〇〇〇〇工業さんの取材を終えたら次はOS工業さんへの取材である、
そこで新たにわかったことは、
そのことは、すでに調査済みでわかっていたが、
なんと、そこでは100人もの従業員を使っていたという、このことは濱田さんがご存命の頃よく聞いていたとい
う、まあ、大げさな話を、と甥っ子の社長さんはそう思っていたらしい、冗談だろうと思っていたらしい、
ところが、まさに奇跡みたいなことが発生していた、
最近の話で、甥っ子の社長さんの知り合いの方がとんでもない話をしたという、
社長さんが日本プラスチックの話をしたところ、なんとその知り合いの方がその隣の工場で働いたことがある
と言ったというのである、そう、高校生の頃、隣の工場でアルバイトをしていたのだという、
その工場というのが、http://www.towa-chemical.com/
そして、その会社の隣の大東化成の住所が日本プラスチックの登記簿上の本社の住所なのである、
この地図の「大東化成工業」の左隣の会社である、濱田さんは大東化成の敷地の中に工場を建てていたと思
われる、
現地に行って今はどのようになっているか確かめてみようと思ったが、今はストリートビューなるものがあって
現地に行かなくても大体のことがわかる、便利になったものだ、
その方の話によると、濱田さんはその会社の当時の社長さんと懇意にしていたという、
おそらく、その社長さんの影響を受けてプラスチックの世界に入り込んだのではないかと、
早速、その会社に電話をして問い合わせてみた、残念ながら会長さん(当時の社長さん)は10年くらい前に亡
くなり、当時の社員の方々も退職していないのでよくわからないと、
濱田さんは本当に100人もの従業員を使っていたのか、その工場では一体何を作っていたのか、
それらについては奥様に只今確認してもらっている、
ではなぜ、高校生の頃アルバイトをしていたその方がハッキリと記憶していたのだろうか、
それは、もう笑ってしまうというか、何と言っていいのか、それなら絶対に記憶に残るだろう、
実は、それがここでは書くことができないのである、僕は書きたいが書けないのが悔しい、
ニヤリとする出来事、う~ん、しかし、これを書いたらアウトだろう(笑)
これも直接ならコソッと教えてあげます、ただし絶対に秘密にしてくれるなら(笑)
濱田さんは細々とではなく、かなり大がかりな工場でプラスチック製品を作っていたのは事実だろう、
つまり、昭和31年10月頃に日本初のプラスチックモデルのゼロ戦を発売するまでには、その大きな工場でプ
ラスチック製の玩具類を製造していたのだろう、濱田さん若干25、6歳の頃である、
甥っ子の社長さんも生前の伯父の濱田さんからは、若い頃のその派手な生活ぶりをよく聞いていたらしい、
高級車を乗り回し、心斎橋界隈を肩で風を切って歩いていたという、
しかし、その濱田さんもすでに東京でハマライト化学研究所を立ち上げていた兄の亨さんと合流するために、
東大阪の工場等を引き払い最終的には昭和35年には兄の亨さんのハマライトからは分離して今のOS工業を
立ち上げたのである、大阪化学研究所の工場を間借りしてプラスチック製品の開発を始めたのが昭和28年
頃、濱田さん若干23歳、その3年後には大きな工場を持ち日本初のプラスチックのゼロ戦を発売、その翌年
にはノーチラス号を、その後戦艦大和を(これは現物はまだ未確認、)、そして木製模型メーカーがプラスチッ
クモデルに参入する際には多くのメーカーと関わっていた、その後プラスチックモデルからは撤退して今のOS
工業を立ち上げた、プラスチック製品の開発から数えてその期間はわずか7年間弱、まさに疾風のように現れ
て、疾風のように去っていく、月光仮面のようである、そう、過去を振り返らないみたいに、
兄の亨さんのハマライトはその後もしばらくは模型業界とは関わっていく。
(濱田さんがOS工業を法人組織にした昭和41年、濱田さん36歳の頃)