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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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電池の大食いのプラモデルは

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例の教材用の組み立て電池をもう一度試してみた、

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そう、豆球も点かなくなったので、もう一度食塩水を入れて10分ほど浸したのちに豆球を点けてみると、

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おお~、またまた生き返って豆球が点いた、まるでゾンビみたいに、また数か月ほど経ってから試してみよう、

まあこんなアホなことやるのは僕だけだろう、まともな人ならこんなアホなことはやらない、

レベルの高いお上手なモデラーの方など絶対にこんなアホなことは馬鹿にしてやらないだろう、

ところで、電池の話を出したので、今度もお馬鹿な話をしてみよう、

今まで作ったプラモデル等の中で一番の電池の大食いはなんだっただろう、

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それは、このトミーのアクションキットである、サンダーボルトとデストロイヤータンクであった、

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すでにこれらは過去の記事でも紹介しているように、サンダーボルトは単1電池2本を使用する、

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ギアボックス等も複雑でこれらを動かすにはかなりのパワーを必要とする、

だから、ちょっとでも使用した乾電池ではパワーが足りない、新品の電池でないと完全には作動しない、

そう、乾電池の大食いなのである、

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そして、一番の電池の大食いがこのデストロイヤータンクである、

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このような超派手なアクションを行うので新品の電池でないと動かない、

実は、この能書きには漏れているが砲塔も自動で左右に回転する、が、

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単1電池3本を使用する、方向転換はこのロッドが突き出て車体も片方だけ持ち上げて方向転換する、

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電池を大食いするのは、この火薬を炸裂させるため、撃鉄を作動させるのに大きなパワーを必要とする、

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これも複雑のギア、カム等の組み合わせとなっている、

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実は、砲塔下にあるスプリングをドライバーの先っちょの箇所に引っ掛けて砲塔を左右に回転させるが、

そうすると、パワーが足りない、だからそれは外してる、

それでも新品の電池を入れて遊ぶと、5分くらいで電池が消耗してちゃんと動かなくなってしまう、

おそらく、これ以上の電池の大食いのプラモは存在しないだろう、

しかし、その派手なアクションは大いに気に入っている。



〇〇〇〇〇〇㈱へいろいろと聞いてみた、

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昨日、ゴムキャタピラの〇〇〇〇〇〇㈱へ電話を架けていろいろと聞いてみた、

結論から先に言うと、

僕は今まで言ってきた、「マルサンが日本初のプラスチックモデル ノーチラス号を発売」というのは、当初から

マルサンがその事実を悪意で捏造し発表して発売したもの、と、

そのことの確証をますます得られた、ということである、

実は、〇〇〇〇〇〇㈱の社長さんは当時のマルサンの社長と懇意であったという、

その話の内容は、ここで書くと問題になるのでさすがの僕も書くことはできない、

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例えば、マルサン物語では登場しない人物も、まあ、登場させられないそれなりの ・ ・ ・ ・

う~ん、ノーチラス号の開発の話もちょっと違うなあ~ (笑) もうその話はとりあえずリセットすべきだろう、

僕は今までマルサンの嘘を証明してきた、未だにマルサンが日本初だと信じてやまない方々にはもう哀れ

みさえ感じてしまうのである、そう、「哀れ、マルサン信者」、「哀れ、日本プラモデル工業協同組合」、

マルサンが日本初のプラスチックモデルを発売したのは嘘であることはすでに証明したので、次はマルサンは

それを悪意でやったことを証明したい、

一番いいのはあの金型職人の方に正直に話していただいたらすむことであるが、それは絶対に無理なので、

こちらで証明するしかないのだろう、なんとかやってみたい、

ついでに聞いてみた、

そう、ゴムキャタピラのことについて、

「ゴムキャタピラはなぜ年数が経つと劣化してボロボロになるのですか?」と、

ビニールに入れて密封して保管したほうがいい、戦車の本体から外して保管したほうがいい、

ということはあまり関係ないらしい、

根本的な要因はその原料の配合割合にあるという、専門的な話だったのでよくわからなかった(笑)

原料はスクラップゴムに増量剤を入れて作る、それに天然ゴムを10パーセントほど、そしてEPDM?というも

のを加えると耐久力が50倍にも100倍にもなるらしい、なんだかよくわからない(笑)

早い話が、原料の配合割合で決まるとのこと、

だから、少しはもつかもしれないが、車体から外して密封してもダメです(笑)

