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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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日時計、ゲルマラジオ

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さて、今度は渥美産業の日時計、それからゲルマラジオである、

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日時計を袋から取り出してみると、全て木製のキットとなっている、

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詳しい解説書、小学生では難しい、もちろん、日本標準時といえばわが明石である、

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次は、ロケット型ゲルマラジオ、小学4年生の頃にゲルマラジオのキットを買ってきてイヤホーンで聞いたこと

がある、それはロケット型ではなく普通の箱型のやつ、ゲルマラジオの中ではこのロケット型が一番人気があ

る、

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説明図は英文になっているので輸出もしていたのだろう、

アッ、ロケットではなく説明図ではミサイルとなっている、ゲルマラジオのこの型のネーミングは普通はロケット

型となっているが、これはミサイル型となっている、

部品はこれだけ、これで電池も不要で放送を受信してイヤホーンで聞く、

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電話機、電気スタンド、金属製のものにクリップを噛ませて受信しようと試みたがダメ、雑音のみがザー、ガリ

ガリ、とイヤホーンから聞こえるのみ、子供の頃はちゃんとNHKが受信でき聞こえたが、これはダメ、

ラジオ関連のマニアの方ならちゃんと受信できるだろうが、僕はこのようなメカには弱い。


教材型トランス

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これは学校教材用のトランス(変圧器)、理科工作の教材にはモーター、ベル、電信機、懐中電灯等々、いろ

いろあったが、このようなトランスがあったことは記憶にない、

これはネットでたったの100円で入手、送料が510円、まあ、このようなものは誰も欲しがらない、集めること

はない、僕くらいのものだろう、

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文部省学習指導要領とあるので当時このようなトランスも教材として使っていたのだろう、


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仮組してみた、

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エナメル線が8ボルト、

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赤いリード線が100ボルト、そう、このコードを家庭用電源コンセントに繋ぐ

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板の台座に釘で固定してこのような形になる、

ちゃんと100ボルトを8ボルトに変換できるかどうか試してみたいが、その勇気はない、

ビリビリッ、と感電する可能性が高く恐ろしくてできない。


火の玉小僧

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最近のニューズで、「デストロイヤー」さんが出演されていた、

そう、「デストロイヤー」さんが旭日双光章 を受賞されたと、

デストロイヤーさんといえば力道山との死闘がが記憶に残っている、あの四の地固めである、


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これは以前に紹介している当時の映画のポスター、力道山の額から血が、

そういえば、当時このような流血場面をテレビで観ていたお婆さんたちがショックで亡くなるというニュースがよ

く流れていた、なんといっても当時の夜の最大の娯楽がプロレス中継だった、

家族皆揃って部屋の電気を消して食い入るようにそのテレビ中継を観て興奮していた、


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ところで、この写真の左の体半分しか写ってないがそのレスラーの方がおわかりだろうか、

そう、吉村道明さんである、火の玉小僧と呼ばれていた、外人レスラーにやられても、やられても、流血しなが

らも突進していくその姿から火の玉小僧と呼ばれていた、

すでに15年前に亡くなられてしまったが、僕がまだ現役の頃、神戸の湊川の支店に毎月1回は必ず来店され

た、ソファーに腰掛けられている大柄な男性をお見掛けした時、すぐに吉村道明さんだと気がついた、

子供の頃にプロレス中継で観ていた時は外人レスラーと比較して小柄だったので大きいとは思わなかったが

やっぱり一般人の中に混じったら背が高いのでプロレスフアンだったらすぐに気がついてしまう、

それとお顔が当時とほとんどかわらなかったので間違いない、

「吉村道明さんでしょうか」とお尋ねしたら、「はい、そうです」と、

プロレス時代のことをお聞きしても、 「それは、昔のことですから」と、ほとんど語られることはなかった、

まあ、いろいろなことがあったのだろう、

人は皆それぞれ語りたくないことがある、それは、模型の歴史についても例外ではない、

真実の模型の歴史を暴くことがはたして正解なのか、迷ってしまうこともある。


設計図を虫干し

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今日は朝から天気がいいので部屋の中で虫干しを行っている、

