Quantcast
Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
Viewing all 1704 articles
Browse latest View live

歩くロボットの仕組み

0
0
ロボットを歩かせるにはいろいろと方法がある、

イメージ 1

昭和37年4月号の「模型と工作」にはそのことについての記事がある、

イメージ 2

相澤次郎ロボット博士が書いたものである、(二郎は間違い)

イメージ 3

基本的に歩かせる方法には4通りがある、

イメージ 4

左の第4図からいくと、車輪によるもの、3図の足を持ち上げて歩くもの、2図の車輪で足を交互に動かして歩

くもの、1図の足は動かないでロッドを交互に突き出して歩かせるもの、この4通りとなる、

イメージ 5

ロボットプラモでその代表的なものを並べてみよう、

車輪で歩く「キャプテンパトロール」、足を持ち上げて歩く「ダイナロボ」、車輪で足を交互に動かして歩く「ミスタ

ーマシンくん」、ロッドを交互に突き出してあるく「鉄人28号」、

この中では「ダイナロボ」がもっとも人間の歩き方に近い、

ただ、この「ダイナロボ」方式では目障りな箇所がある、

イメージ 6

これには横に倒れないようにこの突起物がある、これが目障り、そう、これがないと片足を上げた際に横に倒

れてしまう、片足を上げて歩くロボットはほとんどがこの目障りなものが付いている、

さて、この目障りな突起物がないロボットを歩かせる方式はないのだろうか、

イメージ 7

これは、今までに自作したロボット、3通りまでのものは作った、が、足を持ち上げて歩くロボットはまだ作って

いない、さて、うまく作れないものだろうか、

イメージ 8

ロボットを作るにあたって欠かせないのがこのようなギアボックスだろう、

どのように歩かせたら足を持ち上げて歩かせることが出来るのか、そう、最もアナログで原始的な方法で歩か

せることができるのか、いろいろと妄想している、

あの歩かせ方ならひょっとしたら倒れずに歩くかも、ちょっと時間はかかるがうまくいったら紹介しよう。


ロボットの足を持ち上げて歩かせるには

0
0
昨日からどうやったらロボットを足を持ち上げて歩かせることができるか、いろいろと試していた、

普通は足の裏にゴムローラーをがあり、摺り足で歩かせる、その方式で足を持ち上げて歩かせることは中々

難しい、そう、両足が常に接地していないと倒れてしまう、なんとか人間に近いように足を持ち上げて歩かせ

ることはできないかと試していたが、どうにか歩かせることができた、

イメージ 1

これは歩くかどうかの試作品なので荒っぽく作っている、

イメージ 2

足を持ち上げた時はつま先が上がるので倒れてしまう、

イメージ 3

かかとが上がる場合は大丈夫、

イメージ 4

片足を上げたらつま先が上がるのでその方向に傾くか倒れてしまう、

ならば、重心が後方にあればいい、ということで電池をぶら下げて重心が常に後方にあるようにした、

そうしたら倒れない、ゴムローラーもちゃんと浮くことなく地面に接地する、

イメージ 5

そう、重りをぶら下げておけば常に重心がそこにあるので倒れない、

ちょっとつま先が短かったので板で継ぎ足している、

イメージ 6

電池の重りによりゴムローラーもちゃんと地面に接地、そう、ローラーが接地していないとストッパーが効かな

い、

イメージ 7

つま先にはゴム板を貼って滑り止め、これはかかとが浮いている場合はゴムローラーのストッパーが効かない

のでつま先が接地している際はこれがストッパーになる、つまり、前にはローラーは付けない、

イメージ 8

ゴムローラーのこの状態は足が前方に出て持ち上げている時、ローラーは後方に移動して回転する、

そう、隙間があるので回転する、

イメージ 9

足を踏ん張っている時はゴムローラーは前に移動して回転しない、そう、板と接触して回転しない、

これで足を持ち上げて歩くことが確認できたので、今度ちゃんと綺麗に作ってみようと思っている。

戦前の相澤ロボット、

0
0

イメージ 1

イメージ 2

ここに昭和15年4月号の戦前の「工業グラフ」がある、表紙に載っているのは相澤次郎ロボット博士が当時製