その証拠に何度も書いているように、三和模型のブリキのリモコンタイガータンクはキャタピラを架けっぱなし

でそのまま放置していても半世紀過ぎても未だに新品同様である、

その他、いろいろなメーカーの話もお聞きした、今度東京へ行った際に訪問のうえまたいろいろとお話しをお聞

きすることを約束した、できれば近いうちに取材に行きたいと思っている、

アッ、それからこういうことも仰っていた、

当時から今まで正統派で生き残っているメーカーがタミヤさんです、と、

いつも悪口ばかり言っているので付け加えておきたい、

それにしても、まだまだ模型の歴史の生き証人の方々はいらっしゃるものである、

生き証人とは言っても嘘つき証人もいらっしゃるが、要はたった一人だけでなく、複数の方々の証言を得てそ

れで総合的に判断しなければならないということである、ま、常識的なことであるが、

ただ、その生き証人を探し出すのが非常に困難、あとほんの数年の期間しか残ってない、いや、もう無理かも

しれない。

※ 前回のゴムキャタピラの記事はとりあえず非公開に設定した、広告には住所が記載されているので万が

  一マルサン関係者にその会社を特定されるとその会社に迷惑をかけるおそれがあるために。




マルサン セイバー

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マルサンのセイバーの話が出たので取り出してみた、

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このマルサンの段ボールの空き箱が気に入っているのでこれに入れている、

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これは、ビニール袋にはタグが付いてない、もちろん、模型店の倉庫から直接出してもらったもの、

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素人の僕が見ても今でも充分通用するプラモデルだろう、

僕が中学生の頃、戦記雑誌「丸」の裏表紙に載っていたこのセイバーの広告を見た時は驚きだった、

なんという精密で凄いスケールモデルをマルサンが出したものだと、

結局はモーターで動かないのと、とても僕の工作技術では手に負えないものだったので買うことはなかった、

名キットの一つで数えられてもいいと僕は思っている、

ただ、当時はまだ中学生で変な疑惑は持たなかった、ただ凄いスケールプラモだと、

あくまでも僕の勝手な憶測となってしまうが、今となって考えてみると、はたして当時のマルサンの技術でここ

までのプラモデルができたのか、当時の他のプラモデルと比較しても断然出来がいい、

まあ、単純な疑問が湧いてくるのである、

ところで、話は変わって、

マルサンのノーチラス号のことも聞いてみた、

「ああ~、あれね、たしかメーカー名は忘れたけど玩具屋の〇〇さんと二人でどうやって作ろうかと、いろいろ

と考えてやってたようですよ、」

「実はですね、そのノーチラス号はマルサンが日本初ではなく、それはハッタリで広告を出したのです」

と言うと、

「ああ~、それくらいのことは平気でやるでしょう」

差し支えないギリギリのところまで書いておこう。

プラモデル用のタイヤ

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そうそう、プラモデルの名称のことについても仰っていた、

「プラモデル用のタイヤ」として発売したところ、怒鳴り込んできたとのこと、

過去の記事にも書いているように、マルサンは全国各地を巡回して横暴を働いている、

神戸地区でも模型店、デパート等を巡回して手書きの「プラモデル発売中」などを見つけると引き裂いていった

という、本当に各地の模型店を回ってそのような暇があったのか驚くばかりである、

「マルサン物語」でもそのことが書いてある、

他社のプラスチックモデルの価格表にプラモデルと表示しただけで特許事務所を通じて内容証明を送りつけ

たり、

他社のプラスチックモデルを買った客に百貨店がその領収書にプラモデル代金と記入したので告訴したり、

と、過剰なまでの処置を行ったという、

僕はその現場を見ていないが、いろいろな証言から事実だろう、

まあ、当時の方々は特許事務所から商標権の侵害だ!!訴えるぞ、と言われただけでビビったことだろう、

商標権のことをよく知っていればそんなことはないが、まあ一般の方々は詳しくはしらない、

となると、ここで謎が残る、

「プラモデルという商標は」の項目でも書いているように、プラモデルという商標権はプラスチックモデル、玩具

の商品にプラモデルという名称を付けて販売するのみに効力がある、

つまり、「プラモデル弁当」、「プラモデル鞄」、と名を付けて販売しても法的にはなんら問題ない、実際に商標

登録してみようかと思ったが少し金がかかるので断念した(笑)

マルサンの社長、特許事務所はその商標権のことを知っていたのか、そう効力の及ぶ範囲を知っていたの

か、ということである、まさか、特許事務所が知らないはずがない、絶対にありえないだろう、

が、しかし、特許事務所も加担してその横暴をはたらいたのは事実である、

ということは、マルサンの社長が特許事務所にハッタリをかましてやらせたとしか考えられない、

このことについても聞いてみると、 「ああ~、平気でやるでしょうね」 と、

(「ハッタリ」の意味はネットで検索してほしい、検索して1番目に出てくる意味そのもの)

