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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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渥美産業 ライトプレーン

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渥美産業のライトプレーンは今となってはほとんど見かけることはない、現存数は少ないと思われる、


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                                     (昭和32年10月号 日本教材新聞)

この教材新聞の広告欄のポスターが次のもの、


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渥美産業には飛行機凧というものも発売していた、

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そうそう、ライトプレーンといえば田宮模型もその頃ライトプレーンを発売していたことはすでに紹介している、

しかし、未だにその田宮模型のライトプレーンを見かけたことはない、現存数は極めて少ないものと思われ
る、よ~し、なんとしても見つけ出してやろう(笑)

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昭和32年に開催された模型飛行機大会のポスター、

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その大会の記事を探したら日本教材新聞に載っていた、

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この記事はその東京大会の記事、

プラモデルが世に普及する前はライトプレーンが物凄く流行った、しかし、プラモデルが段々と普及するにつれ

外に出て飛ばす子供達は少なくなり、まあ、飛ばすような空き地などもなくなり、今や飛ばして遊んでいる光景

は見かけなくなった。

東京科学工業(マブチモーター)のポスター

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この東京科学工業㈱(マブチモーター)のポスターはいつ頃のものかというと、

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                                     (昭和32年6月10日号 日本教材新聞)

日本模型新聞の広告のとおり昭和32年6月頃のポスターとなっている、

そのスーパーマグネチックモーターというのがコレ、

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外装はプラスチック製になっている、このプラスチック製のマブチモーターは買ったことも使用したこともない、

しかし、最近は思うことがある、このような物を集めてどうするの、まあ、あと生きても15年ちょっとだろう、い

や、もっと早いかも知れない、明日かも知れない、10年くらい直ぐに経ってしまう、

そんなこと考えても仕方ないか、今が楽しければいい、死んだ後のことは人任せ。

このバッジとマッチは、

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さて、このバッジは何のバッジだろうと、裏を見たら、

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一昨日の記事の模型飛行機大会の参加賞かなにかだったのだろう、渥美産業 ライトプレーン


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そして、このマッチは、渥美産業㈱となっているのでもう53年以上は経っている、マッチはまだ火がついた、

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この「昭和教材㈱」という会社は、https://www.kyozai.co.jp/publics/index/35/

この会社のことは今まで知らなかった、このマッチを見て初めて知った、

ハッキリ言って、このような物は捨てられる運命、誰も欲しいと思うような物ではない、

しかし、このような誰も興味がないようなものも模型の歴史を知る上では重要な資料となるので、捨てないで

めている。


模型の歴史の研究資料で

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プラモデル等の模型の歴史を調べるにあたって、どうしてもなくてはならないものが「日本模型新聞」である、

これがないとどうにもならない、

あと小道具としては、もちろん僕お得意の「電話番号簿」、「住宅地図」等々、

それともう一つ、「業者名簿」がある、


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これがあると、当時そのメーカーが存在していたかどうかがわかる、

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これは、昭和32年5月の発行分、

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この名簿には㈱日本プラスチックの名は載ってない、

しかし、日本プラスチックの濱田さんの「東京堂模型店」の名は載っている、

それはなぜなのか、

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それは、この名簿の編集方法にある、この名簿に載るには日本教材新聞社に掲載を申し込んだ業者、

それと日本教材新聞社が調査して判明した業者が載っているということ、

つまり、日本プラスチックの濱田さんは掲載を申し込んでなかったということ、

もちろん、地元では知られていたかもしれないが、地区外では日本プラスチックという会社の存在さえ知られて

いなかったということ、そう、電話番号簿にも載ってなかったからである、だから、日本教材新聞社にもわかる

はずがない、

では、次の業者名簿では、

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これは、昭和35年2月の発行分、

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ご覧のように、東京も大阪も載っている、 日本プラスチックの名では当時の電話番号簿に載ってないことは

今までも散々言ってきたとおりである、

つまりこの時、日本教材新聞社に名簿の掲載を申し込んだということだろう、

この名簿の発行は昭和35年の2月、ということは、前年の昭和34年の後半に日本教材新聞社は編集を始め

たということだろう、

すでに書いているように、日本プラスチックの濱田さんは昭和35年5月には東京で今の「OS工業㈱」を立ち上

げている、そう、布施市の日本プラスチックを整理して、東京のハマライトの兄の亨さんと合流した、

その間、わずか半年くらいだろう、布施市では一体何があったのだろうか、

さて、話を戻して、その業者名簿を編集する際に掲載を申し込んできた業者はいいとして、申し込んでこなかっ

た業者は独自に調査しなければならない、どうやって調べていったのだろうか、

そのことについては、また後日紹介しよう。




電話番号、住所等を調べるには、

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模型の歴史等を調査する際には昔の古い電話番号簿、住宅地図等が必要であることは紹介してきた、