作したロボットである、おそらく、昭和8年に製作した「ロボット管弦楽」のロボットの一つを修理しているところ

だろう、

イメージ 3

イメージ 4

若かりし頃の相澤次郎ロボット博士、

相澤ロボット博士は世界初のロボット工作本「人造人間の作り方」を出版されたことはすでに記事にて紹介し



イメージ 6


イメージ 5

イメージ 7


日本最古のロボット、「学天即」の記事、

日本最古のロボット学天即



イメージ 8

なお、昭和56年6月号の「太陽」には、相澤ロボット博士のロボット玩具等が棚に陳列されている、

イメージ 9

ここにはロボットプラモもいくつか陳列されている、さあ、探していただこう、

それと、ここに陳列されていたロボット達はその後どこへ行ったのか気になってしまう。
記事をクリップする

戦後すぐの通販カタログ

0
0
今更言うまでもなく、僕は昔のカタログが好き、カタログを見れば当時の時代が見えてくる、

イメージ 1


めくるとボロボロと崩壊寸前の通販カタログがある、そう、ガリ版刷りみたいなカタログである、

イメージ 2

昭和何年という年代の特定はできないが、戦後すぐの通販カタログだろう、

おそらく、昭和21、2年頃のカタログではないだろうか、

イメージ 3

イメージ 4

戦後すぐの模型工作教材はモーターであった、国内の町工場では競ってその模型モーターを製造して発売し

た、その当時は何もマブチモーターだけが模型教材用のモーターを作っていたわけではない、国内では多くの

町工場で教材用のモーターを作っていた、なぜなのか、それはブリキ板、磁石など材料が調達しやすく構造が

簡単で小さな町工場でもすぐに製造でき学校の理科工作教材として需要があったからである、

イメージ 5

この通販カタログは、「ゴールドカメラ工業所」と言うメーカーのものらしい、

う~ん、知らない、このような当時のカメラメーカーのことはまったく知らない、カメラマニアの方ならご存じかも

知れない、

イメージ 6

こうやって見てみると、カメラ以外にもいろいろなものを発売してようで、

イメージ 7

何と言っても、そのカメラの価格には驚いてしまう、

イメージ 8

右のカメラなど6,、650円、戦後すぐの昭和20年代初頭でそのような価格とは、

まあ、普通の家庭では絶対に手にすることはできなかったことだろう、

そう、僕が小学生の頃でカメラを持っている家庭はほとんどなかった、カメラを持つということはある意味、ステ

ータス的なものであった、

イメージ 9

イメージ 10

少年用双眼鏡が55円、 本格的?なゴールド双眼鏡が650円、

そう、昔は光学物であるカメラ、望遠鏡、双眼鏡等はかなり高額で普通の家庭では手にすることが難しかっ

た、今は昭和20年代の価格でカメラ、望遠鏡等が入手できる、いやその価格よりも安く手に入れることができ

る、それから70年も経った今の時代を誰が予想できたことだろうか。

今井科学社員手帳

0
0
昭和39年の中学生まで僕はプラモ少年だった、その頃は、大人になったら今井科学に就職してみたい、など

と夢?を持っていた、

イメージ 1

ここに今井科学の社員手帳がある、

イメージ 2

イメージ 3

昭和42年11月3日の日付になっている、

イメージ 4

イメージ 5

中身は社訓、就業規則が書いてある、

イメージ 6

それらが38頁にわたって書いてある、あとは白紙の頁、まあ、ごく普通の手帳、

仮に中学生の頃の夢のとおり今井科学に就職したとしよう、僕が就職したのが昭和43年、

その翌年には失業したことになる、そう、今井科学は昭和44年7月に倒産した、

人生は自分の思い通りにはならない、人任せになるところもある、

極端に言うと人が決めることもある、

実を言うと、先生が銀行を受けろと勝手に入社試験を申し込んだ、それが三井銀行だった、

そう、一番最初に求人が来たのが三井銀行であった、昭和42年4月のことであった、

トップクラスの成績(笑)であった僕に白羽の矢?が向けられたのである、

元々勉強嫌いの僕であったから早く就職して勉強から逃れたい一心だったので迷うことなく入社試験を受ける

ことにした、まあもっとも、すでに先生が勝手に申し込んでいたので受けるしかなかった、

福岡の支店で入社試験があった、受験者は九州全域からたしか170人くらいだったと記憶している、