今なら絶対に特許事務所はそんなことに加担するわけがない、しかし、なんでもありの当時のことだから、

マルサンの社長のハッタリにビビってそれに従ったのだろう、

まあ、その当時の特許事務所も罪なことをしてくれたものである、

それが未だに半世紀以上にわたってお馬鹿な模型業界、日本プラモデル工業共同組合に脈々?と受け継が

れているのはすでに記事に書いているとおりである、

そのことが訂正される気配はない、イベント等でも「プラモデル展示会」などと表示する場合は許可が必要らし

い、僕はわざわざ電話を架けたり、メールで商標権のことについて詳しく教えてあげた、それでも理解できない

でいる、その頭の悪さには腹が立ってくる、もうアホとしかいいようがない、

※今の日本プラモデル工業協同組合の顧問特許事務所には僕は確認している、弁理士さんは驚いておられ

た、「エッ!! 今時そんなことをやっているのですか、プラモデルの名称なんてドンドン使ってもらったほうが

宣伝にもなるし、普通名称化になってます、え~、驚きました、私自身そんなことをやっているなんて知りませ

んでした、勉強になりました、もちろん、プラモデル弁当もまったく法的には問題ありません、アッ、プラモデル

工業協同組合からクレームがあるかもしれませんが(笑)」、と答えていただいたのは元弁理士会会長の女性

弁理士の草分け的な存在の弁理士さんであったことはすでに過去の記事に書いているとおりである。




昭和28年頃は、

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日本プラスチックの濱田さんがプラスチック製の玩具を作り出したのが昭和28年であった、

具体的にどのような玩具を作っていたのかは今となってはわからない、

昔の古いプラスチック製の駄玩具があったら、もしかしたらそれは濱田さんが当時製造販売したものかもしれ

ない、

マルサンの金型職人のお方が証言なさっている、レベルのノーチラス号を見た時に一体これは何だ、プラスチ

ックなる素材も初めて見たと、まあ、なんというお粗末な証言だろう、これだけでもマルサンの嘘がバレバレで

ある、プラスチックが未知の素材だったら、一体それはどのようにして開発していったのだろうか(笑)、

まあ、ノーチラス号のことばかりの証言?である、そのノーチラス号のこともなんとなく怪しい、

ド素人が単純に考えても当初から疑問だらけである、

さてさて、僕が生まれたのが昭和24年5月、


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生まれた10日は火曜日になっている、なんとまだ皇紀2609年の表示もされている、

ま、そんなことはどうでもいいが、

濱田さんがプラスチック製玩具を作り出した昭和28年といえば僕が4歳の時、

どのような時代だったのだろうか、

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過去の記事でも紹介しているように、これは「ヒロポン」の広告、

説明するまでもなく、このような覚せい剤は昭和25年までは発売されていた、その後法律により販売も使用も

禁止されていたが実際にはまだあちこちで使用されていた、取り締まりもそんなに厳しくなかったと記憶してい

る、もちろん、僕の家にもあった、そう、注射器tも、タンスの引き出しを開けるとあった、

いや、家族が使用するものではない、これも過去の記事で書いているかもしれないがその頃は赤線地帯で営

業していた、そう、進駐軍の兵隊相手に、そのアメリカ兵が事を致す時に使用するのである、

覚せい剤を水に溶いて注射器でうってその後に致すと最高にいいらしい、

芸能人がよく覚せい剤で捕まっているが、おそらくその使用目的はコレもあるのだろう、

戦後の昭和20年代から30年代前半までは今ではとても考えられない時代であった、しかし、それが今となっ

ては非常に懐かしく感じるのである。

一応、念のために、

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またまた一応念のために、

今更言うことでもないが、僕は今までマルサンに限らず、模型業界のことをさんざん批判してきた、

ここまで正面切って堂々と?批判した方は他にいらっしゃるだろうか、僕は知らない、ほとんどが業界の太鼓

持ちのような方々ばかりである、僕に言わせるとまことに情けない、自分としての意見、考えを持ってないの

か、誰に媚びているのか、所詮、皆、僕を含めてその他大勢の部類だろう、雑魚の部類なのである、

だったら、好き勝手なことを言ったほうが精神的にもいいに決まっている、

まあ、その中でも僕は特にマルサンについては過激な?ことを言って批判している、

おそらく、「おい、おい、大丈夫か、そんなこと書いて大丈夫か、」などと、心配?なさっている方もいらっしゃる

だろう、下手したら名誉棄損で訴えられるぞ、と思っている方もいらっしゃるかと、

最近、いい事例があった、あの某番組での高須クリニックの件、(元宮城県知事のコメント、勉強不足でトンチ

ンカンなコメントで出演者が困惑していた)

