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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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濱田さんが影響を受けた人、

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〇〇〇〇工業さんの取材を終えたら次はOS工業さんへの取材である、

そこで新たにわかったことは、

日本プラスチックの濱田さんは河内市(現東大阪市)に工場を持っていた、

そのことは、すでに調査済みでわかっていたが、

なんと、そこでは100人もの従業員を使っていたという、このことは濱田さんがご存命の頃よく聞いていたとい

う、まあ、大げさな話を、と甥っ子の社長さんはそう思っていたらしい、冗談だろうと思っていたらしい、

ところが、まさに奇跡みたいなことが発生していた、

最近の話で、甥っ子の社長さんの知り合いの方がとんでもない話をしたという、

社長さんが日本プラスチックの話をしたところ、なんとその知り合いの方がその隣の工場で働いたことがある

と言ったというのである、そう、高校生の頃、隣の工場でアルバイトをしていたのだという、

その工場というのが、http://www.towa-chemical.com/

そして、その会社の隣の大東化成の住所が日本プラスチックの登記簿上の本社の住所なのである、

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この地図の「大東化成工業」の左隣の会社である、濱田さんは大東化成の敷地の中に工場を建てていたと思

われる、

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現地に行って今はどのようになっているか確かめてみようと思ったが、今はストリートビューなるものがあって

現地に行かなくても大体のことがわかる、便利になったものだ、

その方の話によると、濱田さんはその会社の当時の社長さんと懇意にしていたという、

おそらく、その社長さんの影響を受けてプラスチックの世界に入り込んだのではないかと、

早速、その会社に電話をして問い合わせてみた、残念ながら会長さん(当時の社長さん)は10年くらい前に亡

くなり、当時の社員の方々も退職していないのでよくわからないと、

濱田さんは本当に100人もの従業員を使っていたのか、その工場では一体何を作っていたのか、

それらについては奥様に只今確認してもらっている、

ではなぜ、高校生の頃アルバイトをしていたその方がハッキリと記憶していたのだろうか、

それは、もう笑ってしまうというか、何と言っていいのか、それなら絶対に記憶に残るだろう、

実は、それがここでは書くことができないのである、僕は書きたいが書けないのが悔しい、

ニヤリとする出来事、う~ん、しかし、これを書いたらアウトだろう(笑)

これも直接ならコソッと教えてあげます、ただし絶対に秘密にしてくれるなら(笑)

濱田さんは細々とではなく、かなり大がかりな工場でプラスチック製品を作っていたのは事実だろう、

つまり、昭和31年10月頃に日本初のプラスチックモデルのゼロ戦を発売するまでには、その大きな工場でプ

ラスチック製の玩具類を製造していたのだろう、濱田さん若干25、6歳の頃である、

甥っ子の社長さんも生前の伯父の濱田さんからは、若い頃のその派手な生活ぶりをよく聞いていたらしい、

高級車を乗り回し、心斎橋界隈を肩で風を切って歩いていたという、

しかし、その濱田さんもすでに東京でハマライト化学研究所を立ち上げていた兄の亨さんと合流するために、

東大阪の工場等を引き払い最終的には昭和35年には兄の亨さんのハマライトからは分離して今のOS工業を

立ち上げたのである、大阪化学研究所の工場を間借りしてプラスチック製品の開発を始めたのが昭和28年

頃、濱田さん若干23歳、その3年後には大きな工場を持ち日本初のプラスチックのゼロ戦を発売、その翌年

にはノーチラス号を、その後戦艦大和を(これは現物はまだ未確認、)、そして木製模型メーカーがプラスチッ

クモデルに参入する際には多くのメーカーと関わっていた、その後プラスチックモデルからは撤退して今のOS

工業を立ち上げた、プラスチック製品の開発から数えてその期間はわずか7年間弱、まさに疾風のように現れ

て、疾風のように去っていく、月光仮面のようである、そう、過去を振り返らないみたいに、

兄の亨さんのハマライトはその後もしばらくは模型業界とは関わっていく。

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                          (濱田さんがOS工業を法人組織にした昭和41年、濱田さん36歳の頃)














表に出せない事実を知った、

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東京での取材で仕入れたネタをもとに片っ端から電話をして調査していたら、

表に出せない事実を知った、

マルサン物語等にはそれらのことは何にも出てこない、自分らの都合のいいように書いている、

ただ、このことを絶対に口外しない約束なので僕は公開することはできない、もちろん、直接でも口に出すこと

はできない、

そう、あちこちと片っ端から電話をしてお聞きしていたら、その中の方で絶対に口外しないことを条件に、(その

約束の証として僕の氏名、住所、電話番号、今までの調査内容等を説明、来年の出版の際にはそれをお送り

する)、あることを教えていただいた、

実は、それを教えていただいた瞬間に全ての謎が解けてきたような錯覚に陥った、

では、なぜ僕に教えてくれたのか、それはそれなりの理由がある、まず、僕がド素人でタダの趣味で真実のプ

ラモデルの歴史を追跡していること、特に今はマルサンの嘘を調査していること等々、(最初は非常に警戒さ

れてしまった、まあ20分くらい説明等に要した)

