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Channel: 明石小五郎の昭和のプラモデル「模型探偵団」
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ハマライトのピストルは、

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上記の記事のとおり、ハマライト化学研究所はピストル模型玩具も製造しかなり利益を得ていた、

それは、タミヤの会長も「伝説のプラモ屋」の中で証言している、

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ところで、すでに紹介しているこのピストルのプラモデルはいつ頃発売したのだろうか、

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                      (昭和35年10月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

この広告によれば、昭和35年10月頃となっている、

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もちろん、ハマライトのロゴマークも見える、

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             (昭和35年12月15日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

ハマライトは三和だけでなく、三共模型のプラモも製造していたのだろう、この三共のピストルの構造もハマラ

イトのものとほぼ同じなので間違いないだろう、

それと、前の記事にも書いたように玩具メーカーの増田屋のものも製造していたものと思われる。

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清水模型とは、

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さて、先日紹介した「SF宇宙水陸両用車 ストレンジャー」は、清水模型の製品であった、

清水模型と聞いてもあまり馴染みのある模型メーカーではない、僕も子供の頃はまったく知らなかったしその

存在を知ったのはこの趣味を持ってからである、

一体、その清水模型というのは創業時はどのようなメーカーだったのだろう、

それがわかる次の日本教材新聞に記事が載っているので紹介しておこう、


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                (昭和32年11月10日 日本教材新聞)

ポケットシリーズ にしき屋の戦艦大和

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「にしき屋」の戦艦大和を作ってみた、

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そう、ポケットシリーズNO1の縮尺2,630分の1 洋上模型 「戦艦大和」である、

とにかく部品が小さいのでピンセットで摘まんだ際にピーンと飛ばないように気を付ける、

それと、砲身が折れないように、

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組み立て後はこのように箱の中にピッタリと入るので箱に入れて保管したらいい、

「にしき屋」といえば、戦前にSF冒険小説に出てくる「新戦艦高千穂」を発売している、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70703004.html

「にしき屋」に関する記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70183704.html

見放題、触り放題!!?の実習会、

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昭和32年の日本教材新聞を読んでいたら、なんとも羨ましいような、興味深い記事が載っている、


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                (昭和32年8月10日 日本教材新聞)

モデルが最高だったとか、

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よ~く見たら、このモデルの女性は下着も何も着けてないような、

そして、この中年の実習生のお方、筆でコチョ、コチョ、とやっているような、僕の目の錯覚か、

まあ、これでは実習会どころではないだろう、まさに僕なら興奮しまくり!!(笑)

まあ、なんとも羨ましい実習会だこと、今ではとても考えられない風景、いや光景である。

幻の重巡B-65

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「ボーイズライフ」をパラパラと読んでいたら、幻の「重巡B-65」の口絵が載っていた、

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そう、この高荷義之画伯が描いた幻の重巡ー65 である、重巡ー65の絵は他に見たことがない、

小松崎画伯の絵でも見た記憶がない、

計画だけされて実際には存在しなかった重巡なので、この絵を見れば大体の雄姿は想像できるだろう、


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実際に建造されていたら、どのような活躍をみせていたのだろう、それとも、、、、、、、、、。



静岡教材社の「エンゼル号」と「月光号」はよく売れた、

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先日紹介したように、日本初のSF宇宙戦車模型は静岡教材社が発売した「エンゼル号」と、この「月光号」で

あった、これが実によく売れたとのこと、

その記事が載っているので紹介しておこう、


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                  (昭和33年1月10日 日本教材新聞)

当時の静岡教材社の店舗の様子は、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69782919.html

車輪もののSFプラモ

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今までに組み立てたキャタピラではなく、車輪もののSFプラモを取り出して並べてみた、

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この中で、一番笑ってしまうような、ガッカリしてしまうような、しょーもないプラモだったのが、

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それがコレ、シャープの「ニューフライングサンダー101」というプラモ、まあ、箱絵も凄いが、そのスタイルも凄

い、そしてギミックはゼンマイで走るのみ、箱絵に騙されて買った子供達もいたのだろう、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69133486.html

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次に、このアリイの「宇宙遭難救助隊 レンジャー」、これも凄かった、そのスタイルも凄いが、ロケットの発射

ギミックも凄かった、

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この緑商会の「プラネット」の飛行は凄かった、あんなにブンブン飛行するとは、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/68894353.html


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この大滝製作所の「宇宙パトロールカー マッハ」はライトの点滅と火花が楽しめた、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69261634.html