そう、名誉棄損はそのことが真実か真実でないかは関係ない、僕が言っていることが真実であっても名誉棄

損は成立する、まあ、名誉棄損で訴えられる可能性はゼロではない、

極端に言うと、そんなこと覚悟のうえで書いている、むしろ訴えられることを期待している、というのが本音だろ

う、訴えられて、むしろ公になって全国に知れ渡ったほうが都合がいい、それが最大の宣伝にもなる、

そうなったほうが、真のプラスチックモデルの歴史が皆に知ってもらえる、

マルサンも訴える度胸はないだろう、そのような暇もないだろう、何も得することはない、

訴えられるギリギリのところで押さえて?はいるが、もちろん、個人のプライバシーのことは書いてはいけな

い、書きたいが書かない(笑)、それくらいの最低のマナーは持っているつもりである、

まあ、僕は暇なのとそれがライフワーク?なので、それと、訴えられたこともないのでそのようなことも勉強にな

っていいのかと、

一応、念のために。

今日は休み、

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昨日から孫達が来ているのでブログは今日は休み。

日本プラスチックとは少しの間、

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和工のことを聞いてみた、

「う~ん、和工というメーカーねえ、ちょっと記憶にありませんね、大分昔のことだから忘れているかもしれませ

んね、」

続いて、日本プラスチックのことも、

「ああ~、たしか材料屋さんだったと記憶していますよ、」

僕はすかさず、「おお~、そうです、そうです、おそらくその頃はプラスチックの材料屋さんのはずです」

「取引の期間は少しの間でした、たしか学校教材用のゴム関連で取引しました、ただ、会社の詳しいことは記

憶はありません」、

ハマライトという会社はどうですか、

「ちょっと記憶にはないですね、ただ、当時はいろんなところとやっていましたので、今度記憶を整理しておきま

すね」

今井科学とはいつ頃から、

「今井科学とは昭和38.9年頃からで最終的には取り扱いの8割は今井科学が占めていました、実は取引の

きっかけは静岡に行った際に、そのまま帰ったのではもったいないのでついでに今井科学に取引のお願いに

行ったのです、そうしたら意外にも取引をあっさりと始めてくれました、特にうちの製品が優れているとか、そう

いう理由ではなかったのです(笑)、とにかく意外でした」

「サンダーバードの時は凄かったですよ、まあ結局は売掛金は回収できませんでしたけどね(笑)」

アッ、それから、ノーチラス号のことで、僕の勘違いだった、

ノーチラス号はノーチラス号でもブリキのノーチラス号のことだった、

プラモデルのノーチラス号ではなく、そう、あのブリキのノーチラス号である、

それは、玩具屋だった〇〇さんが一緒になって開発したものだと、その当時はその〇〇さんが玩具を開発し、

マルサンが売る、というような役割分担になっていたとのこと、そのブリキのノーチラス号はマルサン物語にも

出てくるが、ちょっと様子が違う、大分違う、何と言ってもその〇〇さんのことはまったく出てこない、

まあ、結局はその〇〇さんとは金の分け前のことで別れたらしい、おそらく物語には書けないのだろう、

「まあ、どういうことかマルサンの〇〇とはウマが合いましてね、・ ・ ・ ・ ・ ・         」

とにかく話好きで話が途切れない、しかし、電話なので延々と話しを続けられない(笑)  今日はとりあえず差

し支えないところだけを書いておこう、

来月早々には東京で取材を行う予定にしている。



タミヤのキャタピラも、

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「タミヤ模型の戦車のキャタピラは製造していませんでしたか」

「はい、タミヤさんは当時は田畑ゴムと取引をやっていました、私のところはその田畑ゴムの下請けもやってい

ました」 ということはタミヤのゴムキャタピラも製造していたということである、

その田畑ゴムはその後、こんなに立派な会社へと、http://tabata.jp/jp/

まあ、遡って調べていくといろいろなことがわかって面白い、

その㈱タバタには電話をして聞いてはいないが、当時のそのようなことを知っている方はいらっしゃるのだろう

か、代替わり等でもうご存知ないかもしれない、よ~し、教えてあげよう(笑)