ただその場合、特定の方の存在を確認できて連絡をとろうにも現在の居所等はまったくわからない、

図書館に行っても全国の電話帳があるわけでもないし、また今は電話帳には載せない、

その場合は、ネットで調べると判明することもある、

実際に僕は火星人さん、大阪化学研究所の内田さん等も全てネットで検索して判明した、

日本のどこに住んでいらっしゃっても検索できる、

ネットがなかったら日本プラスチックの調査も出来なかったと言っても過言ではない、

それでは、ご存じの方もいらっしゃるとは思うが一応ご参考までにその方法を紹介しよう、

物凄く簡単、

例えば、名前と住んでいる都市がわかれば 「 明石小五郎 明石市 住所でポン」 と検索すると出てくる
 
                             「明石小五郎 明石市 住所で」 でもいい、

名前だけで住所がわからなくても

     「明石小五郎 住所でポン」 これだけでも出てくることもある、 そう、日本全国の、

ただし、データは10数年前現在のもの、   出てきたたリストのデータから判別したらよい、

まあ、一度自分の名前を入力して検索してみたらよい。

明石海峡公園へ、

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一昨日日曜日には自転車で明石海峡公園へ行ってきた、

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そう、チューリップが咲いていると聞いたので行ってきた、特にチューリップが好きなわけではない、

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まあたまには花でも見たほうがいいだろう、ということで行ってきた、

僕が好きな花は「コスモス」、あの可憐な姿に魅かれてしまう、今度は秋にでも来てみよう、

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この明石海峡公園に来るのはもう5度目くらいになるだろう、そう全て自転車で、

毎度のことながら、あのテッペンまで上がってみる、

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この水は一体どこから、山からの湧き水だろうか、

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ここは、「道の駅あわじ」からの眺め、あの船が乗ってきた高速船、

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橋の真下からはいつもは舞子側から撮っているので今回は淡路側から撮ってみた

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我がマンションが見える、

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あのテッペンには上がることができる、https://www.jb-honshi.co.jp/bridgeworld/index.html

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高速船内、

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僕が乗るのは船内ではなく冬でも船上のオープンデッキ、この日もここに乗るのは僕だけだった、

何と言っても淡路島には手軽に自転車で行けるのがいい、自宅から淡路の岩屋港まで30分ちょっと、

人口15万人の淡路島にはかつて都市銀行の支店がなんと5店舗もあった、

今は三井住友の洲本支店が1店舗だけ、ほかの店舗は全て地銀に引き継がれている、

都銀、地銀の他に信金、信組、農協、ゆうちょ等、淡路島にはいたるところに金融機関が存在している。


㈱テトラ模型

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日本模型新聞をめくっていたら知らないメーカーの広告があった、

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               (昭和42年7月17日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

㈱テトラ模型、う~ん、知らない、初めて聞く、もちろんそのようなプラモも持ってない、

おそらく、この時期に設立されたのだろう、

ネットで検索したらよく似たメーカーがあった、http://outdoor.geocities.jp/kktettra/

住所が違っているが同じ会社だろうか、 静岡ホビーショーの際にこのブースへ行って聞いてみよう。

渥美産業のロボット模型キットは2種類、

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実は、渥美産業のロボット模型キットである木製ロボットには2種類があった、

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                             (画像はシューティングスターさん提供)

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   このロボットは目玉に豆球が入っている、

そして、もう一つが、

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そう、このカタログ掲載用のもの、

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その現物の完成写真のもの、これには目に豆球は入ってない、そして、胸のデザインも違っている、

今回、確認したのがこのロボット、

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これには目に豆球は付かない、箱絵では目玉を光らせているが、リモコンコードも違っている、

黄色いチューブの中にエナメル線を通すようになっている、

そして箱の側面も微妙に違っている、

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ロボットとROBOTの違い、

はたして、どっちが初版なのか確定はできない、

もちろん、渥美産業さんもこのロボットについてはまったく記憶がないとのこと。















JPMマークは、

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プラモデルの箱に印刷されているこの「JPM」というマーク、「日本プラスチックモデル工業共同組合」