まづは筆記試験、問題はたった一つ、「次の英文を和訳せよ」、

長々と英文が続いている、わかるわけがない、いくらトップクラス?の僕でもわからない、

仕方がない、え~い!!  ヤケクソで名前だけ書いて白紙で提出した、

次が作文の問題である、テーマは、「県知事選挙について述べよ」、である、

ちょうどその時は福岡県の県知事選挙があった、

これも、ヤケクソで、「わかりません」、と書いて提出した、

まあ、今なら絶対にここで不合格となる、

しかし、面接で一発大逆転を狙おうとそれに賭けた、

不思議なことに筆記試験を白紙で提出したことには何も指摘されなかった、

面接の内容は家族のこと、受けた理由、その他は雑談、

そうそう、県知事選挙のことを聞かれた、そこで僕は、「政治のことなどは一切わかりません」、と答えた、

実はあらかじめそのようなことを聞いていた、絶対に思想的なことを言ってはいけないと、

特に、左翼的な発言をしたらもう一発で落とされる、と聞いていた、

あとは面接官を笑わせることに終始した、

だから、作文でも「わかりません」と書いて提出したのである、まあ、実際にその頃は思想的なものはまったく

持ってなかったので、

実は、その頃は左翼活動が盛んであった、一般企業でも組合活動家には警戒していた、特に銀行では共産党

関係者には警戒していた、

だから、コイツなら普通の常識人なので採用しても問題ないだろう、と判断されたものと思われる(笑)

結局は、150人中採用合格となったのは僕を含めて7人だけであった、

もちろん、採用決定の前には「家庭調査」というものがあり、銀行の庶務係長が近隣の聞き込み調査をする、

まあ、近隣調査をされても僕の場合はまったく問題はなかった、

何と言っても僕は地元では名士?であった、なぜか勉強はそれほど出来なかったが小学校では在校生総代

で「祝辞」を読んだり(これは朗読が得意であったから)、6年生の時はNHKの子供音楽会では合格したり、

(これは全国放送された、実はその頃僕はボーイソプラノであった)と、有名?だったので素行には充分留意し

ていた(笑)、

今思うと、当時の入社試験などいい加減なものであった、

もう一つ実は、入社試験の際は成績証明を提出するがそれは偽造したものだった、

先生が勝手に偽造してトップの一番に偽造して作り上げた成績証明書であった、

今思うと、その先生のおかげで今の僕があると感謝している、その先生が僕の人生を決めてくれたと、

その先生が勝手に決めていなかったら、僕の人生はまた全然違ったものになっていた、なぜか人生の不思議

さというものを感じてならないのである、

よく、「自分の人生は自分で決めるもの」と言われるが、僕の場合は人任せ、と言えるのかもしれない、






一昨日は、

0
0
一昨日、西日本では最大級の某施設からある企画の協力依頼が突然あったのでその打ち合わせに行ってき

た、その某施設のホームページにはすでに載っているのでその企画のことを内緒にする必要もないが、とりあ

えずはまだ具体的には書かないでおく、模型とは直接には関係はない、

まあ、協力を依頼されたからには全面的に協力させていただくのが僕の基本的な姿勢である、

快く協力したものの、それが、突然に裏切られてしまうこともあるが、今回はそのようなことはない、

今回は、協賛、主催者の中にマスコミ関連でテロ朝系列のものはない、読売新聞だけである、

何度も今までシツコク書いてきたがあの時はさすがに温厚な?僕を完全に怒らせた、

そう、俺は特権階級の人間だと勘違いしているあの哀れなテロ朝工作員Mのことである、

もちろん、念のために、朝日新聞、特にテロ朝、については要注意ということで具体的に注意を促してきた、

そう、開催中には絶対に取材に来るだろう、まあ、関西まではその影響は及ばないとは思うが念のためで

ある、テロ朝系列は僕が今更言うまでもなく、捏造、都合の悪いことについては削除するのが得意、

まだ開催までには数か月あるので、近づいたらお知らせしよう。

アッ、そうそう、明日は横浜行である。








17日はブログは休み、

0
0
17日は横浜行きのためブログは休み、


プラモは大丈夫

0
0
今朝の地震で明石は震度5、

いきなり緊急地震速報と揺れが来たので慌ててプラモの部屋へ、

イメージ 1

崩れないように必死?で手で押さえて支えた(笑)