「私の父は戦前から模型飛行機屋でした、当時は国策として模型飛行機教育が奨励されライトプレーンの竹

ひごや部品を作っていました、ところが終戦になりGHQからの航空機産業の禁止がなされ、これはいかんと急

遽ゴム屋に転向したのです」

そう、その国策として設立されたのがNBK(日本文化教材、現ブンカ)であり、科学教材社であったことは過去

の記事でも紹介しているとおりである、

このように、日本プラスチックのことを調べていくとそれに付随したいろいろことがわかって益々興味が湧いて

きてしまうのである、

さて、その日本プラスチックで僕にとって大きな謎が残る、

それは、奥様の証言では過去の記事でも紹介しているように、当時大阪の電気科学館にゼロ戦と戦艦大和

の金型を寄贈されたという、その中にノーチラス号の金型が入ってないのはおそらくNBKに譲ったからだろう、

そしてゼロ戦の金型というのは日本プラスチックの日本初のゼロ戦の金型だろう、

では、戦艦大和の金型とは、 日本プラスチックは戦艦大和のプラモデルも発売したのだろうか、

その現物は未だに確認はされてはいない、

発売したとなると昭和35年以前のことだろう、なぜなら濱田さん(弟さん)は昭和35年にはプラモデルからは

撤退して材料、色素専門の会社を立ち上げた、(現在のOS工業)、からである、

当時のプラモデルの戦艦大和でメーカー名不明なものについては要注意だろう、

濱田さんは生前、「俺が日本で初めてプラスチックモデルを開発した」などとは一度も口にされたことはなかっ

たという、だから、甥っ子のOS工業の社長さんは僕が突き止めるまでは一切そのことはご存じなかったのであ

る、「東大阪でプラモデルを製造していた、ということは聞いていましたが、そのようなことは一切口に出さなか

ったのでまさか日本初であったとは知りませんでした」

なぜ、濱田さんはそのことを口に出さなかったのか、その謎も残ってしまう、

電気科学館にあえて金型を寄贈したのは、「これが日本初のプラスチックモデルの金型だ」という強い思いが

あったのではないだろうか。


それは忘れた頃の、突然の電話だった、

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それは、忘れた頃の、突然の電話であった、

そう、去年の10月下旬のことであった、

電話がなったので、電話をとると、

「ア、カ、シさんですか、・ ・ ・ ・」と弱々しいか細い声が、  「はい、そうですが、もしもし、もしもし、」

アッ、この声は、「小川さんですか! 小川さんですよね!、今どうしているんですか!」

応答がない、「小川さん、どうしたんですか!」

すると、「すみません、小川の家族の者です、本人は耳があまり聞こえなくなっていますので」

「小川さんはどうなさったのですか、元気ですか」

「実は、小川が明石さんに会いたいと言っていますので、こちらに来て会っていただけないでしょうか」

それを聞いた時、今の事態を僕は察した、

「はい、わかりました、どちらでよろしいでしょうか」

「〇〇〇〇病院の〇〇号室です」

「はい、承知しました、それでは明日の10時にまいります」

事の始まりはそれから1年以上遡る、    、続く>








通信販売 「ジョイハウス」だった、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71993640.html の続き、

事の始まりはそれから1年以上前に遡る、

いきつけの某模型店から電話があった、

「ずっと前に来られていた小川さんという方から電話があって、プラモデルを処分したいが誰か引き取ってくれ

る人を紹介して欲しいと電話がありましてね、それならと明石さんに連絡したのです」

「どのような方ですか」

「もう20年近く前になりますかね、うちから仕入れて通信販売でマニアの方々に売ってた方です」

「なぜ、処分されるのでしょうか」

「ガンで入院されているらしく、それで処分したいらしいです、電話をして詳しく聞いて下さい、」

携帯番号を教えていただき、電話をかけた、

話では、会社勤めをしていたが体がだるく体調が戻らなかったため病院で検査してもらったらガンであることが

判明した、ひょっとしたらもう仕事にも復帰できないかもしれない、それで身の回りを整理するためにも在庫の

プラモデルを処分したい、処分するにも費用がかかるので、タダでいいから引き取ってほしい、

そのような話の中で、ハッ、と気が付いた、

「ひょっとしたら、小川さんは「ジョイハウス」さんではないですか」 と聞くと、

「はい、そうです、20年くらい前まで「ホビージャパン」の紙上で通信販売をやっていました」

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そう、当時マニアの方々なら誰もが?利用したあの「ジョイハウス」であった、    <続く>








元気になってフリマで、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71996069.html の続き、

早速、その翌日に入院されている大阪の病院へ見舞いに行った、

「小川さ~ん、明石です、見舞いにきましたよ、体調はどうですか~」

「おお~、明石さんですか、わざわざ遠くからすみません」 、その声には元気さというものはなかった、

「毎日、日に2回抗がん剤を投与しています、血液のガンです、会社勤めをしていて何か体がだるく、体調が

なかなか回復しなかったので検査したらそれが判明したのです」

おそらく、自分でももう回復は難しいと感じておられたのだろう、小川さんは独身だった、

そして、出身は北海道だった、その北海道からもご兄弟全員が見舞いに来られたという、

それで、今のうちに在庫のプラモデルを整理して処分したいのだという、

「ジョイハウス」時代のことも話された、仕入れは大阪の松屋町問屋街、それと某模型店、

有名なコレクターの方々の話も出た、

「実は私も当時何個かジョイハウスさんから購入しましたが、私の名は覚えていますか」

「う~ん、明石さんの名はまったく記憶にはありません」 (笑)