これ以上言うとわかってしまうので言えない、

何度も言っているように、マルサン物語は捏造したものである、と、あらためて自信を持って言えるということで

ある。

アッ、それから大事なことをもう一つ、マルサンを当時からよく知っている〇〇〇〇工業さんはじめ数人の方々

に聞いてみた、あの金型職人のお方を当時知っていたか、もしくは今知っているか、と尋ねてみた、

ところが、知っていた、知っている、と言う方はゼロだった、 皆、「知りません」

エッ、あれほどマルサンというと絶対にあの金型職人のお方が登場するのに、今も、・ ・ ・ ・ ・ ・

う~ん、なぜ、これは一体何を意味するものだろう、 皆で推理していただくしかないだろう(笑)。

※ ずう~っと、今までマルサン関係者達から反論等があるのを期待して待っているのだが一向に来ない。
   
   
  




プラスチックモデルの開発は難しいものではなかった、

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マルサン物語等ではプラモデルの開発が日本で初めての試みでプラスチックという素材自体がまだ未知の世

界であったと、いかにも苦労したかのような嘘を書いているが、そもそもプラスチックモデルの開発自体がそれ

ほど難しいものではなかった、

過去の記事にも書いているように何度も繰り返すが、

昭和29年の東京の電話帳を見ても数えきれないほどのプラスチック業者、金型成型業者が載っている、

もちろん、その頃には射出成型機もある、実際にそれで製造した玩具類も販売していた、

すでにその頃にはプラスチックモデルキットを開発する下地は揃っていたのである、


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これらは昭和34年3月現在の東京の職業別電話帳、これが10数頁にわたって載っている、もう数えきれない

その一部を載せてみた、マルサンがノーチラス号を発売する以前にはすでにこのような業者が数えきれない

ほど存在していたのである、ひょっとしたら、日本プラスチックがゼロ戦を発売する以前にこれらの業者が駄玩

具みたいなプラスチックモデルを発売していた可能性もあるといえるのではないだろうか、

だから、あのようなマルサンの苦労話はありえない、ましてやデッケル社の当時としては最優秀な機器類を揃

えていてそのような苦労話はありえない、仮に苦労していたとするならばよっぽど腕が悪かったのだろう、

その証拠として、ド素人だった濱田さんが何の資金もなく自ら機器類を揃え、合成樹脂というものを勉強、研究

し、アッと言う間にやり遂げたことが最大の証拠だろう、

濱田さんは木製模型が全盛の頃に、その素材としてプラスチックに目を付けたところが偉い、

そして、プラモデルが流行り出した頃にパッと撤退してその材料関連に変更したところが偉い、

過去の記事にも書いているように、あるお方の証言によるとマルサンは濱田さんがゼロ戦のプラスチックモデ

ルを問屋に売り込んでいるところを見ていたという、それをヒントにノーチラス号を売り出す時の参考にしたと

いう、それが事実だとしたら当然のことながら濱田さんが発売したノーチラス号も知っていたのは間違いない

だろう、そう、東京の三ツ星商店にはそれが沢山あったので、東京の模型店でも売っていただろう、

だから、それに刺激されてマルサンはノーチラス号にしたのかもしれない、そう、技術がないので動かないレベ

ル社のノーチラス号のコピー製品を、そして、日本初のプラモデルとハッタリを効かして、

ただ、そのノーチラス号もさることながら、同時発売した哨戒艇等々、誰が金型を作ったのかそれを今となって

は断定することは困難である、ただ、推測はできるが。


小川さんの死、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72001874.html の続き、

翌日から車でまず病院へ行って小川さんを見舞う、

「小川さ~ん、来ましたよ~、」

「明石さん、ありがとう」 と、弱弱しい声で小川さんはうなずく、

ご兄弟4人も交代で24時間付き添っているという、

「あともっても、1、2日くらいでしょう」 と、「すぐにプラモデルは引き取って下さい」

ということで、そのまますぐに車で小川さんの自宅まで向かう、

確認すると、その在庫の多いこと、しかし、特にレアな物はほとんどない、キャラクターの再販物がドッサリ、

とりあえずは車に積み込んでそのまま自宅へ帰る、しかし、保管場所があるはずがない、

急いでネットでレンタル倉庫を探して契約してそのまま積み込んできたプラモをレンタル倉庫にぶっ込む、

またすぐに大阪に引き返しプラモを満載して帰ってきて倉庫に積み上げる、まあ、一日2往復が限界、

3往復したところで倉庫が満杯、もう一つレンタル倉庫を借りた、

3日目に病院に見舞いに立ち寄った時、小川さんは気持ちよさそうにスー、スー、と寝息をかいて眠っていた、

起こすのも悪いので小川さんのその寝顔を見てすぐに残っているプラモの引き取りに向かう、

結局は小川さんの生前の顔を見るのはそれが最後となってしまった、

その翌日、また引き取りに向かう途中の車の中で小川さんの死亡の連絡があった、

通夜の時、小川さんのお顔を見せていただいた、安らかなまるで眠っているような小川さんのお顔であった、

「小川は明石さんに会って非常に喜んでいました、その明石さんに残っているプラモデルを引き取っていただ

本人も安心したことでしょう、本当にありがとうございました」

しかし、まだあと1往復分プラモの在庫が残っていた、

その通夜の翌日も車で向かった、         <続く>


プラスチックの材料屋は儲かった、

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日本プラスチックの濱田さんは当時プラスチックの原材料も販売し大きな利益を上げていたという、