イメージ 2

あの揺れにもかかわらず被害は全然なし、飛行船も大丈夫、墜落していない、

イメージ 3

このロボットが傾いただけ、

イメージ 4

これらのロボットも倒れなかった、

イメージ 5

最近は地震対策として、少しづつこのようにケースに収めるようにしている、

まあ、震度7が来たら諦めるしかないだろう。

その一事例

0
0
僕も大人げないということは充分に承知している、何のことかというと、

そう、テロ朝工作員Mのことである、僕も皆ご存じのように温厚な男?、いや、今となっては糞ジジイであるが、

並大抵なことでは怒ることもなければ人様を攻撃することはない、普通ならそのまま放っておく、

仮に普通の一般人の人間からであれば、どんなことをされようがこの場で批判したり攻撃することはまづな

い、そんなことをしても無意味であり僕の値打ちを下げるだけである、

しかし、テロ朝工作員Mについては別格である、

いろいろと嫌がらせ、妨害活動を受けているのでこのまま放置しておくわけにはいかない、

具体的にはまだ紹介していなかったので、その一事例を紹介しておこう、

なぜなら、「明石さんの思い込み、勘違いではないですか、そんなことするお方ではないですよ」、

と、ご指摘を受けることがあるからである、だから、その証拠を示しておきたい、

まあ、そのMの人間性をよくご存じの方であれば、「ああ~、彼なら、でしょうね」、と納得をされるが、

例のテレビ放映の件で、まづ次のアドレスのところをご覧いただきたい、


まづ、言っておきたいのはこの番組は僕の協力がなければ絶対に成り立たなかった番組である、ということ、

そう、資料からプラモデルから、僕の協力が必要だったこと、それも僕から申し出たことではなく、

突然に、局から収録の8日前に、「今井科学のプラモデル、資料がないのでなんとか協力を願いたい」、という

申し出があったので僕は快く車にプラモ等を満載して静岡までその収録現場まで行ってきた、

上記のアドレスの予告編を見ると、なんと僕の顔、いや首がない、なんと縁起が悪いこと、僕は幽霊か、

普通こんな編集は絶対にありえない、その場面では僕が主役だろう、女子アナではない、主役の顔が削除さ

て「首無し小五郎」になっている、いや、別に意図的ではない、たまたま偶然だと言うならなんとレベルの低

いスタッフか、非常に失礼な画像である、

このように、他の予告編のもので主役の顔がカットされて首無しになっているのが他のものであるのかチェック

してみた、過去の予告編ものをチェックするも、当たり前のこと、そのようなカットされた顔など一つもない、

そして、その予告では僕の名前だけが削除されて一切出てこない、忘れたりミスということは絶対にありえな

い、もちろん、ご覧のように最後の出演者の皆が集まった写真でも僕だけが外された、

そして、僕が出ている場面も不自然に編集されている、ご覧になった方はそう思われただろう、

そして、次のテレビの最後に出てくる資料提供者の名前をご覧いただきたい、

イメージ 1

ご覧のように、僕の名前だけが削除されている、忘れたとかミスではないだろう、絶対にありえない、

何と言っても、僕がいなかったら収録も番組も成り立たなかったのだから、ミスであるわけがない、

その僕のかわりに、見慣れたMの名前が入っている(笑)、

しかも、その放映後に静岡ホビーショーの際、エレベーターの中で出会った時に僕が「おはようございます」と

丁寧に挨拶したにも関わらず、Mからは返す挨拶もなく憮然とした顔つきで、

俺は何も聞いていないぞ、局の誰から出演を依頼されたんだ、という意味合いの捨て台詞を吐いて僕の前を

立ち去ったのである、(何も聞いていない、知らなかったのならなぜ資料協力者に名前があるの?)

そう、15年以上も散々世話になった大先輩に対する無礼な態度であった、http://www2u.biglobe.ne.jp/~tamiya/link/index.htm

そんな捨て台詞を吐かなければあくまでも疑惑で終わったものを、わざわざ俺がやったんだと自ら証明したよ

うなもの、超学歴な頭を持っているわりにはお馬鹿な面もあるようで、よっぽど僕が無断で出演したのが気に

いらなかったのか、つい、口から出てしまったのだろう、(もちろん、出演するのにMの許可をとる必要などまっ

たくない、それは俺がこの世界を牛耳っているという思い上がりがあるのだろう)

何と言っても、僕が何度も言うように、テロ朝は捏造、都合の悪いこと、気に入らないことは削除するのが常套

手段なのである、アッ、僕は静岡の局には何も抗議等はしていない、彼らの仕業ではないだろうから、ただそ

の指示に仕方なく従っただけのことだろう、

その他の事例もまだまだある、それはまた後日。

※ そうそう、それからその局からその放映を録画したというDVDが送られてきたが何にも録画されていなか   った、これは一体どういうことなのか、これも嫌がらせ、意図的なのか、それとも録画ミスで気が付かずに
  送ってきたのかよくわからない。    


ライトプレーンの部品箱

0
0
今回は以前にも紹介しているライトプレーンの部品箱、

イメージ 1

イメージ 2

もちろん、当時はこのような部品の入った部品箱というのは買う余裕などなかった、

イメージ 3

そして、今回紹介するのはこの部品箱、何と言っても箱絵がいい、

ところで、この部品箱はどこの製品?