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アオシマの「サンダーマシン」、これはアオシマお得意の車にとんでもない武装をさせたプラモ、

しかし、聞くところによると、このようなプラモのフアンの方も結構いらっしゃるとか、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70050599.html

今井商店の頃

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㈱今井科学に組織変更する前の今井商店の頃の記事が載っているので紹介しておこう、

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               (昭和32年12月10日 日本教材新聞)

当時の今井商店の店舗の様子は、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/69573493.html


試作品はプラスチックで

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プラスチックの成型加工業者や金型業者は昭和20年代後半にはすでに日本全国に数えきれないほど存在

し、またプラスチックの玩具等もすでに製造され販売されていたということはすでに以前の記事でも紹介してい

る、だから、マルサン伝説等に書かれていることや、伝説の金型職人?が証言していることも嘘で捏造され脚

色されていることもすでに紹介している、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70986462.html

それを証明するような記事が昭和31年8月の日本教材新聞にも載っているので紹介しておこう、

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                (昭和31年8月10日 日本教材新聞) 

そう、すでにこの頃には試作品にもプラスチックの模型が使用されていたということである。

その頃、静岡の木工模型業界は、

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ここにもプラスチックの模型玩具等がすでにあったことがわかる、

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                  (昭和31年2月10日 日本教材新聞)

そう、この頃にはすでにプラスチック製の玩具等が出回っているが、静岡の木工業界では、まだまだプラスチ

ック製のものについては危機感を持っていないと、

実はこの頃、濱田兄弟はプラスチックモデルの開発成功直前で3月に㈱日本プラスチックスを設立し、10月

頃ゼロ戦のプラスチックモデルを発売する、当時、神戸の模型店で当時そのゼロ戦のプラスチックモデルの

キットを購入して作ったとの証言がある、あくまでも僕の推測ではあるが、その模型店とはおそらく、

「○○ケ○モ○○」ではないかと思われる、戦後すぐに創業され二次問屋でもあったのでその可能性は非常

に高い、ただ今となっては確認のしようがない、

それから、なぜ素人の濱田兄弟が東大阪(布施)で日本で初めてプラスチックモデルを開発できたのだろう

か、

戦前からすでに濱田兄弟の父が開業していた「東京堂模型店」であったが、東大阪はたいした空襲もなく被害

は少なかった、そう、日本でも有数の町工場の建ち並ぶ東大阪はほとんど無傷で残った、

戦後すぐに復興を開始し、板金加工、化学、印刷、セルロイド、プラスチック加工成型、金属加工等が盛んな

街へと発展した、そう、プラスチックモデルを開発するにはまさに条件が整っていたのである、

若くして「東京堂模型店」を引き継いだ貞雄さんは常に新しいことをやるのが好きであった、

町工場の建ち並ぶ環境の中、貞雄さんはプラスチックという素材に目を付けたのだろう、

おそらく、これからはプラスチックの時代だという先見の目があったのだろう、そこでまだ木工という素材が主

流であった模型にもプラスチックでやってみようと、

機械類は町工場周辺に揃っているので、そのあたりから調達できたのだろう、あとは合成樹脂の問題である、

それを指導したのが大阪化学研究所の内田義勇さんであった、今の阪大の応用化学を専攻された合成樹脂

等のエキスパートの方であった、濱田さんとの関係がどうだったのかは今となってはわからない、

おそらく濱田さんの人脈の中のお一人だったのではないかと推測される、

その内田さんの大阪化学研究所の工場の片隅に機械類を持ち込んで指導を受けながらプラスチックモデル

の開発を行っていたという、それを開始したのが昭和28年頃であった、

おそらく当初はプラスチック製の玩具類も製造しながら開発を行っていたものと思われる、

金型製作はどのようにしてその技術等を習得されたのか、大阪化学研究所の内田さんは合成樹脂のエキス

パートであったが、金型製作等の技術は専門外だったので指導はできなかったという、

おそらく、周辺の町工場に職人さんがいたのだろう、そこから指導を受けながら習得したのだろう、

しかし、それにしても凄い、素人であった濱田兄弟がわずか3年たらずでプラスチックモデルの開発に成功し

たのである、しかし、その先見の目があまりにも早すぎた、プラスチック製の模型というものに皆が目を向け始

めるにはあまりにも早すぎたのだろう、ゼロ戦を発売したのが昭和31年10月頃、その翌年にノーチラス号を

発売したが、まだまだ世の中は木製模型全盛時代であった、それと宣伝力の問題だろう、

マルサンのように豊富な資金力でもって全国的に宣伝でもすればプラスチックモデルというものが知れ渡り、

浸透するだろうが、

しかし、濱田兄弟は只者ではなかった、もう一つ先見の目があった、  <続く>



復刻再販 ビッグモグラス

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この暑さのせいか?再販のビッグモグラスのゴムキャタピラがボロボロになりかけている、

