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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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「テロ朝」を商標登録しようとしたが

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毎度毎度書いて申し訳ない、これは今の僕にとって生きがい、いや、もはや使命となってしまったので、どうか

我慢して読んでいただきたい、

僕はいつも「テロ朝」と表現しているが、これは別に僕が独断で言っているわけではなく世間がそう言っている

からそれに従っているだけである、

その組織に属している社員だから、テロ朝工作員、そしてそのイニシャルのMをとって「テロ朝工作員M」と表現

しているに過ぎない、実はMのイニシャルではなく実名の苗字をカタカタで表現しようとしたが、相棒からそれ

はちょっとやり過ぎと言われて仕方なくMと表現している、まあ、今更Mと表現しなくても模型の世界に詳しい方

なら誰のことかすぐにわかることは今更言うまでもない、

堂々とおおっぴらに出来ない小心者なのか、コソッとテロ妨害工作が得意、自分より先を行く者が気にくわな

い、自分より目立つ者が気にくわない、

普段は紳士ぶっているから普通の方はテロリストとは気が付かない、

僕は15年も付き合ってきたから(正確に言うといいように利用されてきた)、裏の人間性もよく熟知している、

もちろん、我が「模型探偵団」で模型界のテロリスト指定第一号である、

そこでその、「テロ朝」を商標登録してみようかなと思った、そう、商標登録は早いもん勝ち、

「テロ朝M」と背中に印刷したTシャツを独占販売しようかと、

しかし、良く考えたらそれが登録される可能性は低い、

なぜなら、「テレ朝」といえば「テロ朝」、「テロ朝」と言っても「テロ朝」、 コレ、一般常識、

なんと、今ではネットの百科事典でも「テロ朝」とは「テレ朝」のことである、と断言している、

つまり、「テロ朝」という名称は一般名称化、普通名称化している、

そう、普通名称、一般名称は商標登録できない、

ということは、「テロ朝」と表現しても誹謗中傷にはまったくあたらないということだろう、

なので商標登録は諦めた、

念のため、「テロ朝」が登録されていないか特許庁のホームページで検索してみた、

もちろん、登録なし、

ならば、「テロ朝工作員M」を商標登録して、そっくりのフギィア人形を売り出したら売れるかも、そう、独占販

売、う~ん、やっぱり売れるわけないか、そんなもの買うお馬鹿はいない、それこそ、「お上」の助手だけ(笑)

そこで、今度は「テレ朝」で検索、これはもちろん登録あり、

しかし、ちょっと意外である、、初年度の登録が平成16年、つまりつい最近のことだった。





歴史の追跡調査で今振り返ると、

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「日本プラスチック」の追跡調査についてはまだまだ謎もあり、解明されていない部分もある、

濱田貞雄さんの奥様(現在91歳)まで突き止めたのに、本来なら奥様の証言によりそれで全て解明できるは

ずだが、現実はそう甘くはない、繰り返すが本来ならここで全て解明できるはず、 しかし、・ ・ ・ ・ ・

どういうことなのか、まあ、そのことはまづ置いといて, 次のことからまづ読んでいただこう、

今まで何度も言ってきたように、歴史というものは勝者、成功者、生き残った者が作り上げるもの、

極端に言うと、それらの方々が自分の都合のいいように捏造して作り上げるものである、

戦争の歴史がそれを端的に物語っている、敗者ともなればそれこそ悪者になり、勝者ともなれば英雄となる、

模型の歴史もそうである、今までもその事例を示して紹介してきたとおりである、

つまり、成功して生き残っている方々が作り上げてしまう、闇の部分は隠され捏造された歴史が作られてしま

う、その典型的な事例としてマブチモーター等も紹介してきた、

要は、成功者の証言などはアテにはならない、成功者の証言など捏造されたものであってもそれはいつの間

か真実となってしまう、

どちらかと言うと、敗者の証言というのが真実性があるが、ところがこれがなかなかうまくいかない、

そう、敗者の方々はなかなか語らない、無様な昔のこと、思い出したくもない事柄など語らない、

ましてや、30年前だったら当時の関係者の方々もまだ元気でいらっしゃった、もう、今となってはそのような

方々はほとんどいらっしゃらない、証言をとろうにも非常に困難である、

次に歴史を追跡調査するにあたって注意しなければならないこと、

それは、当時の社会事情、時代背景を知らなければならない、ということ、

そう、その頃はどのような時代だったのか、例えば洋服はどのような、子供はどんな遊びを、

風俗は、生活は、等々、当時はパクリ、ハッタリ、は当たり前だったことも知らなければならない、

特に模型の場合もパクリ、ハッタリは常套手段であったことも知っておかなければならない、

そういう当時の時代背景を知っておかないと、例のマルサンの「ノーチラス号」の広告で、

「国産初の成功!!」、「国産初のプラスチックモデル」を信じてしまう、

つまり、マルサンのハッタリ広告をそのまま鵜呑みにして国産初だと信じてしまう、

そう、当時は、「世界初!」、「日本初!」という謳い文句が流行った、それが常套手段だった、

今なら、そのような手段は許されないが当時はそれが許された、おおらかな時代であったことを知らなければ

ならない、シツコク言うと、今の感覚で考えると歴史の研究では過ちを犯してしまうということ、

僕がプラモデルについて今のド素人ではなく、ドド素人の頃、「マルサン物語」という書籍を読んだ、
                                     (現マルサン社長著書)
そう、まだプラモデルについてはほとんど無知の頃である、

それでも、その「マルサン物語」に書いてあることが何かヘン、と感じた、

マルサン関係者の証言である、僕が知っている当時の時代背景のことと矛盾している、

今更言うまでもなく、プラスチックという素材がまだ未知の素材であったとか、残骸のこととか、

売り込みの苦労話とか、まあ全然当時のことと矛盾していた、

ここまではまだプラモデルの真実を探ろうなどとは思わなかった、     <続く>

歴史の追跡調査で今振り返ると、

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僕がプラモデルと関わり始めてからそんなに月日は経っていない、

阪神淡路大震災後なので20数年である、それより前にやってたらそれこそ収集物は残骸と化していたかもし

れない、だから、平野克己さんの「マルサンの残像」も未だに読んではいない、その内容もほとんど知らない、

ただたまに、人からこのように書いてあるなどと聞くのみである、

僕がプラモデルにのめり込むキッカケとなったのは、もちろん、懐かしさもあったが今記憶を蘇らせればあの

書籍ではなかったかと思う、

その書籍とは、「モデルカーズ」である、たしか22年くらい前だった、書店でたまたまそれを見かけたので立ち

読みした、そのページの中にあったのがハッキリした記憶がないがたしか「プラモデル懐古堂」だったか、

それに紹介されていたのが今井科学の1/15 4号戦車であった、もちろん平野克己さんの執筆であった、

平野克己さんの名を知ったのがそれが初めてだったと記憶している、

その今井科学の4号戦車の記事が懐かしかった、今井科学の4号戦車は子供の頃、戦車プラモの中でも最高

に欲しかったプラモであった、しかし、2,500円という価格では手にすることができなかった憧れの戦車プラ

モであった、その平野さんの記事を読んだ時が僕がプラモデルにのめり込むキッカケになったと記憶してい

る、もちろんその頃はプラモデルに関してはドが二つ付くくらいのドド素人、それから古いプラモデルに関する

書籍等を読みだした、そして、通販の「ほこり屋」、「ジョイハウス」等も利用し始めた、

そう、まだまだインターネットが普及する以前のことであった、

まだまだ、日本初のプラモデルは何か、などまったく興味はなかった、

いろいろな書籍を読んでいるうちに、マルサンが日本初のプラモデル、ノーチラス号を発売したということを知

ったのはその頃である、

そして、いや、マルサンではなく、日本プラスチックではないか、いや、和工、いや、ニチモ、といろいろな説が

あることも知った、その中で特に僕が興味を持ったのが「日本プラスチック」というメーカーであった、

昭和31年10月の日本模型新聞に「ゼロ戦」、「マスタングP51」の発売予告の広告を載せた後、忽然と消息

を絶ったメーカー、日本模型新聞にその「ゼロ戦」「マスタング」を発売したという記事がないからと言う理由で

誰からも注目を浴びず闇に葬り去られてしまったメーカー、その日本プラスチックというメーカーになぜか興味

を持ってしまった、僕は勝者ではなく敗者のようなものになぜか興味をそそられてしまう、

そして、例のマルサン物語のような書籍を読むたびに違和感を覚えた、

そう、何か作られてしまったような物語であると、

そうこうしているうちに、日本模型新聞に日本プラスチックがマルサンのノーチラス号の発売前にゴム動力のノ

ーチラス号を発売したというような記事を見つけた、その記事を書いていたのが後の「火星人」であった、

この記事を読んで僕は日本プラスチックは日本初ではないかと確信のようなものを持ったのである、

つまり、日本模型新聞を調べて読んでいけば記事として残っている、それらの調査不足だったのか、

それとも無視して、マルサンが一番と祭り上げられてしまったのかそれは僕もわからない、

ある意味、怒りのようなものを僕は覚えた、これが日本プラスチックを調査しようとした動機でもあった、

                                            <続く)