イメージ 4

箱を開けてみると、プロペラ等がプラ製、ということは昭和33年後期頃よりも古いことはない、

それ以降となるだろう、

イメージ 5

このロゴマークは言うまでもなく緑商会、いや、草野商店、

さて、このロゴマークの形はいつ頃のものだろうか、それがわかればいつ頃の製品かもわかる、

イメージ 6

日本教材新聞を引っ張り出してロゴマークを比べてみた、

イメージ 7

イメージ 8

似ているが微妙に違う、

イメージ 10

ここまでは全て昭和32年以前の広告、これらのロゴマークとは少し違っている、

そう、違って当然、中に入っているプロペラがプラ製なのでその頃の製品ではない、

イメージ 11

この昭和35年9月の広告のロゴマークが一番近い、

イメージ 9

Kの左に伸びる線の角っこの丸み、Nの右に伸びる線の角っこの丸み、これが一番近い、

そして、部品のプロペラがプラ製なので古くても昭和33年後期から、おそらく、昭和35年前後頃の部品箱だ

ろう。

ボロボロの日本模型新聞を、

0
0
模型の歴史を研究する上で欠かせないのが「日本模型新聞」であることは今更言うまでもないだろう、

さて、その日本模型新聞で、

イメージ 1

これは、昭和32年の日本模型新聞、劣化して頁をめくるたびにパラパラと崩れてしまう、

イメージ 2

イメージ 3

そう、何度も何度も頁をめくるのが怖い、まあ、このままソッと保管していれば、僕が生きている間は大丈夫だ

ろうが、その後のことは知らない、いづれ崩壊して利用できなくなってしまうのは間違いない、

それでは、この資料をどうやったらいいのだろうか、そう、後々の為に、僕が死んだあとのために、

それは、  <続く>

あえてこれを公開するのには理由がある、そう、工作員Mはこの昭和32年頃の日本模型新聞を

超欲しがっているから(笑)


ボロボロの日本模型新聞を、

0
0

イメージ 1

さて、ボロボロになっている昭和32年の日本模型新聞をどうするのか、

どうしたら、僕が死んだ後も永遠?に資料として残すことができるのか(笑)

イメージ 2

実は、コピーして製本したらいい、


イメージ 3

イメージ 4

このとおり、このように製本すると頁もめくりやすい、綺麗、


イメージ 6

こんなにボロボロのやつも、

イメージ 5

このように、 いや、これは僕がコピー製本したのではなく、全てプロの業者の方に頼んだもの、

とにかく手間がかかるらしい、ボロボロで焼けているので、1頁ごとに印刷の濃淡を調整しなければならないら

しい、このような作業は男では無理、もちろん、これはプロの可愛い女性にやってもらっている、

さて、僕が死んだあと、これらの模型新聞はどこへ、 引き取りてがなくゴミとなるか、

それはいいとして、これをめくって読んでいたら面白い記事を見つけた、

そう、あのマブチモーターと同じことをやっていメーカーを見つけた、

ひょっとしたら、マブチモーターはこれをヒントに、いやこれをパクってやったのかも、さて、それは、

                                                       <続く>

折りペラを実用新案

0
0

さて、マブチモーターと同じようなことをやっていたメーカーとは、

いや、ひょっとしたら、マブチモーターがこれをヒントにやっていたのか、

どのようなことかというと、

イメージ 1
        (昭和32年7月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この昭和32年7月の日本模型新聞の中に、「警告!」という広告がある、

イメージ 2

この中で、折り畳み式プロペラというのは俗に言う「折りペラ」のこと、

エッ、なんと、実用新案特許をとったと、それで今後この折りペラを製造してはならないと、

驚いた、折りペラはライトプレーンが現れた頃にはすでに発売され皆それを使って飛ばしていた、

それを今更、実用新案の登録が済んだので製造発売してはならないと、

イメージ 3
          (昭和32年12月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

これは、その新興模型製作所の折りペラの広告、

ありゃ~、今までの折りペラとまったくかわらない、どこも実用新案ではない、

それにしても、特許庁はよくこれで申請許可したものだ、おそらく、模型に詳しくない審査員が取り扱ったのか

もしれないが、

イメージ 5

イメージ 6

その折りペラというのがコレ、

イメージ 7

OK模型製作所の製品、折りペラの構造はどのメーカーでも皆同じ、

イメージ 8

ゴムを巻いてゴムがピンと張っている場合は、このようにペラは正常の状態で回転、

イメージ 9

ペラが回転してゴムが緩んでくると、バネの力でペラが自動的に折り畳み空気抵抗が少なくなって滞空時間も

長くなる、

もちろん、業界は怒るだろう、


イメージ 4
             (昭和32年7月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

