https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72540170.html の続き、
もし、その頃、火星人さんが日本模型新聞に記事を書いていたらどうなっていたのだろう、
その頃とは、もちろんマルサンがノーチラス号の販売広告を出した当時である、
火星人さんが日本模型新聞の社友として記事を書き始めたのは実は、その年の夏頃からであった、
そう、マルサンがノーチラス号を発売した時はまだ書いていなかった、
すでに紹介しているが、火星人さんが日本模型新聞に社友として記事を書き始めたキッカケは、昭和32年に
「火星模型店」を大阪十三に開店した後、日本模型新聞に模型記事を投稿していたらしく、その記事の内容が
当時の社長さんのお気に入りになり、社友として毎号記事の執筆を依頼されたのであった、
そこで、ここからが僕の妄想となる、
もし、火星人さんが日本模型新聞の社友として当時記事を書かれていたとする、
その時、マルサンのノーチラス号の広告を見たらどうなさったのだろうか、
おそらく、「国産初のプラモデルはマルサンではない、」と批判記事を書かれたのではないだろうか、
そう、昭和32年に実際に日本プラスチックの「ゼロ戦」と、「ノーチラス号」を松屋町で仕入れた、と、
火星人さんは今で言う忖度などしなかった、事実をそして自分の思うがまま記事を書いたという、
当時の模型新聞の社長さんもそれが気に入って火星人さんを社友にしたという、
だから、火星人さんに自由に記事を書かせたという、書いた記事はそのまま載せてくれたという、
その結果の一つとして、昭和36年10月の日本模型新聞にあのマルサンの批判記事を書いたのであった、
話は変わって、
日本プラスチックの広告は次のものただ一つだけである、
(昭和34年8月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
昭和34年8月に「フライングヘリコプター」を新発売した、というこの広告だけである、これ以外に広告は出して
いない、すでに紹介しているが繰り返すと、
この本社の住所は、「大阪化学研究所」、東京工場の住所は、「ハマライト化学研究所」、
そして、河内工場の住所は、濱田さんが100人の従業員を使ってプラモデルを製造していた場所である、
その場所は今もそのまま当時のメーカーが存在している、
そのメーカーとは、「大東化成」でその場所に工場を建てプラモデルを製造していた、
その隣が「〇〇化学」でそこの当時の社長さんとは懇意であったという、
その面白い話はすでに紹介しているのでまた繰り返して書くのはやめておこう、(そう、あまりにも面白いので)
そこで言いたいのは、この広告を見ただけでも疑問が湧くのではないだろうか、ということ、
日本プラスチックは製造したプラモデルや玩具等は一切広告には出していない、一体何を製造していたのか、
「ノーチラス号」は発売したとしても、玩具類はこの一つだけしか広告では確認できない、
それなのに、「ハマライト」でもプラモデル等を製造し、そして東大阪の河内工場でも100人を使ってプラモデ
ルを製造していた、
それどころか、まだ模型メーカーがプラモデルに参入する以前から金型設計製作、成型加工、原材料の販売
等を行っていたのである、
繰り返すが、その100人を使っていた工場では何かのプラモデルを製造していたのである、
その何かについてはおおよその察しはついているがまだ証明できるものを見つけていない、
そう、いろいろとケチを付けたがるそのスジの方々がいらっしゃるので、僕の妄想を書くことはしない、
ただ、そのことを証明できる可能性はまだ残っている、
これも繰り返すが、真実をご存じの当時の関係者の方々がまだいらっしゃるので、
今のところ、固く口を閉ざされているが。