今日は休み、

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昨日から孫が遊びに来ているのでブログは休み、

もう、お相手するのが大変で。

歴史の追跡調査で今振り返ると、

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よ~し、「日本プラスチック」の正体を突き止めてやろうと思ったものの、肝心の基本的な情報がなかった、

そう、日本プラスチックの住所、電話番号等がわからなかった、基本情報が不明であった、

その状態が数か月続いた、

ある日、静岡のYさんが渥美産業の倉庫の中から当時の「業者名簿」を発掘したことを聞いた、

もちろん、快くその業者名簿を提供していただいた、

その業者名簿の中には「日本プラスチック」の名があった、

そしてその後、僕が日本プラスチックを調査していることをブログで知った地元東大阪の「あうとぱあん」さんか

ら当時の東大阪の「工業要覧」なるものを提供していただいた、もちろん、その中には日本プラスチックの名が

あった、これで、日本プラスチックの基本的なデータが揃ったわけである、

そう、代表者、本社の住所、支店の住所、電話番号、が判明したわけである、

追跡調査の基本となるデータが揃い、それから本格的な追跡調査を開始することができた、

つまり、「日本プラスチック」が実際に存在し活動していたことが確認できたわけである、

もし、静岡のYさん、「あうとぱあん」さんからそれらの提供がなかったら僕の追跡調査はありえなかった、

追跡調査は不可能であったと言っても過言ではない、(アッ、いけない、あうとぱあんさんの名を出してしまった

、僕と関わったことがわかるとご迷惑がかかるかも、ゴメンナサイ、しかし、本件は事実なのであえてここに記

録としても記しておきたい)、

つまり、それらの方々の協力がなかったら、

プラモデルの歴史というものが捏造されたままこの先永遠に語り継がれることになったのである、

そして、あと3、4か月、僕の追跡調査が遅れていたら、

本当に、あと3、4か月僕の行動が遅れていたら、

その追跡調査は不可能になっていたと言っても過言ではなかった まさに最後のチャンスであった、

                                                 <続く>

明日は、マルサン物語が捏造された要因について、そして、マルサンのノーチラス号の金型を作った職人は誰

なのか、それは特定できるのか、


※ ここで強調したいのは、この記事のとおり僕の追跡調査には協力していただいたお方がいらっしゃった、
  そして、その協力がなかったら僕の調査は成り立たなかったということ、
  ところが、一切その協力がなかったにも関わらず、むしろ妨害していたにもかかわらづ、明石小五郎の調   査は俺が全面的なバックアップをしていた、と、うそぶいている人間がいるということ、
  それは、全面的なバックアップではなく、全面的な妨害工作ということ、
  それが先日も記事にしたとおり、「テロ朝工作員M」である、
  もう、どうしようもない哀れな男である、

シャクにさわるので、一応、念のために、

  もし、そのMからそのような話を直接聞いたらすぐにご連絡を、(笑)
  まあ、M本人もこのブログを読んでいるだろうから今後はそのような嘘をつくことはないと思うが。





マルサンに関してはいろいろなライターの方々が

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マルサン物語的な書籍はいろいろなライターの方々が執筆されてきた、

それは、これほどプラモデルの歴史を語る上でうってつけの材料先はなかったからだろう、

そう、他に採り上げる材料先がなかった、脚色して物語にするには絶好の材料先であった、

しかし、その内容はほとんどが皆同じ、今までの受け売りの物語であった、

なぜなのか、それはもちろん調査不足、研究不足だから、である、いや、それらをまったくやってこなかった、

なぜ、そうなるのか、それはプロだから、僕みたいなド素人ではなくそれで飯を食っていかなければならない、

だから、素人でも明らかにオカシイと感じるものでも、素人でも疑惑を感じるものでも、そんなもの関係ない、

なんとしても物語として完成させ売り出さなければならない、記事として載せなければならない、

そう、疑惑があっても面白おかしく嘘でも脚色して物語を作り上げなければならない、ちゃんと調査、研究する

余裕、技量もなかった、

そこに最大の原因がある、

そこが、プロより素人のほうがプロ以上と言われる所以である、

素人は興味を持ったものにはどうしようもないほど一生懸命になる、プロはそうはいかない、

一生懸命になったところで金にならなければやっていけない、時間が限られている、

マルサンに関する書籍にしてもそれに登場する人物は皆同じ人物である、

金型職人といえば例のお方、問屋に売り込んだ方と言えば例のお方、等々、みな同じメンバー、

誰が書いても皆同じ物語になってしまう、よくもそんな同じ書籍を今まで出版してきたものだとあきれてしまう、

よくも嘘で固めた模型の歴史を日本中?に広めてきたものだ、その責任は大きい、

2、30年前くらいなら当時の関係者の方々は大勢いらっしゃった、いや、10年前でも多くの方がご存命だっ

た、歴史の証人とも言える当時の関係者は大勢いらっしゃった、

つまり、多くの関係者の方々から証言等は得られたはずであった、ただ、口は固い何度も言うように関係者の

ほとんどは固く口を閉ざされている、その口を開けさせるのがプロとも言えるが、

僕もこの2年間の間にいろいろと多くの方々に取材を行ってきた、

「10年前、5年前だったらよかったのに、もう亡くなられて、今では当時のことを知っている者は、」

という返事が多くあったのには物凄く残念であった、

もちろん、今でも古い資料をたよりに電話取材を実行している、そう、数撃てば当たることもある、

つい最近も、一年越しに衝撃的なある証言をえることができた、そう、1年かかった、

そう、どこの世界でも同じように、模型業界の世界も複雑な、そしてドロドロとした世界で皆さんなかなか口が

固い、当時のことを語ってくれるお方が少ない、つまり本当に真実を知っているお方は何らかの理由で決して

口に出されることはない、ということであった、

今からではすでに遅いが、マルサン物語については全て最初の物語からリセットしなけらばならないというこ

と、初めからやり直ししなければならない、ということが僕の結論である、

しかし、もうすでに遅し、今からでは不可能に近い、

それともう一つ、マルサン物語は模型業界の全体の歴史ではないということ、

あたかも、マルサンが模型の歴史を象徴しているがごとく書かれてきたが、そうではないということ、

単なる一つのメーカーの出来事に過ぎないということである、その一つのメーカーの出来事が大げさに採り上

げられ、その出来事があたかも模型業界の歴史であるがごとく語られてきた、

しかも、それが事実とは違った捏造されて語られてきたということである、

そう、たったマルサンの数人の証言者達が語ることを根拠として、(僕に言わせると証言者とは言えないが)