段ボールの中に大量に詰め込んだ戦前、戦時中のライトプレーンの設計図、ほとんど段ボールの中から出し

て見たこともないので、虫が食ったり、湿っぽいので狭い部屋に広げて干している、

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まだまだあるので、2、3回にわけて干してみよう、

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ドイツとは同盟国だったのでやっぱりドイツのライトプレーンの設計図も多い、

ドイツでも航空模型教育が熱心に行われていたのだろう、

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なかなか凝ったギミックのものもあるが、僕が見てもよくわからない、

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エンジン搭載の模型飛行機の設計図を見ても、まったくわからない(笑)

それにしても、戦時体制下においてもこのような模型飛行機の設計図があるように、国策としていかに模型飛

行機教育を奨励していたかその本気度が知れる。

独占するためでなく普及させるために、

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これは、すでに紹介している東京プラモの「ミスターマシンくん」、相澤次郎ロボット博士のものを模したもので

あることも紹介しているとおりである、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/68857588.html

その相澤ロボット博士は昭和9年に「ロボット」という名称を商標登録した、ただ、その商標登録もマルサンの

社長と決定的に違うのはロボットという名称を独占するためではなく、広く世の中に普及させるためであった、

そう、ロボットという名称をいち早く商標登録し他人に独占させないためであった、

だから、ロボットという商標権の権利を行使することなく無条件に使用させて世の中に広く普及させたのであっ

た、もし、相澤博士が商標登録をしていなかったとしたら、ロボットという名称が今のように広く使われていたか

どうかわからない、


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これは、昭和23年に出版された「たのしい模型工作」という相澤博士が執筆したもの、

今となっては幻の模型工作本となっている、まあ、幻の本とは言ってもそれはあくまでも僕にとって幻という意

味で興味のない方々にしてはタダの本、何の意味もない本、である、

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これらの写真からもわかるように相澤ロボット博士はすでに昭和初期からロボット工作に熱心であった、

今までいろいろな資料等で調べてきたが、相澤博士以外にロボット工作等に取り組んでいた人は見当たらな

い、なお、相澤博士というものの博士号はお持ちではなく、あくまでも愛称である。

美しく芸術品並みの航空機 B-29

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戦時下において日本国土を焦土化させ日本を敗戦に導いた爆撃機といえばB-29 である、

この大滝製作所の「パノラマスタンド B-29」の記事は、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69048256.html

そのB-29は戦後、ブリキ玩具として、そしてプラモデルとして数多く発売された、

原爆を落とし、多くの都市を無差別に爆撃し多くの日本国民を大量虐殺した憎い敵機である、

しかし、その死んでも許せないような敵機であるはずのB-29の玩具、プラモデルを戦後も日本国内では受け

入れて人気を得た、本来なら憎い敵機であったはずで拒否するであろうが不思議である、まあ、韓国では絶対

に考えられない、

実際に上記の記事にも書いているように、僕は小さい頃母からはよくB-29の話を聞いていた、

そう、空襲のことである、B-29の空襲を受け防空壕に逃げ込んだ話である、しかし、そのB=29が憎いなどと

は一切聞いたことがなかった、今となってはそれも不思議でならない、

その理由は、日本人特有の国民性によるものかもしれない、そう、韓国みたいに過去のことをいつまでも執

拗に捏造して迫るのではなく、未来に向かって進んでいく日本人特有のそのものが要因であることも確かで

ろう、

それともう一つ、素晴らしいものは素直に素晴らしいと認めるその気質も要因ではないだろうか、

爆撃機B-29は今見ても素晴らしい、その性能、機能性、スタイル、みな素晴らしく感じてしまう、

おそらく、当時の軍人、民間人ともにB-29の姿を初めて見た時、驚くと共に感嘆したのではないだろうか、

しかし、それが殺人兵器として使われていることに複雑な気持ちになったに違いない、

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ここに昭和21年1月号の「科学画報」がある、その中にB-29の記事が載っている、

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なんと、筆者は「B-29」は芸術品である、と言っている、まあ、そんなこと戦時中にでも言ったら大変なことに

