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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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スーパーコントロールスタンド

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渥美産業の木製ロボットは衝撃的な?スプリングジョイント駆動であった、

スプリングジョイントといえば、そう、三和模型の「スーパーコントロールスタンド」である、

これも長いスプリングジョイントを介してムスタングのプロペラを回す、数年ぶりに取り出してみた、

ん、ん、ん、操縦桿を動かしても機体が動かない、

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機体を動かすワイヤーを引っ掛けるフックの片方の部分がもげて欠けている、

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まあ、こんな細かいプラの部分は欠けて当然だろう、しかも機体を動かすので力も加わる、

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コントロールボックスは毎度のことながらセロテープで貼り合わせているので分解はいつでも可能、

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機体を動かすワイヤーはこれで引っ張ったり押したりして動かす、

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ゴム製品は劣化してボロボロ、 これでは用をなさないのでこれも修復しなければならない、  <続く>

スーパーコントロールスタンド

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まづ、ゴムの部品の箇所から修復しよう、

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操縦桿のこのゴム部品、55年以上経っているので劣化してカチカチ、ひび割れして用をなさない、

そう、操縦桿が360度自由に回せない、

ゴム製品の再生ならお任せあれ、僕が一番得意としているもの、

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厚めのゴム板を切って丸く形を整える、

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これも厚めのゴム板を切ってこのように形を整える、ヤスリ、サンドペーパーで形を整える、

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その二つをくっ付けて完成、

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操縦桿に通して、

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この操縦桿でワイヤーを引っ張ったり、押したりして機体を動かす、

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このようになる、これで操縦桿を360度回せる、

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次はそのワイヤーを引っ掛けるフック、片方が欠けてしまった、これを修復しよう、   <続く>

スーパーコントロールスタンド

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この機体を動かすワイヤーの片方のフックを修復しなければならない、

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この場合には樹脂を使う、そう、この自由樹脂の一粒をハンダコテで溶かしてくっ付ける、

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樹脂でフックを固めて、

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そして、黒で塗って完了、

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次は、スロットルレバーの修復、ゴムが劣化してボロボロ、

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厚さ0、5ミリのゴム板を巻き付けて修復完了、

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そのスロットルレバーはこのようにセットしてモーターの角度を変える、

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スロットルレバーを前に倒すとモーターの角度が前方に傾く、

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エンジン音は橙色に付いているフックがセル板を叩くことにより音を出す、

モーターの角度が前方に傾くとセル板を叩くフックの力が強くなり音が大きくなるという仕掛けになっている、

                                                   <続く>

三和模型 コントロールスタンド

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三和模型 「スーパーコントロールスタンド」は僕が小学5年生の時に発売された、

その時は少年雑誌等の広告でその発売を知っていたが、時計店のショーケースの中にはなかったのでつ

いに買えることはなかった、(当時は文具店、時計店、電気店でプラモを売っていた)

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                  (昭和35年12月15日 日本模型新聞)
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                     (昭和36年新年号 日本模型新聞)
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                  (昭和36年3月10日 日本教材新聞)

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箱は2種類確認している、箱はもう一つあったがどこにしまったやらわからないのでとりあえずはこの1箱、

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操縦桿で機体を操縦し、スロットルレバーでエンジン音が変化する、

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単2電池1本を使用、もちろん、後々のメンテのためにセロテープで貼り合わせている。


エンジン音はあまり変化しない。

ニチモの走る紫電改と、

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最近の某模型雑誌でこのニチモの紫電改が同じものだと知った、そう、金型が同じらしい、

そこで、比べてみた、

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これは、走る紫電改、ご存じのように普通に撮ると主翼がヘンな形になる、