その物語が作られてきた、

言い換えると、マルサンのたった数人の方々しか情報がなかった、情報をとることができなかった、

他のメーカーの方々の情報をとることができなかった、いや、とろうとしなかった、

その限られたマルサンの証言者達のみでもって物語が作られてしまったということである、

そりゃ、自分たちの都合のいいように過去のことを語るに決まっている、けっして闇の部分など語るはずがな

い、

もちろん、マルサンの金型職人のお方の証言もそう、

ただ、金型職人のお方を全面的に責めることは僕はできない、

なぜなら、当時は新人の駆け出しで金型工場の一職人であり、何も社内のことも知らず、また知らされていな

かったのではないかと、これは平野さんも今月の「モデルカーズ」で書かれている、

つまり、そのお方のみの思い出話を証言として採用したことに大きな問題があった、

そう、ご本人は単にマルサン社長や、工場内での思い出話をされたのだと思う、それをノーチラス号の金型の

開発に繋げようとしたことが大きな問題であった、

僕は金型職人のお方を擁護するつもりは毛頭ないが、おそらくご本人はノーチラス号をご自分が金型を

作ったなどとは当初は言われなかったのではないのかと、多分、その様子を思い出話として語られたのでは

ないのかと、つまり、ノーチラス号の金型を開発している現場を見ていた、そのように僕は断言してもいい、

しかし、物語を面白くするためにその金型職人のお方をノーチラス号の金型の開発者だと祭り上げてしまっ

た、もちろん、祭り上げたのはプロのライターの方々である、

そうなると、金型職人のお方ももう引くに引けない、つまり、ノーチラス号の開発者とならざるを得なかった、

ノーチラス号の金型の開発者として演じるしかなかった、

今更そうではないですよ、なんて言えない、そう、嘘の証言を今でも繰り返し、会社の宣伝文句も「日本初の

プラモデル金型を開発した会社」として売り込んだ、ということ、それで会社のイメージアップも図っている、

今更実はそうではありません、などとは言えないだろう、会社にとっても大きなダメージとなってしまう、

もちろん、現マルサンも大きなダメージを負ってしまうだろう、

う~ん、これは大変なことである、

いずれにしても、この根本的な原因はライターの方々が作ったと言っても過言ではないだろう、その責任は重

大である、

ここに、真実を明らかにすることは正義かもしれない、しかし、正義を貫くことが現実問題としていいことなの

か、真実を明らかにすると混乱し、ダメージを負う方々も発生してしまう、

それならば、模型の歴史が歪められたまま永遠に、このままソッ、としておくことがいいのか、

僕も大いに悩んでいるところである、が、正直なところ、敗者側の無念を晴らしてあげたいという思いが優先し

いる、その敗者側の一つが「日本プラスチック」であることは言うまでもないだろう。


※ ここまで書くからにはそれなりの明確な根拠を持って僕も書いている、
  その根拠とは今まで多くの関係者の方々に取材等を行ってきた、
  そしていろいろな証言を得ることができた、マルサンのたった一人の
  証言ではなく、いろいろな方面の方々、マルサン物語には登場しない
  本来なら登場すべき方々等。

 ここで、僕はノーチラス号の金型を作ったのはあの金型職人のお方ではない、と断言したことになる、
 もし金型職人のお方が反論されても、僕がそう断言する根拠をコソッと示せばグーの根も出ないだろう、

 まだまだ、ノーチラス号の金型の開発者は誰なのか、それを特定できる可能性は残っている、
 実は数年前だったら特定できていた。
 もちろん、金型職人のお方は現場を見ていたので当然ご存じだろうが、もう墓場まで持っていくしかないだ   ろう。

 それと、マルサンがノーチラス号と同時発売した和工のダットサンはいいとして、哨戒艇、爆撃機は
 誰が、どこのメーカーが製造したのかという謎も残っている。

 

     https://www.kouenirai.com/profile/4062  (マルサン物語のお話し講演料15万円)
                                 僕ならボランティアで講演やります。

歴史の追跡調査で今振り返ると、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72455594.html の続き、