このJPMマークはいつから採用されたの?という問い合わせが「ぷらもったさん」からあったので日本模型新
                                 
記事をクリップする聞の記事から探してみた、 
 

三共メカニック・ゼロ レポート②



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            (昭和42年8月14日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この模型新聞の記事のとおり昭和42年8月に組合として決定された。

渥美産業 リモコンロボット模型

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今更言うまでもなく、これは渥美産業の日本初のロボット模型キット、その現物を確認することができた、

断定はできないが、おそらくこれが初版のものだと思われる、

その根拠としては、

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箱絵のものと中身のキットが少し違っている、これを組み立てると、

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そう、コレになる、目玉に豆球は付かない、胸のデザインも扉の絵になっている、


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そして、コレが箱絵と同じもの、目玉には豆球も入っている、流れとしてはコレが2版目のものだと推測できる、

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そして、今作っているのが4体目のコレ、木製キットはいい、ド素人の僕でも板切れさえ買ってくれば作れる。

誤りを指摘しても無視される、

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模型の歴史の中の記事で誤りを指摘してもそのほとんどが無視されてしまう、

ましてや、ド素人の僕らが指摘したらなおさらのことだろう、その証拠を突きつけても無視されてしまう、

その一つの事例としてはすでに今井科学の東京タワーを紹介した、(東京タワーの模型の定説も、

模型新聞をめくっていたら次の記事があった、
記事をクリップする

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           (昭和42年2月27日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

今井科学の社長が当時書いた記事である、


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この記事の中で東京タワーの木製キットのことが書いてある、

なんと、これにも昭和32年9月に木製東京タワーを発売したとある、何度も言うようにその時期は本物の東京

タワーの設計図がやっと出来上がった頃であり、模型として発売できるはずがない、

おそらく、この記事は印刷ミスではなく今井社長の思い込み、勘違いであったと思われる、

静岡の模型協組ではこの「脈流」という資料を根拠に模型の年表を作り上げたものと思われる、

その間違えている年表も今度訂正される可能性はほとんどない、

僕がその間違いを指摘している、となったらなおさらのこと拒否反応されるだろう(笑)

次に、怪獣プラモが流行った頃の話で「火星人さん」が面白い話を書いているので紹介しよう、


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              (昭和42年4月3日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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渥美産業 リモコンロボット模型

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木製キットは板切れさえ買ってくれば自作できるところがいい、モーターライズの戦車も作ることができる、

そう、ド素人の僕でも作ることができる、特にこのようなロボットは直線的なので作りやすい

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昨日までの進捗状況がコレ、貯金箱ロボットと首から下は基本的に同じ、

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腕はホームセンターで買ってきたもの、円柱形を半分に切った長い棒切れを売っている、なんとオリジナルの

直径とピッタリの2センチ、それをオリジナルの寸法に合わせて切っただけ、

プラモデルと違って色を塗るのも簡単、ただ筆で塗ればいい、

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あとは、リモコンボックスを仕上げて、胸に絵を描けば完成となる。

プラモデルの名称を使い続けた、

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マルサン商店が「プラモデル」という商標登録を行い、いろいろと暴挙をはたらいたことはすでに記事にて紹介

しているとおりである、三越デパートがプラモデルを売り上げた際に領収書に「プラモデル代金」と表示しただ

けで商標権の侵害だと内容証明で送り付け裁判所に訴えるぞと脅迫したり、小売店の店頭で「プラモデル販

売」とチラシに書いたのを見つけると商標権の侵害だと騒いでその紙を破り捨てたり、と散々暴挙をはたらい

たらしい、実際にマルサン商店の社員が模型店を巡回してプラモデルという名称を使ってないか監視に回って

いたらしい、その悪評は僕も神戸の古い模型店の店主からも聞いている、事実らしい、

要は、「プラモデル」と箱に書いて売らないかぎり商標権には抵触しないわけで、「プラモデル」という名称を紙

に書いても、使ってもなんら問題はないことも記事に書いてきたとおりである、

マルサン商店は弁理士とグルになって脅迫していたのだからタチが悪い、

まあ、当時の方々は商標権の侵害だ、と言われただけでビビったのだろう、

すでに紹介したかもしれないが、面白い話がある、

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                     (昭和41年7月4日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

