僕が入行した昭和43年頃、まだまだ複写機は銀行でも日常使用するほど普及はしていなかった、
まだその頃は普通の支店では導入していなかったと記憶している、そう、使用した記憶がまったくない、
今ではめったにお目にかかれなくなったカーボン紙を使用していた、ただ、それだと複写は1枚だけ、
だから、皆に読ませるには回覧するしかなかった、
そうそう、電卓は一台だけあった、それも真空管式の10キロくらいの一抱えもある代物であった、
だから、計算は全てソロバン、それは今思うと大変な作業であった、定期預金の利息、手形の割引料等は簡
単であっても、普通預金の利息計算は大変な作業であった、定期預金は実際に引き出された時に1回計算す
ればいいが、普通預金は常時動く、入金、出金があり、公共料金の引き落としもある、
そう、普通預金は出入りがあるたびにソロバンで利息の計算をしなければならない、公共料金の自動引き落と
しがある日は恐怖であった、今なら電算機で一瞬に処理できるが昔は手作業で一つ一つ引き落としの作業を
しなければならなかった、その頃は今ほど自動振替の件数はまだ多くはなかったが、それでも係員10人ほど
かかっても夜の10時、11時になった、女性行員は10時頃に帰らせて男性行員は下手したら徹夜になりその
まま宿直室に泊まり込むこともしばしばあった、それから普通預金は年1回利息を付けなければならない、
支店には12,000口座ほどの普通口座があるのでそれを一斉にソロバンで利息の計算をして利息を付けな
ければならない、まあ大体がその時は男性行員は徹夜であった、時間外は軽く月に100時間は超えた、
時間外が基本給を超えた、もう、そうなると給料の話ではなくなってくる、もう、金はいいからせめて80時間内
におさまればいいなと考えていた時代であった、今では考えられない世界であった、
さて、話を複写に戻そう、
複写機がなかった時代、その頃はどうやって複写をしていたのだろうか、
今度は明治時代の少年雑誌を見てみよう、これらは明治34、5年の雑誌、
広告欄を見てみると、
この頃はまだ模型玩具等の広告はない、模型玩具の広告が現れるのはすでに紹介しているように大正時代
に入ってからである、
この中に、「簡易複写インキ」、というのがある、実際にどうやるのかはこれではよくわからないが、おそらく、
原本にこの特殊インクを塗り、その上に複写する紙を乗せて擦るなど圧力を加えて転写したのではないかと思
われる、
それから、この昭和4年に出版された「科学電気玩具の作り方」では、
「写真機のいらない簡易複写法」として、次のようなものが紹介されている、
要は、駄玩具の日光写真の原理だろう、印画紙に強い光を当てて写すものだろう、
今思うに、昔は複写機がなくても別に不便だとは思わなかった、なければないで不便とは思わなかった、
今は何でもコピー、コピーと使いまくる、不必要なものまで使いまくる、もうコピーがないと仕事もできない、
それは携帯電話にも言えるだろう、もう今となっては携帯電話がないと生活もできないほどになってしまった、
昔は携帯電話などなくても皆普通に生活していた、そう、携帯電話などSF世界の中でのものだった、
それが現実のものとなってしまうとそれが皆にとっては必需品となってしまう、
次は、何が必需品となってしまうのだろうか。