さて、基本的な情報は揃ったので、今度は商法上の会社登記がなされていたのかであった、

そこで管轄の法務局へいき登記簿謄本をとることができた、もちろん、閉鎖済みの登記簿謄本である、

職員の方が閉鎖済みの謄本を探すのは大変らしい、そう、紙ベースなので手作業で探す、同じような会社名

のものもあった、その都度、この会社ですか、また別の紙を探してきてこの会社ですか、と、

とにかくすでに閉鎖された謄本をとることができた、日本プラスチックは法的にもちゃんと設立された会社であ

った、昭和31年3月に設立されていた、会社の設立目的は、「合成樹脂製品製造加工、並びに輸出 」となっ

ていたが、その時は特にその輸出ということには気にとめなかった、

その次が、会社が存在した場所である、昭和31年当時の住所なので場所が特定できない、

住所が旧住居表示であり、しかもその当時の住宅地図など存在しない、ゼンリンなどは昭和40年代に入って

からである、

そんな住宅地図など存在しないだろうと、ネットで適当にいろいろな言葉で検索していた、

すると、アッタ、昭和33、4年頃からの住宅地図会社が、そう、今のゼンリンとまったく同じような住宅地図が、

その会社の住宅地図で場所を特定できたのであった、

ところがである、その住宅地図会社のホームページがその4か月後に消えてしまっていた、

営業を中止し、他の会社と統合したのでホームページを削除したのであった、

つまり、今となってはネット等で探しても不可能、そのような会社があったことさえ探し当てることはできない、

そう、あと4か月僕の行動が遅れていたら日本プラスチック、東京堂模型店の場所は特定できなかった、

ということはこれ以上、追跡調査は不可能であったということである、

まさに危機一髪の最後のチャンスであった、   

そして、その危機一髪の最後のチャンスはもう一度訪れることになる、   

そう、「火星人」さんのことであった、               <続く>


マスコミ人はトラブルを起こしてはならない、

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さてさて、今日もテロ朝工作員Mを斬ってしまおう、

シツコイがこれはもう僕の生きがいとなり使命となってしまった、もう使命となったら徹底的にやるのが僕の

性分である、どちらかが潰れるまでやる、

これも何度も言うように、素人の女には絶対に手を出すな、というコトワザ?がある、痛い目に遭うと、

それは男にも言える、素人の男には手を出すな、と、

ましてや、マスコミ人が素人の男に手を出すなどとんでもない暴挙、まさにこれこそテロリストの自爆テロ、

すなわち、マスコミ人は決してトラブルを起こしてはいけない、コレ、鉄則、

もちろん、マスコミ人というのがテロ朝工作員M, 素人というのが僕である、

そのことは今更説明するでもなく、もうすでに皆わかっていること、

M本人も充分にそのことは承知しているはずだった、そのこととは一般人、素人とトラブルを起こしてはいけな

い、ということ、Mは僕にもそのことは言っていた、「私が恐れているのはトラブル」だと、

そう、一般人ならともかくマスコミ人が何であれトラブルを起こすこと自体が問題である、ということ、

だから、Mは今も表面的には僕とは何事もなかったのごとく振る舞っているのである、

しかし、Mは、わかっているにもかかわらず自らそれを破ってしまった、

すでに書いているように、Mには15年ほどいいように利用されてきた、

頼まれごとも快く引き受けてきた、

ちょっと手違いがあったりミスったりすると、「もう、アンタには頼まない、他の者に頼む」などと酷いことも言わ

れたが、僕は言い訳もすることなくちゃんとやってあげてきた、

Mは僕よりも一回り以上も年下である、それでも僕は敬ってきた、

おそらく、Mは僕を子飼と勘違いしていたのだろう、そう、自分は特権階級の人間だと勘違いしているので、

まあ、僕がドド素人の段階だったらよかったのだろうが、段々とド素人、素人、と上がってきたのが気にくわな

かったのだろう、ご自分の領域が荒らされてきた、と、

これ以上、明石小五郎の名が広まるのが気にくわない、と、もう許せない、と、

いろいろと小細工らしきものは感じられていたが、まだそれは疑惑の段階だった、

まさか、そんなことはないだろうと、

それが決定的になったのが何度も言うように、あのテレビ出演であった、

もう、何度も何度もそのことは書いてきたが、今回はまだ書いてないことを紹介したい、

工作員Mは、テレビ収録の1、2日前までは知らなかったのだと思われる、

スタッフから収録の1、2日前に聞いたのだろう、明石小五郎というのが出ると、

その時にテレビスタッフに言ったのだろう、何で俺に相談もなく勝手にそのようなことをするのか、と、

アイツはヘンな奴だ、テレビに出すわけにはいかない、それでいろいろと嘘八百並べてスタッフに僕のことを言

ったのだろう、あること、ないことを、

しかし、もう収録予定は組んであるのでまずは収録しなければならない、あとは編集段階でカット、削除はどう

にでもなる、

実は、収録の時からなんか様子がオカシイとは感じていた、

僕が車に満載して静岡の収録現場に到着した時からヘンな様子だった、

そう、ちっとも喜んでいなかったのである、普通なら喜んで出迎えるはずだがそんなふうには見えなかった、

そして僕が持ってきたプラモデル、資料等を全然見なかった、普通なら喜んで何を持ってきたか見るだろう、

スタジオ内を見ると、地元のショップ〇〇屋のしょうもない再販プラモが並べられていた、

頭にカチンときていた僕はイヤミを言った、「エッ、こんなしょうもない物を撮影するつもりですか」と、

すると、ㇺッとして、「いやいや、あとから凄いものを持ってこられますので」と言われたので、

何を持ってくるのかと見ていたら、なんと、その凄いものとは現行物のウ〇〇〇〇ーの木製帆船模型だった、

もう僕の頭の中は怒りと笑いとごっちゃまぜ状態、

もちろん、撮影するものについては僕の言うことは無視、素人のスタッフが言うことに従うだけ、

僕が出る場面も、「サンダーボーイ、キャプテンパトロール、鉄人28号を台に乗せているので、その台を押し

て出て下さい」 と言うので出た、何の打ち合わせもなく出たとこ勝負、

最後には出演者の記念撮影があったが僕だけは外された、

収録が無事に終わると普通はスタッフ、タレント、司会者等は、「お疲れ様でした」と挨拶に来るのがマナーだ

と思っていたが、静岡のテレ朝はそうではないらしい、他の出演者等のところには挨拶していたが僕のとこ

ろだけ無視されてしまった、なんとも悲しい気分、

そしてまだまだあった、その収録が終わって、数日後、おそらく編集の段階だったのだろう、

日本模型新聞と今井科学のカタログを送ってほしいとの連絡が、

そう、撮影漏れがあったので、と、ああ~、収録の時に日本模型新聞も今井科学のカタログもこれは撮影しな

くていいのですか、と言ったのに、

まあ、そこまでは何かヘンとは思っていたが、Mが絡んでいたとは思わなかった、

そのことはすでに記事にて書いている、

Mが絡んでいたということが決定づけられたのが、あの静岡での出来事であった、

あの静岡でのエレベーターの中で僕は屈辱的なものを味わった、

連れの仲間が二人いた、だからその連れの二人もそのMが放った捨て台詞と勝ち誇ったような態度を見て

いたはずである、そう、そこで僕は屈辱的なものを味わったのである、

その一事例


Mも愚かな男である、自ら素人とトラブルを起こしてしまった、自分から僕に喧嘩を売ってきた、

もっともM自身が恐れていたことを自ら犯してしまった、

Mには恩義などという観念はまったくない、そんなのまったく関係ない、恩を仇で返すのが得意、

とにかく、自分より先を行く者、自分より目立つ者が気にくわない、まあ、それを言われると僕にもそれはある、

誰にも嫉妬、妬みというもは少なからずある、

しかし、だからと言って、自分の特権を利用して妨害工作をするなど許されないだろう、

まだまだ、妨害工作の疑惑はある、ただその証拠を掴んでいない、証拠を掴んだらまた紹介しよう、

それともう一つ、Mが犯した最大のミス、それは僕に喧嘩を売ったこと、

温厚な子飼いと思っていた僕にやってしまったということ、まさか反撃に遭うとは思っていなかっただろう、

こんなに大っぴらに僕に叩かれるなど予想だにしなかったことだろう、

まあ、僕も完璧になめられていた、

そう、素人ほど怖いものはない、そして、今はこのようにネットという便利なものもある、昔なら泣き寝入りだっ

た、まあ、これでテロ朝工作員Mもイメージ的に相当なダメージを負っているはずである、

それにしても、いまだにMさん、Mさん、と媚びる方々の多いこと、まあ、それは各自の自由であるが、

そろそろ、皆さん目を覚ましてもいいのではないのかと思う今日この頃である、

実はそう言う僕も目を覚ますのが遅かった。


※ 先月の17日(日)に横浜で某パーティが開催された、テロ朝工作員Mも出席するらしいとのことだったの

で相棒と出席した、話では同じテーブルになるらしい、と聞いたので、そう、模型グループ関係者は同じテーブ

ルにするとの話を聞いていたので、それならばと勇んで行ってきた、

ところが、僕ら二人は模型グループとはまったく関係ないグループの一番端っこの遠いテーブルになってい

た、

1つのテーブルは10人、模型グループのテーブルには工作員M, 〇〇堂、プロのモデラー〇〇氏、

マルサン社長プラ〇さん、等々、

ウワッ、同じテーブルだったら、それこそ乱闘騒ぎになってたかも(笑)、しかし、そうならなかったので少しガッ

カリ、それは覚悟して勇んで行ったのに!!

同じテーブルにならなかったのは主催者側(僕らと工作員Mとの関係はご存じ)の粋な計らいだったのか、

それとも誰かの陰謀だったのかはわからない。








歴史の追跡調査で今振り返ると、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72458867.html の続き、