おそらく昭和28年頃には始めていたものと思われる、

そう、阪大の応用化学を専攻しその道のエキスパートであった大阪化学研究所の内田義勇さんの工場を間借

りして始めたのであった、奥様の証言によれば原材料の仕入れは四日市の業者から仕入れていたという、

そのプラスチックの世界に入り込んだキッカケは、それは先日記事にも書いているように化学会社の社長

の影響を受けたものと思われる、とにかく濱田さんは人をひきつける魅力と先見の目があったという、

そのプラスチックという素材の将来性に目を付けたのだろう、そして東大阪という環境にも恵まれ、良き指導者

にも恵まれていたのである、

さて、プラスチックの材料でそんなに儲かったのだろうか、次に参考になる日本模型新聞の記事がある、


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                      (昭和41年9月12日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

初めの頃は儲かったようなことが書いてある、何度も繰り返すが、あの金型職人のお方が昭和32年頃、レベ

社のノーチラス号を見た時にプラスチックの素材自体が未知の世界で、一体これは何だ!!というくだりは

ったくの程度の低い真っ赤な嘘であることは明白である、その他の証言にもいろいろと矛盾がありデタラメ

であることは今までにも書いてきたとおりである、

ハッキリ言って、ノーチラス号の金型をご自分で製作されたかどうかも非常に疑わしい、100歩譲って仮に

関わっていたとしてもほんのちょっとの補助的なものだろう、

そもそもが、その話がそのお方ただ一人の証言?によって成り立っている、それに直接関わった方々はもうこ

の世にはいらっしゃらない、そう、本当のことは聞けない

何と言っても僕が取材等で聞いた限りでは、皆がその方を知らない、とおっしゃっている、そう、マルサンをよく

知っている〇〇〇〇工業さんやその他のお方も 「知りません」 と、一体これはどういうことだろう、

う~ん、あれほど有名なお方を(笑)、当時も知らない、今でも知りません、

その 「知りません」 という言葉でもただ単純にそのまま受け止めてはいけない、

そう、「知りません」 という意味には、本当に知らない場合と、知ってても知っていると言いたくい、つまり

話題にしたくない、という場合がある、

話を戻して、その頃の話として、

濱田さんの甥っ子であるOS工業の社長さんは、濱田さんから当時の派手な生活ぶりをよく聞かされた

という、そう、高級車を乗り回し、心斎橋界隈を肩で風を切って歩いていたということはすでに記事にも書いて

いるとおりである、しかし、「俺が日本で初めてプラスチックモデルを開発し発売したのだ」 ということは一度も

聞いたことがないという、なぜなのか、今となってはわからない、

何度も繰り返して言うが、濱田さんが東大阪から東京に進出する際にゼロ戦と戦艦大和の金型を大阪電気科

学館にわざわざ寄贈したということは、日本初だという認識はあったのではないかと僕は推測している、

しかし、そのようなことは濱田さんにとってはどうでも良かったのかも知れない。



お知らせ、

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あらためてお知らせを、

真実のプラスチックモデルの歴史については、某雑誌社より来年の「プラモデル60周年」に合わせて来年その

記事が掲載されることになっているので、とりあえずお知らせしておきたい、

どういう形でどなたが執筆されるかは今のことろ詳しくは言えません、

「アッ、と驚くタメゴロー」になるかも。

※ 「プラモデル60周年」というのは模型業界が言うところのマルサン説から60周年ということ。

ジョイハウス、最北端に眠る

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結局は7回往復したことになる、ちょうどその頃は阪神高速は途中の区間が工事中で途中から一般道を走

る、まあ、一日2往復が限界であった、

7回目の最終日に引き取りに行った時に、ご兄弟が部屋の整理をされていた、

その部屋は小川さんと当時の通販時代の頃を語り合っていた部屋である、

そこでチラッ、と引き出しの中にある物を見つけた、それが次の物であった、

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「アッ、このゴム印、小川さんの形見としていただいていいですか」

