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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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渥美産業の、

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                              (昭和32年10月 日本教材新聞より)

渥美産業は昭和32年に本社を新築した、

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                              (昭和32年1月号 日本教材新聞)

軍艦ものばかりと思いきや、面白い模型もいろいろと発売している、

そうそう、渥美産業でもらい物があった、

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これが、もらい物の渥美産業のライトプレーンではなく、飛行機凧、中身はなく袋だけのもの、

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「ASK」のロゴマークがあるから渥美産業のものだろう、

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それから、これも一緒にもらい物の渥美産業の荷札、

そして、渥美産業には以前の記事でも紹介しているロボットの模型があった、

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そう、このリモコン式のロボット模型、渥美産業がこのようなロボットを発売していたとはもうビック

リ仰天である、これは昭和31年のカタログなのでそれ以前に発売していたことになる、

ひょっとしたら、戦後初のロボット模型なのかもしれない、


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それと、もう一つロボットを発売していたのがこのNBK(日本文化教材 現ブンカ)、

これも同じころ発売されている、渥美産業が先なのかそれともNBKが先なのか今のところまだ確

認はしていない、

そしてこの頃のライトプレーンでメーカーが不明のもの、

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「落下傘降下器付」と凄いギミック?が付いている、

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まあ、落下傘だけは自分で作るようになっている、このカタカナの文字が時代の古さを感じさせて

くれる、

それから話は変わって、例の(株)日本プラスチックの当時の場所を特定することができた、

そう、昭和34年当時の住宅地図でその場所が特定できた、

さて、その場所は、

そして、東京にも営業所を設けていた、

しかし、未だに(株)日本プラスックの実態は依然として謎のままである、

マルサンより先に動くゴム動力のノーチラス号を開発し製造、ちゃんと問屋ルートで流通させてお

きながら、ノーチラス号発売後の消息は掴めていない、幻のように消えてしまった、

日本模型新聞の記事では大阪の某メーカーがマルサンより先にノーチラス号を発売した、と書い

ているにも関わらづ、なぜ日本プラスチックという会社名を記さず某メーカーとしたのか、

なぜ、なぜ、なぜの連続である、 ここで考えられることは、

おそらく、(株)日本プラスチックという会社は、   それは1日の記事にて<続く>

さて、今日はこれから四国へ行ってくる、 そう、昭和の模型歴史の調査のために、某メーカーの

社長さんに会ってくる、フジミ模型のタイガータンクは帰宅してから走らせてみよう。

フジミ模型 1/44 タイガータンク リモコン

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砲身の中にスプリングを仕込む、接着の中ではこの砲身を接着する時が一番気を使う、

そう、接着剤がはみ出してはいけない、

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弾は先込め式で爪に引っ掛けて、上からボッチを押して爪を外すと飛んでいく、

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車体の中はスッキリしたもの、

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切断されていたキャタピラは特に灘さの調整は必要なく、当初のそのままの長さでOK,

もちろん、靴底補修剤で接着し一晩寝かす、まだまだ新品同様、

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単3電池4本使用となっているが、2本で大丈夫、

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船の舵のマークが、戦車のリモコンには似合わないがこれはリモコン式の戦艦大和のものを流用


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3Vの並列なので電池は4本入れる必要はない、2本でOK,現行の電池は入らないので単4電池

を入れ間に金具を噛ましてある、

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なんと、転写マークが使えた、

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それでは、走らせてみよう、まあ、普通の走りとなっている、砲弾は意外とよく飛んでいく。




(株)日本プラスチックは、

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(株)日本プラスチックはマルサンよりも先にプラスチックモデルを開発し、流通ルートにのせて初

売したことは先の記事でも書いた、それは日本模型新聞にも「ノーチラス号はマルサンよりも先に

大阪の某メーカーが発売した」云々と記事にも載っている、

そして、昭和36年にはすでに大阪の「火星人」なる方が日本模型新聞に、「プラスチックモデルの

第一号はマルサンではなく、日本プラスチックである」と痛烈にマルサンを批判する記事も載せて

いる、それと、その日本プラスチックが発売したゴム動力のノーチラス号も東京の三ツ星商店の広

告に載っている、また、そのノーチラス号の現物はすでに確認済み、


だから、(株)日本プラスチックがマルサンより先にプラスチックモデルを開発し発売したのは疑い

ようがない、事実だろう、ただ、そのノーチラス号をいつ発売したのかはまだ不明、また日本プラス

チックが昭和31年にゼロ戦のプラスチックモデルを近日中発売という予告広告を載せたものの

はたしてそれが実際に発売されたものなのか不明である、ま、僕の推測では発売されたのではな

いだろうか、

(株)日本プラスチックは本当に謎の会社である、確認している限りでは広告はそのゼロ戦予告発

売の広告だけである、ノーチラス号を発売の広告も載せていない、そしてノーチラス号を発売後の

消息はまったく不明である、忽然と姿を消してしまった、

そして、日本模型新聞はなぜマルサンより先に発売したのが日本プラスチックとメーカー名を出さ

づに大阪の某メーカーとしたのだろう、何かメーカー名を出すと不都合なことでもあったのだろう

か、とにかく不明なことだらけの謎のメーカーである、

その日本プラスチックのノーチラス号の現物は僕は持ってないので、その現物の画像等は次のサ

イトに載っているので観ていただいたらよい、http://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihonpura.htm

今回、その日本プラスチックの当時の住所が特定できた、

まづ、上記のサイトでもわかるように日本プラスチックは東京にも営業所を置いていた、

その住所とは、

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そして、本社は、

昭和34年当時の住宅地図にてその場所を特定することができた、

そして、その地番に該当する会社も特定することができた、

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さて、そこは日本プラスチックとなっているだろうか、  <続く>