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最近のゴムキャタピラはもろい、数年でボロボロになってしまう、早いものは2年もしないうちに切れてしまう、

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このキャタピラの文様のパターンは簡単な文様なので簡単に作れる,ハサミとカッターで切ったものを貼りつけ

るだけ、

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この再販ものは5年くらい前に作ったもの、

再販もののビッグモグラスを走らせるには、残骸から取り出したオリジナルのギアボックスを利用すれば簡単

である、


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そう、このオリジナルのギアボックスをそのまま取り付ければいいが、それでは面白くない、

なぜなら、オリジナルのビッグモグラスは走りながら扉が開いて飛行艇が飛び出す、

走行するだけの動作ができない、扉を閉めても必ず開いてしまう、もちろん、停止したままで飛行艇の発射が

できない、

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まあ、1個のモーターで動かすのでそれは仕方ないだろう、だからこのギアボックスは使ってない、

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だから、2個のモーターを使用した、これは走行用のスイッチ、

ギアボックスはお決まりのユニバーサルギアボックスを使用、それでドリル回転と駆動輪が回せる、

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そして、これが飛行艇発射用のスライドスイッチ、このスイッチで扉が開いて飛行艇を発射、

そのために専用のモーターを使っている、胴体は接着しているので内部を見せることができない、

まあ、簡単なこれ専用のギアボックスを自作した、

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胴体内部が狭くなったので、単4電池を使用している、

もう一度動画を撮り直したのでどうぞ、扉を自動で閉めるのは非常に難しいので飛行艇を発射後は開いたま

ま、これはオリジナルと同じ動作。


日本軍の殺人光線

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軍事兵器で究極の兵器といえば殺人光線だろう、

旧日本軍が昭和初期頃からその殺人兵器を研究開発していたことは、すでに事実としてそれがどのような研

究内容だったのかも明らかになっている、

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当時の戦前の軍事関連の書籍にも必ずと言っていいほどその殺人光線の兵器のことを載せている、


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この書籍は、昭和15年にドイツの軍人の方が書いたものを訳したもの、

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まあ当時は今で言う軍事評論家みたいな方々がこのような書籍を多く出版していた、

もちろんこれらの書籍にも殺人光線のことを載せている、

旧日本軍の殺人光線などの秘密兵器を研究開発していた場所としては、東京の「登戸研究所」や静岡の

「島田実験所」等が有名である、アメリカ軍もそれらの秘密兵器の研究がどのようなものだったのか非常に気

になったらしく、戦後すぐにそれらの調査解明にとりかかっている、

そして、今では反日と捏造記事で有名な朝日新聞が終戦の翌々月の10月の新聞記事でそのアメリカ軍の調

査結果の記事を載せている、

そう、日本軍が開発していた殺人光線の威力である、  <続く>

日本軍の殺人光線の威力は、

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さて、終戦直後にアメリカの調査団は旧日本軍の秘密兵器の研究開発施設を調査しているが、その中の

「殺人光線」の威力はどのようなものだったのか、朝日新聞は10月8日の記事に次のように載せている、

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                   (昭和20年10月8日 朝日新聞)

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年月が経ち印刷がかすれ読みずらいので要約すると、

○ 米軍司令部渉外局は米国科学者団が調査した日本軍の「殺人光線」の結果を7日次のように発表した、

○ 日本軍の科学者団は5年半以上前から「殺人光線」について研究を開始していた、

○ その威力の効果は30メートル先のネズミ1匹を殺す程度の段階にしか達していなかった、

○ 日本軍は「殺人光線」を将来性のあるものと考えて、昭和20年度に1百万円を支出しているが米国の科   
   学者団はその可能性を疑問に思っている、

○ 発動機を停止させるために殺人光線を使用するという試みであったであろうが、仮にそれが成功したとし   
  たらそれは航空機に使用したものと思われる(おそらく、B29撃墜用かも)