なっていただろう、それこそ監獄にでも入れられたかもしれない、ただ、戦時中でもそのように思っていた方々

が多く存在していたことは事実だろう, 極端に言うと、例えそれが殺人兵器だったとしても美しいものは美し

いと、なぜか不思議な感覚に陥ってしまうのである。










昭和45年の頃、

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フランスの辞退により、大阪万博開催の可能性が高まってきた、

前回の大阪万博の開催が昭和45年、まだまだ僕は若かった、なんとか次の大阪万博開催まで元気にしてい

なくてはならない、う~ん、しかし、その時僕は〇〇歳、もう考えただけでもゾッとする、

その昭和45年といえば、僕は集団就職?で銀行に勤めだしてまだ2年しかたっていなかった、

そして、住んでいたのが西宮の高級住宅街であった、まあ、高級住宅街には住んでいたが、それは独身寮、

その独身寮は今は取り壊され民間のマンションが建っている、

ネットで検索していたらその独身寮の画像があった、http://sano567.my.coocan.jp/HYOUGORETORO/sakuin/sakuindata/sansenryou.htm

当時は休日になるとその独身寮から大阪万博に数回通ったものであった、

もう、あれから48年、また再びその大阪万博に通えることを願っている、

ところで、模型界ではその頃、どのような動きがあったのだろうか、

日本模型新聞を押し入れの中から取り出してみた、

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あらためて言うと、日本模型新聞の当時のものは今は本社には保存していない、

今までのものは全て「国会図書館」に保存してある、そしてマイクロフィルムで閲覧することとなる、

まだ僕は国会図書館に行って閲覧したことはない、どれくらいマイクロフィルム化されているかも知らない、

相当根気のいる作業だろう、ただ、今までの分が全部揃っているわけではない、欠落している年代が相当ある

らしい、本社で保管していた頃に雑誌社の編集者達が閲覧したり、持ち出した際に返却されなかったのがある

らしい、そう、肝心な箇所を抜き取られている、

まあ、ハッキリ言って、その模型新聞にはよく読めば日本初のプラスチックモデルはマルサンではないことが

当時からちゃんと記事に書いてあるので、わかっていたはずであるが、そう、火星人さんも書いている、

模型の歴史のうえでは貴重な資料であるから、非常に残念なことである、


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さてさて、昭和45年の模型新聞には、

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新年号を読んでみよう、

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大阪地区だけでも「東京堂模型」という屋号の模型店はいくつもあった、

この頃にも濱田さんのお母さんが東京堂模型店を守っておられたはずだが、この広告には載ってない、

多分、小売組合には加盟しておられなかったのだろう、

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この記事はあの「プラモデルという名称を使うな」と僕に因縁を付けられたお方が書かれている、

まあ、僕の親心としてその名をふせておこう、

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これは神戸地区の模型店、この中で残っているのは5店舗、

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この東宝模型のリモコン パットン戦車はまだ見たことない、

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この宮内製作所のリモコンジープは相当自信作のようで、年頭挨拶でもそのことを述べていらっしゃる、

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          (昭和45年新年号 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

                                           <続く>

世界初のこども百貨店

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この日本模型新聞の表紙にもあるように、世界ではじめての「こども百貨店」というのがあったらしい、

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それは、大阪の大丸子供百貨店、 その頃は大阪で勤務していたが全然知らなかった、

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総工費25億円を投じて建設したらしい、 もちろん今はそのようなものはないはずだが、その後その子供百貨

店はどうなったのだろうか、そういえば、この頃は今と正反対の多子若l齢化?だった、

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                       (昭和45年4月27日号 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この火星人さんの記事では、昭和35年4月頃のことが書かれている、

タミヤから船体だけがプラ製のセミプラの艦船模型が発売されたが不発に終わったと、

そう、他社からオールプラスチックの艦船模型が発売され、特にニチモからオールプラスチック製の武蔵は素

晴らしかったと、そりゃあそうだろう、中途半端なものなど売れないだろう、

まあこんな本当のことを言うからタ〇〇亡者の方からは嫌われてしまう、

だから、僕とは関わらないほうがいい、僕と関わると大変なご迷惑をお掛けすることとなる(笑)