(株)日本プラスチックの謎に迫る、

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いよいよ、日本のプラスチックモデルの歴史上最大の謎?とされる(株)日本プラスチックの実態の

謎を少しずつ暴いていこう、今回は探偵のように相当の推理力が試される、そう、仮定の話で答

えることはできないなどとよく政治家が言うが、今回は仮定したうえで推理していかなければ謎を

解いていくことはできない、なんと言っても当時から日本プラスチックは実態がよくわからない謎の

会社のようだったので、

さて、前頁に続いて、その該当地番に該当する会社名は、

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そう、この鉛筆で示している場所が該当の地番である、この地図の画面だけで大体徒歩5分圏内

だろう、

小さくて見えないので拡大してみよう、

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その前に本社の住所を、大阪の布施市長堂2-90 である、(布施市は現在の東大阪市)

実は、この名簿がなければ(株)日本プラスチックの謎を解くのは不可能である、

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これだけで、現在の場所は特定できるだろう、目印は消防署分署の裏側、

その該当地番の場所には、アレッ、(株)日本プラスチックではなく、(資)大阪化学研究所となって

いる、全然会社名が違う、いやいやこれはまだ想定内、元々当時から日本プラスチックは実態が

よくわからない会社だったので、そう、当時から謎の会社だったのだろう、それを半世紀以上も経

ってから調べるのだから、普通はわかるはずがない、ハッキリ言って不可能に近いだろう、

ま、それはさておいて、この徒歩5分圏内の地図を見てみると、う~ん、なるほどそのような地区

だったのかと納得してしまう、

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なんと、この徒歩5分圏内には、プラスチック加工会社、化学会社、セルロイド会社、金型関係、

工作機械関係、金属関係、の会社が密集しているのである、

これらのこともさておいて、前頁の日本プラスチックの東京営業所の住所をあらためてみてみよ

う、

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次に、この東京支店が載っているので実際にその東京に存在していたのかどうか調べてみよう、

大阪の本社の住所の該当地番にも全然会社名が違う会社が存在しているので、この東京支店も

怪しくなってくる、はたして存在していたのだろうか、

東京地区に関しては昭和30年代の住宅地図が存在しないのでその場所を特定することはできな

い、実は昭和30年代からの住宅地図が存在するのは大阪府下だけらしい、大阪府下の都市なら

存在する、先日紹介したとおり吉田地図へ問い合わせるとよい、

ならば確認する方法は電話番号簿である、

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そこで、用意したのがこの東京の電話番号簿、昭和31年、33年、34年の番号簿、である、

実は昭和28年版もあるが今回は用がない、まあ、このような電話番号簿を用意できるのは全国

広しといえ僕だけだろう、東京の国立図書館にいけばあるのだろうか、いや、ないかも、

あと静岡版が欲しいがなかなか市場には出てこない、

実は、これらの古い電話番号簿もないと今回の調査は100パーセント不可能である、

まさに電話番号簿は僕にとって必需品なのである、

これで、その東京支店の存在を確認すればいい、

しかし、この電話番号簿にも載ってないかも、大阪の本社も地図に載ってないのでその可能性が

高い、いやいや、それも想定済み、他にも調べ方に手段はある、

ジワッ、ジワッ、とその謎に迫っていく、     <続く> 5日の記事へ、


この一週間は、

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いや~、この一週間は頭をフル回転?させてきた、起きている間は「(株)日本プラスチック」、