早速、批判記事を書いている、 「折りペラ」は戦前からあった、と、

う~ん、その後、業界はどのような対応をとったのか、また新興模型製作所はその後どうなったのかわからな

い、

それにしても、このような話どこかで聞いたような、

そう、「模型モーターの歴史」の頁でも書いているように、マブチモーターである、

マグネットモーターはすでに大正時代には発売されていた、学校教材模型モーターも戦前には朝日科学玩具

開発し発売していた、なにもマブチモーターが世界初に開発したものではない、

それらを片っ端からいち早く特許をとり、他社が模型モーターを製造発売できないようにし、世界的なモーター

メーカーに成長したことはすでに紹介しているとおりである、マブチモーターの社史も捏造されたもの、歴史と

いうものは勝者、成功者、が捏造して作り上げると言っても過言ではない、これも典型的な事例であろう。


昔は商標登録が大流行り、

0
0
中国が片っ端から商標登録をしていることには批判を浴びているが、実は日本もかつてはそうだった、

とは言っても僕は中国を擁護しているわけではない、一番嫌いな国が韓国と、中国なので、

イメージ 1
             (昭和32年6月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この昭和32年の日本模型新聞にもそのことについて記事が載っている、

イメージ 2

なんと、東京ガスと称して同じロゴマークを表示して営業していた会社があったと、

本物の東京ガスが商標の登録期限が切れていて継続申請を忘れていたが、その合間をぬって別の会社が商

標登録を申請し、それが登録されたのだという、今考えると、そんなことありえるのか 驚いてしまうが、

ひょっとしたら、昔の特許庁の仕事ぶりもいい加減だったのだろうか、


イメージ 3

とにかくこの記事のとおり、片っ端から昔からあるものを商標、意匠登録することが流行っていたらしい、

今ならその登録審査は厳格に行われていると思うが、昔はその審査もいい加減だったのだろう、

そう昔は、早いもん勝ち、言ったもん勝ち、が成功の秘訣であった、

アッ、それと、「ハッタリ」が不可欠でもあった、それは模型業界の歴史も証明している。

木製戦車模型で最高のギミックを備えた、

0
0
木製戦車模型で最高のギミックを誇っていたのは、三和模型のM51モンスター戦車だろう、

イメージ 1

そう、すでに紹介している、

三和模型 木製キット M51モンスター戦車


当時は人気が出て結構売れたのだろう、

そのことが次の日本模型新聞にも載っている、

イメージ 2
         (昭和32年12月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

イメージ 3
           (昭和32年9月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

その頃発売されたものにタミヤ模型の戦車があった、そう、タミヤ初のモーターライズ木製戦車模型である、


イメージ 4

それもすでに紹介している、

木製キット戦車模型 新教社 タミヤ


箱絵とは全然違っているのは、「英工社」(後の三和模型)の日本初のモーターライズ戦車模型のデザインを

パクったものであることも紹介している、

日本初のモーターライズ戦車模型キットは、


もうこの際言っておくが、この僕のものが「田宮模型全仕事3」に載っている、

そう、完成品がなかったらしく仕方なく協力した(笑)、あと日本教材新聞も、

ただ、その本が出版されても見本紙が送られてくることはなかった、

後で、書店でそれを立ち読みしてエッ、と思った、

資料協力者の名が「明石小五郎」ではなく、本名になっている、

実は、文春の編集者の方から念押しの確認のために本名にするか、明石小五郎にするか確認の連絡がき

た、そう、メールで、そこで僕はもちろん、「明石小五郎」でお願いします、と念押しし、編集者の方も了解しまし

た、と確認された、そして、その後なんと協力のお礼の物まで送られてきた(多分個人的にだろう)、まあそこま

でやっていただくとはと非常に恐縮していた、

しかし、その結果は本名であった、まあ証拠がないので断定はできないが察し、推測はできる、

まだその頃は削除まではされなかったのでまだましか(笑)