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ズームアップで撮ると主翼がヘンな形にならない、

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尾輪は格納可能、走らせる時は扉を開いて尾輪を引き出す、

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単3電池1本を増量タンクにセット、

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それを差し込むとスイッチになる、



さて、比べてみると、

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まったく同じ、

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増量タンクを差し込む穴もそのまま残っている、

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まったく同じ、 同じ金型で間違いない、

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たった一つ違う箇所が、この扉、

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その扉の箇所だけがこのように修正されている。

淡路島へ、

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昨日はチャリンコで淡路島へまた行ってきた、一般道を自転車で走るのは危険で車を運転する側としては非

常に邪魔な存在であることは充分にわかっている、何と言っても自転車は道路交通法では車道を走るのが基

本、僕のようにヨタヨタと走るのは非常に危険、まあ、できるだけ歩道をゆっくりと走るようにしている、

今まで警察官に注意されたことはない、その点は警察も十分にわかっているのだろう、その点、自転車で走る

には淡路島が最適である、

最近は淡路島をサイクリングする方々が非常に増えている、もちろん、僕のようにチャリンコで走る方はまづい

ない、今まで数えきれないほど淡路島を走ってきたが、チャリンコで走る方を見たことは1度もない、ほとんど

が競輪選手スタイルの方々ばかりである、

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明石港へ行くのに大蔵海岸を通る、休日なので釣りを楽しむ家族連れでにぎわっている、

まだまだ今の季節では釣れない、夏から秋にかけてイワシが大量に釣れる、

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高速船で淡路へ渡っていつも行くのが「淡路サービスエリア」、ここで休憩、

ここまでは自転車で40分で行ける、そう、通勤の時よりも早い、


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この観覧車にはまだ1度も乗ったことはない、乗ってみたいが一人では乗る勇気?がない、

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日曜日とあってこの「淡路サービスエリア」の駐車場はすでに満杯、

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ここは、その「淡路サービスエリア」の隣というかすぐ上にある「ハイウェイオアシス」、下の駐車場は満杯にな

っているが、

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ここはガラガラ、そう、休日で混雑してもよさそうなのにガラガラ、平日などはほとんど車は止まっていない、

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ほとんど人も歩いていない、

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これでは商売にならないだろう、いつ閉鎖になるのやらとヒヤヒヤしている、

「淡路サービスエリア」とは繋がっているのでそのままここへ来れるのに、ほとんど来ないとは不思議、

今回のここへ来た目的は、「県立淡路島公園」を散歩?するためであった、

そう、ここから道は繋がっているのでそのまま行ける、http://www.hyogo-park.or.jp/awajishima/

まだ一度も園内を歩いたことはなかった、そう、どんな施設等があるのか見たかった、

園内は超広い、歩いて一度で見て回るのは疲れてしまう、今回は、「ハイウェイオアシスゾーン」

「森のゾーン」、「交流ゾーン」を歩いて回った、これだけ回っただけで足も膝もガクガクになってしまう、


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子供が喜びそうなものも沢山ある、これは滑り台、台にはローラーが付いているので尻に板を敷いてコロコロ

と滑り落ちていく、

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小学生の女の子も挑戦して楽しんでいる、

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休日であってもほとんど混むことはない、ゆっくりと家族で園内を見て回り楽しむのには最適な場所ではない

だろうか、もちろん自転車ではなく車で来たほうがいい、

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淡路島では4時間ほど見て回ったあとは岩屋港から高速船に乗って帰路につく。

発火石を取り替え、

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昔のプラモには発火石を使ったものも多い、

今回、バンダイのリベットボーイの発火石を交換した、

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毎度のことながらセロテープで貼り合わせているので分解は簡単、

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発火石は年数が経つと劣化して粉末状になるのだろうか、このニチモのマメタンクの発火石はすでに粉末状

になって使えない、

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そう、このように粉々になっている、

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それならばと、アマゾンでジッポーの発火石を注文してそれを使用した、

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発火石をここに差し込んでこれでOK,



サン・ラジコンセットの作動を

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この「サン・ラジコンセット」というラジコン装置の作動をチェックしてみた、

