さて、今年は僕が言うまでもなく「プラモデル60周年」らしい、
そこで、ちょうど60年前の今日、昭和33年12月15日、模型業界での出来事をもう一度見てみよう、
そう、60年前の今日といえば、日本初のプラモデルがマルサン商店から発売された日である(笑)、
ここで、もう一度シツコイが今までのことをおさらいしてみよう、
そう、マルサン商店より本邦初のプラスチックモデルが登場したという記事、
そのプラスチックモデルとは、「原子力潜水艦ノーチラス号」、
まあ、当時ならこの記事を読んでも何の違和感らしきものは抱かないだろう、
そう、単純にマルサン商店から日本初のプラスチックモデル「ノーチラス号」が発売されたのか、と、
しかし、後年になってあらためてこの記事を読むと、う~ん、あのプラモデルのことが何にも書いてない、
ノーチラス号と同時発売したあのプラモデルのことが、
なぜ、
次に下記の広告を、
「遂に国産成功」、とある、うんうん、確かに国産成功には間違いない、
しかしここにも、あのプラモデルのことは記載がない、あのプラモデルとは?、
次の広告を見ると、
ここにきて初めて「哨戒水雷艇」が発売された、とある、
そう、あのプラモデルとは、この「哨戒水雷艇」のこと、
1月5日号の記事なので12月には発売された、つまりノーチラス号と哨戒水雷艇は同時に発売された、
そんなことは誰でも知っているが、 それはいいとして、
ご丁寧に、この哨戒水雷艇はノーチラス号よりも複雑で豪華版だと、
まあ、普通ならここで、アレッ、何かヘン、と感じて当たり前のはずだが、
普通の感覚の方なら、何かヘン、と、
頭がヘンに良すぎると何も感じないのだろう、
「ノーチラス号」と「哨戒水雷艇」は同時に発売された、
そうであれば、ノーチラス号よりも金型が複雑で難しい哨戒水雷艇の金型は誰が作ったの?、
ノーチラス号の金型の苦労話ばかりで、それよりも難しい哨戒水雷艇の話が一度も出てこないのはどういうこ
と? 本来なら、ノーチラス号よりもその難しい哨戒水雷艇の苦労話が優先するはずだが、
いつの間に作っていたのだろう、コソッと作っていたのだろうか(笑)、
つまり、哨戒水雷艇の話は出てくるはずがない、マルサンはその金型は作っていないので、
マルサン証人の方々もそれについては一切口を閉ざされている、
では、哨戒水雷艇の金型はどこのメーカーが、
まあ、それは僕が今更言うまでもなく皆さんもおわかりになるはずである、
アッ、それとノーチラス号の金型はマルサンのどなたが作ったのか、
今のところ、そのことについては具体的にどなたと特定はできていない、
ただ、これからもそれを解明できる可能性は充分にある、
あの職人のお方でないことは100パーセント確かなこと、
その根拠は、それも公表できない状況となっている、いろいろな諸事情で、
公表できれば僕もスッキリするし、皆も納得することができるのであろうが、模型業界も複雑でややこしい世界
である、
言えることは、作ったのは、あの職人のお方ではなく、諸先輩の職人のお方である、
もちろん、それらの方々はもうとっくの昔に亡くなられている、
とにかく、現段階で公表できない事柄がいろいろとある、すぐにでも公表したいのが本音であるが、業界内で
ゴタゴタが起こる可能性と、情報源を漏らさないことを条件に得たものがあるので公表できない、
参考までに、これは静岡の某問屋さんの当時の台帳。
それと、パクリが好きだったマルサンは最初のロゴマークもパクっていたようで、
しかし、3か月後にはロゴマークを変更、
ひょっとしたら、レベル社から何か言われたのかも。
※参考までに、
そもそもプラスチック関連の金型職人の方はマルサン以前に当時は大勢いらっしゃった、
マルサンの金型職人が初であることも真っ赤な嘘、プロの模型ライターの方々はちゃんとまともに勉強してほ
しい、ちゃんと勉強していれば、あのようなマルサン物語は書けなかったはず、お粗末な悲しである、
例えば、昭和27年にはグリコのオマケとしての玩具としてプラスチック製の玩具が製造されている、
その工場は「大阪化学研究所」の真向いであった、
もちろんそのグリコの玩具工場では射出成型で行われている、昭和30年頃には東大阪ではプラスチックの金
型工場がすでに出現している、いや東大阪だけでなく東京ではもっと多くのプラスチック成型、射出成型、金型
製作工場があったことはすでに紹介しているとおりである。