                                               <続く>







三和模型のピストルは爆発的に、

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今日の日本模型新聞は昭和45年10月12日号である、

アオシマの広告はほとんど紹介したことがないので、たまには紹介しておこう、

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今回の日本模型新聞で注目すべき記事は次のものである、

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            (昭和45年10月12日号 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

また火星人さんが10年前の昭和35年当時のことを書いている、この記事の中で注目すべきところは、

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ピストルキットの「サルソン」が爆発的な人気を呼んだとある、これは元ネタがプラ製のピストル玩具でそれを

キットにして売り出したものである、と、実はその「サルソン」の製造元が日本プラスチックの濱田さんの兄の

ハマライト化学研究所であった、そう、三和模型のブランドとして発売されたものであった、

もちろん、それは玩具メーカーの増田屋が発売していたプラ製のピストル玩具が元ネタである、言うまでもなく

それもハマライトが製造したもの、他のメーカーのものも製造していた、未確認であるがひょっとしたらマルサ

ンのものも製造していたかもしれない、

ちょうどその頃、子供達の間ではガンブームであり、その時流にのって流行ったのだろう、

ハマライトの濱田さん兄弟はそれで相当な利益をあげたのだろう、当時外車を乗り回していたという、

三和模型 「サルソン」の記事、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71259812.html
                    https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71394036.html

そうそう、その数か月後である、ハマライトの濱田兄弟の兄の亨さんがタミヤに助け舟を出した、

タミヤが窮地に陥っていた時に金型を無償で提供した、あの「ベビーレーサー、ベビートラック」の金型である、

すでに用済みとなって工場の片隅に転がっていたその金型を無償でタミヤに提供したのであった、

それを、「ベビーレーサー」、「ベビートラック」として発売したら運よく爆発的?に売れたという、

それでタミヤは資金が潤って窮地をしのいだ、ということ、

ベビーレーサー、トラックの詳しい記事は、https://blogs.yahoo.co.jp/winkplamotta2011/folder/522992.html?__ysp=44OP44Oe44Op44Kk44OIIOODmeODk%2BODvOODrOODvOOCteODvA%3D%3D (ぷらもったさん)

その頃、濱田兄弟の弟の貞雄さんはハマライトの兄の亨さんから分離して今のOS工業を立ち上げたのであ
                                         http://www.os-kougyo.jp/
る、貞雄さんはすでに11年前に亡くなられてしまったが奥様(91歳)はお元気である、

そうそう、奥様には当然のことながら、あのこともお聞きしている、

あのこととは、そう、最大の謎のあのこと、・ ・ ・ ・ ・ ・       。

駆逐艦イカヅチ

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実は、この古い木製艦船の発売メーカーと年代の特定ができていなかった、

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まあ、戦時中以前の模型とはわかっているが、昭和何年という年代の特定ができていなかった、

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制作が「日本理化模型製作所」となっている、

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それは、この「科学と模型」の雑誌の広告に載っていた、

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昭和15年9月号の「科学と模型」、

この広告欄に載っている、 発売は「朝日屋理科模型店」となっているが、これは「朝日科学玩具」の系列の会

社である、そう、販売店、

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駆逐艦イカヅチ級、長さも45糎(センチ)とあるのでこの模型に間違いないだろう、

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この広告に今では考えられない求人広告が、

13,4歳くらいの模型に趣味のある人を歓迎しますと、高給支給で住み込み可、

おそらく、当時のことだから模型工作好きの少年の応募があったことだろう。

バンダイがロボットプラモ発売 相原模型は、

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                  (昭和45年8月17日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

昭和45年といえば相原模型がハーフトラックを再販した、そう、メタル製装甲ハーフトラック「M16A1型対空

自走砲車」である、昭和42年の初版時の価格は9,800円、再販は倍近くの18,000円となってしまった、
             https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69510571.html
12年ほど前に相原さんにお聞きしたところその価格でもほとんど利益はなかったという、

実は、これは欠陥品だったと仰った、うまく左右に曲がることができなかったという、

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そして同時期に発売されていたのがバンダイのロボットシリーズである、

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「ロボット四銃士」と称して発売されていた、すぐに鉄人28号、ハ―キュリー等も発売された、


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同時期のアオシマのポスター、僕はあまりアオシマのプラモは昔から興味がなかったので子供の頃は一つも