「はい、もちろんいいですよ、ぜひそのようにお願いします」

帰り際、車のバックミラーを見るとご兄弟の方は僕の車が見えなくなるまで手を振っておられた、

その数日後、ご兄弟は後片付けが済んだあと稚内へ帰られた、

何と言っても稚内は遠すぎる、ご兄弟の方々とはもう2度とお会いすることはないだろう、

しかし、11月3日、小川さんの命日を忘れることはないだろう、

今、「ジョイハウス」小川さんは、日本最北端 稚内に眠っている。


※その小川さんの命日は日本プラスチックの濱田さんの命日でもある、その濱田さんの誕生日は2月8日、そ

の日は僕のの命日でもある、そして去年の2月8日はOS工業さんが会社のホームページを開設した日であ

る、特に意識せずにたまたまその日にホームページを立ち上げたのだと甥っ子の社長さんは言う、

立ち上げたあと、そういえば今日は伯父さんの命日だったと気がついたという、

そのホームページにより僕は濱田さんに辿り着くことができた、何か不思議なめぐり合わせというものを感じて

しまうのである。




レベル社のプラモデルを生産か、

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すでに読まれた方もいらっしゃるとは思うが、岸川靖さんの著書で「日本懐かしプラモデル大全」という本があ

る、僕も大分前に読ませてもらっているが、その中で次のようなくだりがある、

「昭和28年、東大阪の町工場でレベル社のキット生産を開始していた、・ ・ ・ ・ ・ そのため米国より射出

成型機、金型等が持ち込まれ輸出用の生産が行われていた」云々、

これを読んだその時は、ふ~ん、なんか日本プラスチックのような、でもないようなことが書いてあるな~、

と軽い気持ちで特に気にも止めてなかったのである、

ところがである、今回のOS工業さんの取材の時にハッ、とするような証言があったことはすでに記事にしたと

おりである、

そう、濱田さんは生前に東大阪の工場で100人くらいの従業員を使ってプラモデルを製造していた、と言って

いたということ、甥っ子の社長さんは冗談だと思っていたらしいが、

そして、もう一つの証言で、

OS工業の社長さんが知り合いの方にたまたま伯父さんの濱田さんが昔、日本プラスチックという会社でプラ

モデルを製造していた、ということを話したら、なんとその知り合いの方が、高校生の頃その日本プラスチック

の工場の隣の会社でアルバイトをしていた、と話されたという、

なぜその方が昔の日本プラスチックのことを記憶していたかというとその話が面白い、

まあ、名前を出さなければいいだろう、え~い、言っちゃおう、

〇〇会社の〇〇さんが日本プラスチックの女性従業員を愛人にしたのだという、まあ絶対に記憶には残るだ

ろう(笑)

それから、濱田さんは当時の頃を高級車を乗り回し、心斎橋界隈を肩で風を切って歩いたものだ、と自慢気に

よく話していたという、

こうなってくると、そのレベル社の生産のことが現実味を帯びてくる、事実ではないかと思っている、

今までの謎がまず金型、射出機成型等などの機器類の調達を当時どのようにしたのかであった、

プラスチックの製造方法等は大阪化学研究所の内田さんが指導していたのでそれで解決するが、

その機器類をどのように調達したのかが謎であったが、米国から持ち込んだのであれば謎は解決する、

大阪化学研究所の内田さんの証言でもどこからは知らないがいろいろな工作機械等をうちの工場に持ち込ん

でいた、と証言なさっている、

濱田さんの生前の話では、工場は100人の従業員を使っていたということなので、レベル社の輸出用のプラ

モデルを生産するとなるとそれくらいの大がかりな工場は必要だろう、

もちろん、金型等の技術もアメリカの金型を参考にすぐに習得できただろう、

あとは、濱田さんの奥様にその工場で何を作っていたのか従業員は何人ほどいたのか、機器類はどこから調

達したのか、等々を奥様にお聞きすれば判明するかもしれない、

仮にそれが判明した場合、まだ謎が残る、

レベル社との接点は何か、

なぜ濱田さんはその後数年で東大阪を引き払って東京へ進出したのか、

甥っ子の社長さんが仰るには、伯父は、「俺は裸一貫で東京に来たんだ」と、言っていたという、

東大阪でプラモデルを生産していたということと、派手な生活ぶりは聞いていたが、その具体的なことは何も

聞いていないし、何もおっしゃることはなかったという、

その東大阪では一体何があったのだろうか、しかもその活動期間はわずか5、6年間、

それらについては、奥様に確認してみれば答えが出るかもしれない、

日本プラスチックについては、また新たな展開をむかえたことになる。

※ 奥様は91歳、脳梗塞のためリハビリ中でうまく喋ることができないらしいが、記憶力等はまったく問題な

  しとのこと、









ジョイハウス 小川さんは几帳面、誠実な方だった、

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「通販 ジョイハウス」の小川さんは几帳面で誠実なお方であった、

それを物語るものとして次のものがある、

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実は、この緑商会のバンガードは小川さんから買ったもの、その領収書にはちゃんと収入印紙も貼ってある、

それにしてもその頃はまだ安かった、大滝の煙りを吐いて走るF104Jなどは一桁違う、


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1994年だから今から23年も前、まだインターネットを利用していない絶版プラモの通販全盛時代の頃であっ

た、

何と言っても小川さんの几帳面さを表すのが次のもの、


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これらは引き取ったプラモの一部、

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舶来物プラモは部品がバラバラに入っているが、それらをチェックして一つずつビニールに入れパックにしてあ

る、

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このように部品をビニールに入れてコテで封をしてある、もう、なんと几帳面なこと、