Mはよほどのこと、「明石小五郎」の名前が気に入らないのだろう、この頃からである、態度が変化したのは、

そう、タミヤ模型の救世主である「ハマライト」を突き止めた頃であった。

昔の見本市は、

0
0
昭和30年代初頭の模型の見本市などはどのように開催していたのだろうか、

イメージ 1
            (昭和32年4月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

ここに、昭和32年3月に大阪で開催された見本市のことの記事がある、


イメージ 2

その場所は旅館で行われたようで、なんと座敷に座卓を置いてその上に製品を並べている、

昔は今のように広いロビーみたいなものがなかったので、このようにするしかなかったのだろう、

話は変わって次の広告をご覧いただいて、


イメージ 3
            (昭和32年4月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

同じ頃の艦船模型の広告である、「にしき屋」の広告はもちろんのこと「戦艦大和」、

田宮模型のは戦艦大和ではなく、「戦艦武蔵」である、

なぜ、田宮のは大和ではなく武蔵なの?、

その理由はいままで何度も言ってきたように、「にしき屋」が「木製の戦艦大和」の商標登録をしていたため、

実は当初、田宮模型はその「にしき屋」の戦艦大和の設計図からそのままパクって発売した、

そのことを証明する記事もすでに紹介している、

「艦船模型大全」の中で


当然のことながら、「にしき屋」は怒った!!

田宮模型はその時具体的にどのように対応したのか、それについてはここではちょっと書けない(笑)