「それで、今残っている在庫のプラモデルはほとんどゴミみたいなものばかりです、処分しようにも処分費用が

かかるだけです、できれば全て引き取っていただけないでしょうか、量はざっと軽トラ1台分くらいです」

僕はちょっと考えた、仮に引き取ったとしても保管場所がない、

「小川さん、ではこうしましょう、小川さんは早く元気になって下さい、そして元気になったらフリマで売りましょう

そう、静岡のホビーショーのフリマで私も一緒になって手伝いますからやりましょうよ」

小川さんは、「明石さん、ありがとう」 と涙を流して僕の手を握って喜んでくれたのである、

その後は2回ほどその病院に見舞いに行ったが、回復しているような気配ではなかった、

そしてある日、小川さんから電話があった、  「自宅療養になったので自宅に来て欲しい」

そう、自宅療養になってしまった、

そこで、僕はすぐに自宅を訪問したのであった、  <続く>








夜行バスのチケットを買いに、

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昨日は夜行バスのチケットを買うために三宮まで電車で行ってきた、いつもなら自転車で行くところが最近は

急な雷雨が怖いので電車で行ってきた、

金曜日の三宮発10時、帰りの切符も一緒に買った、そう、東京取材のためである、夜行バスなら日中の時間

がフルに使える、マルサンの当時の横暴ぶりがジックリと聞けることだろう、(笑)

なので、5日、6日のブログは休み、

そのついでにトムクルーズの「ザ・マミー」の映画も観てきた、

そして、そのついでに神戸空港までポートライナーで行ってきた、

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まあ大体が僕は先頭が好き、最前列の席に座る、ポートライナーはもちろんコンピューター制御の無人運転、

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神戸空港へ行った目的は何もない、暇なのでついでに行っただけのこと、

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夜に行ったら涼しいだろう、

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ゲーム機はこの「フライトシュミレーション」のみ、

神戸空港で特筆すべこことは何もない、僕は今までに飛行機に乗ったことは2度しかない、

何と言っても怖い、何と言ってもあんなに図体がデカいものが飛ぶこと自体が不思議でならない。

几帳面で手先が器用、

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https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71997483.html の続き、

小川さんは自宅療養になってしまった、自宅療養になったということは、・ ・ ・ ・ ・ ・

早速、大阪の自宅に行ってみた、

おお~、プラモデルの在庫が大量にある、ただ僕らが好む古いプラモデルはほとんどなかった、

そう、仕入れが段々と難しくなり、インターネットの普及で通信販売は廃業したとのこと、しかし、当時はコレだ

けで充分な生活ができたという、

何の身寄りもない大阪に北海道(出身地は後に記す)からたった一人で出てきて、大学を卒業したのだとい

う、僕とはたった一か月違いの昭和24年の生まれであった、

僕に小川さんのことを連絡くれた某模型店とは大阪の松屋町の問屋で知り合ったという、

小川さんが古いプラモデルを探しているのを見たその某模型店の店主に、「まだうちにも古いプラモがあるか

ら来なさい」と声をかけられたのだという、

小川さんは几帳面で手先が器用な方であった、

「ジョイハウス」で購入された方は思い出してほしい、あの丁寧な梱包、あの丁寧な送付状、

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小川さんとのその当時の話は尽きなかった、

もちろん、残っている在庫のプラモデルをどうするか、

「早く元気になって静岡のホビーショーで僕と一緒に売りましょう」 と僕は言うが、

「ありがとう、しかし、体もこのようになってしまったし、もうそのようなことは望めない」

それなら、ヤフーオークションで、と登録の設定も一緒にやった、

そういうことをやりながら3回ほど遊びに行った、あとはたまにメールでやりとりを行っていた、

ところが、ある日、小川さんの携帯電話にかけたら、「この電話番号は現在使われていません」 と、

パソコンでメールを送っても返信が来ない、何度送っても来ない、

ひょっとしたら、  直ぐに小川さんの自宅に向かったのであった、   <続く>


やはり、残ってはいなかった、

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濱田貞雄さんの奥様の証言で当時、ゼロ戦と戦艦大和の金型を大阪四ツ橋の電気科学館に寄贈したというこ