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ちゃんとチェック表を作り部品の一つ一つをチェックしてある、

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部品がない箇所もこのようにパーツ不足として明確にしてある、

僕なんか絶対にこのようなことはできない、部品をチェックするなど面倒臭くてやってられない、

だから今でも組み立ての途中で欠品に気づき慌ててその部品を自作したり、他の部品で代用したりすることも

ある、

「ジョイハウス」で絶版プラモを利用された方も多いことだろう、

一人でも多くの方が「通販 ジョイハウス」のことを思い出していただければ僕も嬉しい。



田宮模型もライトプレーンを、

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模型の歴史を古い資料等で調べていると、いろいろなことを発見でき非常に面白い、


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                                 (昭和32年9月号 日本教材新聞)

タミヤ模型も昔、ライトプレーンを発売したことがあるのをご存じだろうか、

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そう、この日本教材新聞の記事にもあるように昭和30年9月頃発売していた、

しかし、未だに僕もタミヤ模型のライトプレーンは見たこともない

おそらく現存していてもごく僅かだろう、

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ここには、木製の戦艦武蔵、巡洋艦、商船を発売したとあるが、その武蔵というのは次の木製キットかな、

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さて、その教材新聞の記事の中でゴタツイた設計図に付いて云々、ということが書いてあるがその記事では具

体的にどういうことなのかさっぱり意味がわからない、わからなければ追跡調査するのが僕の趣味である、

そう、気になることは徹底的に追跡調査しないと気が済まない、もう暇で暇で仕方ないのでそれしかやること

がない、ましてや模型のこととなるとどうしても過熱気味になってしまう、

追跡調査すること数年?、その詳細はもちろん具体的に判明、こんなことどこを探しても書いてあるわけない、

う~ん、 しかし、 これもここでは書けないなあ~、

ひょっとしたら、去年の明石での講演で言ってしまったような記憶もあるが、どうだったかなあ~、

ああ~、そういえば戦艦大和のプラモの船底にロゴの刻印がないことについても説明したような ・ ・ ・ ・ ・

まあ、直接なら、コソッ、と教えてあげることもできるが、なんだか僕にも隠し事が段々増えてきた。


業界初の米国視察団

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取材した〇〇〇〇工業さんは静岡のT社の社長に誘われて渡米したという、業界初の米国視察団であった、

それで、それを確認するために日本模型新聞の当時の記事を探した、

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            昭和41年2月7日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

これはその時の募集記事である、 募集期限は昭和41年2月20日、

まあ、当時は今と違ってまだまだアメリカへ行くことなど大変なこと、見送りなど大変な騒ぎだったようで、

さて、その視察団に参加したメーカーは、  次号ではそれと、その時の出国の様子等が載っている、     <続く>

業界初の米国視察団

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さて、業界初の米国視察団は何人ほど集まったのだろうか、


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                       (昭和41年2月28日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

それは、28人、もちろん〇〇〇〇工業さんも入っている、マルサンは入ってない、

まったく知らないメーカーもある、

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このように、盛大な見送りを受けて米国へ出発、

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             (昭和41年3月28日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

そして、無事に帰国したことも記事に載っている、そのお土産話は次号に詳しく記載されている、

                                                    <続く>





レベル社プラモ生産の件については、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/72015686.html の続き、