ここに、「プラモデル」という表示をした広告がある、この〇〇ゴム工業㈱という会社は一昨年東京まで行って

取材に行ってきた会社である、

模型新聞にこの広告を出してすぐにマルサンの弁理士から電話がかかってきたらしい、

「プラモデル」の名称はマルサンが商標権登録をしている、商標権侵害で訴えるぞ、マルサンの社長にプラモ

デルという名称を使用したその経緯を説明せよ、と、

慌てた〇〇ゴム工業の社長さんはすぐにマルサン社長の自宅を訪問して経緯を説明して誤ったらしい、

そうしたら、マルサン社長は、「お前の謝り方が気に入った」ということで、それから付き合いが始まったらし

い、そう、マルサン社長が亡くなるまでずっと付き合いがあったという、なぜかウマが合った、なぜかマルサン

社長には憎めないところがあったらしい、もちろん、マルサン社長のプライベートなことも聞いたがそれはちょ

っとここでは書けない、直接ならコソッ、と教えるが、(笑)

もちろん、「プラモデル」という名称もその後使い続けて広告を出した、実際に模型新聞を確認するとその広告

は使い続けていらっしゃる、

ただ、他の模型メーカー、問屋等は「プラモデル」という名称はまったく使っていない、プラスチックモデル、プラ

模型、プラモ、プラ製品、などとして使用している、

別にプラモデルという名称は使ってもなんら問題はないはずだが、ややこしいマルサンのことだからそれを避

けたのかもしれない、いや、それとも商標権について無知だったのかも、

それではと、他に「プラモデル」と広告を出しているところはないかと探したらあった、

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                      (昭和42年9月4日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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                        (昭和42年2月6日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この「ダイシンモケイ」という問屋さん、おそらく、ここも弁理士から脅迫されたのではないだろうか、

しかし、この広告を出し続けていたということはマルサンの社長と仲良しになったのか(笑)、それとも商標権の

知識でもって対抗したのか、そのどちらかはわからない、


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                       (昭和41年7月11日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

それともう一つ問屋さんがあった、確認した限りではこの二つの問屋さんだけである、

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                       (昭和42年1月23日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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                  (昭和42年2月13日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

それと、「プラモデル」と手書きで書いた小売店の宣伝用の旗と、展示会の案内板、

なぜ、あえてこの画像を載せたかというと、

これもすでに記事でも紹介しているように、今でも「プラモデル展示会」などと表示する際は「日本プラモデル

工業協同組合」にお伺いを立てて承諾を受けなければならない、まあ、お馬鹿なことを今でもやっているから

もう笑ってしまうしかない。




渥美産業 リモコンロボット模型

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胸にオリジナルの写真と同じように扉の絵を下手くそに描いた、

まだ、手を付けていない、それとリモコンボックス、オリジナルと同じようなリモコンコードにしたいのでそれに似

たようなビニールチューブが見つからない、

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実はこの丸いアンテナ、

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ホームセンターで買ってきたこの針金を曲げて作ったもの、丸く曲げるのが難しいので単2電池を当てて曲げ

た、

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ギアボックスはユニバーサルギアボックスを使用、シャフトはクランク状になっていないので、プーリーを使用し

た、一番気になるのがその箱絵とこのロボットの設計者は誰?ということ、

今更それらを調査し特定するのはほぼ不可能に近い、

誰なのかいろいろと妄想は出来るが、それを裏付けるものは今のところない、

ただ、言えることは相澤ロボットの影響を受けていることは間違いないだろう、

これらのロボットのデザインは相澤ロボットの原点とも言える、

さて、相澤次郎ロボット博士といえば、

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すでに紹介しているが、、この相澤次郎ロボット博士の著書の「人造人間の作り方」、この本は世界初?のロ

ボット工作本とも言われているが、それは僕もわからない、日本のことしか僕は知らないので本当にそうなの

かはわからない、ただ、日本初のロボット専門工作本であることは今のところ間違いはない、

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昭和7年11月が初版となっている、

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この本がロボット専門の工作本としては日本初かもしれないが、実は相澤ロボット博士はこれ以前にもロボッ

ト工作本を出している、

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それが、この「世界優秀人造人間と電気サインの設計と作り方」、

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昭和7年5月となっている、

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実は、相澤次郎ロボット博士以外にもロボット工作記事を書いていた方も存在していた、

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その本が、この「モーター利用模型の作り方」、本間清人さんという方、