このメーカーのことはまったくわからない、説明図にも会社名、住所等も記載がない、

この頃のメーカーといえば「ヒノデ電工」のラジコンくらいのものであった、

もちろん、今のハイテクなラジコン装置とは違う、押しボタン式のシングルとなっている、

僕はこのような電子機器のことはまったくわからない、ただ、作動するかどうかチェックすることしかできない、

まあ、出来ることと言えばスイッチの接触不良くらいのものである、

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送信機に9ボルトの電池を入れて、

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この説明図のようにモーター、電池を繋ぐ、

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押し釦の操作により前進、停止、右折、左折ができる、後進はできない、

もちろん、右折、左折とは言っても片方のモーターを止めて曲がる、要は2個のモーターを回す、2個のモータ

ーを止める、片方のモーターを回す、というだけ、

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今でもちゃんと作動するか配線してテストしてみたら、おお~、ちゃんと今でも作動した、

まあ、今となっては今のハイテクなラジコンと比べたら時代遅れのラジコンとなってしまった。

この値札は、

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さて、この値札は、実はこの値札は当時「サンケイモデル」で売られていたプラモデルの値札である、

当時はこのような値札を付けて売っていたという、

普通ならこんなもの捨てられてしまうし今となっては誰も欲しがらない、まあ、僕くらいのものだろう、

10年くらい前に残骸?の中に残っていたのでいただいてきた、


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この値札は今井科学の4号戦車、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/68942758.html

最初は2,500円と定価で書いたのだろう、それを2,300円と訂正してある、

モーター、電池も揃えて買うと3,000円にもなってしまう、普通の子供ではまづ無理だろう、

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この値札は、トミーの「デストロイヤータンク」https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69228933.html

そう、このデストロイヤータンクは単1電池が3本必要であった、

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これは、ニチモの「ビッグパットン」

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これは、ニチモの「スピードハイウェイセット」https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69963033.html

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そしてこれが、今井科学の「サンダーボーイ」https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69732021.html

ん、ん、ん、これも定価よりは安い、それは2次問屋だったからだろう、

まあそれでもここに紹介したプラモデルは当時の普通の子供達にとっては高嶺の花のプラモデルであった。

警察が作成したカタログ

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熊本の地震では7丁の拳銃が警察に届けられたという、そう、家の取り壊しの際にタンスの中からや、天井裏

から発見されたものだという、そのほとんどが旧日本軍の軍用銃で終戦の際に回収されず家族にも知らされ

ずに残っていたものだという、まだまだ国内にはそのような拳銃が多く残っているのだろう、


ところで、

今の日本では銃規制により一般人の拳銃による犯罪はほとんどないが、昭和30年代は玩具の拳銃による犯

罪が多くあった、

当時は玩具のピストルを製造する町工場が多くあり、そのメーカーのカタログなど存在しなかった、

そこで、警察ではそのカタログみたいなものを独自に作っていたようである、


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すでに紹介しているが、このようなガリ版刷りで作っていた、まあ、特に極秘資料でもないのでその一部あらた

めて紹介してみよう、

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すでに紹介しているように、マルサン商店はあのノーチラス号を発売する以前にプラスチック製のピストル玩

具を発売していた、たしか、伝説の金型職人のお方はプラスチックの素材自体が未知の素材だったと証言な

さっていたが(笑)

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このマジックコルトについてはすでに紹介しているが、製造元の筑紫屋発売というのは間違い、

製造元は言うまでもなく「セキデン」、その発売元が問屋の筑紫屋が正当、

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この頃にはすでに大阪は下に見られている、東京製品は高級で大阪製品は安物だと、

そう、何でも東京が上だという思い込み、思い上がりがすでにあったのだろう、

実を言うと僕も東京で働くというのが憧れでもあった(笑)