日本プラスチックがレベル社のプラモデルを生産していたという件について、

結論から先に言うと、その確証は得られなかった、そう、証言等も得られることができなかった、ということ、

ただ、岸川さんの著書である、「日本懐かしプラモデル大全」に書かれてあるその東大阪の町工場でレベル社

プラモデルを昭和28年頃から生産していた、というくだりは益々信憑性を帯びてきた、という感じがしてなら

ないのである、おそらく、そのことは間違いないだろうと僕は思っている、

なぜそう言えるのか、またそのことがここでは書けないのである、そう、人には知られたくない歴史というもの

がある、

よって、まだ確証がないので今のところ、本件を日本プラスチックの歴史の中に付け加えることはない、

また別方向から追跡調査するしかないだろう、




今までの仕事の中で一番恐ろしかったこと、

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暑いので少しばかり涼しい?話を、模型の話ではない、

そう、僕が今までの仕事の中で一番恐ろしかった出来事である、過去の記事で書いたかもしれないが、

僕は多くの遺体を見てきた、 孤独死、首つり自殺、病死、飛び降り自殺、等々の遺体である、

数えたこともないが、ざっと20体以上は見たのではないだろうか、

初めて見る場合はかなりの勇気?がいる、しかし、段々と回数を重ねているうちに慣れてしまうので慣れとは

恐ろしい、初めはその死臭に耐えることになる、マスクをしていてもその臭いは浸透してくる、ハンカチを何

枚も重ねて部屋に入ることになる、警察官の方は凄い、まあ仕事だからかもしれないが、マスクも何もしないで

平然と入っていかれる、スーツなどを着たままで入ると大変なことになってしまう、死臭が浸み込んでしまう、そ

れだではない、僕は髪の毛が少なかったので大したことはなかったが、髪の毛がある人は大変である、

そう、髪の毛にも死臭が付いてしまう、だから、作業着を着て終わって帰宅したら玄関ドアの前で塩をふっても

いお祓いをして直ぐに風呂に入ってシャンプーをしなければならない、

遺体の状況もいろいろで、黒くなってミイラのようになっているものや、脂漏化してヌルヌルになっているもの、

ウジが湧いてそのウジがぐにょぐにょとうごめいているもの、まあ、気の弱い人なら即卒倒するかもしれない、

11階から飛び降り自殺された方の脈をとって死亡を確認したこともある、

そのようなことは慣れればなんということもなくなる、その現場にいるのは僕だけではないので、

怖いのはその後の処理である、何と言っても僕がこの世で一番怖いのが幽霊だからである、

亡くなられた方に親族がいればその部屋の処理は任せればいい、そう、遺品整理、家財道具の処分など、

誰も親族等がいなければこちらで対応することになってしまう、そう、遺品の処分である、

一人でその部屋に入るのが超恐ろしい、もちろん、その際は玄関ドアは開けっぱなしにするのが鉄則?そう、

すぐに外に逃げられるように(笑)

そして、まず全ての窓を開けて空気を入れ替えて、もちろん死臭等が酷い場合は作業着でマスクをして、部屋

に入って引き出しを開けて中身をチェックしたり、

何と言っても、亡くなった方の部屋の中でコソコソと一人っきりでいること自体が怖い、恐ろしい、

後ろを振り返るのが怖い、背後に何かがいるようで恐ろしい、

怖いのが部屋のドアを開けたり、風呂場のドアを開けたり、ドアを開ける瞬間というのが怖い、

ワッ~、と何かが出てきそうで超怖い、恐ろしい、

ある部屋に入った時、黄色く点滅していた、携帯電話であった、もうそれだけでもゾッとする、

僕はその携帯電話の画面を見た瞬間、恐ろしくなって玄関の外に飛び出してしまった、

その携帯の画面には、 「着信アリ」、となっていた、  そう、そのホラー映画が流行っていた。




目障りな存在となり、

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模型業界にとって僕らの存在は非常に目障りで要注意人物であることはすでに何度も書いているとおりであ

る、そう、特に静岡の模型業界にとっては目障りな存在になっているのはあらためて言うまでもないだろう、

また次のことも今更言うまでもないが言っておこう、

実はその模型業界だけでなく、そのスジの業界人?の方々からも目障りな存在として嫌われている、

そう、素人でその他大勢の部類の僕らがその方々の領域を荒らすものだから嫌われてしまう、

今日は、それらの方々に謝ろう、いや、悪態をついてやろう、

「いつも上から目線で書いてすみませ~ん」

「いつも、余計なことをやってすみませ~ん」  「いつも出過ぎたことをしてしまってすみませ~ん」

「真実のプラモデルの歴史のことを調べてしまってすみませ~ん」

「静岡のメーカーの闇の歴史を暴いてすみませ~ん」(ただ、これについてはまだ公開していませんのでいつ

公開しようかと悩んでいます(笑))

「無断で何のおことわりもなく静岡のテレビに出てしまってすみませ~ん」

「ブログでいつも悪態ついてすみませ~ん」

え~っと、他に謝ることはなかったかな~ 、 沢山あって思い出せない、(笑)

正直な話、模型の趣味の世界で遊ぶのも楽ではない、

そのスジの業界人?の方々の気分を害してはいけないので気疲れしてしまう、

出過ぎたことをしたらいけない、素人の雑魚たちは引っ込んでいないといけない、

たかが模型の趣味の世界でも、俺が!、俺様が!の世界なのだろう、俺の前に出るな!ということだろう、

そうなると、余計にド素人の僕としては自由気ままに出過ぎたことをやり、邪魔をしたくなってしまうのである、

そう、そのような方々のことをいちいち気にしていたら何にも動けなくなってしまう、無視したらいい、

雑魚の部類の僕としてはいくら叩かれようが何の影響もない、別にどうってことはない、

噂によると、僕のブログを読むと不愉快になったり、気分が悪くなったりするのでもう絶対に読まないという

方々もいらっしゃるらしい(笑)、別に読んでくれなくていい、興味のあるお方だけ読んで笑ってくれたらそれで

いいのである。

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                           (昭和44年4月4日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

日本模型新聞にいい広告があった、松下幸之助さんの「共存共栄」という言葉である、

どうも、昔から模型業界、模型の趣味の世界にはこのような共存共栄という言葉はないような気がしてならな

いのである。

※ 僕の猛烈?な模型業界への批判、反発はあの田宮模型の元役員(次は名前を出してもいいと思っている

  が)のお方から因縁をつけられたのがそもそものキッカケである、それがなかったらここまで言うことはなか

  っただろう、

  そう、すでに記事でも書いているように、「プラモデルの名称は使うな」というトンチンカンな因縁であった。

















昔は合本が流行って

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これは一見昔の辞典のように見えるが辞典類ではない、雑誌を合本製本したものである、