本間清人さんといえば、当時は模型工作人としていろいろな工作本を執筆なさっていた、

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ただ、この本は初版が昭和5年7月で昭和12年5月が最終版となっているので、この本の中のどの部分が追

加されたのかどうかはわからない、そう、この本の初版を持ってないので、

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この中に人造人間、動く人形、とある、その一部を載せてみよう、

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さてさて、こうなってくると、誰が日本で初めてロボット工作記事を書いたのかわからなくなってくるのである。





三新工業㈱というメーカー

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「ホームラン模型」というのがあったらしいが、僕はどんなメーカーだったのかまったく知らない、

模型新聞をめくっていたらその広告があったので載せておこう、

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                      (昭和41年9月16日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

そのホームラン模型というのは「三新工業㈱」というメーカーのこと、

三新模型とあるのは印刷ミス、もちろん、この8の字走行するメッサーシュミットのプラモも見たこともない、

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           (昭和41年10月24日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

ホームラン模型のキットについては、「ぷらもったさん」の、記事を参考にどうぞ。

ホームランモケイ  スピリット オブ アメリカ



科学と模型

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今までも書いてきたように、戦前の最大の模型玩具メーカーであったのは「朝日科学玩具」であった、

しかし、その朝日科学玩具が模型の歴史の中で語られることはほとんどないことも書いてきた、

そして、朝日科学玩具が戦前から出版していた「科学と模型」という月刊誌、戦争で一時中断していたものの

戦後すぐに発刊し昭和28年まで出版された、そして、その後朝日科学玩具は模型業界からは撤退し今の電

動遊具製造メーカーになった、ということも書いてきたとおりである、http://www.asahi-tec1907.co.jp/index.php?mp=info&PHPSESSID=b6d994c811ad4880bda90099ca529f52

その朝日科学玩具というメーカーが模型の歴史の中に埋もれてしまったのは、今となっては資料がほとんど

残っていないためだろう、

その唯一残された資料の一つが「科学と模型」という月刊誌である、昭和5年から昭和28年分まで全て集め

るのは今となってはほとんど不可能だろう、

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その中の1冊、昭和27年のものをめくってみると、

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このような広告欄も非常に参考になる、

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西尾克三郎さん、この方は有名な鉄道写真家であったらしい、

ん、ん、ん、鉄道で有名な同じ姓で西尾音吉さんもいらっしゃった、そう、あの鉄道模型で戦前は有名な方であ

る、もちろん、音吉さんはこの「科学と模型」でも鉄道模型の記事を執筆なさっている、

実は西尾音吉さんは戦後は鉄道模型からは撤退し東大阪で模型モーターの教材メーカーに転換なさった、

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大阪布施のピッチクラブとある、ひょっとしたら、日本プラスチックの濱田さんもこのクラブに所属されていたの

かもしれない、ひょっとしたら、この写真の飛行機も、

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         (OS工業の創業者の小川重夫さんの「我が模型人生より)

濱田さんの技術は素晴らしかったという、これは濱田さんと石村さんの共同作品の模型飛行機、

石村栄三さんというのは、日本プラスチックの登記上の代表取締役であったことは以前の記事でも紹介してい

る、

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濱田さんらの名前がないかなと探したがない、

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そう、この頃には「朝日科学玩具」は電動玩具メーカーへと転身を図っている、

おそらく、遊園地などの電動玩具の先駆者だったのかもしれない、

今は読売ジャイアンツの投手交代の時に選手が乗って登場するあのカートも製造されている、

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「英工社」というのは後の三和模型、

まあ、たったこの1冊からもいろいろな歴史が見えてくるのである。



昭和34年度の人気商品は、

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昭和34年度の人気商品のベストテンの記事があったので紹介してみよう、

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             (昭和35年2月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

