開催予定のプラモ講座用に今までの日本プラスチックスの追跡について、順を追ってなるだけわ
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( 模型とラジオ 昭和34年2月号)
(昭和33年12月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)
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かりやすいように改めて書いてみた、
この現場はプラスチックモデルの発祥地の現場で、場所は布施市長堂2-90(当時の住居表示)
(資)大阪化学研究所 の現場である、まさにこの場所が日本初のプラスチックモデルの発祥地で
あった、当時の工場家屋は建て替えとなって今は空きビルとなっているが、大阪化学研究所とい
う名称のプレートは未だにかけられたままとなっている、(画像もご本人の了解済み)
「定説」というものがある、辞書でひくと「解釈が定まっていて議論の余地がない事象」、「一般に認
められ確定的であるとされている説」、と書かれている、この「定説」というものはいろいろな学問
等に多く存在している、そして、その「定説」はある日突然に覆されることも珍しくない、
そしてそれは、プラスチックモデルの歴史においても例外ではない、
では、なぜこの現場がプラスチックモデルの発祥地といえるのか、それは引き続き読んでいただ
ければわかることだろう、
さて、プラスチックモデルを日本で初めて開発し発売したメーカーはどこだろう、そしていつ頃のこ
となのだろうか、まあ、このようなことはプラスチックモデルに興味のない方々はどうでもいいこと
だろう、しかし、少しでもプラスチックモデルに興味のある方々にとっては気になることでもあった、
多くのマニア?、プラモデル研究家達がその解明に努めてきた?、
プラスチックモデルが日本で初めて開発、発売されてからまだ60年も経っていない、逆に言うと
60年も経ってしまった、今となってはその日本初のプラスチックモデルを解明するには、あまりに
も資料等が少なく、現物もほとんど残っていない、そして、直接関わった方々も、つまり生き証人と
いえる方々もほとんど存在しないのが現実である、
そのような現実の中で、プラスチックモデルの開発販売の一番手は「マルサン」である、という定
説が作られてしまった、
そう、日本初のプラモデルは昭和33年12月に発売されたマルサンの「原子力潜水艦ノーチラス
号」である、という定説である、その根拠として挙げられた一つが、当時の日本模型新聞等に掲載
されていた広告である、
しかし、よくよく考えてみると、当時はこのような広告は常套手段であった、 <続く>