1年分とか6か月分とかの月刊雑誌をまとめて製本したもの、今でも合本製本してくれるところもあるが、

月刊誌をそこまでして保管する方はあまりいないだろう、戦前は出版社のほうで合本製本して発売するのが

結構流行っていた、合本製本して保管すると外側の表紙は傷んでも中身の本自体は綺麗に保たれる、


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昭和初期の6、7、8年頃のものでも中身はほとんど新品状態で痛みはない、

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戦前の科学、軍事、模型の歴史等を研究するうえでは、このような雑誌類は欠かせない、

例えば、過去の記事でも紹介しているように戦前には戦車模型キットというのは発売されていない、

唯一発売されていたのが、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/68945617.html

まあ、そのキットはボール紙製の動かない戦車模型であったが、その頃モーターで走る戦車模型というのは自

分で作るしかなかった、

当時の雑誌でも自作記事はいろいろと記載されているが、その一例を紹介してみよう、


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これは、模型モーターで走る戦車模型の制作方法を記載したもの、

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全長29センチ、

この頃にセンチ、ミリ、を使用していたとは、 寸、尺、だとばかり思っていた(笑)

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まだマブチモーターみたいな小型な模型モーターは存在していなかったので、その設置には場所をとったこと

だろう、もちろん、今の乾電池のような小さなものはなかったのでボディー内に電池は収納できない、

だからリモコンではないが、リード線を伸ばして外部から電池を繋いで走らせたのだろう、

このような戦車模型を自作するにはかなりの職人技と工作機械が必要だろう、

しかし、当時の人たちはこのような模型を作り展覧会で出品してその腕を競い合っていたというから驚きであ

る。

共存共栄はありえないのか、

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この趣味の世界に入って22年ほどになる、もうそろそろこの世界から足を洗ったほうがいいのかも、と思って

いる、そう、目的を達したら足を洗おうと思っている、

その目的を達したらというのは、もちろん、真実のプラスチックの歴史というものが活字になり本となって世に

出回ることである、

模型の趣味の世界に入り込んだ頃はチマチマと自分ひとりで気に入った古いプラモデルを入手し組み立てて

動かして遊んでいた、そしてブログなるものが現れたので、その自分のお馬鹿ぶりを紹介し笑ってもらうため

に毎日綴ってきた、そうしたら今度はプラモデルの歴史というものに疑問が生じ、それはマルサン商店が捏造

し手作り上げたものであることに気がつき、そもそもその研究自体が充分でないことが判明し、それなら本当

の真実の歴史というものを調べようと今までやってきた、

しかし、このプラモデルの趣味の世界に入り込めば入り込むほど、この世界も嫉妬、妬み、陰謀が渦巻いてい

ることに気が付いた、たかがプラモデルの趣味の狭い世界である、

先日の記事で「共存共栄」という松下幸之助さんの言葉を出したが、模型の趣味の世界ではありえるのだろう

か、結論はありえない、

ハッキリ言って何度も言うように、この趣味の世界で楽しく遊ぶのは決して楽ではない、

とにかく、何度も繰り返すがこの世界にも陰謀、嫉妬、妬み、等々が渦巻いている、

お互いに同じ趣味を持つ者同士が仲良く、ある時は切磋琢磨して楽しんでいけばいいものをお互いが敵視

し、足を引っ張りあい、陰で罵り合い、まあそのような世界だとは当初は知らなかった、

俺が俺が、という世界だということは知らなかった、

昨日までは友だったのに今日は敵になるような世界だとも知らなかった、

僕の場合は素人の雑魚の部類なのであくまでもコソッと作って動かして遊んで、コソッと研究して、コソッとこの

ブログに書き込んでそれをご覧になった皆さんが笑ってくれたらそれで嬉しいのであった、が、それが気に入ら

ない方々がいらっしゃるのであった、

僕は別に目立ってやろうとか、誰かを出し抜いてやろうとか、そのようなことは全然考えてはいなかった、

ところがである、僕のお馬鹿ぶりが段々と知れ渡り、特にプラスチックモデルの真実を調べ出した頃から急に

毛嫌いする方々が出てきてしまった、そう、不都合なことが出てしまうからである、

これもハッキリ言わせてもらうと、自分のお株を奪われた、となにか勘違いなさっているのだろう、

ま、確かにそれも言えるが(笑)

確かに、ド素人の僕らが出過ぎたことをやっているのが気にくわない、というお気持ちもよくわかる、

しかし、女の嫉妬は可愛いが、男の嫉妬、妬み、陰謀というものは非常に見苦しい、

もちろん、僕にも嫉妬、妬みは持っている、が、それはコントロールできればいい、

最近はそれがコントロールできない方々が増えているような気がしてならない、

例えば、

数か月前に静岡の今井科学のTV放映の件は記事にも書いたとおりであるが、別に僕が出たくて出たわけで

はない、収録の数日前に資料がないのでなんとか協力して欲しいと要請があったので協力して出ただけのこ

と、言いたくはないが、僕の協力がなければタダの座談会で終わったはず、しかも最後のところで資料提供者

の名前で僕の名前だけ削除されていた、編集も不自然、これは何を意味するのか、非常に悪意的なものを感

じてしまうのでる、詳しくは言えないが何か陰謀がはたらいたのだろう、このようなことを今更言うべきではな

いが、あまりにもひどいので黙ってはいられない、DVDで撮っていらっしゃる方はもう一度最後の資料提供者

のところを確認していただいたら、おそらく、あ~、とわかる方は僕が言っている意味がおわかりになるだろう、

まあ、とにかく静岡地区でも僕らは本当に出過ぎたことをやっている、

これもすでに記事にも書いているが、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71940795.html
                        https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71872293.html

