さてさて、オイルを補充した結果は、
単3電池4本を装填して、2本はモーター用、もう2本が煙り出し装置に繋がっている、
オイルを補充した効果はあったが、まだこの程度では走っている場合は煙を出しているのかどう
かよく見えないだろう、しかし、これがいまのところ限界である、
今度、煙だし装置を自作してバァーっと出したいと思っている。
○ 濱田さんの両親は戦前に布施市(現東大阪市)に「東京堂模型店」を開業 小坂駅南側徒歩5分ほどの場所、(現在その場所はシューズ店になっている) 〇 濱田兄弟(貞雄、亨)とその仲間達5、6人は昭和28年頃から、布施駅近くの(資)大阪化学研 究所に機械類を持ち込んでプラスチックモデルの開発に取り組み始めた、 その技術指導には大阪化学研究所代表者の内田義勇さん(1890年生)で、濱田さんらは 内田さんを「先生」と呼んで技術指導を受けていた、内田義勇さんは今の阪大(応用化学専攻) 卒で帝国人絹(帝人)と提携しビスコのキャップ(溶剤容器のノズル)を製造していた、 〇 その技術指導を行っていた内田義勇さんが昭和30年の夏に亡くなられた、 おそらく、この頃までには濱田さんらはプラスチック関連の技術等に関してはほぼ習得して いたものと思われる、 〇 その内田さんの息子の彰さんは当時九州で教員をしていたが、会社を引き継ぐために現地か ら技術者一人を引き連れて大阪化学研究所を引き継いだ、彰さんは化学関係についてはまっ たくの素人であり、濱田さんらに指導等はしていなかった、 ○ プラスチックモデルを開発する以前はプラスチック製の玩具も製造発売していた、 奥様の証言 当時プラスチック製玩具で手錠を製造発売したが、子供にとっては危険玩具 として「週刊朝日」に記事で掲載され警察に警告を受ける、 〇 濱田さんらは、昭和31年2月 資本金 50万円にて(株)日本プラスチックス を設立 日本プラスチックスの住所、電話番号は大阪化学研究所と同じ、つまり間借りのまま、 〇 昭和31年10月頃、日本初のプラスチックモデルの「ゼロ戦」を発売 もちろん、市場にも大阪松屋町の問屋を通じて流通していた、(大阪十三にあった火星模型店 の多田さん(通称火星人)が昭和32年の開店時にそのゼロ戦とノーチラス号を仕入れ販売) しかし、そのゼロ戦はあまり売れなかった、ノーチラス号も売れ行きはよくなかった、 おそらく、あまりにもプラスチックモデルの登場が早すぎ世の中に浸透することができなかった ことと、広告宣伝をしなかったためだろう、 〇 その翌年、昭和32年、今度はゴム動力のプラスチックモデル「ノーチラス号」を発売、 東京地区にも販路を拡大するために東京支店を開設 、そのために貞雄さんの兄の亨さんが 東京へ、(東京支店の電話は亨さんの名義) 問屋の最大手の三ツ星商店と取引開始、 しかし、その「ノーチラス号」もあまり売れなかった、三ツ星商店には在庫が多く残ったものと 思われる、なぜなら、その2年後の三ツ星商店の広告にもそのノーチラス号が載っている、 ただ、ゼロ戦、ノーチラス号は売れても売れなくてもよかった、 当時はプラスチック関連の原材料の販売で稼いでいた、原材料は四日市あたりから仕入れ ていた、とにかく当時はよく売れた、推測であるがそれで相当な資金が溜まったのではないか、 〇 濱田さんらは内田さんが亡くなった2年後くらいに大阪化学研究所から引き揚げた、 濱田さん兄の亨さんは東京へ進出、昭和33年頃、「ハマライト化学研究所」を立ち上げ、 そのハマライトではプラスチックの原材料、顔料の販売、金型設計製作、プラスチック玩具の製 造を行い時流に乗って多くの利益が上がった、 そして、 「ノーチラス号」の金型等はNBK(日本文化教材)に譲渡、その後、NBKは自社ブランドとして 昭和34年2月頃、「ノーチラス号」を発売、 〇 濱田さん兄弟は河内市(現東大阪市)にも工場を持っていた、 工場は、同じ市内(当時は河内市)の「大東化成工業」 (これらは昭和34年頃まで) その「大東化成工業」とは知り合いでその敷地を少し分けてもらい、そこに簡単な工場を建てて 製造も行っていた、 昭和34年中期、「フライングヘリコプター」というプラスチック製の玩具を発売、 おそらく、これもあまり売れなかっただろう、(現在までその現物は確認されていない) 貞雄さんはその後東京へ、 おそらくその時にゼロ戦と戦艦大和の金型を大阪の電気科学館 に寄贈したものと思われる、 (戦艦大和の金型についてはどこのメーカーかは不明) そして、兄の亨さんと共にいろいろな模型メーカー、玩具メーカー等に関わった、 玩具メーカー 増田屋、野村トーイ等々、 模型メーカー NBK, タミヤ模型、 三和模型、三共模型等、 ただ、具体的にどのように関わったのかは不明、推測するしかない、おそらく、金型製作、 原材料供給等などで、模型メーカーがプラモデルに参入するさいに大きく関わったものと思わ れる、(一つの事例としてはタミヤの「伝説のプラモ屋」等でもハマライトのことが記されている) 昭和35年に貞雄さんは東京でOS色素(現OS工業(株))を創業した、 布施市の「東京堂模型店」は父母に任せる、 ところで、プラモデルメーカーにとって重要な役割を果たしてくれた兄の亨さんのハマライトのそ の後はどうなったのか、一番知りたいところだろう、 実は、そのことが企業秘密?でここで書くことができない、僕も書きたいがどうしても書けない、 冒頭にも言っているように、どうしても知りたい方は僕がコソッと個別に教えてあげる、 ※ 濱田さんらに技術指導していた大阪化学研究所の内田義勇さん(1890年~1945年)は、 今の阪大(応用化学専攻)で、プラスチックモデルの生みの親といえるだろう。 ※ P51ムスタングについては未だに現物等の証言も確認されていないので実際に発売された かどうかは不明。 濱田さんは生前、当時の日本で初めてプラスチックモデルを開発していたことなどを語られる ことはほとんどなかったという、 「日本で初めてプラスチックモデルを開発して販売したのは俺や!!」と名乗り出ておられれば この60年もの間謎とされていたプラスチックモデルの歴史も一気に解決していたことだろう、 そうすれば、マルサンの捏造された物語も世の中に浸透することもなかった、 なぜ、濱田貞雄さんは語られることがなかったのだろうか、 もし、濱田さん兄弟がいなかったらプラスチックモデルの歴史は大きく変わっていただろう、 ではもう一度繰り返すが、なぜ濱田貞雄さんは語られることがなかったのだろうか、 それは、 <続く> アッ、それから濱田兄弟の仲間達の中で一人だけ手先が器用で技術の面で重要な役割を |