作った記憶がない、60歳過ぎて作ったのが初めてである、その一つが「サンダーマシン」であった、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70050599.html




ハセガワから九七大艇、マブチからゼネコンレッドが、

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           (昭和45年3月2日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

昭和45年3月の記事にはハセガワが世界初の九七式大艇を発売したとある、

エッ、そうだったかなあ~、とっくの昔に九七式大艇は発売されていたような気がするが、

そう、あの三共の1/150ピーナツで発売はされていた、

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         (昭和45年5月4日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この記事では日本ホビーの廃業によりその金型が他社に流れた、とある、

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                        (昭和45年1月26日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

赤色のゼネコンが発売されたのがこの年、


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                      (昭和45年3月23日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

火星人さんもそのゼネコンレッドについて詳しく記事を書いている。


東宝模型 パットン リモコン版

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                      (昭和45年新年号 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
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この東宝模型のリモコン版パットン戦車はまだ一度も見たことがなかった、

コレクターの方からその画像をいただいたので紹介したい、


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シングル版はすでに紹介している、リモコン版は上左のものと下のもの、

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新聞広告のものはこのリモコン版のもの、リモコン版の2版目のものだろう、

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モーターはマブチRE-26モーター、もちろん戦車兵は砲身を上下させることにより出入りする、

リモコンボックスのスイッチはスティック式となっている、

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そして、これがリモコン版の初版のもの、これも初めて見た、

なんと、リモコンボックスは懐中電灯式となっている、

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使用モーターはマブチTKK25モーター、  箱絵も断然この初版のものがいい、

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もちろん、戦車兵はハッチより出入りする、懐中電灯式のリモコンは逆転スイッチ2個により前後進、左右方向

転換自由自在、となっている、めったにお目にかかれない戦車プラモである。

               https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70133392.html

軍国少年たちが読んでいた、

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これは、昭和11年11月号の当時は小学高学年から中学生向きに出版されていた「学友第一線」という月刊

誌、野ばら社が出版していた、 表紙の絵から勇ましい、

ゆくゆくは軍人となってお国のために働こうという軍国少年達の愛読書だったのかもしれない、

昭和11年なので支那事変直前の頃である、「しな」とパソコンで打ち込んでも「支那」と直接変換できない、

それが侮蔑用語だからと、いろいろな説があるが、まあパソコンまでがいろいろと気遣いをしている、

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内容は支那の少年少女のお友達と仲良くしましょう、と、しかし、「支那の少年少女に告ぐ」と上から目線で、

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裏表紙には「児童年鑑」という広告が、

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それがコレ、2594は皇紀2594年、 この児童年鑑は昭和32年まで出版されていたらしい、

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そうそう、僕が読んでいたのが、

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この学習年鑑であった。

昔、「模型の日」があった、

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昔、「模型の日」があったことはすでに紹介している、今日、5月5日は「模型の日」

それは、昭和44年に模型業界として決められた、

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                       (昭和45年6月22日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
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まあなんと大げさに、日本国行事実施にて、とある、

当時は、業界としていろいろなイベントなどが催しされていたようである、

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          (昭和45年11月2日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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模型業界が作った当時のカレンダーにも、

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5月5日は模型の日と勝手に決めている、

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ただ、それもいつの間にか自然消滅してしまったようである、

そうそう、この頃流行ったものに「BS-GUN」があった、

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そう、マノク商事でも発売していた、マノク商事 BS-GUN である、

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             (昭和45年6月1日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
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                (昭和45年1月26日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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        (昭和45年6月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この東宝模型の広告の「カタリナ哨戒飛行艇は、  哨戒飛行艇 カタリナ 東宝模型


九七式大艇は、

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先日の記事で、ハセガワから九七大艇、マブチからゼネコンレッドが、 この記事では九七式大艇のプラモ化は

ハセガワ模型が世界初だと大げさに書かれている、もちろん、僕はアレッ、と思ったが、

しかし、なぜ、そのように書かれてしまったのか、

本当のことを書くと今度は本当に模型業界から追放処分?をされてしまうので詳しくは書かないでおこう(笑)