いや正確には「(株)日本プラスチックス」と、スが余計に付く、の推理に頭をフル回転である、

相当なボケ防止の効果があったに違いない、今朝もその影響か2時過ぎには起きてしまった、

その「(株)日本プラスチックス」のことをなんとか調べてみようとは思っていたが、何と言っても

60年近くも前の話であり、しかも残されている資料もほとんどないし記録もほとんどない、

残っているのはそのゴム動力のノーチラス号と、日本模型新聞等の記事に書かれている僅かな

意味不明の記事である、そう、例えば日本プラスチックスが発売したと書かずに、大阪の某メーカ

ーと、あえて会社の名を明かさなかったり、日本プラスチックス自体の不可解な行動もあった、

もうとにかく、その行動全てが謎に包まれている、しかし、この一週間でその謎も一部分ではある

が解けてきた、その日本プラスチックスは普通の会社であればとても考えられないような行動もと

っている、

だから、未だに解明されない、いや当時からだろうが謎のメーカーとなってしまったのだろう、

今回、徹底的に?調べてやろうと思ったのは東京支店の住所と電話番号が判明したのがキッカ

ケであった、まあ、東京支店とはいっても店舗も何もない個人の住宅を事務所代わりにしていた

のであろうが、その電話番号が当時の電話番号簿に載ってない、日本プラスチックという名前もま

ったくない、しかし、前の記事でも書いているように、東京の三ツ星商店という問屋さんが卸してい

たことはその広告で確認している、これはどういうことだろう、日本プラスチックは何か怪しい?会

社だったのか、ま実際怪しい会社であったようだが(笑)、ご存じのように怪しい会社はその秘密を

暴くのが僕の趣味なので今回やる気になったということである、アッ、それと嘘で脚色されたマル

サン伝説を覆すために、ま、こんなことばっかりやるから嫌われる原因にもなっている、

いや、前にも言ったように、八方美人になってはいけない、人は嫌われるようなってこそ一人前で

ある?、全てを解明するのは不可能と断言していい、入手した資料で判断し推理するしかない、

実は昨日、東大阪の法務局へ行ってきた、そう、(株)日本プラスチックスの謄本をとるために、

職員の方もなかなか当時の原本を探すことできずに相当苦労されていた、1時間くらい待った、

何と言っても、60年ちかくも前の会社のすでに閉鎖された登記簿謄本である、

どのように整理保管されているのか知らないが、探すのも大変だっただろう、

無事に探し出してくれてその閉鎖済みの謄本をとってきた、代金は600円、超安い、

ま、その謄本を普通の人が見ても何の変哲もない、ただ本店住所や役員名、資本金がわかるだ

けだろう、ところがよ~く見ると、これがまた謎だらけなのである、

何度も言うように、何からなにまで全てが謎のメーカーだったのである、

ハッキリ言って、日本プラスチックスの実態を全て解明するのは不可能、ある程度専門的知識も

必要になってくる、僕の場合はたまたま現役の頃、会社設立等の手続きもやっていたのでそれが

よかった、15年ぶりくらいにその知識が生きてきた、まさかたかがプラモデルのことで登記やら会

社設立やらの知識が今頃になって生きてくるとはまったく予想だにしなかった、

日本プラスチックスの行動というのはあるていど解明できるが、なぜそのような不可解な謎めいた

行動をとったのかということは本人に直接聞かない限りわからない、推理するしかない、

まあ、当時の関わったご本と言ってもおそらく100歳近くになられているだろう、

探し出すと言ってもほぼ不可能に近い、昔なら人様の戸籍謄本や住民票もとれたが今は不可能

なのでそれもできない、日本プラスチックスがなぜそのような行動をとったのかは永遠に謎になる

だろう、判明したことと、確実な?推理をこれから書いていくことにしよう、その間にも調査はまだ

続いていく。



四国に行ったのは、

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先週の金曜日に四国に行ったのはココ、http://www.asahi-tec1907.co.jp/index.php?mp=info

四国とはいえ、僕の自宅からは行きは高速走って2時間ちょっと、帰りは一般道走って3時間30

ほどである、

その朝日テックという会社は何度も紹介しているが、戦前の国内最大手の模型玩具メーカーであ

た朝日科学玩具の流れを受け継ぐ会社である、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70595497.html

そうそう、マブチモーターがその朝日科学玩具のモーターをパクって発売したところのメーカーで

ある、もっとも、マブチモーターは俺んとこがパクられて窮地に陥ったと言っているが(笑)

2代目社長さんと3代目現社長さんとお話しをさせていただくことができた、

当時発行していたカタログや模型科学雑誌を見てみたいとおっしゃっていたので、持参したのが

次の物、

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段ボール1箱持っていってもよかったが、それではとても目を通すことができないので、少しだけ

持参した、もちろん、見るのは初めてだとのこと、

2代目社長さんもまだ77歳なので戦時中でもまだ小学校の2、3年生くらいの頃、

現社長さんは44歳なので、当然初めて見るものだろう、よくもこのような物を沢山集められたもの

だと感心されることしきり、

もちろん、2代目、3代目社長さんも戦前の製品のことはご存じないので、逆に僕が説明するハメ

になってしまった

戦時中は飛行機部品や、機関銃の弾、機関銃の銃身を冷却する空冷用の穴の開いた外側の筒

(正式な装置の名前を知らない、どなたか教えて)等を製造していたとのこと、

戦争でほとんどの職人さん達を兵隊にとられ、また空襲等で亡くし、工場も焼かれほとんどのもの

を失ったので戦後の数年間は細々と営業し、その後四国で今の工場を立ち上げたとのこと、

これは僕の推測であるが、もし戦争がなかったらこの朝日科学玩具は戦後は最大手の模型玩具

メーカーになったのではないだろうか、もちろん、今のマブチモーターはなかっただろう、

得意分野は機関車らしい、アッ、そうそう、読売ジャイアンツでピッチャー交代の時、投手が乗って

現れるあの電動カー、あれはここの製品である、今度遊園地等で電動遊具を見かけたら「朝日テ

ック」となってないかよ~くご覧いただきたい。

今日は大阪市立図書館へ、

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このところ、日本プラスチックスで頭を使い過ぎたので昨日はゴロゴロと食っては寝、食っては寝

であった、そう、昨日は休止状態、

昔の該当場所に行って日本プラスチックスのことを聞きまわってもそれは無駄なこと、

元々、日本プラスチックスは存在していなかったのだから(この言い方が正しいのか間違いなのか

は判断に迷うが)、会社の建物も事務所も元々ない、それらの理由等については、これからのブ

ログで少しづつ解明していく、

今日は大阪市立図書館へ行ってくる、

もちろん、日本プラスチックスの謎を解くための調べものである、

そう、ゼロ戦や、ノーチラス号をどこの秘密工場?で製造していたのか、もちろん、これも推理、

発見できればいいが、なんと言っても僕の推理に基づくものなので見つかるかどうかわからない、

一昨日の月曜日に(株)日本プラスチックスの登記簿謄本(閉鎖済み)を東大阪の登記所でとって

きたので、まずはご覧いただこう、

この謄本の中で気になる箇所が2か所ある、

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記載事項はほんの僅か、隅から隅までよ~く見たら記載事項で気になる箇所がある、

それにも気が付かないと、謎は解けない、    <続く>














日本プラスチックの謎に迫る

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前日等の記事やコメント欄でもわかるように、昨日、その日本プラスチックスの全体像はどうにか

