と母との4人で写真館で撮った家族写真もあったが、それらも全て処分、

残していたら、当時の貴重な資料?となっていたかも、

いや、たった1枚だけ残っていた、


イメージ 1

肝心の女性が半分しか写ってないが、ヘアスタイルが当時の女性の典型的なものであることがわかる、

これは、女性達と佐世保の鵜渡越えに花見に行った時の写真、母と僕、4、5歳の頃だろう、

たしか女性達は3、4人一緒だったと記憶している、

イメージ 2

その頃、近所の女の子と一緒に撮った写真、僕と兄、

近所のカメラ好きの方に撮ってもらったものと記憶している、

売春禁止法が制定されてからは「ハウス」を廃業、その後は旅館業を始めた、

もちろん、売春禁止法が施行された後は堂々と営業はできないので、その後は連れ込み宿みたいなことも、

そして僕が小学5年生の時に全てを引き払い母の郷里であるところに引っ越したのであった、

最後まで残った女性がいた、(名前は思い出せない)、

その女性に、母は、「何かあったら遊びに来なさい」と、連絡先の住所を書いたメモをソッっと手渡した、

しかし、その女性とは2度と会うことはなかった。

関西地区の小売業界は強かった、

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昔の関西地区の小売業界は強かった、

模型メーカーの社長達をも呼びつけていた、

関西模型小売商組合では昭和43年に「モデル大賞」なる制度を決めその年に発売された優秀なるプラモデ

ルを発売した模型メーカーを表彰していた、

そして、その表彰式には大阪までメーカーの社長を呼んで表彰していた、

まあ、今の模型メーカーの上から目線の状況とはエライ違いであった、今からみればとても考えられない、

それほど関西地区の模型小売業界は強かった、

イメージ 1
            (昭和44年10月20日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

日本模型新聞には昭和44年10月に開催されたその表彰式のことが書いてある、

遠くは栃木県の佐野市からニチモの社長も、

それほど、関西の小売業界は一目置かれていたのであった、

イメージ 2

その「モデル大賞」なるものの中心的な役割を果たしていたのが「多田数茂」さんであった、

そう、その多田数茂さんこと、「火星人」であった、大阪十三の「火星模型店」店主であり、日本模型新聞の社

友であり、その記事を書いていた

火星人さんは日本模型新聞紙上でも言いたいことを書いていた、メーカーと今で言う忖度などしなかった、

僕と同じように?模型メーカーの批判記事なども書いていた、

その一つの理由が「モデル大賞」であった、「実質、モデル大賞は俺が決めていた、だからメーカーには文句を

言わせなかった」 と。


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