日本文化教材(現ブンカ)の最初のプラモデルはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」であっ
た、そう、日本プラスチックが昭和32年に発売したものをそのままそっくり箱絵を変えただけのプ
ラモデルであったことは、以前の記事にも書いたとおりである、
その日本文化教材がそれを発売したのは昭和34年の2月頃であった、
それでは、日本プラスチックの濱田さんと日本文化教材との接点はなんだったのだろうか、
今となっては、ハッキリとはわからない、が推測はできる、
これも以前の記事でも紹介している日本文化教材の社史である、
日本文化教材は昭和33年6月に大阪支店を開設した、その大阪支店を開設するにあたり強力な
営業活動を行ったという、おそらく、日本プラスチックの濱田さんは松屋町の模型問屋街で日本文
化教材の営業マンらと出会ったに違いない、そこで、「ノーチラス号」のことを持ち出したのだろう、
そう、「おたくのブランドでノーチラス号を売り出してくれないか」と、
日本文化教材は最大手の模型問屋であった、
日本プラスチックのノーチラス号は東京の三ツ星商店でも取り扱っていたが、売れ行きはあまりよ
くなかった、相当な在庫を抱えていたことは以前の記事でも書いているとおりである、
そこで、大阪化学研究所の工場で製造したノーチラス号を日本文化教材のNBKブランドとして売
り出したものと推測される、そう、日本文化教材はまだプラモデルを製造する自社工場は持ってい
なかったからである、そして日本プラスチックの濱田さんは、その頃、大阪から東京への進出を図
っていたのである、
ところで、このブンカの社史にはそのことについては一切触れられていない、
本来なら、自社製品としては初のプラモデルの発売である、記念すべき?ことでもある、
昭和34年2月、初のプラモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売と、この年表に記されてもい
いものを、そのことについては一切記されてはいない、それどころか他社のニチモが伊号潜水艦
を発売、と書かれている、これは一体どのようなことなのか、
まあ、今となっては謎である、
実は、数年前にこの社史について、「ブンカ」の本社の広報担当のお方に電話をして尋ねてみた
が、まったく相手にされなかった、
「当社には社史なるものは存在しない、だから存在しないものについては答えようがない」 と、
「いや、現に私がおたくの社史を持ってますよ」と言っても、まったく相手にはされなかった、
まあ、大体が模型業界なるものはそんなものである、世間の常識などはあまり通用しない、
そうそう、それから、例の僕にイチャモンを付けられたお方の寄稿も載っている、
明石のお生まれとなっている。