解明することができた、ただ、日本プラスチックスの動きというものの詳細等の調査は困難であ

り、これからも解明されることはないだろう、永遠に、なんと言っても当時の関係者のほとんどが亡

くなられているであろうし、仮にそのご家族に会っても当時のことがわかるはずがない、

当時はまだ生まれていないだろうし、仮に生まれていても幼児の頃だろう、それはそれは無理な

話である、

そう、日本プラスチックスの活動は僅か4年前後であったはずだから、昭和31年から長くて35年

までの4年間であったと推測される、それは業者名簿の昭和36年版には載ってないからである、

ひょっとしたら、もっと短くてノーチラス号を発売後はすぐに活動をやめてしまった可能性が強いの

ではないだろうか、

本気で日本プラスチックスのことを調べようと思ったのが先月の月末頃、そして全体像が解明でき

たのが昨日なので5日間要したことになる、アッ、間に一日休止した(笑)この期間が短いのか長

いのかはわからない、まだ当時の関係者を探し出し(まだお元気な方が存在すれば)調査すれば

よいが、お元気でいらっしゃる可能性は極めて低いだろう、あとは東大阪地区当たりでゼロ戦のプ

ラスチックモデルが突然出現することを祈るのみである、

それでは、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70792185.html からの続きを、

順を追って書いていこう、

日本プラスチックスの東京支店の存在を電話番号簿で調べてみよう、


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この3冊で見ても見当たらない、

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ない、ない、(株)日本プラスチックの名がない、それらしき会社もない、電話番号簿にも載ってない

のか、ついに、電話番号簿でも日本プラスチックの存在が確認できないのか、

しかし、ちょっと待て、今でこそ電話番号簿はほとんど使われることもなくなった、

が、昔の電話番号簿の存在というものは今とはまったく違っていた、そう、昔の電話番号簿は自分

の存在をPRする媒体でもあった、今とは違って個人情報がどうのこうのというややこしい時代で

はなかった、電話番号簿に載るということはある意味ステータスでもあった、個人でも商売してい

る所は別として、電話を設置している家庭は少なかった、そして電話局も契約している先について

は全てこの電話番号簿に載せていた、

だから、電話を設置していながら電話番号簿に載っていないということはまづありえないだろう、

ということは、あと考えられることとしては、そう、ひょっとしたら他の名義で電話を契約していたの

かもしれない、日本プラスチックの名ではなく、他の名義で、

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それならば、再び昭和33年の電話番号簿で調べてみよう、

日本プラスチックの名ではなく、同じ住所、同じ電話番号のものが載ってないか、

一生懸命探していたら、アッタ!! 同じ住所、同じ電話番号のものが、そしてそれが個人名義

で、 なぜ日本プラスチックの名でなく個人名で契約してあったのか、それはわからない、

大阪の本社の電話も自社の電話ではなく、某会社の電話番号であったのである、 <続く>










いろいろな資料を揃え過去のことから

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模型の歴史を調べるためにはいろいろな資料を揃えなければならない、

模型に直接関係のある資料だけを集めても、ハッキリ言って僕に言わせればお粗末な結果しか

出てこない、そしてただ単に人様の受け売りの結果しかでてこない、

いろんな資料を揃えて、その時の時代背景だとか、風習、どのような物の考え方だったのか、そ

れらのことも知らないと、とんでもない結果が出てしまう、

まあ、なんどもしつこく言っているが、だから模型の歴史というものについてはお粗末な定説がま

かりとおっている、マルサンのことについてもしかり、その物語もまっかな大嘘、嘘で脚色されたも

ので本当にお粗末なものとなっている、これに反論があるなら僕と議論したらいい、一つ一つ論破

してあげよう、マブチモーターもしかり、まんだらけの例のリりパットロボットの件についてもしかり

素人の僕ならまだ仕方ないが、プロの者が堂々と自分とこの商品に都合のいいように大嘘で固め

て商売しているのは本当に情けない、はたしてこれらのことが彼らの勉強不足によるものなのか、

それとも意図的なものなのか、ひょっとしたら、自分の「見たいものに見えてしまった」ものなのか、

ま、それらはさておいて、

例えば、明治維新の歴史を勉強しようとする時に皆は明治元年から勉強するだろうか、

まあ、それはないだろう、少なくとも幕末あたりから勉強しないと歴史の流れ繋がり等がわからな

いだろう、

これは模型の歴史を勉強する時も同じだろう、ところが、そもそもその出発点が違っている、

プラスチックモデルの歴史を勉強する際も出発点が皆は違っているのである、

そうその出発点がマルサンを起点にしているから、お粗末なお勉強の結果となっている、

そのずっと前の時代から勉強しないといけない、だからマルサンの大嘘の広告を鵜呑みにしてし

まう、僕の場合は大正時代を起点にしている、そうすればその時代背景やら、物の考え方、思

想、もわかる、大正時代から昭和に入り戦時中、戦後のこともわかり、プラスチックに限って言え

ば、プラスチックはいつ頃現れたのか、戦時中は金属製に代わりプラスチック素材の航空機も考

えられていたこともわかり、戦後すぐにプラスチック加工業者、金型業者も全国に数えきれないほ

ど存在していたこともわかり、マルサンが国内初のプラスチックの金型を開発した云々は大嘘だと

いうこともわかり、あのノーチラス号を売り出した時、「こんな残骸みたいな物、部品が揃っている

かどうかわからない物」と言われ、まったく売れなかったという苦労話も怪しいとなるだろう、

そりゃそうだろう、プラスチックモデルが現れるまでは木製キットである、木製キットはそれこそ残

骸の部品である、部品が揃っているかどうかもまったくわからない、それらはよく売れていたのに

プラスチックモデルは残骸みたいだから売れなかったというのは不思議な話である、

プラスチックモデルは部品がちゃんとライナーに付いていて欠品はすぐにわかる、木製キットに比

べて部品の数も少なく組み上げるのも木製キットと比べてそれこそ簡単にできる、

敬遠されて売れなかったというのは僕としては怪しい話となってしまう、

実はそのマルサンのノーチラス号は発売直後から好意をもたれていたらしい、今後の展開が楽し

みだとも言われていたらしい、、というよりも、プラスチックモデルその物に期待が込められていた

嘘だと思うなら次の日本模型新聞の記事を、マルサンがノーチラス号を発売して数日後の記事で

ある、

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               (昭和34年1月15日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