「火星人」さんの存在は知っていた、日本模型新聞の社友として毎号紙面の半分ほどは火星人さんの記事で

あった、そして火星人さんが大阪十三の「火星模型店」の店主であったことも後で知った、

また、火星人さんが昭和36年10月の模型新聞紙上で「日本初のプラモデルの一番手はマルサンではなく、

大阪布施の日本プラスチックである」と痛烈にマルサンを批判していたことも知った、

その後、昭和44年の模型新聞紙上でもマルサンのノーチラス号の前に大阪のいまはなき某メーカーがノーチ

ラス号を発売、と記事にしていたことも知った、

すなわち、当時からノーチラス号の一番手はマルサンではなく、日本プラスチックのノーチラス号であるとわか

っていたのである、

言い換えれば、プラモデルの一番手はマルサンではなく、日本プラスチックであることは日本模型新聞の記事

でも明らかであった、何も和工やら、マルサンやら、日本プラスチックやらと論争?するまでもなかった、

プロのライターの方々がその模型新聞の記事を見落としたのか、それとも無視したのかそれは僕はわからな

い、まあ、普通に考えて見落とすことはないだろう、プロだから、

また、そのことは「業界75年史」にもそのことがちゃんと書かれている、そう、火星人さんが日本プラスチック

が一番手であると、そして、プラモデル商標権のことについてもマルサンを痛烈に批判していたと、

その「業界75年史」は必ず参考文献として採用されているのでライターの方々が見逃すはずがない、

ハッキリ言うと、日本プラスチックのことがまったくわからなかったので無視したのだと思う、

そう、調査するのが面倒なので、そんな時間も調査する技量もない、マルサンを採り上げたほうが華やかで

生き証人の方々もおり多少なりとも脚色して物語が出来上がる、(その証人の方々が問題であったが)、

例えば、例の金型職人の方の証言で僕は嘘の証言だと断言した、なぜ断言できるのかその根拠を持ってい

ると僕は言ったが、その根拠なるものを公開できる範囲で書こう、

先日の記事で、「金型職人Sさんはノーチラス号の金型を開発している現場を見ていた」 と書いた、

もっとわかりやすく言うと、いや一言で言うと、見学していた、眺めていた、

実は、金型職人Sさんがノーチラス号の金型を開発している現場を見ているところを見ていた人がいる、という

ことである、

これ以上、具体的なことは書けないが、このことを金型職人の方にもっと詳しく具体的に示すとグーの根も出

ないはずである、

話を火星人さんに戻そう、

僕は火星人さんはもうこの世のお方ではないと思っていた、

それが、日本模型新聞の社長さんに火星人さんのことをお聞きした時に、「火星人さんは今もお元気ですよ、

ただ、個人情報の問題もあって連絡先等は教えられませんが、」 と、

驚いた、もうてっきりこの世のお方ではないと思っていた方がまだお元気であったとは、

僕にとっては最後の生き証人のお方である、なんとしても居所を突き止めなければ、

実は火星人さんはずっと自分を探し当ててくれるのを30数年もの間待ち続けていたのであった、

その理由は、         <続く>


歴史の追跡調査で今振り返ると、

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火星人さんの居所はネットで検索して突き止めた、

電話を架けた時、火星人さんの第一声が、「アンタが初めてだ、私を突き止めてくれたのは、今まで誰一人とし

て私を突き止めた人はいなかった」 と、 その言葉が何を意味するのか直感的に感じるものがあった、

ひょっとしたら、何か伝えたいことがあるのではないかと、

その数日後、火星人さんの自宅を緊急に訪ねていったのは過去の記事に書いたとおりである、

昭和53年に「火星模型店」を閉じてからの30数年間、火星人さんは自分を突き止めてくれるのを待っていた

そう、今か今かと、

火星人さんは90歳、奥様は15年前になくし一人暮らしであった、

僕は問うた、「なぜ、模型新聞紙上でプラモデルの一番手はマルサンではなく、日本プラスチックだ」 と批判

したのですか、日本プラスチックが一番手だとした根拠は何ですか、と問うた、

すると火星人さんは、「昭和32年に模型店を開業する際に松屋町の問屋で見たのが日本プラスチックのゼロ

戦とノーチラス号だった、まだ国産のプラモデルは見たこともなかったので、これは珍しいと思って仕入れた」

と仰った、

そして、「マルサン説を覆しなさい」 と、仰った、

その後、火星人さんとは電話で数回やりとりを行った、再度訪問しようとしたが火星人さんの体調が思わしく

なくその機会を逃してしまった、そしてその最後に電話をやりとりをしてから1か月もしないうちに電話を架けた

ら電話が不通になっていた、すぐに自宅へ駆けつけたがすでに空家になっていた、

実は火星人さんは糖尿病で透析を受けなければならないのにそれを拒否していた、医者嫌いで自宅で死にた

いと、自然に死にたいと、僕が会った時にも、「もうすぐ死ぬから、去年には死ぬ予定だった」と仰っていたが

てっきり冗談だと思っていた、僕が会ってから3か月ちょっとのことであった、

そう、あと僕の追跡調査が3か月遅かったら火星人さんに会うこともできず証言もえることができなかった、

最後の生き証人に会える最後のチャンスだったのである、

後で思うに、火星人さんの「マルサン説を覆しなさい」という言葉は遺言だったような気がしてならない、

そこでその火星人さんの証言を裏付けしなければならない、

そう、「火星模型店」の開業が本当に昭和32年だったのか、ひょっとしたら火星人さんの記憶違いがあるか

もしれない、

日本模型新聞でそれを裏付ける記事を見つけなければならない、

すると、昭和32年3月当時のご自分の店である火星模型店の売れ筋商品の記事が載っていた、

つまり、昭和32年3月には火星模型店を開業していたということである、裏付けはできた、

次に謎が残るのである、火星人さんは昭和36年10月の記事でマルサンではないと批判した、

しかし、その後火星人さんは模型新聞紙上ではマルサンのノーチラス号が一番手だという姿勢で記事を書い

ている、日本プラスチックのことは一切記事にはしていない、その後、日本プラスチックのことを書いたのが

昭和44年のことである、「マルサンのノーチラス号の発売前に某大阪のメーカーがノーチラス号を発売した」

と、その記事はマルサンが倒産して3か月後のことである、

なぜ、火星人さんは昭和36年の記事から一切日本プラスチックのことは記事にせず、一番手はマルサンとい

う姿勢で書いてきたのだろうか、そして、マルサンが倒産後の昭和44年にまた日本プラスチックのことを、

実はそれをお聞きするのを忘れていた、まだまだ会えるからと思って、まさかすぐにお亡くなりになるとは思っ

てもいなかった、

しかし、なんとなく推察はできるだろう、

その間に、「マルサン説」が業界内でも定説化してしまった、

どの書籍類を読んでもマルサン、マルサン、

火星人さんとしてはそれが真実ではないから我慢がならなかったのかもしれない、

だから、「マルサン説」を覆してくれる誰かを待っていたのかもしれない、

火星人さんの「マルサン説を覆しなさい」と言う言葉は僕への遺言のように思えてならないのである。




オハコを奪われたものだから、

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テロ朝工作員Mのネタはいくらでもある、  「テロ朝工作員Mを斬る」の頁まで設けてしまった、

さて今日はその工作員Mが僕を敵視し始めた要因について、

僕がドド素人の頃はまだよかった、それがド素人となり始めた頃から、テロ朝工作員は密かに敵意を現すよう

になってきた、つまり、日本プラスチックを追跡調査し始めて「ハマライト」を突き止めた頃である、

突き止めたとは言ってもその頃はまだ電話帳でその存在と住所と電話番号だけであった、

実はその頃、工作員Mから電話があった、Mはもちろん僕のブログを読んでいる、まあ最近は読むと頭に

血が上るだろうから読んではいないかも、しかし、何を書かれているか気が気でないだろうからコソッと

読んでいるかも(笑)

ところでその電話をかけてきた理由は、

Mはその「ハマライト」の記事を読んで驚いたという、ちょうどその時にタミヤ内で「ハマライト」の話題があがっ

という、もちろん偶然だろう、僕はどのような話だったのかは特に聞かなかった、そう、まさか僕もその「ハマ

イト」が濱田さんのハマライトとは思いもよらなかったので、冗談半分で、「まさかそのハマライトが日本プラ

チックの濱田さんではないでしょうね」と言った程度で終わった、

もちろん、Mもそう思ったに違いない、Mがそのハマライトが日本プラスチックだと知っていたら絶対にわざわざ

僕に知らせてくるわけがない、Mの場合、自分の情報は自分だけのもの、人の情報も自分のもの、

ソレ、一般常識、Mの人間性を熟知している方々の間ではそれが常識となっている、

まあ一応念のために、まだしっかりと読んでいなかった書籍を読んでみた、

イメージ 1

その書籍がコレ、  前タミヤ会長の自叙伝「歩み」である、

その中に「ハマライト」のことが書いてある、

イメージ 2

そう、濱田さんの「ハマライト」はタミヤの救世主だったと、

まあこのことは、「伝説のプラモ屋」にも書いてある、

もちろん、タミヤ内で話題になっていた「ハマライト」がまさか、僕が追跡調査しているハマライトのことだったと

はまったく思っていなかった、もちろん、工作員Mはまだこのことには気が付いていなかったのだろう、

気がついていれば、僕にそのような話があったなどと言うわけがない、そのような情報は独り占め、

明石小五郎のプラモデルの歴史の研究については俺が全面的にバックアップした、と人に言いふらしている

のはおそらくこのことを言っているのではないかと、(笑)

実はそれからであった、工作員Mの態度がおかしくなったのは、それ以来、工作員Mとのやりとりはまったく途

絶えた、僕を敵視し始めた、

自分のオハコ(18番?)を奪われたからだろう、しかも、絶対に奪われたくないタミヤのことを、(笑)

それにしても、そのタミヤの救世主だった「ハマライト」を突き止めてあげたのに、未だに「㈱OS工業」には
                                              http://www.os-kougyo.jp/
何の挨拶、連絡もないらしい、別に僕が言うことでもないが普通なら恩義、懐かしさなどもあって連絡くらい

してもよさそうな気もするが、まあ何かマズイことでもあったのだろう、わかる、わかる、

アッ、それから童友社にも言った、おたくと取引なさっているOS工業さんは日本初のプラモデルを開発し

た濱田さんという方が創業なさった会社ですよ、といろいろと詳しく説明した、まあほとんど反応はなかった

が、「ああ~、あの材料屋さんでしょ」 と、

そのようなところとは、OS工業さんは取引を切ったらいい、

残念ながらタミヤ模型とは取引がない、取引があったら切ってもらいたかった(笑)