その前に、この「日本文化教具㈱」という問屋さんは実は僕が新入行員で支店に配属された勝山通支店の真

向いの所にあったらしい、昭和43年であった、もちろんその時にはその問屋さんはなかったし、僕は模型のこ

となど眼中になかった、

さて、第一位はニチモのベル47ソニー号、となっている、

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これがそんなに売れたとは、

第二位は、三和模型のM4タンク、第三位がライトプレーン、

第四位が、ニチモの伊号潜水艦、爆発的に売れたとされる伊号潜水艦でも第四位とは、

三和模型のプラモデルでのモーターライズ初のM4タンクはそれこそ超爆発的に売れたのだろう、

第十位のタミヤのHOこだま号は木製模型キット、タミヤはまだまだプラには参入していなかった、

エッ、そんな物が10位に入るとは、このベストテンは信用できるのか(笑)、だって木製模型キットなら他にも

魅力的な製品が他のメーカーには沢山あった、なんでコレが、

しかもこの時期は今井科学の木製キットの東京タワーが作っても作っても間に合わないほど爆発的に売れた

と言うが、それよりも売れたというのだろうか、やっぱりこのベストテンはアテにはできない、

まあ、毎度のことながら、僕はこんな本当のことを書くものだからタミヤ亡者からは嫌われる、

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            (昭和35年2月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

そして謎なのが、謎とは言ってもどうでもいいこと、この広告を見ると見本市では今井科学㈱となって、

下の広告では、今井商店となっている、

実は、この時期は広告は今井科学㈱と今井商店とが混在しているのである、

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このとおり、今井科学㈱は昭和34年12月に設立、


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                           (昭和35年1月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

そして、今時絶対にありえない広告がコレ、今時こんな広告は絶対に無理、

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これは、その頃の販売店用ポスター、フジミ模型はその頃は皇室を利用して広告を出していた。

日本初のテレビ塔模型 名古屋テレビ塔

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今井商店(今井科学)が日本初の東京タワーを発売したが、実は、それよりも前にテレビ塔の模型を発売した

メーカーがあった、

これぞ、日本初のテレビ塔の模型だろう、


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                   (昭和32年2月20日 日本教材新聞)

昭和32年2月であった、


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記事によると、なんとこの模型は高さ190センチとある、ライト点灯、エレベーターが動くとある、

アレッ、記事の説明文では190センチ、となると人間より高い身長、

その記事は間違い、名古屋テレビ塔は180メートル、1/200 なら90センチ、90センチが正当、

ま、それでも結構大きい、

この名古屋の安井模型店、どんな模型店だったのだろうか、ひょっとしたら、今も名古屋には「安井模型店」

という老舗の模型店があるが。





静岡ホビーショー フリマ出店

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5月12日、13日、静岡ホビーショーでのフリマはいつの間にかなぜか出店が受理されていた、

出店料はすぐに振り込んだので出店取り消しはないだろう(笑)

なので、去年同様同じ場所で出店致します、

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皆さん、どうぞお立ち寄り下さい、ブログではとても書けないヤバイ話も出来ます,

もちろん、出血大サービス!!?




渥美産業が、

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この渥美産業(現 大州模型)の建物は昭和32年に建てられた、

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                              (昭和32年7月10日 日本教材新聞)
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この新築当時のまま61年もの間建っている、

しかし、その長い歴史に終止符がうたれ、間もなく取り壊しされるという、

創業から数えると70数年もの間休むことなく模型界で活躍され、今回その活動を終えることとなった、

同じ模型界でも今はなき今井科学などのように、模型歴史の表舞台に登場することなく脚光を浴びることもな

かった、また、その歴史もほとんど今となっては語られることもなかった、

地味な会社だったからと言えばそれまでだが、確かに表面的には皆が興味を持つような会社ではなかったか

もしれない、洋上模型に主眼を置き、プラモデルという時流にうまく乗ることができなかったのかもしれない、

しかし、木製模型時代の頃には実にユニークでアイディア満載の木製模型を多く手掛けていた、

それらのこともほとんど模型の歴史のうえでは採り上げられることもなく、ほとんど知られていない、

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今回、ロボット貯金箱を組み立てたのも渥美産業ではこんなにも面白い模型を作っていた、ということを皆に

知ってもらいたいからでもあった、これからも少しづつ渥美産業のことについては紹介させていただくことにし

たい、

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そうそう、今複製を作っているこの渥美産業のリモコンロボットはあとリモコンコードのみとなった、

しかし、ここで僕は大変な間違いに気づいた、

まさか、駆動方式が間違っていたとは、そう、駆動方式が間違っていた、

普通ではありえない駆動方式だった、ウワッ、こんな方式で駆動するのか、

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これを見て、その駆動方式がわかる方は凄い、もちろんモーター駆動、

その方式は船以外はまづない、いや、そういえば三和模型のアレがあった、  これがヒント、    

もう一つヒント、 モーターはロボット本体の中には組み込まない、そう本体の中にモーターはなかった、

さあ、これでおわかりかな、        <続く>
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