まあ、直接ならコソッと教えてあげてもいいが、

会長さんなら当然ご存じのことだろう、

こんな本当のこと書くから「お上」の助手の工作員Mには益々嫌われる。


シャクにさわるので、一応、念のために、

0
0
毎度毎度、テロ朝工作員Mのことを書いて、これを読んでいる方々はシツコイな、と思われているだろう、

何度も言うように、こんなこと書いても僕の値打ちを下げるだけだろう、そんなこと充分に承知している、

しかし、僕には書かなければならないそれなりの理由、また個人的な理由がある、

それと、特にテロ朝の捏造、嘘の情報の発信には我慢がならない、

「日本プラスチック」の追跡調査等に関しては多くの方々にお世話になった、

しかし最近、数人の方々からヘンな噂を聞くこともある、

どのような噂かというと、

「明石小五郎さんの例の日本プラスチックの調査に関してはMさんが協力し、全面的にバックアップされたらし

いですね」、と、いうような話を聞く、

「誰がそんなこと言っているのですか?」と聞くと、テロ朝工作員M本人からそのように聞いたと、

今この僕のブログを読んでいる方でそのことを直接本人Mからお聞きになられた方がいらっしゃるかもしれな

い、

何もご存じない方が聞くと、「おお~、さすがMさん、凄いですね~、やっぱりね、」と、なるだろう、

しかし、Mの人間性をよくご存じの方が聞くと、エッ!!、と大笑いされるだろう、

まあ僕としては、別にそのような嘘八百を流されても特に影響はないが、正直シャクにさわる、

一応念のために言っておきたいが、

「日本プラスチック」の追跡調査に関しては、テロ朝工作員Mからは妨害は受けても協力等は一切受けていな

い、  聞く人が聞いたらすぐに嘘とわかることをなぜ平気で言うのかその神経はよくわからない、

う~ん、いくら考えてもその理由がわからない、

そこまでして、自分の模型業界内の名声を高めたいのか、  もう少し本業のほうに力を入れて捏造したもの

ではなく、そして偏ったものでなく、正確な報道をせよ、

いい歳して本当に情けない、本当にもう笑うしかない、超高学歴の頭を持っているのに本当に頭のほうは大丈

夫か、怒りは通り越して心配さえしてしまう、

そこまで嘘をつかなければならないテロ朝工作員Mの哀れさというものを感じて仕方ないのである。


木製模型にはロゴマークを、

0
0
昔の木製模型には欠品が多かった、ゴム動力の潜水艦などは部品も少なく箱を開けただけでも確認できる

が、艦船模型などは確認するのは到底無理、それこそ組み立て途中でなければわからない、

戦車模型などを組み立てている途中で部品の欠品に気づき組み立てることができず泣いた記憶もある、

当時の写真を見ると、パートのおばちゃんが手作業で部品等を箱詰めしているので欠品などがあったのも当

然のことだったのだろう、

ただ、部品の欠品があってもクレームを入れることもなく、泣き寝入りしたものであった、

それと、会社名などを記すロゴマークなどがないものも数多くあった、


イメージ 3

例えば、この木製模型にもロゴマークなどメーカー名を記していない、

だから、欠品などがあっても当時はどこのメーカーへ言ったらいいのやら困ったに違いない、

そのことについても次の模型新聞に載っている、

イメージ 1
         (昭和32年4月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

イメージ 2

そう、ちゃんとロゴマークを入れろ、と、

そうそう、部品の欠品で思い出した、

僕が一番最初のプラモを作ったのは何だったかハッキリした記憶はない、三共のピーナツだったか、

それとも今思えば三和模型のモーターライズの「アトムレーサー」だったか、それとも「トライアンフ」、だった

か、とにかくそのような部類のプラモであった、

もちろん、マルサンのプラモなど地方では見たこともなかった、ましてや「ノーチラス号」など知る由もない、

初めてプラモを見た時、なんと綺麗な、しかも部品がなんとちゃんとくっ付いているのだろう、と思った、

そう、木製模型と違って部品が一目で確認できた、木製模型ではそうはいかない、組み立ててみないことには

わからない、

つまり、プラモは例のマルサンがいうところの残骸ではなかった、

マルサンが例の「ノーチラス号」を問屋に売り込みを図った際に、「何だ!!、この壊れたオモチャは、まるで

壊れた残骸ではないか」と、まったく相手にされなかったというクダリは僕に言わせれば嘘である、

話を面白く、そしていかに苦労したかということを大げさにするための嘘で脚色したものである、

プラモは木製模型と違って組み立てが簡単、綺麗、部品がライナーに付いて一目で確認できる、

ましてや、「ノーチラス号」など部品も少なく一目で確認できる、木製模型の部品の残骸どころではない、

プラスチックの「ノーチラス号」が残骸ならそれまでの木製模型は何だったのか、

その「ノーチラス号」の嘘で脚色された売り込みのストーリが未だに語り継がれていることには僕としては笑っ

てしまうしかないのである、しかも当時の原体験者でもない方々がそれらをただ受け売りしてプラモデルの歴

史を語っていることにも笑ってしまうしかない。




海岸沿いにペダル漕ぎ

0
0
健康のために天気のいい日はできるだけペダルを漕いでいる、

ジョギングは無理、適当な運動はサイクリングが僕にとっては一番いい、

神戸ハーバーランドまでの往復50キロ弱もまだまだいける、

一昨日も海岸沿いにペダルを漕いできた、往復で3時間、

何と言っても今の僕の生きがいはテロ朝工作員Mを攻撃すること、これは僕が生きている限りは永遠?に続く

だろう、またこれは僕の使命とも思っている、そう、誰も正面切ってやらないから僕がやるしかないだろう、た

だ、、こればかりはどちらが先にクタバルかわからない、(笑)

だから、寝込まないようにできるだけ体を動かすようにしている、

イメージ 1

毎度おなじみの大蔵海岸、海開きは来月の中旬だろう、

イメージ 2

前方にズームアップすると、朝霧駅から国道をまたぐ歩道橋がある、その歩道橋があの痛ましい事故の現場

である、海岸での花火大会を見るために歩道橋で押し倒しで人が重なり多くの死傷者が出た、

幼子の犠牲も出た、何と言っても幼子の犠牲が一番悲しい、胸が張り裂ける思いで涙しか出てこない、

特に最近の幼子の虐待、事故、病気等で亡くなるニュースを聞くたびに胸が張り裂ける思いで悲しい、

僕のようなすでに社会的役目を終えた生い先短い人間ならまだしも、まだこれからという幼子の死というのは

辛くて悲しい、できることなら命を取り替えてあげたいという衝動にかられてしまう、

イメージ 3

平日なので釣り人はほとんどいない、

イメージ 7

林崎を通り過ぎたところ、

イメージ 4

「明石原人」の骨が発見された場所、

イメージ 5

僕に言わせると、本当に明石原人なのか怪しい、何と言ってもその骨は戦時中に焼失している、

その周りから発掘された出土品からの状況証拠から「明石原人」とされているので、

骨があれば今の技術でもって年代等が鑑定できるだろうが、その証拠の骨が今はない、

イメージ 6

イメージ 8

平日なのでほとんど人影はない、安心してサイクリングができる、

イメージ 9

ここは、江井が島海水浴場、ここで折り返してUターン、

ゆっくり走って一休みして往復3時間、 大体これで1キロちょっと体重が減るが翌日の朝には戻っている。

今月のモデルカーズでは、

0
0
早速、今月号の「モデルカーズ」を買ってきた、

イメージ 1

今月号の「モデルカーズ」には平野克己さんの当時のマルサン商店取材時における回想録が記されている、

もちろん、僕らもどのように書かれたのかは一切知らない、2頁ほどであるが今回初めて読ませてもらった、

それに対する僕のコメントもここでは特に書かない、これを読んだ皆さんが判断すればいい、

次回も続くようなのでまた注目して購入しよう、

アッ、だからぜひ皆さんも購入して!!

Viewing all 1704 articles
Browse latest View live




Latest Images