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「科学の日本」という戦前の科学雑誌

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戦前には青少年向きの科学雑誌が多く出版されていた、

「科学画報」、「科学知識」、「科学朝日」、「子供の科学」等々がその代表的なものだろう、

そしてそれらのほとんどが今となっては廃刊となり、いまもなお出版されているのは「子供の科学」くらいのも

のだろう、

以前にも紹介しているが、戦前のそれらの科学雑誌で、「科学の日本」という青少年向きの科学雑誌が出版さ

れていた、実はこれが今となっては幻の科学雑誌となっている、もっとも僕が勝手に幻と決めつけているだけ

の話であるが、これがなかなか今となっては見つからない、上記の「子供の科学」等は腐るほど今でも市場に

は出回っているが「科学の日本」だけはほとんど出回っていない、東京の国会図書館の蔵書を検索してもこれ

だけは1冊もない、その理由はわからないが、発行部数が元々少なかったのか、それもわからない、

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この10数年で探したのがこの3冊だけ、古書店にもまづ在庫はない、

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最近ネットで見つけ入手したのがこの創刊号、昭和8年7月である、

実は、この「科学の日本」がいつ廃刊になったのかも不明である、

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その創刊号には当時の鳩山一郎文部大臣の推薦の言葉が載っている、

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どんな内容なのか、その目次を見てみると、

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当時の時代を反映して軍事科学のものが主流となっている、

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すでに沈没した潜水艦の引き上げ方法についても解説してある、

広告欄にも興味深いものが載っている、

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これは、当時国内では最大の模型玩具メーカーであった「朝日科学玩具」の広告、この朝日科学玩具のことに

ついては今までもシツコイくらい紹介している、

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この広告も朝日科学玩具が開発した電動乗り物、

おそらく、これが国内初の子供向けの電動乗り物であったと思われる、そう、デパート屋上の遊園地の電動乗

り物である、それは今もちゃんと受け継がれていることもすでに紹介しているとおりである。

朝日テック㈲、http://www.asahi-tec1907.co.jp/

青少年向けの通信販売は、

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日本における通信販売の始まりは明治初期の「植物の種」の販売だと言われている、

ではその他の青少年向きの通信販売はいつごろから、そして、どんな物を販売していたのだろうか、

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ここに明治、大正時代の少年雑誌がある、それを見てみよう、

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これは、明治35年3月発行のもの、その広告欄を見てみると、

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通信販売の広告はこれだけ、書籍、雑貨くらいで模型玩具等はない、

次に大正に入ってからのものを見てみると、

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これは、大正4年5月発行のもの、大正時代に入ると俄然通信販売が増えてくる、

その一部を載せてみよう、

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充分に殺傷能力のある拳銃、鉄砲類が販売されている、

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飛行機模型も発売されている、

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もうやたらと拳銃類の広告が載っている、もちろんこの時代は実銃も通信販売で購入できたことはすでに紹介

している、子供でもこのような殺傷能力のある拳銃類も通信販売等で買えたのだろう、

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このように、模型類も増えてきている、模型モーターもすでに発売されていた、

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このような実銃とほとんど変わらないような拳銃も発売、こんなもの玩具とは言えないだろう、こんなもの子供

でも所持できたことは、今考えるとある意味恐ろしい時代でもあった、

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「佐原兄弟商会」とあるのは、「朝日科学玩具」の前身だろう、そう、創業者は明治40年頃に模型玩具類の製

造を始めたということなので当初は佐原兄弟商会という名で開始されたのと思われる、


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これは、大正11年3月発行のもの、その広告欄を見てみると、

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やっぱり、拳銃、鉄砲類の広告が圧倒的に多い、

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この中に、模型モーターの広告が、

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電池1本で大丈夫とある、もちろん、大正時代の模型モーターなど見たことない、

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もちろん、この時代のこのような拳銃、鉄砲類を見たことはない、