  しかし、点火装置の不備によりエンジンが露出して短距離であってもその効果はなかった、

  つまり、点火装置を周波数に適応させることが必要であった、(僕にはその仕組みがよくわからない)

○ 結論を言えば、殺人光線は軍事兵器としてなんの価値もない、

○ 殺人光線は非常に短い電波を集めて強力な線とすれば哺乳類に生理学的作用をもたらし、死に至らし    
  めるという原理に基づくものである、

○ 実験には猿、ネズミが使用された、殺人光線の研究者は「風船爆弾」の研究にも加わっていた、

○ 実験には人間も使用されたことがあるのか、実験者自らが装置の前に立って行った、

  数秒後に目眩、疲労が発生し12時間から24時間ほどそれが継続した、

  研究は登戸の「第9陸軍技術研究所」において着手された、

○ 研究が進み、昭和20年には116人の研究員がおり、終戦当時の設計では強力な真空管を使用し1キ    
  ロ先のネズミを10分間で殺すことができると予想された、

アメリカは大した研究ではなかったと結論づけているが、これが凄いことであったのか、それとも大した研究実

験ではなかったかは、意見が分かれるところであろう、

まあ、当時としてもアメリカ軍はこれらの調査の結果を過小評価することはあっても過大評価することはまずあ

りえない、実際のところどの程度まで進んでいたのか、その事実はわからない、

今までこの殺人光線についてはいろいろと研究がなされ、ドキュメンタリー映画になったりして当時の研究者

達の証言もあったりするが、証言者の中には「この件については墓場まで持っていく」などと言われる方もおり

もっと深い闇のようなものがあるのかもしれない。

ところで、その殺人光線なるもの、一体どのような形をしていたのだろう、終戦と同時にアメリカ軍に撤収され

ないよう破壊廃棄されたであろうからその写真等は今まで見たことない、おそらく残ってないのではないだろう

か、ただ、その殺人光線の形で参考となる写真があった、   <続く>





模型メーカーにならなかった

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ゼロ戦とノーチラス号はあまり売れなかった、その理由は前ページにて書いたとおりである、

本来なら、ここで資金に行き詰まり挫折するはずである、

しかし、濱田兄弟にはもう一つ先見の目があった、

再び登記簿謄本を見ていただこう、

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登記簿謄本では本社の住所は河内市大字若江南722番地となっている、

その住所には何があるのかというと、

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そう、その住所には「大東化成工業 河内工場」となっている、実は濱田兄弟はその大東化成の敷地の一部を

買い取りそこに簡単な工場を建てていたという、なぜそこに工場が必要だったのか、

それは、プラスチックの原材料の販売のためである、つまり原材料等を四日市の業者から仕入れてその工場

で製品にして販売も行っていたのである、ちょうどその頃からプラスチックという素材が脚光を浴び始めた頃で

需要が拡大し結構な利益になったのだろう、だから、ゼロ戦、ノーチラス号が売れなくとも大した打撃にはなら

なかったものと思われる、

そして、いよいよ濱田兄弟は東京へ進出した、なんと言っても日本の中心は東京、そして大手の玩具メーカ

ー等も東京に集中している、昭和33年初頭、まづ、兄の亨さんが東京へ、問屋の三ツ星商店と取引を開始し

たのは以前の記事に書いたとおり、 そして、ハマライト化学研究所を設立した、

もう一度次の広告をご覧いただこう、

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                     (昭和34年8月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)

プラスチック総合経営となっており、金型設計製作、原料、各種成型加工販売、である、

おそらく、「㈱日本プラスチック」というブランドで発売したのはこの「フライングヘリコプター」が最後であったの

ではないだろうか、

つまり、模型メーカーになることはなく、プラスチック総合経営へと舵をきったのである、

要するに、玩具メーカー、模型メーカーから受注をうけそれに基づいて生産していた、だから在庫が残ることも

ない、生産した製品が売れようが売れまいが関係ない、生産したものは必ずメーカーから代金が入る、

そして利益が大きかったのがプラスチックの原料等の販売である、プラスチックという素材の需要が拡大し時

流に乗ることができた、

そして、間借りしていた大阪化学研究所から引き揚げ、弟の貞雄さんも東京へ、  大阪布施市の「東京堂模

型店」は母に任せることになった、

しばらく、兄弟でハマライト化学研究所でやっていたが、昭和35年に弟の貞雄さんは分離して今の「OS工業」

を創業したのである、http://www.os-kougyo.jp/

もし、模型メーカーへとなっていたら今の「OS工業」もありえなかっただろうし、途中で当時の模型メーカーのよ

うに消滅していた可能性は非常に高い、いや、消滅していただろう、

それだけ、貞雄さんには先見の目があったのだろう、

それで肝心のお兄さんの亨さんの「ハマライト」はその後どうなったのか、

う~ん、それは、いろいろと事由があり、今ここでは書けないので、また機会があればお話ししよう。





殺人光線の写真は、

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ところで、その研究開発していた殺人光線なるものはどのようなものだったのだろうか、