これくらいにしておこう、

さて、資料として破格の値段で入手したのが、次の少年倶楽部の本である、

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もちろん、昭和7年1月~12月までの12冊揃いの復刻版であるが、資料として使うには一番いい

これがたったの1,000円で入手できた、送料入れても1,620円、超格安、

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中の広告欄が参考になる、例の朝日化学玩具の製品の広告等も載っている、

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昭和7年にはすでに付録として、ロボットが付いていたこともわかる、

あらゆる方面から資料は集めなければならない。

ちょうどその頃、業界では、

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日本プラスチックスの続を書く前に気になっていたことを書いておこう、

ニチモがゴム動力の伊号潜水艦を発売したのが昭和34年の2月頃、続いて日本文化教材(株)が

ゴム動力のノーチラス号を発売したのが同じ頃、ただそのノーチラス号のプラモデルが日本プラス

チックスのノーチラス号そのものであることは皆がご存じのとおりだろう、その日本文化教材が発

売したノーチラス号についてはhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihon-p2.htm (このサイトを参照あれ)

その後、日本プラスチックスの活動はまったく感じられない、おそらくそこで停止した可能性が高い

だろう、

実は、僕が以前から気になっていた大阪の模型問屋がある、その名は「日本文化教具(株)」とい

う、まあなんともマギワラシイ社名だろう、当時は関西では大手の問屋であった、

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なぜ気になっていたかというと、その日本文化教具(株)の会社は僕の銀行入行店の真向いに存

在していたのである、(僕が入行したのは昭和43年、もちろんその時にはその会社はなかった)

そして、日本文化教材とたった一字違いの会社、言葉で聞いたらほとんどの人は同じ会社に聞こ

えるだろう、そしてもう一点気になるのが昭和35年に入ると現れないのである、そう今まで毎号の

ように業界紙の広告等に載っていたその会社が突然現れなくなったのである、考えられることは

消滅したということだろう、 なぜ?

その日本文化教具(株)の所在地であった勝山通りから日本プラスチックスまで車ではざっと20分

もあれば充分だろう、勝山通りを15分ほどそのまま直進して左折して5分ほどで日本プラスチック

スに到着する、日本プラスチックスとしては関西大手の日本文化教具(株)の問屋ルートで販売し

てもらったほうが一番いい方法だろう、

そして注目すべきはちょうどその頃、東京の日本文化教材は大阪支店を開設するために強力な

営業活動をおこなっていたのである、おそらく日本文化教具(株)の存在が目障りだっただろう、社

名もそっくりであるし、そして、昭和33年6月に開店、日本文化教具松屋町営業所と同じ町に、

そして、翌年4月頃、日本文化教材は日本プラスチックスそのもののノーチラス号を発売する、

不思議なことに、そのノーチラス号を発売したことは社史には何も触れられていないし書かれてい

ない、普通なら、会社第一号のプラモデルだから記念すべき案件として載せるはずだが、

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その後の日本文化教具(株)と日本プラスチックスの消息は不明、

これは単なる偶然だろうか、こんどその日本文化教具(株)のことを調べてみようと思っているが。

そうそう、それからその頃、日本文化教材では東京の深川工場で原因不明の火災に遭っている。

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               (昭和33年3月10日号 日本教材新聞)

日本プラスチックの謎に迫る、

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その前に、実は日本プラスチックスの関係者の電話番号まで特定できた、その秘密工場であった

所の社長さんの電話番号である、ただ、すでに時遅し、7,8年ほど遅かった、その電話番号は、

2,007年のデータだったのでもう亡くなられたのだろう、そうだろう、お元気であれば少なくとも

100歳近くにはなられるはずなので、

かけてみたら当然のことながら「現在は使われていません」のアナウンスが、

あと数年早かったらご本人と連絡がとれたかもしれない、

しかし、まだまだ諦めてはいない、そこには今も ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ (これはまた後日)

話を戻して、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70798275.html からを続けよう、

さあ、(株)日本プラスチックの名では電話番号簿には載ってないので、あと考えられるのは他の名

義で契約しているのかもしれない、

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そこで、まづは昭和31年の電話番号簿から住所と電話番号が同じ契約者が載ってないかと探そ

うと思ったが、コレはとりあえず後回し、なぜなら、ゼロ戦のプラスチックモデルはまだこの頃は発

売されていないので載ってないだろう、

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この昭和33年の分から探すのがいいだろう、同じ電話番号を必死?で探す、

契約しているなら絶対にその電話番号があるはずだ、

ついに、あった!! 住所と電話番号が同じ契約者が、

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そう、この濱田さん、東京支店と住所が同じ、電話番号も同じ、

この濱田さん、一体どなた? ここで考えられるのはおそらく日本プラスチックの代表者だろう、

それにしても、大阪本社も電話番号簿には載ってない、

しかし、業者名簿には本社もこの東京支店の電話番号も載っている、おそらく、個人名義で契約し

ているのだろう、それしか考えられない、

なぜ、個人名義で契約しているのだろう、この時点で考えられるのはただ一つであった、

法人名義で契約するには当然のことながら登記簿謄本と印鑑証明を付けなければならない、

それができないから個人名義でやるしかなかった、つまり会社の登記をしていないのではないだ

ろうか、ちゃんと設立登記をしていないと当然のことながら謄本も印鑑登録もできない、

この時点ではそう推理していたのである、

しかし、あるお方は日本プラスチックの謄本をとって調査していたとお聞きしていたので、早速、東

大阪に飛んだのであった、そう、法務局へ、はたしてそれが間違いなく日本プラスチックの謄本な

のか確認も兼ねて、

そうして法務局で1時間ほど待たされてとってきたのが、先に画像で紹介した閉鎖済みの謄本で

あった、ここで、僕は推理ミスを犯してしまった、実はその謄本を「見たいものに見てしまった」ので

ある、まあ、そのことにより今回の調査に影響はまったくなかったが、

先の記事で紹介しているように2か所の気になる箇所がある、

その箇所の一つが、この欄である、

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この欄の左側に、会社の設立の年月日 昭和31年2月11日、