とはすでに紹介しているが、今度はまた別のところに問い合わせてみた、

そう、今度はここに、http://www.kagaku-shinko.org/index.html

結果は、もちろん目録等も一切残ってないと、

当時の電気科学館が閉鎖した際の所蔵品等はそのほとんどが廃棄処分されている、とのこと、

その学芸員さんがおっしゃるには、

「日本初のプラモデルの金型ということがわかっていれば、面白い話なのでその金型は残していたんでしょうけ

どね~、」  

う~ん、これで日本初のプラスチックモデルのゼロ戦の金型が残っている可能性はほぼゼロになった。

それでも連絡は来なかった、

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すぐに自宅に向かった、

玄関の呼び鈴を押しても応答はない、玄関ドアをノックして、「小川さ~ん」と呼んでも応答はない、

隣の家の方に聞いてみた、「隣の小川さんはどうされてますか」

「小川さんなら今朝早く出かけましたよ、」

まあ、出かけるくらいなら元気なんだと思い、メモ用紙に「連絡がないので今日お伺いしました、連絡下さい」と

書いてポストに投函して、ひとまづ安心して帰ったのであった、

それからは小川さんからの連絡を待った、

しかし、小川さんからの連絡は来なかった、

なんらかの事情があるのだろう、あまりシツコイことをやってもあれだから、何かあったら連絡くれるだろう、

ということで、ほったらかしにしていた、まあたまに思い出す程度で、「体は回復しているかなあ~」 と、

それから1年ちょっと経過した頃、https://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/71993640.html

そう、突然の電話であった、

その翌日、病院へ向かった、

病室には北海道からのご兄弟の方々4人が小川さんを見守っておられた、

「小川さ~ん、明石ですよ、来ましたよ~」       <続く>


早く元気になって一緒に売りましょう、

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「小川さ~ん、明石ですよ~、来ましたよ~、」

「おお~、明石さん、ありがとう、」

ご兄弟の話によると、

「5日前に病院から電話が架かってきて、危篤の状態だからすぐに来て欲しいとのことで急いで北海道から来

です、ところが来たとたんに意識を取り戻したのです、お医者さんも不思議だなあ~、と言ってます、

ただ、あとどんなにもっても2、3日だと言ってます、小川は明石さんの電話番号を書いたメモを持っていて、明

さんに会いたいからここに電話して欲しいと言うので電話させてもらったのです、」

「そうでしたか、私も電話連絡がつかず一度自宅まで行ったのですがお出かけのようで、まあ元気なようだと

思っていました」

「小川さん、早く元気になって私と一緒にプラモデルを売りましょう」、と言うと、

「ありがとう、ネットで売って私の取り分が半分、明石さんの取り分が半分でいきましょう」

僕は、「はい、はい、そうしましょうね、だから早く元気になって下さいね」

小川さんは嬉しそうに大きくうなづいた、

ご兄弟の方から、

「もうあと2、3日もてばという状態ですから、できれば明石さんにプラモデルを全部引き取ってほしいのですが

、ぜひそうして下さい、今すぐにでもお願いします」

「はい、わかりました、では明日から車で来ますので」

とは言ったものの、僕には保管するところがない、     <続く>






東京取材のためブログは休み、

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東京取材のためブログは5日、6日、は休み。

ゴムキャタピラの〇〇〇〇工業さんの他に、

濱田貞雄さんが設立したOS工業さんにもお伺いすることにした、明日は取材でフル活動する、

それにしてもインターネットの威力は凄い、

もう10数年早く調査に取り掛かっていればほとんどの謎が解けていただろう、そうまだ濱田さんがご存命だっ

たからである、ただそうは言うものの、濱田さんまでは辿り着けなかった可能性も高い、

今更言うまでもなく、僕の追跡調査はそのインターネットに頼ったものが大きい、

大阪化学研究所の内田さん、火星人さん、OS工業さん、等々、全てインターネットで探し当てた、

仮に20数年前に調査を開始していても、そこまで辿り着くことはできなかったかもしれない、

その一事例として、人を探し当てるコツ?をここでお教えしよう、まあ、ご存じの方も多いかと思うが、

氏名と住んでいる都市がわかれば探し当てることもできる、

試しに自分の名前と都市名を入力して、その後ろに住所で、と入れると出てくる、

「明石小五郎  明石市  住所で」 と入力すると10数年前の電話帳のデーターが出てくる、(もちろん、その

固定電話を契約していることが条件)

住んでいるところがわからなければ、住んでいそうな都市の名を入力すればいい、

一度お試しあれ。

東京で取材を、

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JR夜行バスで東京まで取材に行ってきた、東京支部の相棒と待ち合わせをして男同士の二人で取材を行って