終戦と同時にアメリカ軍に撤収される前に廃棄処分されたであろうからその写真は見たこともない、

おそらく残ってないのではないだろうか、

僕が知っている限りでは次の1枚だけである、

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この写真である、何かサーチライトみたいな装置、覆面をした研究員みたいな人間が操作している、

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これは、当時の「子供の科学」の付録のハガキの写真、

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殺人光線使用中の光景、となっている、

はたして、これが研究開発していた「殺人光線」なのかどうかはわからない。

トープレのタイガータンク

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トープレの玩具でゼンマイで走る「タイガー戦車」を箱から取り出してみた、

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そう、まだ箱から取り出して中身を見ていなかったので、

ゼンマイでエンジン音を発しながら砲塔を左右に振って走る、

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砲身を伸ばして、転写マークを貼る、

次は中がどうなっているのか見てみたくなる、


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構造は簡単なもの、特に目新しいものではない、

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それにしても、このトープレのタイガー戦車は似ている、

三和模型のタイガータンクによく似ている、


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大きさもほぼ同じ、ハッチ等の位置、形状もよく似ている、

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ひょっとしたら、三和模型のこのタイガータンクの形をパクったのかもしれない。

まあ、このようなケースは当時はよくあった、

タミヤのパンサータンクの形状をパクったようなもの、http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70851613.html 




お知らせ、

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明後日の東京秋葉原で開催される「スケール モデラーズフェスティバル」につきましては、相棒の「retro ki

t and toys com」が出展の予定でその応援に駆け付けることになってましたが、急遽辞退する

に至りました、その相棒の「retro kit and toys com」より次のお詫びが届いておりますので、ここに

お知らせいたします。


                          「御詫び」


スケールモデラーズフェスティバル@アキバ


8月28日、第3回開催。

(主催者URL)
http://firstair.co.jp/modefes/


出展参加、エントリーしておりましたが、この度出展辞退することといたしました。


実は、当初より参加辞退することを考えておりました。

前回開催終了後すぐに参加エントリー済ませていたものの、思う処ありまして、辞退する方向で内々に調整し始めました。


ですが、師匠を始め色々な方々の御指導御支援を賜り、改めて出展に臨む準備を進めておりましたが、この夏は思った以上に体調悪く、準備作業が捗らずにおりましたところ、私事で大変恐縮ですが思う処が再燃いたしまして、出展辞退することを決断いたしました。


当方の用意している放出品を始めとした販売アイテムや展示アイテムなど、不参加であっても何ら影響有りませんが、師匠に是非とも御会いされたい皆々様のご期待を裏切るカタチとなってしまいました。


心より御詫び申し上げます。


                                       retro kit and toys com


よって、私も東京行きは中止させていただきますので、よろしくお願いいたします。

昭和31年の頃、

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濱田さんの株日本プラスチックがゼロ戦のプラスチックモデルを発売したのが昭和31年、その昭和31年とい

うのは僕が小学校に入学した年であった、

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これが、その時の入学式の写真、

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これが僕、

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そして、中央の着物を着ているのが母、

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これは、自宅前で撮った小学5年生の時、入学式の時とはだいぶ違ってかなりの美少年に成長している(笑)

ま、それはいいとして、

その昭和31年には模型業界ではどのような出来事があったのだろうか、

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                   (昭和31年2月10日 日本教材新聞)

竹岡商事がレベル社のプラスチックモデルを輸入発売を開始したとある、


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この頃にはすでに他社でも舶来プラスチックモデルが輸入発売されているので、例のマルサン物語はまったく

の嘘であることがわかるだろう、なにもわざわざアメリカへ渡ってレベル社のプラスチックモデルを持ち帰らなく

てもいいわけで、しかもそれで初めてプラスチックモデルを見たとのこと、

同じ模型玩具業界の世界にいながら、そのようなことは絶対にありえない、

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                  (昭和31年11月10日 日本教材新聞)