ところで、この時代のこのような玩具の拳銃を見つけたらどうなるのだろう、

規制前のモデルガンについてはいろいろとあるようだが、多分その規制前のモデルガンの法が適用されると

思うが、

仮に見つけたとしたらおそらく実銃と勘違いするに違いない、

とにかく、男というものは子供も大人も飛び道具が好きなのだろう、

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まあ、通信販売の広告がとにかく多い、大正時代にはすでに子供達は通信販売を多く利用していたということ

だろう、

僕らの時代は、あの冒険王の秋田書店の代理部が有名であった、利用された方も多かったのではないだろう

か、ただ、送料が高かった。

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日本ホビーの通信販売

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これは日本ホビーがプラモデルに参入する前の通信販売のチラシである、


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そして、これは日本ホビーからの返信のハガキ、 

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アトムコルト5型を注文なさったのだろう、しかし、もう少し待ってほしい、とのこと、

12日に届いたと鉛筆書きしてある、昭和何年の3月のことだろうか、僕の推測では昭和36年ではないかと、

その翌年に日本ホビーはプラモデルに参入したものと思われる、

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その「アトムコルト5型」がコレ、 

おそらく、この発注者のお方は僕と同じ年代の方ではないだろうか。

アトムレーダーピストル等の関連記事は、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70451695.html

銀行で玩具交換会

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模型玩具に関する資料等は段ボールにぶっこんで押し入れにしまいこんでいる、だから全てを念入りに読ん

ではいない、たまに箱を開けた時に読んでいる、

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その中に昭和40年4月5日の日本玩具新聞というのが1枚だけあったので読んでみた、

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大阪で玩具の交換会を開催したと言う記事である、なんと、その会場が三井銀行の玉造支店だった、

僕の入行店がその近隣の勝山通支店、まさか、その玉造支店で玩具の交換会が開催されていたとは驚きで

る、僕は昭和43年入行であり、その交換会は3年前のことなので全然そんなことは知らない、

当時は銀行では会議室を展示会やらイベントの開催等に貸していた、

プラモデル、玩具類、2,000点が展示されたらしい、もちろん、マルサン商店も出店している、

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売り方の成約高では1位は断トツで三浦商事のおよそ4千9百万円、一体何が売れたのだろうか、マルサンは

およそ4百万円で8位、これも何が売れたのかわからない、

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ところで、僕はマルサン社長にはお会いしたことはない、ただ、そのお顔はわかる、

そう、この写真にはマルサン社長が写っている。



戦争玩具追放運動、

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昭和20年代後期以降、戦争玩具追放運動というのがあった、まあその戦争玩具なるものが何を根拠に

戦争玩具とするのか、それがいまいち僕もよくわからないが、


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さて、ここに昭和27年2月発行の玩具の業界紙の「大阪玩具」というのがある、

この中に、その戦争玩具追放運動についての批判記事が載っている、

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「関西主婦連合会」が学者等を招いて開催したらしい、

まあ、普通の常識人だったらこの記事のとおりだろう、

このような左派の消費者団体はいろいろとあるらしいが、中には右派の「日本主婦連合会」もある、
                                 http://www.nihonsyufurengoukai.com/shucho.html
う~ん、このような右寄りの主婦の団体もあるのかと感心してしまった、日の丸を愛し韓国を批判している、
          
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ところで、広告の「筑紫屋」という問屋さんはその戦争玩具といわれるピストル玩具が好きだったようだ、

昭和34年に発売されたセキデンの銀玉鉄砲もこの筑紫屋が取り扱っている。

TMガン ドライガー

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今回はこのTMガン、ドライガー

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TMガンシリーズ、第三弾、となっている、

そのTMは何を表しているかというと、


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Tは、今はなき㈱タカトク(旧高徳商店)、

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Mは、これも今はなき松代玩具、を表している、

つまり、松代玩具が製造し、タカトクが発売したもの、このガンは昭和50年頃の製品らしい、

第1弾、第2弾はなにかというと、実物は持ってないがライフル型のもの、そうそう、すでに紹介しているマノク

商事が発売していたものと同じような銃、この頃はこのようなガン具がはやったらしい、

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材質はプラスチック製、

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弾を10発弾倉に装填する、

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ボルトを目一杯引いて戻す、引き金を引くと弾が発射、

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弾を発射後にまたボルトを引くとここから薬莢が排出される、弾は5、6メートルくらい飛ぶ、

