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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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模型メーカーにならなかった

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ゼロ戦とノーチラス号はあまり売れなかった、その理由は前ページにて書いたとおりである、

本来なら、ここで資金に行き詰まり挫折するはずである、

しかし、濱田兄弟にはもう一つ先見の目があった、

再び登記簿謄本を見ていただこう、

イメージ 1

登記簿謄本では本社の住所は河内市大字若江南722番地となっている、

その住所には何があるのかというと、

イメージ 2

そう、その住所には「大東化成工業 河内工場」となっている、実は濱田兄弟はその大東化成の敷地の一部を

買い取りそこに簡単な工場を建てていたという、なぜそこに工場が必要だったのか、

それは、プラスチックの原材料の販売のためである、つまり原材料等を四日市の業者から仕入れてその工場

で製品にして販売も行っていたのである、ちょうどその頃からプラスチックという素材が脚光を浴び始めた頃で

需要が拡大し結構な利益になったのだろう、だから、ゼロ戦、ノーチラス号が売れなくとも大した打撃にはなら

なかったものと思われる、

そして、いよいよ濱田兄弟は東京へ進出した、なんと言っても日本の中心は東京、そして大手の玩具メーカ

ー等も東京に集中している、昭和33年初頭、まづ、兄の亨さんが東京へ、問屋の三ツ星商店と取引を開始し

たのは以前の記事に書いたとおり、 そして、ハマライト化学研究所を設立した、

もう一度次の広告をご覧いただこう、

イメージ 3
                     (昭和34年8月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

プラスチック総合経営となっており、金型設計製作、原料、各種成型加工販売、である、

おそらく、「㈱日本プラスチック」というブランドで発売したのはこの「フライングヘリコプター」が最後であったの

ではないだろうか、

つまり、模型メーカーになることはなく、プラスチック総合経営へと舵をきったのである、

要するに、玩具メーカー、模型メーカーから受注をうけそれに基づいて生産していた、だから在庫が残ることも

ない、生産した製品が売れようが売れまいが関係ない、生産したものは必ずメーカーから代金が入る、

そして利益が大きかったのがプラスチックの原料等の販売である、プラスチックという素材の需要が拡大し時

流に乗ることができた、

そして、間借りしていた大阪化学研究所から引き揚げ、弟の貞雄さんも東京へ、  大阪布施市の「東京堂模

型店」は母に任せることになった、

しばらく、兄弟でハマライト化学研究所でやっていたが、昭和35年に弟の貞雄さんは分離して今の「OS工業」

を創業したのである、http://www.os-kougyo.jp/

もし、模型メーカーへとなっていたら今の「OS工業」もありえなかっただろうし、途中で当時の模型メーカーのよ

うに消滅していた可能性は非常に高い、いや、消滅していただろう、

それだけ、貞雄さんには先見の目があったのだろう、

それで肝心のお兄さんの亨さんの「ハマライト」はその後どうなったのか、

う~ん、それは、いろいろと事由があり、今ここでは書けないので、また機会があればお話ししよう。






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