そして、11月には静岡理工から半プラ製の車の模型が発売されている、

ルーム内がプラスチック製であったらしい、


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もちろん、この模型は今まで見たこともない、はたして今現在どこかに存在しているだろうか、

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                    (昭和31年11月10日 日本教材新聞)

そして、例のごとく、マブチモーターはこの頃にはすでに片っ端から訴訟ざたを起こしている、

可愛そうに、東京プレスベビーモーターはこれを契機に消滅してしまったようで、

マブチモーターの躍進の秘密?については「模型モーターの歴史」をご参照あれ。


携帯式顕微鏡

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湊川神社の近くにあるキク○模型に立ち寄ってみた、

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そこで、コレを見つけたので購入してきた、値段は800円、

コレは昭和30年代に模型店で売っていたが、正確な商品名は忘れてしまった、僕としては懐かしい理科用品

でもある、

そう、携帯式の顕微鏡である、万年筆よりもちょっと太め、

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「KOL」となっている、そう、キング商会が発売していた「コルキット」の携帯式顕微鏡である、
                http://blogs.yahoo.co.jp/akasikogorou/70196664.html

今となってはまず見かけない、実はこの携帯式顕微鏡の歴史は古い、

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戦前の昭和6年出版の「科学玩具」の広告にも載っている、

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ほとんど形状も同じ、

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ごく小さな文字を実際に覗いてみた、

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穴のある左から光を当て覗くようになっている、焦点は左右に傾けて調整する、

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まあ、このような感じで覗くことができる、当時は蟻などの昆虫を覗いていたような記憶がある、

この顕微鏡を購入したキク○模型には、何か古い模型が残っているような気配を感じるが、

そうそう、木製艦船模型の部品(錨、舵、スクリュー、手すり等)はショーケースの中にまだ多く残っていた、

試しに、青い色のマブチモーターは残ってないか尋ねたら、「残っていません」、と、

それから、古い金属製のピニオンギアは残っていませんか、と尋ねたら、奥のほうから、「コレならあります」

と、出してこられたので10個ほど購入してきた、

ついでに、古い模型は残ってませんか?と尋ねたら、「残ってますよ」と、おっしゃるはずがない。


プラスチックは戦後すぐに、

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日本プラスチックを突き止めるために何度も大阪の図書館に通ったことは過去の記事に書いたとおりである、

と同時に、マルサン物語が嘘で脚色されたものであることを証明するために、合成樹脂(プラスチック)に関す

る古い資料も探していた、そう、僕はしつこい、

日本でも合成樹脂(プラスチック)という素材については戦前から研究され、戦時中には金属に代わる素材とし

て航空機の利用も研究されていたことは過去の記事にも書いたとおりである、

それで戦後はどのような状況だったのか、もちろん戦後すぐにプラスチックは次の時代の有望な素材として研

究開発は急速に進んでいった、

ここに、昭和24年の資料がある、過去の記事でも紹介しているが、「合成樹脂工業と大阪」という資料であ

る、全ページを載せることはできないので一部を載せてみよう、

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射出成型法、押し出し法等のことも解説してある、

図面の一部を載せてみよう、


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大阪にはすでに140もの工場があったという、

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そして、設備が整っていない中小の工場のために、設備が整った共同施設の工場もあったという、

つまり、昭和20年代半ばには合成樹脂(プラスチック)の製造、成型方法は確立していたわけである、

それは過去の記事にも書いたように、そう、昭和28年の電話番号簿にも数えきれないほどのプラスチック成

型加工業者、金型製作業者が載っていた、それにはプラスチック玩具製造という広告も載っていた、

マルサンが当時の金で4千万もかけてドイツから機械を導入し、それでプラスチックという未知の世界に挑戦

し、さまざまな苦労をして日本で初めて金型を製作し日本で初めてプラモデルを開発した、というのは明らかに

嘘で脚色された物語だということがわかるだろう、

逆に言えば、だから素人だった日本プラスチックの濱田兄弟がプラスチックモデルを日本で初めて開発できた

のではないだろうか、すでに環境は整っていたのである、模型をプラスチックでという発想、先見の目があっ

た、ただ、何度も言うように、その先見の目が早すぎた、マルサンのように大々的に広告宣伝ができなかった、

ということであろう、しかし、濱田兄弟にはもう一つ先見の目があったことは先の記事にも書いたとおりである。
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