そして次に、右昭和36年11月11日登記、   となっている、(このような表記は普通はない)

会社の設立日は登記を申請した日が設立日となる、そのことは当然わかっていたが、ここで僕は

「見たいものに見てしまった」のである、僕の頭の中には日本プラスチックは会社設立登記をして

いなかっただろう、という先入観があった、間違った推理をしていた、

会社は昭和31年2月11日に定款や発起人会議事録は揃えていながら、何らかの理由で正式に

設立登記を行わず、昭和36年11月11日にこれまた何らかの理由で慌てて登記申請を行ったの

だと、そのほうが僕が推理していたことには都合がいい、電話契約が個人になっていた理由とつ

じつまが合う、そう、まさに自分が「見たいものに見てしまった」のであった、(実際に極短な場合は

10年も過ぎて登記申請されるケースもあるらしい)、しかし、その場合でも実際に遅れて登記申請

した日が設立日となるので上記のような欄の表示にはならない、

しかし、後になって頭を冷やして見ると、まあ普通はありえない、いや絶対にこのような設立日と

登記日が異なっていることはありえないので、法務局の方に聞いてみたのである、

「この会社設立日と登記日が異なっているのはどういう意味ですか?」と、

すると、「う~ん、隣がその専門なの聞いて下さい」と、

隣のその専門の係の方に聞いてみると、「う~ん、ちょっとお待ち下さい」と、

奥の方で職員の方々が3人ほど集まっていろいろと話し合っている、すぐに回答がでない様子、

30分ほど待たされて出てきた回答が、法務局の統合したことの表示とのこと、

つまり法務局が当時3局ほどあり、それを2局に統合したのでその統合の表示とのこと、

それにしても、この表示では素人がみたくらいではまったくどのような意味なのか絶対にわからな

いだろう、せいぜい「どこどこ法務局より統合により再登記」としないかぎりわからない、

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この表示が統合されてきたという意味らしい、まあ、これも見ただけでは素人では意味不明

まあ、普通に読んだら昭和36年11月5日に日本プラスチックスが本店である布施市長堂2-90

より当管内(つまり管轄登記所内)に移転した、 なんだかよくわからない、

まあとにかく日本プラスチックスの謎を解く上で特に影響はなかったのでいいだろう、

僕の推理がちょっと間違っていたということがわかっただけでもいい、

つまり、日本プラスチックスはちゃんと設立登記を行っていたということである、

なのに、何で個人名義で電話契約をしていたのかは不明である、

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2件目の気になる欄がコレだろう、昭和49年10月1日、解散登記がされたということ、

簡単に説明すると、法務局では12年以上活動がない会社は休眠会社として職権でもって「みなし

解散」させて登記簿を閉鎖してしまうのである、

だとすると、どのようにしてその会社が活動しているのか休眠状態なのかを判断するのだろうか、

それは、変更登記で判断している、実際に活動していれば役員の変更やら、支店の増設やら、

資本金の変更、定款の変更、会社名の変更等々、いろいろあるだろう、その際は必ず変更登記を

しなければならないのでそれで判断している、

しかし、実際は変更がまったくない会社もあるだろう、そのようなこともあるので、

法務局は「みなし解散」登記の事務に入る前には必ずその旨を知らせる通知状みたいなものを発

送する、それに回答して返送すれば活動している会社として「みなし解散」することはない、

年金で例えると「現況届」みたいなものである、「現況届」を出さないと死亡とみなされる、

つまり、この謄本でいくと日本プラスチックスはその現況届を出さなかったということである、

おそらくすでに消滅していたであろうから、郵便が届かずに法務局にそのまま戻ってきたものと推

察される、


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そして、この欄の表示で東京の電話契約が濱田さんであることがわかる、

次に、東大阪の本社の場所を地図でもう一度見てみよう、

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この布施市長堂2-90 の場所である、

イメージ 10

そのピッタリの場所が「大阪化学研究所」 、まあ、当初この住宅地図を見た時からここだろうと

推測はしていた、ここが秘密の?工場だろうと、

おそらく、名簿に記載されている電話番号はここの「大阪化学研究所」の電話番号が使われてい

るに違いないと、

そう推理して、大阪市立図書館へ飛んだのであった、  <続く>


ついに突き止めた、日本プラスチックスの創業者を、

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事件の捜査でも、歴史の謎を解く時もある仮説を立てて推理していく必要がある、そしてそれを一

つ一つ潰してウラをとり追いつめていかなければならない、そして、人間はある瞬間にヒラメキと

いうのがある、そう、テレビでもよくその場面が出てくる、ある一言の言葉を聞いた時、ある物を見

た時、そして、ある事がある事へと繋がって見えた瞬間等々、

まあ、その現象が起こるためには四六時中その事が頭の中にないとそれは起こらない、

ところが、たった今あるヒラメキがあり、ひょっとしたらそうかもと思い調べてみた、

そのヒラメキとは、あの記事を思い出して欲しい、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70462245.html

今日も起きた瞬間から日本プラスチックスのことをいろいろと推理していた、もう頭の中は日本プ

ラスチックスのことで満杯なのである、(笑)

そういえばあの頃、「火星人」さんなる方がマルサンを痛烈に批判していたことを頭の中をよぎっ

た、なぜ、火星人さんは当時でもおそらく誰も知らなかったはずの日本プラスチックスのことを知っ

ていたのだろうかと、なぜ日本プラスチックスが日本初のプラスチックモデルのゼロ戦を開発した

ことを知っていたのだろうか、なぜそこまでマルサンのことを痛烈に批判したのだろうか、

考えられることははだ一つ、日本プラスチックスと知り合いだったのでは、あるいは、同業者仲間

であったのではないだろうか、ということである、


そこで、あらためて手持ちの資料で調べてみた、 当たり~!!