ついでに次の記事を、

イメージ 3

この火災の記事は僕がタミヤの関係者?の方から聞いた話の内容とはまったく違う、

どのように違うのかというと、う~ん、ここではちょっと言えない話、またその証拠を示せないので、

まあ細かいことを言えばいろいろと間違いもある、

イメージ 4

先に発売したのが戦艦大和、武蔵、続いて発売したのがモーターライズの戦車だったと思うが、

まあそんな細かいことはどうでもいい、

戦艦大和をパクったのが良く売れたらしい、エッ、軍艦のタミヤの名が全国に広がっただと、

それは、違うだろー

大和はそんなに売れなかったはず、なぜなら、パクリがバレたので途中で廃棄処分したはずだが、

これも捏造されたタミヤの模型の歴史だろう、そう、歴史は勝者が捏造して作り上げる、

昔の見本市は、

記事をクリップする


その他にもいろいろと捏造されたものがあるようで、探すのに疲れたからもうやめた、

また今日のこの記事
を読んだテロ朝工作員Mは怒り狂うかも。






歴史の追跡調査で今振り返ると、

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今まで日本プラスチックを解明できなかった要因としてその会社の場所が特定できなかったことにある、

登記簿謄本がとれたとしてもそれは昔の旧住所表示、

登記簿上の本社は旧河内市(現東大阪)、その場所は今は大東化成、隣が〇〇〇〇(なぜ〇〇〇〇としたか

最後のほうでわかる)

ところが、当時の「業者名簿」や一般的に知られていた住所は布施市(現東大阪)、

それらはすでに紹介しているように当時の地図会社の住宅地図で特定できた、

しかし、布施の該当住所ではその場所は「大阪化学研究所」となっていた、

推理力?を働かせてそこを間借りしていたのではないかと思い、電話番号簿で名義を調べたのであった、

つまり、日本プラスチックは当時の電話番号簿には載ってなかった、「業者名簿」の電話番号が実際は誰の

名義になっているのかを調べたのであった、するとその電話番号が「大阪化学研究所」の名義であったという

ことである、

すぐに現地へ飛び現場を確認すると建て替えられてビルになっていたがすでに空きビルとなっていた、

入り口には「大阪化学研究所」とプレートが掲げられていた、もうここで間違いない、

また、会社の謄本やら不動産の謄本やらをとりその所有者を調べたのであった、

ここでもネットが威力を発揮した、ネットで現住所等を突き止めることができた、

大阪化学研究所の創業者のお孫さんであった、

高校生の頃だったという、昭和28年頃から濱田兄弟が工場の片隅にいろいろな機械類を運び込んで

プラスチック製の玩具みたいなものを製造していたという、ただ、そのようなものには興味がなかったので

具体的に何を製造していたのかは知らない、合成樹脂のことについては祖父が技術指導をしていたと、

実はちょうどその頃、大阪化学研究所の斜め向かいにグリコのオマケの玩具工場があった、

そのグリコがプラスチック製のオマケ玩具を製造し始めたのも昭和27、8年からであった、

これは、つい最近知った、何か関連性がないかどうか只今調査中、

そして、登記簿上の本社の場所は今は大東化成と昔と同じ、濱田さんはその敷地内に工場を建て100人

の従業員を使ってプラモデルを製造していたという、去年OS工業さんを訪れた時に奇跡的な話を聞いた、

OS工業さんの知り合いでその頃、日本プラスチックのその工場の隣の会社でアルバイトをしていた人がいる、

〇〇〇学という会社である、

なぜ、記憶に残っているのかというとその話が面白い、

実は、その方の話によると、濱田さんの日本プラスチックの従業員の女性をその〇〇〇〇の〇長が愛人にし

たという、

だから、今でもちゃんと記憶に残っているのだという、

もちろん、その会社に電話した(笑)、しかし、すでに先代の社長は亡くなっており当時のことでわかるものはい

ないと、

ま、それはいいとして、ここで謎が残る、濱田さんは工場で100人もの従業員を使っていた、ということ、

当時としては、かなり大規模な工場である、一体、濱田さんは何のプラモデルを製造していたのだろうか、

もちろん、ノーチラス号も製造していただろう、しかしそんなものたかが数は知れてる、

そこで、奥様にお聞きしてみたのであった、    <続く>


「お上」=タミヤ模型?

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今日も再び「お上」のメーカーについて、

おそらく、タミヤ模型が自ら「お上」と呼ばせていることについては、僕だけではなくほとんどのお方が違和感

というか、ハッキリ言って何と上から目線のユーザーを見下したメーカーだと思っていらっしゃるだろう、

本当にタミヤ模型自身が俺のところは「お上」だと思っている、

その証拠に、その「お上」公認のホームページにそのように載せている、そう、「お上」の助手様の、


そう、今やネタ切れとなって休眠状態となりほとんど誰も読まなくなった「お上」公認のホームページである、

それにしても、まだ、僕のブログをリンクから削除していない、いい加減に削除せよ、と言っても削除はしない

だろう、繰り返すが、僕も同類項の仲間の人間だと勘違いされるので非常に迷惑している、

「お上」と呼ばせているからには、タミヤ模型の会長様は天皇陛下よりも高貴でド偉いお方なのだろう、

それは超凄いお方、そんなお方などこの世界にいたのか、

まあ、普通の感覚ではない、並みの神経ではない、絶対に恐れ多くてそのような発想に及ばない、

タミヤ、タミヤ、「お上」、「お上」、何があっても、タミヤ、お上、と聞かされ、もうウンザリ、聞きたくもない、

という方々も多いと聞いている、

ただ、そうは思っていても僕が知っている限りでは正面切って批判される方々はいなかった、

心の中ではそう思っていても、表面的にはタミヤ、テロ朝工作員Mに媚びてきた、それが現実だろう、

だから、工作員Mは余計に調子に乗ってきた、あたかも、俺はこの世界での第一人者だと、

仮に模型で詳しいとしても、それはタミヤのたった一つのメーカーに関してのみ、小さい、小さい、

勘違いも甚だしい、思い上がりも甚だしい、マスコミ人特有の特権意識、

それもいまや、模型界のテロリストに成り下がった、紳士ぶった哀れな男である、

まあ、皆八方美人だから、Mに対しては表面的には仲良しのふりをしたい、まあご苦労様、

僕のようなド素人ではなく、業界内の誰かがちゃんと指導したりご意見番などいないのか、情けない、

まあ、「お上」には意見できないし、下手なトラブルなど抱えたくないからだろう、

だから、テロ朝工作員Mもお上の会長様をバックに調子に乗っているのだろう、そして皆が表面的にはMさ

ん、Mさん、と媚びるので、 

媚びている方はよ~く考えてごらんなさい、損得で物事を考えてはいけないが、そのMさんに媚びまくって

何かいいことありましたか?   早く目をお覚まし下さい、

事が起きた時、何かがあった時、最終的に裏切られることは僕が保証致します、

今日はここまで、また明日。






タミヤからケチを付けられた事例、

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そうそう、僕がタミヤが気に入らないもう一つの事例があった、

あの「プラモデル商標事件」?であった、

(「プラモデル」という商標は)、の頁にも詳しく書いているのでそれをご覧いただければいい、

そう、タミヤの元役員(名前を出してもいいが)の方から「プラモデル」の名称を使ってはいけない、ということ、

「プラモデル」という名称は組合が商標登録しているもので使うことはならぬ、

つまり、紙にも文章にするにも一切「プラモデル」とう言葉を使うな!!と、まあ僕に言わせれば喧嘩を売られ

た同然の事件であった、その時はまだ僕も大人だったので、ハイ、ハイ、このとおりどこにも「プラモデル」とい

う言葉も表現もしていないでしょ、と大人の対応をした、

その商標権者である「日本プラモデル工業協同組合」にしても頭が悪いのかよく理解していないらしい、

例えば、「プラモデル展示会」などと会場に表示する場合にも許可が必要らしい、

そこで、電話でそのことを問い合わせた、そんなことにいちいち何で貴方のところに許可を得る必要があるの

か、貴方のところは商標権について理解しているのか、と、

担当の方は意味不明のことしか言わない、最終的には当社の顧問特許事務所に聞いてくれ、と、

顧問弁理士の先生は下坂弁理士先生だと教えてくれたので電話して確認した、

もちろん、言うまでもなく僕のほうが正解に決まっている、先生もあきれていらっしゃった、そんなこと未だに

やっているのですか、と、

それで、そのことを日本プラモデル工業協同組合に電話にて伝えた、

なんと、担当者は今忙しくそれどころではない、メールで送ってくれと、


それで送ったメールの原文が次のもの、


「日本プラモデル工業協同組合様、

先ほどは電話にて失礼致しました、

詳しく話しますと文が長くなりますので簡単に記します、

要は、「プラモデル」という名称はチラシ、文章の中にも使用しては
いけないのか、ということです、

下坂弁理士先生によると、そのようなことはないということでした、
「プラモデル」の商標は現在登録なっているのは、模型、プラスチック模型
おもちゃ人形、新聞、雑誌、定期刊行物等になっています「指定商品、指定荷役サービス)
ですから、商標権の及ぶものはそれらの商品に限られているということです、