そう、僕が悪者になるのはいいけれど、他の方々に迷惑がかかるので、まあ、今の政局みたいなようなもの、

ただし、事実のことは紹介しておこう、

実はそのハセガワ以前に九七式大艇はいろいろなメーカーから発売されていた、

コレクターの方からその画像をいただいたのでそれらを紹介しよう、

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昭和45年以前には、こんなに九七式大艇は発売されていた、YMC,三共、三和、東京プラモ、

こんなに発売されていたとは知らなかった、初めて見るものもある、

同じ三和模型のものでも箱絵が微妙に違っている、もちろん、東京プラモは三和模型の金型、

実は、その模型新聞のハセガワの九七式大艇の記事は火星人さんが書かれたものではない、火星人さんは

そのようなことはしない、

また本当のことを書くといろいろと支障があるので差し支えない程度に書くと、

火星人さんはそのような間違いはしない、何と言っても昭和32年に大阪十三で「火星模型店」を開業されプラ

モデルが世に現れる前から模型界のことを熟知され、昭和35年頃から日本模型新聞の社友として記事を書

かれていた、もし、火星人さんがマルサンがノーチラス号を発売した頃に模型新聞の社友として記事を書かれ

ていたならば、あのようなマルサンの広告や記事、そしてマルサンが日本初というようなことにはならなかった

可能性が高いのである、

つまり、火星人さんはあくまでも事実しか書かなかった、模型業界と忖度することが嫌いだった、

だから、昭和36年の10月の模型新聞紙上で「プラモデルの一番手はマルサンではなく、日本プラスチックで

ある」と、痛烈にマルサンを批判したのである、

そのことも僕は火星人さんから直接聞いている、

それからもちろん、マルサンも自分のところのノーチラス号が国産初ではなく、日本プラスチックが国産初だと

知っていた、そもそも、すでにその頃には日本プラスチックのノーチラス号は東京でも問屋を通じて出回って

おり、そして、マルサンは日本プラスチックのゼロ戦のことも知っていたらしい、

それらのことも今まで何度も記事で書いてきたとおりである、

火星人さんの日本初のプラモデルについての思いは日本模型新聞の社友を退いてからも、そう、亡くなる

直前までその思いは強く続いたのである、

なぜそう言えるのか、それは僕が火星人さんを突き止めてお会いした時にも「マルサン説を覆しなさい」と、仰

った、そして、その3か月後にお亡くなりになった、

その言葉が今となっては遺言のように聞こえてならないのである。


バンダイはM-60中型戦車を

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         (昭和45年11月23日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

昭和45年といえば今井科学が前年の7月に倒産したばかりであった、バンダイはその金型なども引き継いで

る、また、今井科学の倒産時における膨大な在庫を少しづつ市場に放出していた頃でもあった、

例えば、1/15 4号戦車もバンダイのシールを貼って売っていた、今井科学 4号戦車を完全に修復


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この「M-60中型戦車」も今井の科学の金型を改修してリモコン式にしたものだろう、

この「M-60中型戦車」については、バンダイ1/24 M-60戦車


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          (昭和45年11月5日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

もちろん、これらの記事も火星人さんが書かれたもの、

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そうそう、この頃、動物ボウリングシリーズが流行ったらしい、

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         (昭和45年7月13日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

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         (昭和45年4月6日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

また昆虫プラモが流行り、いろいろなメーカーからそのプラモが発売されたのもこの頃であった。

松下幸之助さんの

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最近のニュースで「パナソニックミュージアム」のことが報道されていた、

パナソニックと言っても僕らは松下電器、ナショナルと呼んがほうが馴染みやすい、

もちろん、松下電器といえば松下幸之助さんである、そのテレビの報道で「電球ソケット」が松下電器の始まり

みたいなことが報道されていた、おそらく松下幸之助さんはそれらの実用新案も登録なさったことだろうと、探

してみた、そう、以前にも紹介している「実用新案公報」で、

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昭和3年の実用新案公報の綴りで探してみた、こんなもの誰も持ってないだろう(笑)

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1件だけ見つかった、「押しボタン式スイッチ」、

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そういえば、このような押しボタン式のソケットを小学生の頃家で使っていたような記憶があるが、

