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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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その仲間達の中で、

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大阪化学研究所で活動していたのは濱田兄弟とその仲間達合わせて5、6人だったという、

これは、大阪化学研究所の内田さんの証言である、ではその仲間達3、4人は一体誰だったのだ

ろうか、それを全て特定するのは今となっては不可能だろう、

しかし、その中の一人が特定できた、

イメージ 1

その一人が登記簿謄本に記載されているこの石村栄三さんである、

そう、住宅を探し当て実際に現地を見に行ったが数年前に引っ越して今は空き家になっていた、

という石村さんである、実はこの方も大阪化学研究所で濱田さんらと活動を共にしていたのであ

る、本職は材木屋だったという、そして技術系に秀でて特に図面書き、金型作りが得意だったとい

う、おそらく濱田さんはこのような職人肌の人材を集めるのも得意だったのだろう、

合成樹脂関連は大阪化学研究所の内田さんが、そして金型等の技術関係は石村さんが、

そのような専門分野を持った5、6人の仲間を作り上げたのだろう、

実際に、濱田さんが東京に進出しハマライトを立ち上げる際もその石村さんを連れて行ったとい

う、

機械類はどのようにして調達したのだろうか、

東大阪は日本有数の町工場である、幸いにも戦時中もほとんど空襲での被害はなく、まあ

一部の地域は多少の被害はあったものの、ほとんどはそのまま残ったという、

だから、機械類も近隣から調達できたものと思われる、

実際、当時の昭和34年の住宅地図を見ると近隣はプラスチック加工工場、プレス加工場、

セルロイド工場、化学工場、工作機械会社等が多く存在している、

原材料はどのようにして、

濱田さんの奥様の証言によると、プラスチックの原材料は四日市から仕入れていたという、

しかし、それにしても凄い、まったくの素人集団が何から何まで全てを自分らで調達して、技術も

独学で習得し、たったの2、3年でプラスチックモデルを日本で初めて開発したのである、

ここで再び、マルサンの批判を行おう、そう僕はシツコイ、

そうなると、一体マルサンのあの物語は何だったのか、最大手の玩具メーカーなので職人も人材

を多くいたわけである、当時の価格でも4,000万円という超高額な機械を導入していながら、な

ぜあのように大げさな苦労があったのだろうか、資金も有り余るほどあったはずである、

あれが事実ならば、よっぽど職人の腕が悪かったとしかいいようがない、

マルサンの職人が四苦八苦していた頃の2年前にはすでに素人の濱田さんらはプラスチックモデ

ルの開発に成功し発売していたのだから。





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