よって、それ以外の商品、例えば「プラモデル弁当」であるとか、登録されていないものについては、売り出しても法的にはまったく問題ないと、(これは極端
な事例ですが)


私の目的は「プラモデル」という名称を自由に世間一般に広げることです、
ですから、誤った知識でもって「プラモデル」は商標登録されているから一切
使ってはならないなどと、そのような誤った言動を正したいだけです、

模型業界においてはそのような誤った知識で動いているケースがあります、
今回も静岡ホビーショーにて私どものブースの宣伝チラシに「プラモデル」という商標が使用されていないかチェックされました、

とりあえずは以上です、

下坂弁理士先生には、兵庫県の明石の権藤からの「プラモデル」の件、と
仰っていただければわかると思います、下坂先生からはわざわざ私の自宅に
電話をいただきました。

よろしくお願い致します。」



これに対する「日本プラモデル工業協同組合」からの返事が次のもの、

「何度かお電話をいただき、またメールにてのご連絡をいただきお手数をおかけいたし
ました。

当組合が所有いたしております商標「プラモデル」に関しましては、長年当組合にて
保有管理して現在にいたっております。
これまでも商標権侵害に関しましては適切な処置をとってまいりました。今後もこの
対応につきましては変更ございません。
ただ、当組合所有の商標権の範囲外につきましては当組合としてコメントできる立場
にございません。
法律的に商標権侵害であるかどうかにつきましては、事案ごとに当組合理事会及び管
理いただいている特許事務所にご相談し判断し対応していく所存です。
まずはご連絡させていただきます。」


まあ、ちっとも返事にはなっていない、プラモデルという言葉を使っていいのかダメなのか聞いているのに、

よく言えば官僚みたいな答え方なので頭がいいのか、それとも僕の言う意味が理解できず頭が悪いのか、

ハッキリ言ってロクでもない組織なのだろう、

ついでに言っておくと、日本プラモデル工業協同組合の顧問特許弁理士の下坂先生は元弁理士会の会長

で女性弁理士の草分け的な権威ある先生である。

まあ、本件の事件も元々はと言うと、タミヤ模型の重役様からの素人を馬鹿にした上から目線の発言がキッカ

ケだった、要注意人物として業界内には手配書が出回っているのだろう(笑)。





工作員Mが死んでも許せない人間とは、

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今現在、テロ朝工作員Mにとって「死んでも許せない人間の一人」と言ったら僕のことだろう(笑)

まあ、物騒なお言葉、死んでも許せないなんて、

この際、僕の相棒のことについても紹介しておこう、

僕の相棒〒としておこう、なぜ〒としたか、〒としただけで誰のことかこの模型の趣味のお方ならすぐわかる、

相棒〒で誰のことかわからない方はこの世界ではモグリといえる(笑)、

それくらい僕と〒はこの世界では有名人?である(大笑い)、これホント、

実は、たしか8年くらい前だったと記憶している、

工作員Mは僕にこう言った、「私には死んでも許せない人間が一人だけいます」と、

それを聞いた時ある意味、僕はゾッ、とした、今時死んでも許せない、などとそんな表現するものがあるのか

と、エッ、誰ですか?

「死んでも許せない人間は〒です」と、 僕は、「ああ~、そうでしたか」、と、それ以上言葉を返せなかった、

実は〒からは工作員Mから嫌われていることは聞いていた、その理由も聞いていた、

Mは取り巻きの方々にも「死んでも許せない人間は〒だ」ということを散々言いふらしていることも聞いた、

その理由も僕からしたら別に大したことではない、そんなこと模型の趣味の世界では思い込み、勘違い、

意思疎通の問題等でよくあること、

〒は工作員Mにそのことを説明しようとしたが、まったく相手にされなかったらしい、その後、何度も接触するた

びに試みるも無視されまったく相手にされなかった、

要するに、相棒〒は工作員Mとは付き合いもなく今まで一度も話したことさえないのである、

まあ冗談ならまだしも、Mは真顔で「死んでも許さない」と、言ったので僕はゾッ、とした、 

Mはとにかく自分の思い通りにならないとそれをその人間のせいにしてしまう、

Mにとって今の僕は、何度死んでも許してもらえないだろう(笑)、おお~、こわっ!!

人間は死んだら皆仏、その仏さえ許さない、もう、ゾッ、とするとしか表現のしようがない、

つまり、テロ朝工作員Mにとって、この世で「死んでも許さない人間は二人、〒と僕である」、ということだろう、

もう少し、普通の感覚の持ち主の人間になって欲しい、

たかが、模型の趣味の世界のことで、もう異常としかいいようがない、

タミヤの会長様を「お上」と崇め、それに反する者、自分より先を行く者、自分より目立つ存在の者を許さず、

「死んでも許さない」などとほざくのは普通ではない、そしてテロ工作妨害、まさに最近のどこかの宗教団体

と同じである、

ネタは尽きないが、今日はここまで。

ハッキリ言って、毎回僕もこのように大人げない、見苦しいことを書いている、もう控えたらというご指摘もある、しかし、僕も相当の覚悟を持って書いている。

※ テロ朝工作員Mのことを記事に書き始めたら急に訪問者数が増えてきた、毎日300人は軽く超える、
   このような過激で攻撃的なものを書くと反発を受けて批判され減っていくと予想していた、まあ、中には    興味半分で面白がって読まれる方々も多いと思うが意外であった、おそらく、Mに対しては何らかの不     満反感をお持ちの方々がいらっしゃるということかも知れない、

  それと、僕の勘違いだ、Mさんはそのようなことはしていないと否定されてます、そんなことをされる方
  ではありませんと、わざわざ知らせてくれるお方もいらっしゃる、
  そりゃそうだろう、本人が本当です、そうです、私やりました、などと白状するわけがない、
  違っていれば他人にそう言わないで僕に直接そう言ってくればいい話、すぐに解決する、
  しかし、本人Mはできるわけがない、事実だから、本人自ら僕に喧嘩を売ってきたわけだから、
  おそらくMは温厚な?僕を見下して喧嘩を売ってきたのだろう、しかし、まさかここまで大っぴらにこのように
  反撃してくるとか予想だにしなかったのだろう、まあ自業自得ということ、
  詫びてきたら考えてもいい、今までのことは全て水に流してもいい、まあMにしたら、それはありえないと    思うが。







歴史の追跡調査で今振り返ると、

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そこで、奥様にお聞きした、

「レベル社のプラモデルを作ってはいなかったですか、」

奥様のお答えは、「もう東大阪時代のことは記憶が薄いのでよく覚えていない」 と、

そう、否定はなさらなかった、それ以降、東大阪時代のことは固く口を閉ざされた、

仮に、奥様が肯定なさったなら日本プラスチックの全体の概要は解明できる、

マルサンの哨戒艇、ストラトジェット、の金型の謎も、おそらくそうだろう、

なぜなら、マルサンは日本プラスチックと接触していたらしい、

日本プラスチックの濱田さんは昭和34年に突然会社を整理して東京に進出していた兄さんの「ハマライト」

と合流した、そして、ハマライトとは分離して昭和35年に今のOS工業を創業なさった、

その際に、濱田さんはゼロ戦と戦艦大和の金型を大阪四ツ橋にあった「電気科学館」に寄贈されたという、

おそらく、濱田さんは日本プラスチックが日本初のプラモデルメーカーであるという強い思いがあったからこそ

その誇りの象徴として寄贈なさったのではないだろうか、(僕の妄想であるが、ひょっとしたら日本初のプラモ

デルの金型ということで展示されていたかも)