きた、その取材先は〇〇〇〇工業さんと濱田さんが設立したOS工業さんである、

〇〇〇〇工業さんの取材の話はそのほとんどがここではとても書くことができないヤバイ話?なので、明らか

にはできない、まあ少しずつ差し支えない程度でこれから書いていこう、そう、〇〇〇〇工業さんに迷惑がか

かったらいけないので、

そもそも「マルサン物語」等に書かれていることは、身内の証言?だけに頼っている、そう、あえて他人の証言

等はなされていない、だから嘘で捏造されたものが多い、そのことが問題なのである、

例えば、警察では身内の証言は証言にはならない、当たり前の話だろう、

ところで、〇〇〇〇工業さんとマルサン社長が懇意の間柄になったいきさつ前にも書いたようにこうだ、

そう、例のプラモデルの商標の使用に始まる、〇〇〇〇工業さんは「プラモデル用のゴムキャタピラ、ゴムタイ

ヤ」などと称して広告を出した、そうしたら顧問弁理士事務所から電話がかかってきて、「プラモデルの名称を

使用しているのは商標権の侵害である、すぐに説明と謝罪に来い」という,それに驚いてすぐにその弁理士

事務所に謝罪に行ったという、すると、弁理士が言うには、「マルサンの社長のところに行って謝ってこい」と言

うので文京区の200坪もあるマルサン社長の豪邸に夜の7時か8時頃だったかに行って謝ったのだという、

すると、社長に「その謝り方が気に入った」と言われて、それがきっかけで付き合いが始まったのだという、

もちろん、広告の「プラモデル用ゴムキャタピラ」はそのまま使用したという、

ここで推測されることは、弁理士とマルサン社長は結託していたのだろう、ということである、

当然のことながら弁理士が商標権の及ぶ範囲を知らないはずがない、しかし、そんなことはお構いなしにマル

サン社長と結託して脅かして「プラモデル」の商標をプラモデル以外のものについても使わせない横暴を働い

たものと思われる、大風呂敷とハッタリの人だったらしいのでまあ間違いないだろう、

さて、ここでは詳しくはとても書けないことがある、で皆さんには推測、想像していただこう、

〇 マルサンの社長は特に用事もないのに〇〇〇〇工業さんに手土産を持ってよく訪ねてきたという、

   その理由というか目的は何だったでしょうか?  各自、想像して下さい(笑)

〇 当時の古い日本模型新聞を読むと模型メーカーでは倉庫やら、工場で火災の記事がよく載っている、

  僕もなんでだろう、なんでだろう、と思っていたが、おおよその見当はついていた、

  静岡の某メーカーでも倉庫が火災にあった、実は地元では当時、僕と同じ考えの噂が流れていたという、

  さて、その某メーカーとその噂とは(現存メーカー)、  皆さんで推測、想像して下さい、ここではとても書け

  ません、

まあ、こんなことを書くから僕は要注意人物として模型業界やその信者たちから嫌われる(笑)

ここで回答はしません、ただ、直接ならコソッと教えてあげます。      <続く>

デッケル社の立体彫刻機を導入したメーカーは、

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〇〇〇〇工業さんからは次のものをいただいてきた、

イメージ 1

イメージ 2


〇〇〇模型のホワイトメタルのダイハツ オート三輪、まあ、詳しい方ならすぐにメーカー名はおわかりだろう、

もちろん、ゴムタイヤは〇〇〇〇工業さんで製造されたもの、

イメージ 3

そしてその〇〇〇模型の車のゴムタイヤの仕掛品、それとポケベル用のバンド、

いずれもまったく劣化はしていない、新品同様である、

いずれも〇〇〇〇工業さんの製品である、

そこで、その〇〇〇模型の話の中で立体彫刻機のことになった、そう、ドイツのデッケル社のことである、

デッケル社の立体彫刻機を導入していたメーカーはマルサンであることはその物語の中で書いてある、

しかし、マルサンだけでなく、そのドイツのデッケル社の立体彫刻機を導入していたメーカーがあった、

そのメーカーとはその〇〇〇模型であった、もちろん今は廃業なさっている、

〇〇〇〇工業の社長さんが〇〇〇模型の社長さんはまだ元気なので聞いてみなさい、とおっしゃるので、

昨日、直接電話をかけて社長さんに聞いてみた、

「突然のお電話で申し訳ありません、プラモデルの金型作りの名人だということをお聞きしたものですか

ら・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」という切り出しでお聞きしてみた、

昭和39年にドイツのデッケル社から立体彫刻機だけでなく金型製作に必要な工作機械一式を導入したとい

う、1ドル360円の時代だから1億円近くになったのではないだろうか、いや、超えたかも、

当時はどこのメーカーの金型を作っていたのか聞いてみた、

三和模型、渥美産業、大滝製作所、タミヤ、緑商会等々、なんと緑商会のロボットプラモの金型も作ったとい

う、残念ながらマルサンのものは作っていないと、大分それらの金型は処分したが、それでもまだ大量の金型

が残っているという、どうやって金型を処分しようかと悩んでいるという、その倉庫を見たいので取材を申し込

んだが、やんわりと断られてしまった、いやそれにしても驚いた、あの〇〇〇模型が当時はいろいろなメーカ

ーの金型を作っていたとは。




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