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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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なぜ、語られることはなかったのか、

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なぜ、貞雄さんは(株)日本プラスチック時代のことや、日本で初めてプラスチックモデルを開発し

たことを語られることがなかったのだろうか、残念ながら、ご本人はすでに10年前に亡くなられて

いるので聞くこともできない、しかし、推測はできる、

貞雄さんは一言で言うと豪快な人だったという、現実を直視し、それから先の将来を見据える人だ

ったという、自分のことを自慢することは決してなかったという、自分に厳しく仕事にも厳しかったと

いう、統率力があり周りの人を常に見守る人だったという、そう、男が惚れる人だったという、

例えは悪いが、〇〇〇も一目置くような人だったという、

それは少年の頃から備わっていたという、貞雄さんは14歳の中学生の戦時中の頃、北海道に6

ヵ月ほど疎開していたという、すぐに地元の少年達の大将になり多くの住民に慕われていたとい

う、そして、その疎開先から大阪に戻る際は多くの少年、住民達から「帰らないで欲しい」と、

その別れを惜しまれたという、

貞雄さんは過去のことはあまり振り返らなかったという、過去にいかに功績があったとしても、そ

んな過去のことはどうでもよかったのだろう、繰り返すが、現実を直視し、常に新しいこと、将来を

見据えたことを考えていたという、

だから、過去にプラスチックモデルを日本で初めて開発したことなど、どうでもよかったのだろう、

ひょっとしたら、そのようなことなどすっかり忘れていたのかもしれない、

おそらく、貞雄さんは人を惹きつける天性のものを持っていたのだろう、そう、子供から大人まであ

らゆる人を惹きつけるもの持っていたに違いない、

それは、貞雄さんが24歳の頃、そう大阪化学研究所時代のことである、当時中学生だった内田さ

の証言によると、貞雄さんらを指導していた内田さんの祖父が亡くなりその葬式の際には、貞雄さ

んは誰よりも大きな花輪を飾って祖父との別れを悲しんでくれたという、

60年前のしかも当時まだ中学生だった内田さんが未だに鮮明に記憶しているほどである、

繰り返すが、子供から大人達までも、そしてまた繰り返すがヤ○○まで虜にするほど魅力があっ

たに違いない、

貞雄さんの奥様は取材の最後にこう仰った、

「素晴らしい人でした、私は最高に幸せな人生を送らせていただきました」 と。

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