50歳代前半の方ならこのような銃で遊ばれたかもしれない。

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学校でも銃の教育

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戦前など昔のカタログが好きなので模型工作玩具関連はもちろんのこと、理科、科学、教材関連のカタログ等

も片っ端から集めている、昔のカルチャー等を研究するうえで当時のカタログは欠かせない、

そう、カタログは当時の時代背景をそのまま表している、

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ここに、昭和13年の学校教育向けの教材のカタログがある、

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前川合名会社とある、

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もちろん、僕が興味があるのが模型と軍事関連のもの、

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なんと、その当時の学校では銃も教材として使用していた、

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機関銃も、

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なんと、小学校向けの小学銃なるものもあった、

今ではとても考えられない時代があったことがわかるだろう。

今朝の朝日では、

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今朝早く読売テレビを観ていたら、「朝日新聞は大丈夫か!一体どうなっているんだ、」とキャスターが皮肉っ

ていた、「朝日新聞をとっている家庭は日米首脳会談が行われていることも知らないのでは」とも皮肉ってい

た、そう、朝日新聞だけ安倍首相がトランプ大統領との会談を報じていない、(よ~く紙面を探すとほとん

ど気が付かない箇所にほんの少し載せているが、)他の新聞ではほとんどが一面で報じているにも関わらず、

まあ、毎日も朝日につぐ反日新聞なので一面の片隅にちょこっと載せているようである、

まあ、朝日はどうしょうもない新聞社である、報道の自由ではあるが、これは報道しない自由の事例と言える

だろう、現実として朝日新聞をとる家庭は段々と減少しているという、もともとどこの新聞社も減少しているが

朝日はその中でも顕著に表れているという、その理由は今更言うまでもなく報道が極端に反日、左に偏ってい

るからである、そう、「考えが物凄く偏っているのでもう朝日を読むのは気分が悪い」という方々が増えている、

僕が一番気に入らないのは、これも今更言うまでもなく社旗が旭日旗を使っているということ、

反日でありながら、なんで旭日旗を使っているのかそれが理解できない、

朝日は新聞だけでなくテレ朝も同じことが言える、失礼、テレ朝ではなく「テロ朝」でした、

ロクでもない評論家、コメンテーターでショーもないことを電波でもって垂れ流している、

なぜ、「テロ朝」と世間は言っているのか、それはテロ工作が好きだからである、そう、「報道テロ」が得意中

の得意である、過去にも有名な事件で「椿事件」というのがあった、

その精神?は今も脈々とテロ朝には受け継がれている、

もちろん、模型界にもそのテロ朝工作員Mが潜入していることは今までもシツコイくらい紹介しているとおりで

ある、堂々と僕に正面切って言えない哀れな男である。




昔、複写するときは、

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僕が入行した昭和43年頃、まだまだ複写機は銀行でも日常使用するほど普及はしていなかった、

