昭和27年の「全国模型教材者名鑑」を見ていたら、
そう、この広告、Ⓗ科学教材社となっている、
昭和27年頃は長谷川製作所は、「Ⓗ科学教材社」と言っていた、ちょっと変わった名称、
これは知らなかった、当初から長谷川製作所だったのかと思っていた、
それから、今井さんと斎藤さんが共同で経営していた「フジミ模型教材社」の代表者は今井さんであった、
そして、コレ、東京堂模型店、すでにこの頃には店主は貞雄さんになっている、
この時は貞雄さんはまだ22歳、すでに貞雄さんは模型飛行機が趣味でエンジン飛行機を飛ばしていたことは
過去の記事でも紹介している、その製作技術は相当な腕であったことも紹介している、
なぜ若干22歳の時にはすでに模型店の店主であったのか、そのことはいろいろな事情等がありここでは書く
ことができないが、またその頃にはすでにプラスチックの玩具類の製造を始めようとしていた、
そう、工作機械類を大阪化学研究所に持ち込んで、合成樹脂関連の技術知識はその大阪化学研究所の内田
さんに指導を受けながら行っていた、ちょうどその時にはその大阪化学研究所の斜め向かいでは、宮本順三
さんが射出成型機を導入してグリコのプラスチック製のオマケ玩具の製造を始めていた、
そして、濱田さんは工場を持ち100人の従業員を使ってプラモデルの製造を始めた、
そう、昭和31年の「ゼロ戦」、そして、「ノーチラス号」を発売する前のことである、
ここまで言うと、大体の察しはつくだろう、昭和31年以前に製造していたものとは、何のプラモデルを製造して
いたのか、ただ、今のところその証拠を示せないだけである、
そのことについては関係者の方々は今も固く口を閉ざされている、
なぜ固く口を閉ざされていらっしゃるのか、そのことは推測するしかないが、
いや、推測するまでもなくその頃製造できるプラモデルとしたら、もうアレしかない、
そのことが明らかになればマルサンのノーチラス号、哨戒水雷艇等ほとんどの謎も明らかになるのである。