兄さんのハマライトはその後も合成樹脂材料、金型製作メーカーとして表舞台に立つことなく各模型メーカー

の影の存在としてしばらく活動することとなる、例えば三和模型、三共製作所等々の下請けとして、

誰でも決して語りたくない歴史というものがある、実はその語りたくない歴史の中に真実がある、

はたして真実を突き止めることがいいことなのか、いや、突き止めたい、

その思いが交錯してしまうのである、

真実を知っている方は沈黙を守っている、だから、歴史は捏造される、そう、成功者によって。

しかし、僕は追跡調査を終わらせたわけではない、

まだまだ続けていけば真実は少しづつ解明できる、そう、まだまだ追跡調査するネタは充分に残っているので

ある。

昨日は神戸まで往復、

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昨日は久しぶりに晴れたのでチャリンコで神戸のメリケンパークまで往復してきた、およそ45キロ、

そう、まだまだクタバルわけにはいかないので足腰だけは鍛えておかないといけない、

手先はプラモデルで鍛え、頭は毎日のこのブログの記事で鍛えて?いる、

10何年も毎日、毎日、よく続けられますね、と言われるが特にコツというものはない、そういえばブログを始め

た頃は僕もまだ若かった?、最近は毎朝、鏡に映る自分の顔を見るたびに嫌になる、どうしても若い頃の顔と

比較してしまう、あの頃の顔はこんな顔ではなかったと、

ネタは何にしようなんて特に考えない、そんなこと考えてたら毎日続かない、それを考えるだけでも疲れてしま

う、極端に言うと、パソコンに向かってから考えて記事を書くこともある、

本を読んでいてネタを見つけることもあるし、プラモデルを見て今度はこれを動かし見ようとか、これを修復し

てみようとか、ニュースを観ていてネタを見つけたり、  ネタなんていくらでもあるはず、

記事を書くのも大体が15分から20分以内くらい、どのように文章を構成しようとかそんなこと考えない、

そんなこと考えてたら続かない、 だから時々意味不明の文になっているかもしれない、

まあ、ハッキリ言って、大雑把ということ、

さてさて、昨日の話、

イメージ 1

いつものとおり、この景色、舞子を通過して、

イメージ 2

塩屋付近、手前は国道2号線、この近辺は洋館が多い、昔は外国人の別荘があったため、

この2号線沿いに山陽電車とJR線が並行して走っている、


イメージ 14

海岸沿いがJR線、2号線の左が山陽電車、

実は今回の大雨で土砂崩れがあった、

イメージ 15

この付近で土砂崩れがあった、山側の家屋は危険、

イメージ 3

須磨浦公園ロープウェイを見たら、アレッ、山肌が見える、たしか今まであったかなあ~、

イメージ 4

イメージ 17

大丈夫か気になる、



イメージ 16

山陽電車の線路沿いも土砂崩れがあちこちの箇所で、

イメージ 10

実はこの箇所では危機一髪だったらしい、


イメージ 5

須磨海水浴場から山を見ると、


イメージ 6

あちこちと土砂崩れが発生している、

実は、昨日のニュースでもやっていたが神戸は山沿いに家屋が建っているので非常に危険らしい、


イメージ 7

今回の大雨でゴミが大量に須磨海水浴場に流れ着いたので急いで清掃作業、

そう、まもなく海開き、

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長田の鉄人28号の公園で一休み、最近はわざわざ鉄人を見学に来る人はいない、

イメージ 12

川崎重工工場の入り口の所には屋外に「こだま」が展示してある、

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昨日は潜水艦ではなかった、

イメージ 11

大雨の影響なのか人影はほとんどなし、

このあとメリケンパークへ行ってUターン、

イメージ 13

帰りも再び舞子の海岸沿いを走る、いつもの代わり映えしないコース、

もちろん、汗が流れたので体重は行きに比べて1、5キロ減っていたが、翌朝にはちゃんと元に戻っている。

そうそう、「明石市立文化博物館」では、関西では初の「特撮のDNA展」が明後日から開催される。
                      http://www.akashibunpaku.com/






TMKはタミヤだけのものとは限らない、

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念の為に書いておくと、古い木製模型等で「TMK」と表示がある場合、オッ、これはタミヤの製品だ、

というのは大間違い、「TMK」はタミヤだけとは限らない、今更言うまでもないと思うが、

例えば、タミヤがライトプレーンも発売していたことは紹介した、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72018054.html

ただ、その現存数は極めて少ない、僕も今まで見たことない、

そこで、「TMK」の表示があるライトプレーンを発見?した際に、これは凄い、タミヤの製品のライトプレーンだ、

と大喜びをしてはいけない、ほとんどがタミヤの製品ではない、

まあ、ひょっとして大喜びするお方がいらっしゃるかもしれないので(笑)、

イメージ 1
                       (昭和32年8月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

その頃は、東京模型協同組合も「TMK」 を使用していた、そう、この場合は東京模型協同組合が指定した

ライトプレーンである、ということ、

他にも木製模型等であるかもしれないので、お間違えないように。






まだ手先は大丈夫なようで、

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イメージ 1

これは最近、810円で仕入れた戦前の木製模型、

イメージ 2

糸が切れている、そこで、まだ手先のほうは大丈夫か確認してみた、

そう、ちゃんと糸が張れるかどうか、張れなければもうこの模型の世界から引退しなければならない、

イメージ 3

おお~、まだまだ大丈夫、どうにか糸を張れた、


イメージ 4

とりあえずは、これで一安心、なんとか糸を張れたので引退せずに済んだ、

手先の震えもまだない、

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この模型のメーカー名は?、 こんなものどこのメーカーのものなのか僕がわかるはずがない。













                                                                                                           

あれから60年、

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プラモデル60周年?というけれど、もう一つ僕にとっては60周年というものがある、

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このような写真集みたいな本が懐かしい、

そう、「売春禁止法」が完全施行されてから60年となる、

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このような当時の建物も段々と少なくなり、もう今となっては当時を知る方々も少なくなった、

僕が生まれたのは佐世保、その頃は7、8人くらいの女性達が働いていた、

相手するのは進駐軍の米兵、夜になると米兵達を連れてきた、黒人の米兵と白人の米兵がかち合うと大変な

ことになるので黒人の米兵は絶対に連れてこない、当時から黒人への人種差別は酷かった、

家のタンスの引き出しの中には注射器もあった、まあ今ではとても考えられない時代であった、

女性達には随分と可愛がってもらった、女性達は昼間は暇なので映画、パチンコ、スマートボール等によく連

れていってくれた、

ある女性には僕よりたしか2つくらい上の男の子がいた、名前はたしか「シンタロウ」ではなかったかと記憶し

ている、「シンちゃん」とよんでいたので、

その「シンちゃん」がよく訪ねてきた、「お母さんいますか?」と、

僕はその「シンちゃん」が訪ねてくると、すぐに隠れた、なぜなら子供心ながらにシンちゃんに合わす顔がない

と感じていたからであったあ、

そのシンちゃんのお母さんの女性はたしか「ミッキー」と呼んでいた、そう女性達にはそれぞれ愛称で呼んでい

た、

実はその「ミッキーさん」が特に僕を可愛がってくれた、どこへ行くにも僕を連れて行ってくれた、

だから、僕は「シンちゃん」に顔を合わすことができなかった、

お母さんがいつもいないものだから、寂しい「シンちゃん」がミッキーさんをよく訪ねてくるのである、

僕はいつも、シンちゃんには、ごめん、ごめん、と心の中で叫んでいた、

僕は母によく「なぜミッキーさんはシンちゃんがいるのに僕を可愛がってくれるの?」と尋ねた、

母は、「う~ん、なぜかなあ~」と、ハッキリとは答えてはくれなかった、

もう、当時の女性達は90歳前後になられただろう、


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当時の家は4年ほど前に取り壊され今は左の小さいマンションが建っている、

前の道路が遊び場でもあった、あの頃の女性達はその後どのような人生を送られたのだろうか。
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