まだその頃は普通の支店では導入していなかったと記憶している、そう、使用した記憶がまったくない、

今ではめったにお目にかかれなくなったカーボン紙を使用していた、ただ、それだと複写は1枚だけ、

だから、皆に読ませるには回覧するしかなかった、

そうそう、電卓は一台だけあった、それも真空管式の10キロくらいの一抱えもある代物であった、

だから、計算は全てソロバン、それは今思うと大変な作業であった、定期預金の利息、手形の割引料等は簡

単であっても、普通預金の利息計算は大変な作業であった、定期預金は実際に引き出された時に1回計算す

ればいいが、普通預金は常時動く、入金、出金があり、公共料金の引き落としもある、

そう、普通預金は出入りがあるたびにソロバンで利息の計算をしなければならない、公共料金の自動引き落と

しがある日は恐怖であった、今なら電算機で一瞬に処理できるが昔は手作業で一つ一つ引き落としの作業を

しなければならなかった、その頃は今ほど自動振替の件数はまだ多くはなかったが、それでも係員10人ほど

かかっても夜の10時、11時になった、女性行員は10時頃に帰らせて男性行員は下手したら徹夜になりその

まま宿直室に泊まり込むこともしばしばあった、それから普通預金は年1回利息を付けなければならない、

支店には12,000口座ほどの普通口座があるのでそれを一斉にソロバンで利息の計算をして利息を付けな

ければならない、まあ大体がその時は男性行員は徹夜であった、時間外は軽く月に100時間は超えた、

時間外が基本給を超えた、もう、そうなると給料の話ではなくなってくる、もう、金はいいからせめて80時間内

におさまればいいなと考えていた時代であった、今では考えられない世界であった、

さて、話を複写に戻そう、

複写機がなかった時代、その頃はどうやって複写をしていたのだろうか、

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今度は明治時代の少年雑誌を見てみよう、これらは明治34、5年の雑誌、

広告欄を見てみると、

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この頃はまだ模型玩具等の広告はない、模型玩具の広告が現れるのはすでに紹介しているように大正時代

に入ってからである、

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この中に、「簡易複写インキ」、というのがある、実際にどうやるのかはこれではよくわからないが、おそらく、

原本にこの特殊インクを塗り、その上に複写する紙を乗せて擦るなど圧力を加えて転写したのではないかと思

われる、


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それから、この昭和4年に出版された「科学電気玩具の作り方」では、

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「写真機のいらない簡易複写法」として、次のようなものが紹介されている、

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要は、駄玩具の日光写真の原理だろう、印画紙に強い光を当てて写すものだろう、

今思うに、昔は複写機がなくても別に不便だとは思わなかった、なければないで不便とは思わなかった、

今は何でもコピー、コピーと使いまくる、不必要なものまで使いまくる、もうコピーがないと仕事もできない、

それは携帯電話にも言えるだろう、もう今となっては携帯電話がないと生活もできないほどになってしまった、

昔は携帯電話などなくても皆普通に生活していた、そう、携帯電話などSF世界の中でのものだった、

それが現実のものとなってしまうとそれが皆にとっては必需品となってしまう、

次は、何が必需品となってしまうのだろうか。

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戦時中の模型雑誌等の資料を、

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古い戦時中の模型の資料等を段ボールの中に詰め込んだまま押し入れに入れている、

ほとんど読んだこともない物もあるので段ボールから出してみた、


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ライトプレーンの設計図やら月刊誌やらまだちゃんと読んでもいない、

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この「模型」という月刊誌、このような模型雑誌が出版されていたことなどまったく知らない、

当時はいろいろな模型航空雑誌が出版されていた、そう、国策として科学、模型教育に力を入れていた、

特に模型飛行機の教育に力を入れていたことはすでに紹介したとおりである、

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昭和19年6月号、決戦版とある、

もうこの頃になると敗戦間違いなしという状況になり、物資も乏しく出版物も薄っぺらいものになってくる、

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なんと、印刷されたまま頁ごとに裁断されていない、

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昭和19年末期になると空襲も激しくなり工場等が焼き払われたのだろう、カラー印刷がなくなる、

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これも印刷されたまま裁断されて製本されていない、


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なんと、裏面はライトプレーンの設計図が、なるほど、これでは裁断して製本するとこの設計図は何が何だか

わからなくなってしまう、ということは最初から製本するつもりがなかったのだろう、

昭和20年に入ると益々空襲が激しくなりほとんどの出版物が廃刊に追い込まれている。

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