ヒラメキからわずか15分、  日本プラスチックスの創業者を突き止めた、

創業者とはもちろん日本プラスチックスの社長のことである、その社長さんの濱田さんの正体が

判明したのである、 その濱田さんの正体はなんと、 <後日へ続く>


北川さ~ん、子供の頃通っていたその火星模型店には日本プラスチックスのゼロ戦とノーチラス

号が大量に売れ残っていたはずですよ~、 (念のため火星模型店は日本プラスチックとは関係

ない、関係はないが実は〇〇だったはずである)




そこは秘密工場だったのか、

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「大阪化学研究所」がはたして秘密工場なのか特定させるために大阪市立図書館へ飛んだので

あった、

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その「大阪化学研究所」が布施市長堂2-90 の住所で電話番号が72-7637 であれば

そこが秘密工場だと特定していいだろう、

大阪市立図書館といえど、古い電話番号簿が何冊も揃っているわけではない、

その中で一番年代が近い昭和39年の電話番号簿で調べる、

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あった!!、 (資)大阪化学研究所、住所が合ってる、

ありゃ~、 電話番号が違っている、 ここは秘密工場ではなかったのか、

いや、絶対に僕の推理では秘密工場であったはず、そう、絶対に、

実は、日本プラスチックスは電話番号を変更していたのである、    <続く>

※ 現在もまったく同じ会社名が存在するも、その会社はまったく関係ないので念のため

(株)日本プラスチックスの創業者は、

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昨日の記事でも言ったように、(株)日本プラスチックスの創業者は突き止めることができた、

が、その件ついては後日紹介する、

それにしても、その正体のお方については驚きであった、

特に組織があるメーカーでもなく、タダの一個人であった、一体どのようにして研究開発していっ

たのだろう、しかも一体どのようにして機械等を導入していたのだろう、謎は益々深まるばかりで

ある、おそらく、東大阪近辺では多くのゼロ戦やノーチラス号が出回っていたはずである、

おそらく、僕よりちょっとだけ高齢の方でその近辺に住んでいたら、当時はそこでゼロ戦やノーチラ

ス号を購入したはずである、ひょっとしたら、東大阪内にはまだどこかにゼロ戦やノーチラス号が

眠っているかもしれない、もちろん、ご本人はすでに亡くなられているであろうから、せめてご家族

の連絡先が判明すればいいのだが、それも無理な話だろう。

そこは秘密工場だった、

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電話番号が違っている、しかし、絶対にここが秘密工場であるはずだ、

実は前日に次の情報を、あうとぱあんさんから、いただいていた、

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特に目新しい情報はないように見えた、しかし、よ~く見て欲しい、

電話番号が、72-0290 となっている、

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そう、この電話番号簿と住所、電話番号が同じなのである、

市外局番が違うのは後に3桁になったため、(この電話番号簿は昭和39年版)

イメージ 2

僕の名簿は昭和36年分、考えられるのはその昭和34年以降、日本プラスチック専用の電話番

号に変更したということだろう、なぜ変更したのかはこれからの調査で判明させるしかない、

さあこれで秘密工場は特定できた、ではなぜ日本プラスチックスは自社工場等を持たなかったの

か、いや持てなかったのだろうか、それは後日述べるとして、次は秘密工場となったその「大阪化

学研究所」のことである、再び東大阪の法務局に飛ぶことになったのあ~る、 <続く>



その大阪化学研究所は、

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さあて、秘密工場であった所が、当時の「大阪化学研究所」であることは判明した、

なので、今度はまたまた東大阪の法務局へ飛んでその謄本をとったのであった、

もちろん、今はこの会社は消滅している、

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住所は東大阪市長堂2-90 と同じなので間違いない、

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ヴィスコイド応用製品といわれても僕はよくわからない、

後に2番以降の業務を追加登記したのだろう、

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長堂2-90 は旧住居表示であったが、謄本では平成3年9月13日に新住居表示がされてい

る、それが現在の住所である、が、一応その住所欄は目隠しをしておこう、

そこで、その住所と社長の名前で検索してみた、

すると、出たあ~!! 住所でポンでヒットしたあ~!

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そう、まさしくこの電話番号、社長の個人名も謄本の名前と合致している、

イメージ 5

この電話番号とピッタリ、

そこで電話をかけてみた、  「この電話は現在使われていません」のアナウンスが、

2,007年のデータなので、もう亡くなられたのだろう、7、8年遅かった、

しかし、調べてみるとそこにはまだ、おそらく家族の方だろう、いらっしゃるようなので近日中に現

地へ行ってみようと思っている、 が、はたしてどうなのか、

さて次が、一番知りたいところの日本プラスチックの社長は一体どのような方だったのか、というこ

とだろう、これを知ることはもう不可能かと諦めかけていたのだが、

そう、まさにヒラメキである、先の記事にも書いたようにあることが一瞬頭の中をよぎったのであ

る、あの十三の近くで「火星模型店」の店主の多田さんのことがヒラメイタのであった、

繰り返すが、なぜ多田さんはマルサンのことを当時業界新聞で痛烈に批判していたのか、

なぜ多田さんは当時でもまだ誰も知らなかったはずの日本プラスチックのことを詳しく知っていた

のか、なぜ多田さんは日本プラスチックスが日本で初めてプラスチックモデルのゼロ戦、ノーチラ

ス号を開発し発売したことを知っていたのか、

考えられることは一つ、知り合い、友人、仲間だったということだろう、それで細かく開発の段階か

ら発売に至るまでの経緯を詳しく聞いていたのだろうと、

ひょっとしたら、同じ業者仲間だったのでは、

それで今度は日本プラスチックスの会社のことではなく、その社長の濱田さんのことを調べてみた

のであった、  <続く>




日本プラスチックスの社長の正体は、

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毎日、毎日、日本プラスチックスのことについて書き連ねているが、まだまだ続くのでご承知おき