そう、それも気に入らないのだろう、 「何でコイツラがこのような施設で展示できるんだ」 と、まあ、それは貴

方らの人徳のなさ、それを反省すべきだろう、

実際にここで展示したいお方は大勢いらっしゃるらしい、

それがそのスジの業界人でもない素人でタダの僕らが展示しているものだから、怒り狂っているらしい(笑)

まあ、繰り返すがこの趣味の世界も「共存共栄」はありえない、こちらが共存共栄やりたくても出来ない、

ハッキリ言って、これからはそのような方々を気にはしていられない、好き勝手にやっていくしかないだろう、

そのような抵抗勢力に負けないで今後も出過ぎたことをやっていくしかないだろう、

そして、目的が達成できたら、もうこの世界からは僕も足を洗ったほうがいいのかもと思っている。

※ 今日も悪態をついてしまったが、何の意味もなく悪態をついたわけではない、このまま黙っていると益々調

  子に乗られ今後の活動がスムーズに出来なくなるので牽制の意味で警告しただけ、繰り返すが最近は便

  利になった、すぐに情報は全国に発信することができる。




戦時中の業界紙

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これは戦時中の玩具業界の業界紙である、郵便で受け取ったまま読まれなかったのだろう、

この状態で残っているのは非常に珍しい、

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約束郵便となっている、今で言う料金後納郵便のことだろう、

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「大阪玩具新報」となっている、

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発行は昭和18年10月号となっている、


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これは、同年11月号、なんとたった1か月でカラー刷りから白黒になっている、

これは戦局の急激な悪化を示すものだろう、

ただ、戦時中でもこのような業界紙が発行されていた、


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布施市長堂2丁目59 となっている、あの大阪化学研究所のすぐ近くである、


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もちろん、これらの模型の素材は木製と紙製、

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当時の日本玩具統制協会の理事長が倉持商店の倉持福雄さんであった、そう、製品の審査、材料の配給を

調整する団体であった、

その倉持商店がその頃発売した戦車模型キットが、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71936703.html

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当時は国策で模型飛行機教育が奨励されていたことは過去の記事にも書いたとおりである、

そうそう、先日取材に行った〇〇〇〇工業さんもこの頃はライトプレーンの竹ひご、リブ等を製造し、戦後は

ゴム屋さんになったのである、




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これは、日本玩具統制協会が発行していた機関紙、

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随分と勇ましいことが書いてある、

このような当時の業界紙等を読むと当時の業界内のことがよくわかり面白い。

米国視察団の土産話

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さて、その米国視察団の土産話が日本模型新聞に記載されている、そのうちのお一人の大滝製作所の社長

さんの話が載っているので紹介しておこう、


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           (昭和41年4月4日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

ところで、一緒に渡米された〇〇さんは某社の社長と常に行動を共にされたという、

実はその某社のことで面白い話を聞いた、

「実はあの頃、某社さんは〇〇畑を持っていて、その〇〇を、・ ・ ・ ・ ・ ・に〇〇していたのです、そして、

ある日、それを、・ ・ ・ ・ ・               したらしいですよ」 「実は当時はそのことが地元ではあ

ちこちで噂になっていたようです」

早速その信憑性を当時の資料等で調べてみた、う~ん、たしかにそのことがあった、もちろん、そのことの真

相が書いてあるわけない、ごく普通の事件?として書かれている、

まあその頃の状況等から総合的に判断すると充分にあり得る話である、おそらく事実だろう、

今となっては地元でもそれらのことを知っておられる方はまづいらっしゃらないだろう、

アッ、まだいらっしゃる、当のご本人である、

ここではそのことは今のところ書けない、まあ、直接ならコソッ、と教えることもできる、もちろん、〇〇信者以外

のお方であれば、(笑)

とにかく、いろんな模型メーカーの闇の歴史を暴くのは楽しい、

今のうちにいろいろと仕入れておこう、そして場合によっては闇の歴史として暴露するかも 。

戦後すぐの業界紙

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さて、今度は戦後まもない昭和23年の業界紙である、

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当時の日本玩具商工業協同組合が発行した「玩具界」という冊子である、

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まだこの頃は資材の調達に苦労していたようである、そう、まだ占領下にありGHQが管理調整していた、

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まだこの頃は、マルサンのマの字も出てこない、広告等もまったくなし、

そう、この後すぐに急激にマルサンは台頭してくる、商才には秀でていたらしい、

マルサンの基本姿勢は人に作らせて自分が売る、ということであった。
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