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家電関係で他に何かないかなと探していたら、これは松下幸之助さんではないが「電気アイロン」があった、

これは、中部電気製作所となっている、

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暇な時はこれを見るのも面白い、水陸両用車、水洗トイレ、など奇抜なアイディアが満載である。


日本初のモーターライズ戦車模型キットは、

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日本初のモーターライズ戦車模型キットは、英工社(後の三和模型)が発売したものであったことはすでに紹

介している、

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そう、昭和29年2月号にその広告が載っている、

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すでに紹介しているとおり、これが現在確認している限りでは日本初のモーターライズ戦車模型である、ただ、

現物はまだ見たことない、他にはないはずだが万が一、他にあったら教えてほしい、

ただ、この広告はゴム動力の戦車で、電気モーターで走るものは2月10日に発売予定となっている、

まあ、ケチを付けたがるそのスジの方々にしたら、「この広告では発売予定としか書かれていない、

発売したという広告、またはその記事を出せ、」とケチをつけられるだろう、

そう、あの日本プラスチックのゼロ戦と同じことを、「日本プラスチックのゼロ戦の広告は発売予定、としかなっ

てない、発売したという広告も記事も見当たらない、だから、マルサンが初だ」 ということ、

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今更言うまでもなく、なかったものは証明できないが、あったものは証明できる、

今回その広告が載っているカタログを入手した、この昭和29年5月の入沢商店のカタログには載っている、

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ここに、ちゃんと載っている、「シ54動力タンク」、マグネットモーター入り、となっている、

これで明らかにモーターライズの戦車模型キットであることがわかるだろう、

それにしても、昭和29年で小売価格が500円、高い、当時僕は小学入学前、もちろん見たことない、

僕が木製戦車模型を作ったのはたしかその5年後の小学4年生の頃だったと記憶している、

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おそらく、タミヤのモーターライズ初の戦車模型もこの栄工社の戦車模型を模倣したものだろう、

そう、そのままソックリだとマズイので少しばかり変えてはいるが、基本的にデザインは同じ、

この頃もパクり物が流行り、いろいろとトラブルが発生していたことは過去の記事にも紹介している、

タミヤに関してその一事例が「艦船模型大全」の中で である、


まあ、このような事実を書くものだから僕は〇〇〇信者、いや失礼間違えた、〇〇ヤ亡者からの敵になってし

まう、う~ん、 ここではまだまだ書けないことはある。

昭和44年頃の出来事

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さて、今度は昭和44年の模型界における出来事を紹介してみよう、

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        (昭和44年7月14日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

何と言っても昭和44年の最大の出来事といえば今井科学の第一次倒産だろう、この記事でも簡単に報じてい

る、また余計なことを言うが、あの「しょんないTV」で放映されたこの記事もこの僕の模型新聞を撮影したも

の、決して別の誰かさんのものを撮影したものではない、(この意味をわかっている方はわかっている)

さて、話を戻して、この頃は「モデル大賞」なるものを大阪地区では決めていた、

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      (昭和44年10月20日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

関西模型小売商組合連合会では毎年優秀なる模型キットを表彰していた、

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その審査員となり中心的メンバーが火星人さんこと多田茂数さんであった、この頃の関西地区の模型業界は

相当な力を持っていたのだろう、何と言ってもこの記事でもわかるように模型メーカーの社長を大阪に呼びつ

けて表彰するくらいだからメーカーも一目置くような存在だったのだろう、

火星人さんは「俺が決めていた、だから好き勝手に模型新聞に記事を書いていた、思うように書いていた、メ

ーカーからは何も文句は言われなかった」と僕に仰った、

まあ、今の模型雑誌の記事などとはエライ違いである、特定のメーカーと忖度したものばかり、

エッ、どこのメーカー?、そんなこと僕が言わなくても僕のブログを読んでいる方々ならおわかりのはず(笑)

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この「モデル大賞」はいつ頃消滅してしまったのだろうか、まだ詳しくは調べていない、

火星人さんが「火星模型店」を閉店なさったのが昭和53年、それ以後は模型界からは引退なさった、

おそらく、その頃ではないだろうか。
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