いただきたい、昨日も現地へ飛んで調査を重ねた結果、また新しい情報を手に入れた、

そう、捜査にいき詰まったら現場へ戻れ、というアレである、初めて現場へ立ってみた、

現場とは「大阪化学研究所」のことである、もちろん、大阪化学研究所は今はもうない、

関係者も誰もその近辺にも住んではいない、

しかし、、また重要な情報を手ににしたのである、そしてこの場所で日本で初めてプラスチックモデ

ルを開発することができた理由がよくわかったような気がしたのである、

実は、その道の専門家だったのである、そう、合成樹脂関連の専門家であった、

おそらく、それが最後の砦?になるだろう、そこへ辿りつけばまづ全ての謎が解けるだろう、

辿りつけなければ謎を解明するのはもう不可能になるかもしれない、(これらの記事は後日)

そこで、前の記事からの続編に入ろう、

日本プラスチックスの社長、つまり創業者は一体どのような方だったのか、

謄本に記載されている、次の住所の当時の住宅地図を取り寄せて調べてみた、

イメージ 1

布施市下小坂693番地  である、

その当時の住宅地図がコレ、

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まあ、当時の地番はちゃんと連なっていない、もうあちこちへと飛んでいる、

693番地がどこなのかよくわからない、全体を一つ一つ「濱田」さんを潰していくも濱田さんの表

示はない、まあ、普通ならここで濱田さんが載ってないということで諦めるところだろうが、

ちょっと待て!!僕のヒラメキは同業者仲間であった、そう、おそらく個人名ではなく、住宅地図に

は店舗名で載っているのではないのかと、そう、模型店の名前で、

イメージ 2

ところが、その何々模型店というのはどこにも載ってない、

そこで、目を付けたのが、この「東京堂」という店の名、そう、昔は東京に憧れていたので模型店で

も時計店でも本屋でも、とにかく東京堂というのが流行った、

この地図は昭和34年のもの、よ~し、今度は昭和41年頃の地図をとりよせて調べてみようとなっ

たのである、推理に次ぐ推理である、     そうしたら、  <続く>

日本プラスチックスの社長の正体は、

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前頁からの続きの前に、今の調査結果を知らせておこう、実は最後の生き証人とも言える方まで

たどり着くことができた、あとは、その方と連絡が付くかどうかの段階に入っている、

おそらくその方は、あの時のものがまさか日本初に開発されたプラスチックモデルということはご

存じなかったことだろう、その方は、合成樹脂関連についてはエキスパート中のエキスパートであ

る、今はただその方と連絡が付くかどうか、ジッと待っている状態である、

それでは、前頁からの続きに入ろう、

その「東京堂」が模型店であったのかどうか確認するために、今度は昭和41年頃の住宅地図を

とりよせて調べてみたのである、


イメージ 1

すると、アッタ~!! この地図は見やすい、ちゃんと地番の693の表示がある、

その地番に該当する「東京堂」は模型店であった、

イメージ 2


さてさて、次はこの「東京堂模型店」は誰が店主だったのだろうか、それが日本プラスチックスの

濱田さんだったらピッタシカンカン である、

そして次に当時の模型業者名簿で調べてみたのであった、

「東京堂模型店」の店主が濱田さんだった、

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そこで、その「東京堂模型店」の店主は誰だったのか知るために、当時の業者名簿で調べてみた

のである、すると、あった~!!

イメージ 1

住所も同じ、東京堂模型店が載っている、しかも店主が濱田さん、

そう、日本プラスチックスの社長は「東京堂模型店」の店主の濱田さんだったのである、

おそらく、濱田さんと例の火星模型店の多田さんは同じ業者仲間の友人だったのだろう、

イメージ 2
             (これは当時、火星模型店が箱の中に入れていたアフターサービス券、北川さん提供)

それにしても、濱田さんと「大阪化学研究所」との接点は一体何だったのだろうか、

そこで、現場に飛んでみたのであった、その現場とはもちろん、「大阪化学研究所」である、
                                                   <続く>


現場へ行き、現場に立つ、

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続きの前に、現在の状況を、最後の生き証人の方に辿りついたが、なかなか連絡先を知るのが

困難な状況となっている、ここまで辿りついたのに、う~ん、まあ、昔ならすぐに判明するところで

あるが、今は個人情報だのなんだのと、それといろいろと問題があって ・ ・ ・ ・

まあそのようなことは最初から想定済みではあったが、(それらについても後日の記事で)

それでは、前頁からの続きを、

捜査に行き詰まったら現場に戻れということわざ?があるが、それに習って現場に飛んでみた、

イメージ 1

ここが、プラスチックモデルの発祥の地、すでに空きビルとなっており誰も住んではいない、

この地に「プラスチックモデル発祥の地」 と記念碑を建てたい(笑)

イメージ 2

おお~、なんと、「大阪化学研究所」のプレートが未だに掲げられている、

一体、そのご家族であった内〇さんはどこへ行かれたのだろうか、

そして、そのご家族である内〇さんは、どのようなお方なのだろうか、

そこで、刑事もどきに聞き込みに入ったわけである、       <続く>


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