昭和39年の中学生まで僕はプラモ少年だった、その頃は、大人になったら今井科学に就職してみたい、など
と夢?を持っていた、
ここに今井科学の社員手帳がある、
昭和42年11月3日の日付になっている、
中身は社訓、就業規則が書いてある、
それらが38頁にわたって書いてある、あとは白紙の頁、まあ、ごく普通の手帳、
仮に中学生の頃の夢のとおり今井科学に就職したとしよう、僕が就職したのが昭和43年、
その翌年には失業したことになる、そう、今井科学は昭和44年7月に倒産した、
人生は自分の思い通りにはならない、人任せになるところもある、
極端に言うと人が決めることもある、
実を言うと、先生が銀行を受けろと勝手に入社試験を申し込んだ、それが三井銀行だった、
そう、一番最初に求人が来たのが三井銀行であった、昭和42年4月のことであった、
トップクラスの成績(笑)であった僕に白羽の矢?が向けられたのである、
元々勉強嫌いの僕であったから早く就職して勉強から逃れたい一心だったので迷うことなく入社試験を受ける
ことにした、まあもっとも、すでに先生が勝手に申し込んでいたので受けるしかなかった、
福岡の支店で入社試験があった、受験者は九州全域からたしか170人くらいだったと記憶している、
まづは筆記試験、問題はたった一つ、「次の英文を和訳せよ」、
長々と英文が続いている、わかるわけがない、いくらトップクラス?の僕でもわからない、
仕方がない、え~い!! ヤケクソで名前だけ書いて白紙で提出した、
次が作文の問題である、テーマは、「県知事選挙について述べよ」、である、
ちょうどその時は福岡県の県知事選挙があった、
これも、ヤケクソで、「わかりません」、と書いて提出した、
まあ、今なら絶対にここで不合格となる、
しかし、面接で一発大逆転を狙おうとそれに賭けた、
不思議なことに筆記試験を白紙で提出したことには何も指摘されなかった、
面接の内容は家族のこと、受けた理由、その他は雑談、
そうそう、県知事選挙のことを聞かれた、そこで僕は、「政治のことなどは一切わかりません」、と答えた、
実はあらかじめそのようなことを聞いていた、絶対に思想的なことを言ってはいけないと、
特に、左翼的な発言をしたらもう一発で落とされる、と聞いていた、
あとは面接官を笑わせることに終始した、
だから、作文でも「わかりません」と書いて提出したのである、まあ、実際にその頃は思想的なものはまったく
持ってなかったので、
実は、その頃は左翼活動が盛んであった、一般企業でも組合活動家には警戒していた、特に銀行では共産党
関係者には警戒していた、
だから、コイツなら普通の常識人なので採用しても問題ないだろう、と判断されたものと思われる(笑)
結局は、150人中採用合格となったのは僕を含めて7人だけであった、
もちろん、採用決定の前には「家庭調査」というものがあり、銀行の庶務係長が近隣の聞き込み調査をする、
まあ、近隣調査をされても僕の場合はまったく問題はなかった、
何と言っても僕は地元では名士?であった、なぜか勉強はそれほど出来なかったが小学校では在校生総代
で「祝辞」を読んだり(これは朗読が得意であったから)、6年生の時はNHKの子供音楽会では合格したり、
(これは全国放送された、実はその頃僕はボーイソプラノであった)と、有名?だったので素行には充分留意し
ていた(笑)、
今思うと、当時の入社試験などいい加減なものであった、
もう一つ実は、入社試験の際は成績証明を提出するがそれは偽造したものだった、
先生が勝手に偽造してトップの一番に偽造して作り上げた成績証明書であった、
今思うと、その先生のおかげで今の僕があると感謝している、その先生が僕の人生を決めてくれたと、
その先生が勝手に決めていなかったら、僕の人生はまた全然違ったものになっていた、なぜか人生の不思議
さというものを感じてならないのである、
よく、「自分の人生は自分で決めるもの」と言われるが、僕の場合は人任せ、と言えるのかもしれない、